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居待ち月の夜に  作者: 峰丘 馨子
初雪
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第十四話 機会 


 時雨殿に仕え始めたものの、仕事らしい仕事はほとんど無い。私が思っていた通り、手は足りているようである。私は、時雨殿とただ一緒にいるだけ。でも、時雨殿と長く接していられるという、この一点が持つ価値は、途方も無く大きかった。


 「沢山笑って」と言ったその人の隣は、本当に楽しいことばかりだった。私が笑うと、時雨殿も笑みを返す。たったこれだけで、私達の関係は成立してしまう。そういう人との出会いは、この上無く貴重な財産だろう。


 また、時雨殿は私にあれこれ教えてくださったり、目上の方との付き合いに慣れさせようと、比較的穏やかな方とお会いになる際、私を同席させたりと、細やかに世話を焼く。その姿は師のようであり、兄のようでもあった。


 このように、時雨殿が私を可愛がる様は、あっという間に皆へ知れ渡った。あまりにも私が大事にされているのを見て「どちらが仕えているのか分かりませんね」などと揶揄する者もあったが、それ以外の多くは「大納言のお気に入りに下手なことをしたら大変だ」と思っていたようである。


 民部省の隣、時雨殿が勤める太政官への出入りも、以前より増えていった。まだ、目上の方とお話しするのは苦手だが、時雨殿のお陰で、多少ましになったように思う。もっとも、私が伺うと大抵、時雨殿が出て来られるので、他の高貴な方々とお話しする機会は、かなり少ないのだが。


 その、太政官でのことである。


 「孝平?久しぶりじゃないか」


 声を掛けてきたのは、兄の孝恒たかつねだった。治部少輔である。兄は明るくて社交的、何事にも真面目に取り組む誠実な人柄なので、皆に好かれていた。あの父からも。


 「お久しぶりです。兄上」


 私に、兄と長々言葉を交わすつもりは無い。兄は、絵に描いたような善人だが、あまり関わりたくはなかった。


 「いつ会ったのが最後だったかな。元気にしてたか?」

 「ええ、まあ」


 適当なところで切り上げよう。そう思っていた。


 「そうか。元気そうで何より。それにしても、良いところで会ったな」

 「……?何かご用でも?」


 正直、聞きたくはない。


 「実は今度、父上と寺参りへ行くんだ。せっかくだし、孝平もおいで。継母上ははうえもお連れしたかったのだけど、物忌みでは仕方無いね」


 物忌みというのは、母が考えたそれらしい言い訳だろう。父は、兄の前だと乱暴なことをしないが、それでも安心は出来ないだろう。ならば、父が不在の邸で羽を伸ばす方が良いに決まっている。私も、父に同行する気など無い。


 「申し訳ありませんが、少々都合が悪くて」

 「どうしても駄目か? 見知らぬ土地に行くのも、たまには良いものだよ」

 良いわけあるか。


 私のような人間にとって、それは苦痛でしかない。そこに父の存在まで加わるなぞ、想像しただけでおぞましい。兄には、その辺りの事情が分からない。故に兄の言葉は、あくまでも善意である。兄に悪意は無いし、私も、兄が嫌いな訳では無い。

 だからこそ「兄は質が悪い」「厄介だ」と思ってしまう。私はまた、逃げ道を探す。


 「どうぞ、私のことは気にせず、楽しんで来てください。では」

 私はそれだけ言って、仕事に戻った。


 「そんなの、私を言い訳に使えば良かったのに。『大納言と先約がある』って」

 例によって、太政官では時雨殿が応じた。


 「さすがにそれは。……一番効きそうですけど」

 時雨殿の権威を前に、引き下がらない者など、滅多にいないだろう。


 「千咲は少輔が苦手かい?」

 「苦手というか……面倒というか……。少なくとも、時雨殿とお話しする方が、気は楽です」


 初めてお会いした時は、こんな風に思う日が来るとは、全く想像していなかった。


 「嬉しいこと言うなあ」

 この人は、本当に嬉しそうである。私はいつも、自分が無価値な存在だと思っていたが、時雨殿といると、それを忘れてしまえる。やはり、この人の隣は好きだ。


 六月下旬、父と兄が出立したとの報が入った。私は、彼等が留守の間に、母と会えないか考えていた。母の物忌みが方便と決まった訳ではないが、会える可能性は高いだろう。


 母に会いたい。以前、白鷺殿に言われたからというのもあるが、これは私の義務である。私が実家を出たことで、母に対する父の暴力が倍になったのではと、それを確かめるのが怖かった。きっと母は、二人分の痛みに耐えている。それを分かっていながら、私は逃げた。そうやって私は、長い間、母を犠牲にして、我が身を守ってきたのである。


 さぞ恨まれているだろう。それでも私は、母と向き合わねばならない。分かっていたことだ。私は、機会を得た。逃す手はあるまい。


 実家への訪問については、時雨殿も賛成だった。

 「うん。行っておいで。あの男がいないなら、大丈夫だろう」

 「結婚してから一度も帰っていないので、少し気まずい感じもします。打ち解けてお話し出来れば良いのですが……」


 「それこそ、会って確かめるしか無いよ。私は、要らぬ心配だと思うけどね」

 不安がっていた心が、ほぐれた気がした。時雨殿は、当たり前のことしか言っていない。けれど、それを時雨殿の口から聞けたことに意味があると私は思う。


 母に会ったら、まず、謝らなくてはならない。それから、時雨殿に仕えていることや、妻子のことをお話ししよう。上手く言葉に出来るだろうか。出来なくても、伝える努力をしよう。これ以上、母から目を逸らしたくはないのだから。

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