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序章 孝平の暇潰し
そもそも、暇潰しに日記を書こうなどという考えが、間違いだったのだと思う。
紙を広げ、墨をすり、筆を用意したところまでは良かったのだが、書き留めることが思い付かない。終いには、筆に付いた墨が、何の仕事もしない内に乾いてしまった。
「日記など、暇な人間が書くものではないな」
肩を落とす私を、一人目の妻、尾根雪が「まあ、やっと気付いたの?」と笑う。
私は、良い暇潰しを思い付いたと思ったのだが。
「ふふっ。ね、あなた。今が暇だから日記を書けないのでしょう?なら、昔のことを書けば良いと思うの。それこそ、筆の乾く間なんて無いはずよ」
「それだ!」
持て余した時間に、ようやく使い途が出来た。私は、嬉々として机に向かう。
思えば、情熱を持って何かに打ち込むようなことは、ここ、和泉に隠居してから一度も無かった。都にいた頃は、いくら時間があっても足りなかったというのに。私は、昔のことを心に巡らせながら、筆をとる。
では、書き綴るとしよう。私、橘孝平が都で過ごした、あの日々のことを。