第一話 暴れ牛に導かれ
私がまだ、従六位の民部少丞だった頃のこと。いつものように仕事を終え、帰路に就こうという時に、後方から若い男の声が聞こえてきた。
「そこの人、逃げてー!」
「へっ?」
振り返ると、一頭の牛が私の眼前に迫っていた。真っ直ぐに突き進んでくる巨体。判断を間違えば、死に直結するであろうこの状況。私は牛の進路から外れようと、真横に飛び跳ねた。しかし、振り向いて体をひねったままの、無理な姿勢で跳んだものだから、片方の履き物が脱げ、着地にも失敗し、地面へと倒れ込んだ。その脇を、もの凄い勢いで、牛が通り過ぎていった。
「ぶはっ」
牛の足音が遠ざかり、無意識に止めていた息を吐き出す。足が痛んで、立ち上がろうにも力が入らない。どうやら派手に転んだせいで、片足を挫いてしまったらしい。私は手を突き、無事だった方の足に体重をかけながら、ゆっくりと立ち上がった。
「あの一瞬のために、随分とみっともない姿になったものだ」
袍に付いた汚れを払いながら、私は溜め息をこぼす。脱げた浅沓は、牛に蹴り飛ばされたらしく、私が立っていた辺りには、見当たらなかった。
「困ったな。これでは邸に帰れない」
裸足で五条まで帰るのは無理だろう。それ以前に、痛めた足では歩くことも出来ないのだが、この時の私はそれに気付かない。「足が痛む」という事実と、「歩けない」という事実が結び付かないあたり、私の頭は相当鈍いと言える。
その鈍い頭で、五条の邸に帰る方法を考えながら足を擦っていると、私の耳より少し高いところで、低く美しい声が、控えめに響く。
「痛むかい?」
同時に、高い身分を表す衣、黒の袍が視界に入る。自分より上位の方からのお気遣いに、すぐさま返事をしなくてはと思ったのだが、上手く言葉が出てこず、顔を上げることも出来ない。口下手で引っ込み思案なのは、昔からだった。
「えっと……あの……あ……」
焦る程に、言葉は詰まった。どうして、私はいつもこうなのだろう。この方も、きっと呆れていらっしゃる。そう思った。
だか、この方は「いきなり声を掛けてすまなかったね。大丈夫だから、顔を上げなさい」と、私の頬に触れる。
私は、言われるがまま上を向き、この情けない顔を晒す。そして、声の主を知った。きっと、この方を知らぬ都人はいないだろう。
「これはまた、可愛らしい官人がいたものだね。元服前の少年のようだ」
そう仰るこの方は、誰よりも美しく、その髪は絹糸に、その肌は真珠に、その瞳は竜の首の珠に、その声は琵琶の音に、その仕草は蝶に例えられた。
高貴なお血筋の、容姿にも能力にも恵まれたこの方こそ、左大臣の長子、藤原大納言殿である。