第十二話 鬼
白鷺殿が言った通り、七条の女は、私の目にもはっきりと映った。青白い顔と細い首が、何とも弱々しい。涙の跡だろうか。目元が赤い。全身がぐっしょりと濡れており、彼女が動く度、雫が落ちる。
「見つ、けた。こん、な、ところに、いた……の?ほら、お邸、帰、ろ?」
笑みを浮かべ、ゆっくりと近付いて来る女の前に、茜殿が歩み出た。
「ここに、貴女の息子はいないのよ」
「え……? どう、し……て? あ、れ? 変、よ。変、だわ。三人もいる、のに。私、の、あの子だけ……いない……の? あ、あ、捜さな、きゃ。また、違った、もの……。捜さ、な……きゃ」
つまり、七条の女は、息子を捜して彷徨っていた、ということか。
「どんなに捜しても無駄よ。ここに貴女の息子はいないのだから」
茜殿が、再び現実を突き付ける。その言い方からして、女の息子は、もうこの世にはいないのだろう。
「ここに貴女の息子はいないし、ここは貴女がいて良い場所じゃない。貴女には、死者として向かうべき場所がある。息子さんとは、そこで会えるわ」
「そう、ね。本当、は、分か……ってた。あの子……は、いない、の。ただ、信じ、たく、なかった……だけ」
彼女も、生前は穏やかで優しい母親だったのかもしれない。だとすれば、あまりにも痛ましい話である。
「で、も、駄目……よ。私はっ……」
七条の女は両手で顔を覆い、泣き崩れた。
「あの子に、会い、た……のに……。あ゛ぅ、放しで。ーー殺せ。違、う。そうじゃ……な、い。ーー五条憎し。駄目。ーー赦すな。違うったら!」
様子がおかしい。一人なのに、二人で話しているような。あれが、鬼。
「私はっ、こんな、の、望んで、無い。ーーもっと、もっと沢山、もっともっと、いっそ五条でなくても良い、もっとだ、もっと。嫌っ!ーー食いたい、食いたい食いたい食っ……助けて」
絞り出された小さな悲鳴。同時に、諸悪の根源が姿を見せた。
彼女から分離したそれは、苔のような体色で、頭には毛髪の代わりに二本の角。とても、衣服とは言い難い布きれを纏っている。その姿は、紛う方無き鬼。
「ちっ。使えん女だ。五条の住人のせいで息子が死んだと聞いて、そそのかしてみたってのに、こうも使えんとは」
開かれた口から、禍々しい牙が覗く。その恐ろしい形相に、思わず、隣にいらした時雨殿の袖を掴んだ。
「離れたか。では、私は七条の女を送ってくる。茜、一人で倒せるね?」
「はい」
茜殿に指示を出すと、白鷺殿は女のもとへ。茜殿も、鬼との距離を詰める。一体、彼女はどうするつもりなのだろう。
茜殿の足が止まる。その瞬間、彼女の肌が、みるみるうちに赤くなった。
「え……?」
髪はうねり、その内の二束が角へと変貌する。女性らしかった指先は、長く鋭い爪となり、見る影も無い、あれではまるで。
「……鬼?」
「驚いただろう?見ての通り、茜は鬼だ」
「それでは、白鷺殿の奥方は」
白鷺殿の奥方と茜殿は、姉妹のはずである。
「そう。彼女も鬼。でも、あの夫人に妖力は無いんだ。人間と共に生きたいと強く願うことで、妖力を失い、人間と同じ時を生きる。極稀に起こる現象だそうだよ」
持って生まれた力を、放棄出来るほどの強い想い。それは、愛だの恋だのという言葉だけでは、表現しきれないものだと私は思う。彼女の心は、途方も無く純粋で、真っ直ぐに白鷺殿を想っている。
そして、自分と同じ時を生きられなくなった姉に、妹は何を想うのか。私は、戦う彼女の背中を目で追う。
鬼同士の戦いは、実に一方的なものだった。軽い身のこなしで跳ね回り、背後や頭上から、容赦無く鋭い爪を振り下ろす茜殿。対し、苔色の鬼は、力任せに腕を振り回すはかりで、動作が鈍い。苔色の体が、自らの血で染まっていく。
「茜の方も、そろそろ決着かな?」
戦う二人の横を通り、白鷺殿がこちらに戻って来た。鬼が分離した時点で、私には七条の女が見えなくなっていたので、状況はよく分からないが、無事に成仏したようである。私は戻って来た白鷺殿に、戦う二人の力量差について尋ねた。
「ふふっ。人間の生気を吸って得るのは、妖力だけじゃないからね。むしろ、妖力に変換出来ない余分の方が遥かに多い。あれは、その余分まで吸収してしまったから、体が重くて動き辛いんだよ」
「ええと、あの鬼は肥え太っているということでしょうか」
「うん。あの状態で茜に勝つのは、まず無理だね」
その言葉通り、鬼対鬼の戦いは、茜殿の勝利に終わる。
茜殿が蹴り上げた足の先には、苔色の太い首。突き刺さった足を引き抜くと、そこから大量の血液が噴き出した。苔色は倒れ込み、血の海から起き上がることは無い。病をばらまき、多くの命やそのを奪った元凶は、完全に息絶えた。
「さて、用は済んだし、さっさと帰ろうか。死体の処理は妖怪達に任せれば良いよ。二人は明日も朝早いんでしょ?」
「二人は……って、お前も少しは陰陽寮に行かんか」
「嫌だよ。うっかり頭や博士に遭ったら、つまんない仕事をいっぱい持って来られるに決まってるもん」
脅威が去った途端、緊張感の無い会話を始める二人。切り替えの速い人達である。
そして私も、握りしめていた時雨殿の袖を、そっと離した。