第十三話 千の花
苔色の鬼が死に、あの病が無くなると、都は徐々に落ち着きを取り戻していった。
私は、功労者の一人として褒美を受け取ることになったが、特にこれといった貢献をした覚えが無いので、何やら申し訳ない。実際に解決へと導いたのは白鷺殿であり、私は、ただその場にいただけである。
その白鷺殿はというと、今回の件で出世の話が持ち上がったにもかかわらず「位が上がると仕事も責任も増えるので」と、主上の使いを相手に言ってのけ、物品による褒美のみを受け取ったそうである。
白鷺殿が出世の機会を棒に振るのは、今に始まったことではなく、能力だけならば、陰陽頭より遥かに上らしい。そんな人と私が、同等に近い褒美を得るなど、やはり気が引ける。
それから数日ほど経って、時雨殿から呼び出しがあった。
時雨殿のご自宅。夏の花が盛りを迎え、鮮やかに彩られた庭の一角で、その主は待つ。
「急に呼び出してすまない。大丈夫だったか?」
「はい。特に予定もありませんでしたから」
「そうか」
青々と茂る木の下、木漏れ日の中で、時雨殿はいつものように笑う。
「あの騒動での疲れは残ってないかい? ちゃんと休めたか?」
時雨殿は労ってくださるが、私は疲れるほどの何かをしていない。私は無意識に視線を落とした。
「どうした? まだ何か心配事があるなら聞くぞ?」
下を向いて黙る私に、時雨殿は眉尻を下げて言う。また、要らぬ気遣いをさせてしまった。私など、何の役にも立たないのだから、せめて、誰の心も煩わせないよう努めるべきである。
「大丈夫です。何ともありません。ごめんなさい」
「謝る必要なんて無いだろう? ああ、そうか」
時雨殿は何かに気付いたように言うと、私に目線を合わせた。
「下を向いている間、どんなことを考えていたのかな。それを話して」
私は、ありのままを話した。最初は少し躊躇いがあったが、一言二言話す内に、次から次へと言葉が溢れ、結局、問われた以上のことを話してしまった。
「何の役にも立たない、か。確かに、華々しい活躍ではなかったかもしれないね」
ああ、やはり。私には何も出来やしない。気の良い時雨殿が仰るくらいだから、他の方はもっと迷惑しているだろう。
「だが、お前がやったことは、多くの褒美を得るに値するものだったと思うよ」
「え……?」
私は、ただ立っていただけ。白鷺殿に言われるがまま、七条まで付いて行き、立っていただけである。
「七条の女については、白鷺も見落としていた。七条調査の、最初のきっかけを作ったのはお前だろう。それが無かったら、五条は今も救われていない。茜や白鷺の方が目立ってしまっているが、二人が動けたのも、お前がいたからだよ、少丞」
「ですが、私は良成を犠牲にしました」
どんなに時雨殿が慰めてくださっても、その事実は変わらない。私が余計な一言を発したために、良成は命を落とした。
「私のせいです。私があんなことを言ったから。最初に気付いたのが私じゃなかったら、きっと、もっと上手くいったはずです。いつも皆に迷惑ばかりかけて。だから父も……。私だったら良かったのに。死んだのが良成じゃなくて、私だったら……」
時雨殿は、酷く悲しそうな顔をなさる。この人は優しいから、私なんかが相手でも、思いやらずにいられないらしい。私は、その優しい人を、どこまで困らせれば気が済むのだろう。本当に、嫌になる。
短い沈黙の後、時雨殿は小さく息を吐き、口を開く。
「お前を呼び出したのは正解だったな」
みっともなく袖を濡らす私に、時雨殿は呼び出しの理由を語る。
「実を言うとね、私は昔から、お前のことを知っていたんだよ」
「えっ?」
私は驚いて顔を上げる。
「お前の本名も、元服した日のことも知ってる。会う機会が無かったから、顔までは分からなかったけどね。お前が、父親に暴力を振るわれていると、月影の君に聞いて、ずっと心配だった。こんな小さな体に、酷いことをするね」
母の名が出て、私はますます驚いた。兄と付き合いがあるのは、何となく気付いていたが、母とも接点を持っていたのは意外である。社交的で顔の広い兄とは対照的に、母は、ひっそりと孤独に生きている。そんな人だった。
「数年前、月影の君からの文が途絶えたために、橘邸の様子を知る術が無くなってしまった。少輔に聞こうかとも思ったが、あいつは自分が可愛がられているせいで、父親のことを信用しきっている。当てにならん。だからね、少丞。お前とは、ずっと会いたかったんだ」
時雨殿が優しいはずである。知人の息子なら、何かあっても大目に見るだろう。
「今、こうしてお前と向き合っていられるのが、本当に嬉しい。彼女の文からは、声にもならない悲鳴が聞こえていたのに、私は未だ彼女を救えていない。幸せであってほしいと思う。力になりたいとも思う。なのに、あの男のせいで、文を交わすことすら出来なくなってしまった」
「あの、時雨殿は母とどういう……?」
ここまでくると、ただの知り合いとは思えない。
「とても大事な人だよ。本当なら、側にいて彼女をお守りしたい。が、それはもう叶うまい。ならばせめて、お前だけでも側に置きたい。私にとっては、お前も、彼女も、等しく大切なんだ」
そして、時雨殿は話の核心を口にする。
「なあ、少丞。私に仕えてみる気は無いかい?」
仕える? 私が? 時雨殿に?
すでに、多くの優秀な人間を従えているこの人に、今更そんなものは必要無いだろう。私のような出来損ないなら、なおのこと。
「私なんかに務まるはずがありません。きっとまた、時雨殿に迷惑をかけてしまいます」
私は、時雨殿が好きである。これ以上、この人の負担になりたくない。
「お前にかけられる迷惑なら、喜んで受け入れよう。私がお前に頼む仕事はただ一つ。幸せになることだよ、少丞」
そんな風に言ってもらう資格が、私にあるとは思えない。私は逃げたのだから。父の恐怖からも、母への後ろめたさからも、兄への劣等感からも。それに、良成のことだって……。その私が、すでに持っている以上の幸せを、望んで良いはずがない。なのに私は、時雨殿の言葉に縋りたい気持ちで一杯だった。
「難しく考えることは無いよ。私は、自分勝手な理由で、お前に無理を言っているのだから。お前も、自分勝手に決めればいい。受け入れるにせよ、断るにせよね。私は、私の望みのために頼んでいるにすぎない」
「時雨殿の望み、ですか」
「ああ。私は、お前に幸せであってほしい。お前が笑う度、私もまた、幸せを噛みしめる。もし、その笑顔の功労者になれたなら、もっと喜ばしい。そうして、私も一緒に笑うんだ。それを、今一番望んでいる。お前には、沢山笑ってほしい。千の花を咲かせるが如く。笑ってほしい」
どうして時雨殿が、こんなにも私達母子を想ってくださるのか、この時の私には全く分からなかった。
けれど、時雨殿が思い描く理想の通り、共に笑いあえたなら、どんなに楽しいだろう。
時雨殿は言った。
「自分勝手に決めればいい」と。
時雨殿は、私なんかが幸せになることを、赦してくださる。望んでさえくださる。私は、時雨殿の言葉に従い、自分勝手に決めた。自分勝手に決めて、その手を取った。
この日以来、時雨殿は私を「千咲」と呼んだ。