第十五話 母子
六年ぶりに訪れた実家は、幾度か手を加えているらしく、私の記憶と違っている。けれど、懐かしさを覚える程度には、面影を残していた。仕える者達の中にも、新しい顔が見える。元からいた使用人達は、多少老いたものの、それ程変わった様子は無い。
「若君……?」
使用人の一人が私に気付くと、その場にいた全員の視線が私に向けられる。
「若君がお帰りに!?」
「まさかこんな日が来るなんて……!」
「急いで奥様にお伝えしなさい!」
予想はしていたが、ここまで大騒ぎされるとは思っていなかった。やはり、実家に帰るだけだからと無精せずに、前もって連絡すべきであった。
使用人達が落ち着くと、すぐに母と会うことが出来た。
「物忌みなんて、ただの方便ですから」
と女房が話す。
母の部屋へと一歩一歩近付く度、冷や汗が滴り落ちる。覚悟を決めたつもりだったというのに、情けない。
母の部屋の前、私は、震える体を何とか座らせる。御簾の向こうに、母の気配を感じながら、私は口を開く。
「お、お久しぶり……です。えっと、突然お伺いして申し訳ありません」
伝えたいことが山程あったはずなのに、言葉が続かない。頭が真っ白で、何も出て来ない。けれど、それも一瞬のこと。
「声が遠いですね。御簾の中へ入りなさい」
あの頃と少しも変わらない、澄んだ声だった。
「最後に会ったのは六年前だったかしら。背が少し伸びたような、伸びないような……?」
「六年前に比べたら伸びてるかと」
自信が無いので、語尾に「多分」と付け加える。
「あらあら。……それで、今日はどうしたの? あの人の留守を狙ったのは分かるのだけど、今まで、そういう機会があっても、絶対に帰って来なかったでしょう。どうして会いに来てくれたのかしら?」
母の「会いに来てくれた」という言葉に、私は安堵した。母は、私を恨んではいなかった。無論、母の気持ちがどうであれ、謝罪は必要である。
「ごめんなさい」
私は、ひたすら頭を下げた。しかし、母はその理由が分からないと言う。
「どうしたの。どうしてそうなるの。孝平、何か悪いことをしたの? 私は全く身に覚えが無いわ。とにかく、顔を上げてちょうだい」
ゆっくりと顔を上げた先にあったのは、困惑の色を浮かべる母の瞳。
「ちゃんと、説明して」
案の定私は、上手く順序立てて説明することが出来なかった。それでも、母には伝わった。いや、母がこちらの意思を、正しく理解してくれたのである。
「貴方、そんなことを気にしていたの?」
私が、六年の間気に病んでいたものは、母にとって「そんなこと」だった。
「言っておくけど、あの人に叩かれるより、貴方と会えないことの方が、遥かに辛かったのよ?」
「あ……っ」
自分だって親になったのに、どうして分からなかったのだろう。
「ごめんなさい」
「そうね。謝るなら、そこよね。でも、良いわ。今日こうして会えたのだから。さ、孝平。暗いお話はここまで。次は、楽しいお話をしましょう。近頃、何か良いことはあったのかしら?」
沢山あった。良いことも、悪いことも、数えるのが馬鹿らしくなる程、沢山。
私は、息子の話から始めた。小鳥の鳴き真似が可愛いこと、暑い中でも元気が良いこと。何でもない日常のことだったが、息子を母に会わせたことが無かったので、可能な限り細かく話した。
「貴方が小さかった頃を思い出すわ。凄く要領の悪い子でね」
「うっ」
それは、大人にかってからも変わっていない。他人の何倍も時間を掛けなくては、同じだけの成果が出なかった。
「貴方に子供が出来たと聞いた時は、本当に心配したのよ。大丈夫なのかしら? って。でも、ちゃんとお父さんで安心したわ」
「妻がしっかりしているので、ほとんど任せきりですよ。とはいえ、あの子の成長と共に、男親の仕事も増えるのでしょうね。私も頑張らなくては」
私と母が語らう様子を、女房達が見守る。中には、涙ぐむ者もあった。彼女達もまた、母の境遇を痛ましく思っていたのだろう。
「月影様がお笑いになるなんて、久しぶりだわ」
時折、女房同士で話す声が聞こえてくる。穏やか空気が流れる中、私は、母に伝えるべきことが、もう一つあったことを思い出す。
「あの、母上。一つ報告が」
「何かしら?」
「私は今、藤原大納言殿にお仕えしております」
一瞬で、母の表情が変わった。」
「まさか、時雨のことなの? 貴方、時雨と会ったの?」
時雨殿は、私の母に対し、並々ならぬ想いを抱いているようだったが、それは、母も同じらしかった。二人の関係は気になるが、時雨殿が明言を避けた以上、聞くべきではないだろう。ただ、母が呼び捨てにするあたり、普通ではない。
「そうです。時雨殿です。お側に置いて頂いております。母上とも面識があると聞いて、驚きました」
「そう、時雨が近くにいるなら安心だわ。何があっても、時雨は孝平の味方でいてくれるはずだもの」
多分、その通りなのだろう。私はすでに、何度も時雨殿に助けて頂いた。理由は、分からないけれど。
「孝平、時雨に文を届けてくれる気は無いかしら。ずっと送れていなくて」
母は、必死な顔で私に言う。
「分かりました。お引き受け致します」
女房が書の道具を用意すると、母は、手早く文を書く。手早くと言っても、数年分の想いが詰まった文である。大変な速さで筆を走らせるも、一向に書き上がらない。母は、字の上手な人なのだが、この日は、綺麗に書くことなど忘れているようだった。忙しく手を動かす最中でも、母は私の様子を気にして、度々振り返る。女房達はそれを「ただ振り返るだけで、艶を感じる程美しい」と評した。
「私ったら、こんなに書いたの?」
筆を置いた母は、自分が書いた文の量に驚いていた。書くことに夢中で気付かなかったのだろう。
「では、お預かりします」
私は、文を懐に仕舞う。文で重くなった衣に、込められた想いの強さを実感した。
邸を去る私を、母は、簀子縁まで出て見送った。私も、いつ会えるか分からない母との別れを惜しんだ。門を出る。私は、いつか母と自由に会える日を願いながら、時雨殿の下に向かう。




