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翡翠と琥珀

翡翠と琥珀

 連載中のメイン作品を書きながら、密かにこんなお話も書いてみたいなと温めていたものの一つです。


 よろしければお付き合いください。

 夏の終わり。


 街を照りつけていた陽射しはすっかり鳴りを潜め、真昼であるというのに涼しげな風が大通りを吹き抜けている。

 過ごしやすくなった陽気に誘われたかのように、その大通りには多くの人や荷馬車が往来している。

 大通りの両側には赤や白のレンガを積み上げて建てられた三角屋根の家屋が立ち並んでいて、まるで家の形をした壁に挟まれているようだ。


 プラム──人々はこの街をそう呼んでいる。

 商いを行う者が多いこの街には、他の街からも多くの人々が訪れる。 


 街の真ん中を通る一番大きい通りは、商売人にとって生命線であり、戦場だ。

 大通りの脇では黒く汚れたエプロンを着た中年の男が客の靴を磨いていたり、若い夫婦が屋台に色とりどりの野菜や果物を並べて声を張り上げていたり、客である女性が店先にかけられた服を身体に重ねてみたりしている。


 どこにでもありそうな平和な光景。

 どこか既視感を覚えるような退屈な光景。

 毎日同じことを繰り返しているだけであるようにも見える光景。


 しかし、そんなありふれた日常に隠れる華やかさや新鮮味というものに人々は気づかない。

 日々生きていくうちにそれが当たり前になってしまったから。それに慣れてしまったから。


 だからこそありきたりな日常に起きた劇的な出来事というのは人々の心を動かすのだが、慣れてしまった"当たり前"のことに感動を覚える者は少ない。


 そんな人々が多い中、この青年は自分が少し変わっているのだろうということを自覚している。

 彼は他の人々が気にも止めない"当たり前"のことに心が突き動かされるような感動を覚えることが時々あるのだ。


 例えば街の中央にある教会。

 その姿が夕陽に照らされて真っ赤に染まっているのを見て目が離せなくなったことがある。

 例えば果物を盛られた盃。

 銀色の台座に彩りよくそびえる果実の山に、どこか荘厳な趣を感じたことがある。


 自分の価値観そのものが変わってしまうような劇的な体験というものは、感動を忘れてしまったような、ありきたりな日常に染まってしまったような者にこそ起こるべきである。

 しかし運命は平等か不平等か、些細なことにでも心を動かされるこの青年に対して白羽の矢を立てたのであった。



 *****



 往来する人々で賑わう大通り。

 その隅っこに置いた椅子に座り、手にした板の上に広げた紙に硬い木炭を滑らせる青年が一人。


 彼の名はジェード。若い絵描きである。

 少し青みがかかった黒髪に緑色の眼が特徴だ。

 安っぽい古着を着こなす痩せた身体からは、裕福な商売人たちとは対象的な印象を感じさせる。

 椅子に座った彼の周りには、風で飛ばないよう石を乗せられた数枚の絵が並んでいる。


 ジェードは数年前からここで描いた絵を売っているのだが、買っていく者はほとんどいない。

 それどころか通行人たちは、彼や彼の絵を視界に入れることすらしようとせずに通り過ぎていく。

 まるで道端に無造作に転がされた石ころのように、まるで風に吹かれて乾いた音をたてる木葉のように、ジェードは誰の目にもとまることなくいつもそこで絵を描いていた。


 今日もいつもと変わらない。

 一人の客も来ることなく家に帰ることになるのだ。


 ──そう思っていた。


 そのとき、絵を描く視界の端に見えていた大通りが何の前触れもなく突然遮られた。

 ジェードが顔を上げると、そこには腰まで伸びた長い髪を揺らす少女がいた。

 歳は十代後半といったところだろうか。着古してほつれた街娘らしい装いから想像するに、裕福な家の育ちではなさそうだ。


 立って絵を見下ろしていた少女は何も言わずにしゃがみ込み、一枚一枚の絵にゆっくりと視線を這わせていく。


 久し振りの客人である。何か声をかけたほうがいいだろうかとジェードは考えを巡らせた。

 しかし客など何年来ていないか覚えていない上、元々内気な性格のジェードに気の効いた接客の文言が咄嗟に浮かぶはずもなかった。


「……や、やあ。何か気になるものはあるかい?」


 勇気を振り絞った第一声。

 しかし少女はそれが聞こえていないのか、あるいは無視しているのか黙ってしゃがんだまま絵を見つめている。


 やっぱりやめておけばよかった。


 声をかけたことを後悔しながら、ジェードは再び手にした炭で素描の続きに取り掛かろうとした。


「これらは(ぬし)が描いたものか?」


 時間差で少女の言葉が聞こえた。


「…えっ? あ、ああ。ここにあるものは全部僕が描いたものだよ」


「そうか、見事じゃの。思わず見惚れておったわい」


 てっきり無視されたと思い込んでいたジェードは返答が一呼吸遅れてしまった。

 しかし少女はそんなことを露も気にする素振りを見せず、小鳥がさえずるような高い声の老人口調で簡単に感想を述べた。


 ジェードは描いていた絵を椅子の上に置き、地面に並ぶ絵を見つめる少女と同じようにしゃがんだ姿勢で向き合った。


「気になる絵があったら安くしておくよ?」


「それは嬉しいのう。じゃが今は金がなくてな、見ておるだけで十分じゃ」


「あらら、そうかい……」


 少女の装いから薄々そうだろうとは思っていた。

 それでも久々に絵が売れるかもしれないという期待が絶たれる瞬間というのは随分応えるものがある。


「絵はもう長いこと描いておるのか?」


 娘は銀色の瞳をジェードに向けて持ち上げ、問いを投げかけた。


「そうだね、かれこれ10年くらいになるかな。それしか能がなくてね」


「この絵は街の教会じゃな? よく描けておるではないか」


「ありがとう。毎日同じ時間に教会の前に座ってこつこつ描いていたんだよ」


「この果物が積まれた盃の絵、どうやって色をつけたのじゃ?」


「最近編み出された"油絵具"だよ。買うと高いから製造法を調べて自分で作ったんだ」


「しかしちょっと暗いのう。林檎はもう少し赤みがある方が美味(うま)そうに見えると思うのじゃが」


「あ、やっぱりそう思う? 僕も似たような感想を持ったんだけど、手作り絵具じゃこれが限界でね」


 まったくの想定外であった。

 何年も誰にも相手にされなかったジェードの絵に感想を述べる者が現れるとは。

 それどころかこの少女は絵について様々なことを尋ねてくる。

 それに答えると次のことを尋ねてきて会話が弾む。


 誰かと絵について語らったことなんて、本当に何年ぶりだろうか。


 ジェードの胸の内には得も言われぬ暖かさが満ち始めていた。

 自分の作品を理解しようとしてくれる者がいるというのは、表現者にとってはそれだけで何事にも代え難い幸福だ。


「君はこの街の人かい?」


 答えるばかりだったジェードは思い切って尋ねる側にまわってみた。


「いいや、わしは産まれも住みもここではない。最近この街にはよく来るがな」


「そうなんだ。観光か何か?」


「うむ、多分そんなところじゃな」


 少女がこの街の者ではないことはなんとなくジェードにもわかっていた。

 この街でジェードの絵を見に来る者など一人もいないと彼は既に知っている。


「なかなかよいものを見せてもらった。それじゃあの」


「あっ……待って!」


 一通り絵を見て満足し、立ち去ろうとする少女をジェードは咄嗟に呼び止めてしまった。

 なぜ呼び止めたのかは自分でもよくわからない。

 ただ、この人なら自分のことを、自分の作品のことを理解してくれるかもしれないと思うと、喉が独りでに声を発していた。


 一度背を向けた水色の双眸が再び振り返ってジェードを見つめる。


「あ、いやその……君みたいにちゃんと話ができた客は久し振りで……僕も楽しかったよ」


 少女はジェードの言葉を聞いてうっすらと微笑んだように見えた。

 誰にも相手にされなかったジェードにとって、この少女は街で唯一自分の作品に触れてくれた人物だ。


 このままあっさり自分の前からいなくなってしまうのかと思うと、ジェードはどこかもの寂しかった。


「だから、僕に何かさせてくれないかな? お礼って言えるほどのものではないけど、君の絵を描かせてくれないかい? もちろんお金はいらない」


 ──もの寂しかったから、せめてこの瞬間の感動を形に残したかった。


 少女は少し迷うような素振りを見せた。

 顎に手を当てて周囲をちらちらと見やりながら考え込んでいた。

 しかし急ぎの用事があるというわけでもなさそうで、すぐに「うむ、わかった」とジェードの方へ向き直ってくれた。


 ジェードは自分が先程まで座っていた椅子を少女に渡し、その上に腰掛けさせた。

 ジェード本人はあぐらをかいて座り、彼女を見上げる形で素描を始めた。


 板の上に新しい紙を広げ、その上に炭を走らせる。


 ジェードは目線を頻繁に上げたり下げたりしながら少女の姿を描き起こしていく。

 ジェードがちらりと目線を持ち上げる度に少女は照れ臭そうにしている。

 たまに目が合ってしまったときなんかは頬を少し赤く染めて目を逸らすのが非常に可愛らしい。


 だがジェードは自分一人の世界に入り込んでおり、真剣そのものであるためそのような雑念に心が揺らぐことはなかった。


「よし、こんなもんかな。できたよ」


 ものの数分でジェードは絵を描き上げた。

 人物を一人スケッチするだけならば、かかる時間としてはこんなものだろう。


「見てもよいかの?」


 興味津々の少女に頷き、ジェードは描いた絵を手渡した。


 しかし──


「これが……わしなのか……?」


 少女の顔からはみるみる血の気が引いていく。

 すっかり青ざめたその幼顔は、先程までジェードの絵を楽しげに見つめていた者と同じ人物とは思えないほどだ。


 彼女が震える手に持つ紙に描かれていたのは、当然ながら一人の若い女の絵。

 描かれた女は少女の特徴を非常によく捉えており、まさに瓜二つの美しい出来栄えである。


 それにも関わらず、彼女が取り乱している理由はただ一つ。

 目の前の少女にはないはずのものが絵の中に描かれていたからだ。


 ──耳と尾。


 ジェードが描いた少女の頭にはピンと立った獣の耳、腰掛ける椅子からは毛皮に覆われた太い尾が垂れ下がっていた。


「主にはわしが……こう見えておるのか……?」


 少女の手の震えが増していく。

 楽しげにジェードを見つめていた銀の瞳は完全に曇り、畏怖の光だけがその中で渦巻いていた。


「ねえ、君……? 大丈夫かい?」


 ジェードが声をかけると、少女は手にしていた絵をその場に残して突然駆け出した。


「ちょっと君! 待って!!」


 ああ、まただ。また僕の絵のせいで──


 ジェードは舞い落ちる絵の隣を走り抜け、一目散に彼女を追った。



 *****



 ──完全に見失った。


 街の北へ北へと走る少女を追いかけてきたジェードだったが、大通りの脇道に入る角を曲がっていった彼女の姿を見たのが最後だった。

 ジェードが曲がった時には彼女の姿はなく、相変わらず多くの通行人や荷馬車が溢れかえっているだけだった。


 しかしジェードにはここで諦めるという選択肢はなかった。

 彼女は自分の絵を見事だと褒めてくれた。

 誰の相手にもされない自分なんかと一緒に楽しそうに語らってくれた。


 それはジェードにとって特別な時間であり、彼女は特別な客人である。

 その彼女にお礼がしたくて渡した絵であったはずなのに、そのせいで彼女を傷つけてしまったかもしれない。


 ──このまま諦められるはずがなかった。


 プラムの街の北部。

 きっとまだ近くにいるはずだと、ジェードは人混みを縫うように小走りで少女を探す。

 しかしどこにも見つからない。見かけによらずかなり足が速いようだ。


 一通り探し歩いたが彼女は見つからなかった。


 となると、あとはあそこしか……


 可能性は非常に低いとジェード自身も思っている。

 しかしもう他に探す宛もない。

 億分が一であろうが兆分が一であろうが、もう賭けるしかない。


 腹を決めたジェードは、街の者ですらほとんど近づかない北の森へと足を向けた。


 北の森──文字通りプラムの街の北部に広がる広大な森林である。

 幹が太く、葉の大きな樹木が立ち並ぶその森の中は、昼間でも日光が遮られて薄暗いと言われている。

 夜の森に足を踏み入れようものなら、何も見えない人間など獣たちの恰好の餌となってしまう。


 だが、街の人々が近づかない最大の理由は他にあるのだとジェードは聞いたことがある。


 ひとまずそんなことはどうでもいい。

 もし彼女が森の近くまで逃げているのなら、暗くなる前に見つけなければ。


 街の北端の門を越え、ジェードは草木の生い茂る森の入り口へと進んだ。

 北門の外は貧民街(スラム)のような状態になっていて、ボロボロの衣服を着て痩せ細った者たちが生ごみを漁り泥水を啜っている。

 裕福な商売人が大勢いる街の中とはまったくの別世界である。


 裸同然の格好で自分を見つめる子どもを横目に、ジェードは北の森を目指して歩く。


 ごめんよ、うちは家族5人で食べていくのがやっとなんだ。


 誰に対してでもない言い訳を胸の内でつぶやきながら、ジェードは生い茂る草木の中へと消えた。


 森の中は噂に聞いていた通り薄暗く、太い木の根があちらこちらに張り巡らされているせいで足場が悪い。

 何度も躓いて転びそうになりながら、ジェードはいるかどうかもわからない少女の姿を探して歩く。


 茂みを押し分けて歩く度に、枝葉が身体中を引っ掻いて痛い。

 腕や脚の皮膚がヒリヒリと小さな悲鳴を上げている。

 薄暗くて見えないが、おそらくたくさんの引っ掻き傷ができてしまっているだろう。


 それでも止まるわけにはいかない。

 例え泡沫(うたかた)の夢であったとしても、彼女がくれた特別な時間をこのまま忘れてしまうことなど到底できなかった。


 そのとき、ジェードは何かが草を掻き分けていったような痕跡を見つけた。


 自分がつけた跡ではない。ひょっとしたらあの少女がここを通ったのだろうか。


 明確な理由も根拠もないが、ジェードは直感だけでそう決めつけて痕跡を辿った。

 もしこれが大型の獣が通った跡だったなら、追いついた瞬間に餌になってしまう。

 しかしその可能性は気にとめる必要もないと思えるほどに、ジェードは少女を見つけ出すことに躍起になっていた。


 森に入ってから数分、前方から川のせせらぎが聞こえてきた。

 森の中に川が流れていたのかと新たな発見に感心しながら、とりあえずそこまで行ってみようとジェードは足を進めた。


 川が見えるところまでやってくると、少し開けた空間に出た。

 目の前をまっすぐに横切る河川の流れは非常に穏やかで、野鳥のさえずりや水飛沫がはねる音に心が洗われるようだ。


 この光景も描いてみたいと創作意欲が湧き上がったが、今は他にやることがあるはずだとジェードはそれを押し殺した。


 そのときに気づいた。

 流れの中に立ち尽くす影が一人。

 一糸まとわぬ姿で川の水を身体に這わせる若い女の姿がそこにはあった。


 得も言われぬ背徳感と羞恥心がこみ上げたジェードは、思わず茂みの裏へと隠れてしまった。

 しかし、隠れる寸前で信じ難い光景を目のあたりにしたような気がした。


 きっと見間違いだ。見間違いであって欲しい。


 目の前の光景の真偽を確かめるべく、ジェードは茂みからゆっくりと顔だけを覗かせた。


 やはりそこには美しい少女が一人立っていた。

 川の水を両手ですくい上げては肩からかける動作を繰り返している。


 見間違えるはずなどない。

 彼女の姿はジェードの前から逃げ出した少女のそれそのものであった。


 ──そのものであるはずだ。


 しかしそう断定できない自分がいることにジェードは気づき始めていた。


 彼女の外見は先程までとは明らかに違っている──頭の上には獣の耳がピンと立ち、腰からは毛皮に覆われた太い尾が垂れ下がっていた。


 これじゃあまるで、僕が描いた絵そのものじゃないか……


 状況がまったく飲み込めない。

 なぜ逃げた少女はこんなところで水浴びをしているのか。

 なぜ彼女には獣の耳と尾がついているのか。

 そしてなぜこの光景から目が離せなくなっているのか。


 不意に森の南側からジェードの背を押すように強い風が吹いた。

 その風は川面に無数の弧を広げ、少女の腰まで伸びた美しい髪を乱した。


 そのとき、髪をかき上げた少女とジェードは目が合った。


 少女は風が吹いてきた方角をなんとなく見やっただけだったかもしれない。

 そしてそこには風に揺られて擦れる葉の音の中から顔を出すジェードの姿があった。


 少女の視線がジェードの眉間を貫く。

 ようやく探し人を見つけ出したというのに、探さないほうがよかったのかもしれないという後悔の念がジェードの胸に渦巻いた。

 ジェードと目が合った瞬間、落ち着きを取り戻していた少女の表情が再び畏怖に歪んだからである。


 少女は一瞬辺りをせわしなく見回したかと思うと、両手をついてジェードに向かって走り出した。

 人のような姿をしていながら、両手両足で走る様はまるで動物のようである。


 その速さも人間の領域を超えていた。

 決して運動が得意ではないジェードの反応速度では到底避けきれず、飛びかかってきた少女に勢いそのまま押し倒されてしまった。


 倒された時に後頭部から落ちたのだろう、脳が揺れて意識がぼんやりする。

 不明瞭な意識の中で感じるのは微かな後頭部の鈍痛と胸元をチクチクと刺すような感覚。


 そして異様なまでの息苦しさ。

 息を吸おうとしても気道に空気が通っていくのを感じない。肺が膨らむ感覚がない。


 どういうことだろう。頭を打って呼吸の仕方を忘れてしまったのだろうか。


 朦朧とする意識の中、僅かに開くことができた瞼の隙間から見えるぼんやりとした景色は一面の銀世界だった。


 いや、銀世界とは少し違う。

 白いことには間違いないのだが、ほんの少し赤みを帯びているような色使いだ。


 視界が少しずつ明瞭になってくると、今度は一面の白の中に黄金(こがね)色の毛髪や真紅の斑点が確認できた。


 そうか、この白色は肌──飛びかかってきた少女の白肌だ。

 それが視界を覆い尽くすほどに接近しているんだ。

 僅かに黄金(こがね)色の髪の毛が見えることから考えて間違いないだろう。


 じゃあ、この赤い斑点は……


 ──血だった。

 少女の柔肌に付着した血液。


 一体どうしたんだ、なぜこの少女は怪我をしている?


 しかしその疑問が的を得ていないことにジェードが気づくまでに時間はかからなかった。

 頭を打った衝撃が徐々におさまり、意識が鮮明になってくると、自分が今置かれている状況が客観的に把握できた。


 ジェードを押し倒した少女が、ジェードの胸に爪を突き立て、首筋に噛み付いていたのである。

 その姿はまるで獲物をとらえた肉食動物がとどめを刺そうとする瞬間のそれそのものであった。


 自分の身体を襲う爪や牙に気づくと、胸の痛みや息苦しさが一層増した。

 一度は取り戻した意識だったが、首筋に噛み付いた牙が呼吸を許さないせいで酸欠状態となり、再びジェードを微睡(まどろ)みが襲った。


 僕は、このまま死ぬのか。


 不思議と恐怖はない。

 このまま噛み殺されることを受け入れてしまったような冷静さだった。


 その冷静さ故に気づいた。

 ジェードの首に触れている牙と唇が微かに震えている。

 胸に食込んだ爪もだ。いや、あるいは娘の身体全体が小刻みに震えているような気さえした。


 どうしたのだろう。


 その爪で心臓を抉れば、あるいはその牙で喉元を裂けばジェードを殺せるというのに、少女はいつまでもそうしようとしない。

 それどころか圧倒的優位な立場であるはずの少女のほうが恐怖心に苛まれている。


 どうしたんだい。


 そんな言葉をかける代わりにでもするつもりだったのだろうか。

 ジェードは自身の右手をゆっくりと持ち上げ、少女の髪に触れた。

 少女の全身がびくりと反応したのが伝わってくる。


 怖がることはないよ、大丈夫。


 まさに今自分を噛み殺そうとする相手に対し、ジェードの胸中はどういうわけか慈愛のような感情に満ち溢れていた。

 転んで泣き出した幼子をあやすように、悪夢に魘された赤子を寝かしつけるように、温かい慈しみが込められた優しい右手が少女の髪をそっと撫でた。


 撫でられた少女は一瞬固まっていたが、突然ジェードを突き放すように距離をとった。

 気道が開き、ジェードの肺にようやくひんやりとした空気が流れ込んでくる。


 ジェードは少女が立ち退いた方向に視線を移してみた。

 目に涙を浮かべた少女は腰が抜けてしまっており、未だに震えながらジェードを見つめている。


 金色をほんの少し溶かし込んだような橙色の髪と、その上に座している尖った耳。

 太い尻尾は毛が逆立ち、腰周りに巻き込まれたようになっている。

 肢体はかなり痩せていて、先程まで抑えこまれていたのが信じられないほどに細い。

 きめの細かい肌は畏怖で血の気が引いて青ざめ、さらに白さが際立ってしまっている。


 まるで描いた絵が目の前で生きているようだ……


 酸欠で意識が朦朧とする中、ジェードは目の前の少女に手を伸ばした──伸ばさずにはいられなかった。

 ジェードの右手と少女の顔の距離が徐々に狭まる。

 少女に抵抗する気力はまるで残っておらず、迫る右手を震えながら見つめることしかできない。


 ついに、ジェードの右手が少女の頬に触れた。

 少女の身体がまたびくりと反応する。

 しかしジェードの手つきは髪を撫でたときのように優しい。

 やがて右手は頬を滑るように少女の顔を登り、親指が彼女の涙を拭った。


 そしてこのとき、ジェードは酸欠の微睡みから意識をはっきりと取り戻した。


 あれ、僕は何を──


 目の前にいるのはずっと探していた少女。

 気づいたのは泣きそうな顔で震えている裸の少女に触れようと手を伸ばす自分。


 意識が覚醒する折としては最悪であった。


「──う、うわあっ!? ごめん!!」


 思わず後ろに大きく転がってしまったジェード。

 大きな声を出すと喉元の傷が痛むのだがそんなことを気にしている場合ではない。


 胸の前で両手を握り締める少女に、ジェードは脱いだ上着を投げた。

 とりあえず何か羽織ってもらわなければ目線のやり場に困ってしまう。


「……逃げぬのか?」


 なぜ彼女に触れていたのか、自分自身の行動に戸惑いを隠せない様子のジェードに少女が恐る恐る声をかけた。


「わしは……主を殺そうとしたんじゃぞ……?」


「ええと、確かに襲われたけど……殺そうとはしてなかったじゃないか」


 殺そうと思えば一呼吸で殺せたはずだ。

 それなのにこの少女はそうせず、命を奪うことを最後の最後まで躊躇っていたようにジェードは感じていた。


「怖くは……ないのか……?」


「どちらかと言えば、怖がっているのは君じゃないか」


 ジェード自身もこの状況はよくわかっていない。

 それでも彼女を残してこの場から去るようなことだけは絶対にしてはいけないような気がした。


「なぜわしに触れたんじゃ……?」


 少女は次々に違うことを尋ねてくる。


「わしに殺されそうになっていながら……なぜ恐れることなくわしに触れたんじゃ?」


「それは……ごめん、わからない。頭がぼーっとしてて」


 動揺を隠せない少女はジェードに繰り返し同じ疑問を投げかけた。

 それに対してジェードは曖昧な返事しか返すことができない。


 できないのだが──


「でも、どうしても触れたくなったことだけは覚えてる。その、とても……美しいと思えて」


「美しい……わしがか……?」


 少女の胸に形容し難い思いが湧き上がる。

 彼女はジェードが口にした言葉が照れ臭いような、それでいてどこか尊いような気がした。


()っ……!」


「……! 痛むのか?」


 思い出したように襲ってきた胸の傷の痛み。

 服についた赤黒い染みを抑えて顔を歪めるジェードを見て、少女が憂心を顕にして申し訳なさそうな声を上げる。


「少しね。でも、浅いからきっと大したことはないよ」


「少し待っておってくれるか? すぐ戻る」


 少女はそう言い残して茂みの中へと消えた。

 待つこと数分、少女は何やら葉がついた植物の茎を咥えて戻ってきた。


「それは?」


「薬草じゃ。近くに生えておって助かった」


 その植物はジェードにも見覚えがあった。


 確かその葉を磨り潰して塗り薬として売っている店が家の近くにあったような気がする。


 少女は茎からおもむろに葉を噛みちぎると、口の中で転がしながら咀嚼し始めた。


「見せてみい」


 柔らかく崩れた葉を手のひらに吐き出すと、少女はジェードにそう言った。


「えっ……と?」


「胸の傷を見せてみよと言うておるのじゃ!」


「あっ、うん……ごめん……」


 茂みの中で裸の少女と二人きり。

 少女は上着を羽織っているとはいえ、この状況で自分まで服をはだけさせることには変な背徳感を覚えたジェードである。


 このような手当てには慣れているのか、少女は座らせたジェードの胸と首の傷口に噛み潰した薬草を手際よく塗り込んでいく。

 少し滲みる。そして傷周りがひんやりする。

 近所の店で買った薬を塗ったときと似たような感覚だ。


 少女による手当てが終わると、地面に座り込んで押し黙った二人の間に気まずい空気が漂った。


「なぜ追ってきたんじゃ?」


 先に口を開いたのは少女だった。


「それは……その、謝りたくて。僕の絵のせいで気を悪くしてしまったみたいだから──」


「それは違うぞ! 断じて違う!!」


 身を乗り出して否定する少女の勢いに思わず仰け反るジェード。

 顔が近い。よく見ると大きな瞳と高い鼻が印象的な美人顔だ。

 そして唇の隙間からちらちらと見え隠れする犬歯が少し神秘的にも見える。


「あ、うん……そうなんだ。じゃあなんで、その……いきなり逃げたの?」


 「逃げた」という表現が適切ではない気がして言葉を選ぼうとしたが他に思いつかず、結局そのまま口にしてしまったジェード。


「……怖くなったからじゃ」


 また少女を傷つけてしまうかと心配したが、彼女は気にする素振りを見せなかったため少しほっとした。


「主がわしの正体に気づいたから、殺されるかもしれぬと思った。じゃから逃げた」


「気づいた? 僕が? あのとき僕は君のことを何も知らなかったんだけど……」


「そんなはずなかろう。ではなぜ主の絵の中のわしには耳と尻尾がついておったのじゃ?」


「それは、そういうふうに描いたら綺麗かなって思って……」


 特に理由があったわけでもない。そういうふうに描きたかったから描いた。

 敢えて言葉にするなら、絵描きとしての閃きというものだ。

 まさか本当に耳や尾がついているなんて思いもしなかった。


「それじゃあ、やっぱり君は──」


 少しの沈黙のあと、ジェードは彼女の本当の姿を見てからずっと頭をよぎっていたことを確かめることにした。


「『妖狐(ようこ)』……なんだね?」


 ジェードの問いに対して、少女は俯きながら小さくこくりと頷いて答えた。


 妖狐──プラムの街の北の森に住んでいる物の怪の類だ。

 人の姿に化けた妖孤に市民が襲われる事件が過去にしばしば起きていたことから、街の人間はすっかり森に近づかなくなってしまった。


 狐が化けるという話は主に東の果てにある国でよく耳にするらしいのだが、このあたりでは狼が化けるという話のほうがずっと馴染みがある。

 しかしプラムはその中でも例外で、この街で化けて出るのは狼ではなく、昔からずっと狐なのだ。


「確かに君が妖狐だって知ったときは驚いた。でも、だからってそれだけで殺されるだなんて大袈裟なんじゃ……」


「大袈裟なものか! 何年か前、人間は大勢で森にやってきてわしら妖狐(きつね)を次々に撃ち殺していったではないか!」


「何年か前って、もしかして……」


 四年前の妖狐駆逐作戦。

 プラムの市民を襲う妖狐を退治しようと、街の狩人を中心に男たちが猟銃を持って一斉に森に踏み込んだことが過去にあった。

 この作戦で妖狐の数は激減したが、妖狐の反撃にあって犠牲になった者も多く、作戦は痛み分けという形で幕を閉じた。

 これ以降、市民と妖狐との間に大きな衝突は起きていないという。


 ということはつまり、この妖狐は四年前の作戦の生き残りというわけだ。


「そっか……じゃあ殺されると思われても仕方ないよね。残念ながら、あの街では妖狐があまりいいものだと思われてないのは事実だし」


「主もそう思っておるのか……?」


「とんでもない! 君は僕の絵を褒めてくれたじゃないか! 芸術がわかる感性を持っているのは本当に素晴らしいことだよ!」


 今度はジェードが身を乗り出して妖狐の言葉を否定した。

 彼は絵の話になると人が変わったように熱くなってしまうところがあることに自分で気づいていない節があった。


「じゃが、主の絵を見てわしも逃げた……」


「それは……怖がらせてしまうような絵を描いた僕にも責任があるというか……」


 妖狐は耳が垂れてしゅんとしてしまっている。

 ジェードに対して負い目を感じているのが丸わかりだ。


 こんな気まずい話をするために追ってきたんじゃないのに。


 何か気の効いた言葉でもかけられればよかったのだが、このようなときに限って頭が真っ白になる。

 ジェードは俯く妖狐の悲しげな睫毛を見つめることしかできない自分がなんとも腹立たしかった。


 何かを聞き取ったのか、不意にしゅんと垂れ下がっていた妖狐の耳がピンと反応した。

 それと同時に妖狐は目の前を横切る川の対岸へと機敏に目を向けていた。


 ジェードも妖狐の視線を追ってみるが、その先には何があるわけでもない。

 自分たちがいる川岸と同じように、木々や茂みが葉を揺らしているだけだ。


「……どうしたの?」


「仲間が呼んでおる。すまぬが()かねばならぬようじゃ」


 そう言って妖狐は立ち上がり、肩から羽織っていたジェードの上着を脱ぎ捨てた。

 再び一糸まとわぬ姿になった妖狐から、ジェードは思わず目を背ける。


「主には悪いことをしたな。本当にすまなかった」


「──待って!!」


 その一言に今生の別れであるかのような不安感を抱いたジェードは、咄嗟に妖狐を呼び止めていた。


 妖狐は踏み出そうとした足を止めたが、ジェードの方を振り返ろうとはしない。

 背を向けたままでジェードの別れの言葉を待っているようであった。


 だがジェードは──


「君と出会ったのも何かの縁だ。僕は君のことをもっと知りたい。だから……君さえよければ、また会いにきてくれないかな?」


 ──別れの言葉など口にしなかった。


 彼女は誰も相手にしないジェードの芸術に触れてくれた。

 ジェードは自分を殺さなかった彼女の真意をまだ知らない。

 彼女もまた、ジェードが彼女に対して抱いた貴き感情があることをまだ知らない。


 僕には君と話したいことが、話さなければいけない気がすることがまだまだたくさんあるんだ……!


 妖狐はジェードの言葉を背に受けたものの、何も告げることなく両手をついて獣のような走りで川の対岸へと去っていった。


「明日の同じ時間、同じ場所で絵を描いてる! 待ってるから!!」


 妖狐の姿を追おうとするようにジェードは立ち上がり、茂みの中へと消えた彼女に向けて吠えた。

 その叫びが彼女に届いたかどうかを知る術はない。


 ジェードは妖狐が脱ぎ捨てた上着を拾い上げ、薄暗くなり始めた森から街へと足を向けた。


 街へ戻ってきたジェードは、妖狐を追って放置してきてしまった絵や画材を回収しようと元の場所へと足を進めた。


 しかしそこに置いてあったはずの絵は一枚たりとも残ってはいなかった。

 いや、厳密に言えば絵自体はそこにあるのだが、そのすべてがジェードのいない間に破り捨てられたり水をかけられたりして最早絵とは呼べない状態になってしまっている。


 まあ、こうなるとは思っていたよ。


 薄々わかっていた事態にジェードは落胆することもなく、売り物にならなくなった絵をくしゃくしゃにして一つに丸め、画材を道具箱に納めて家路についた。



 *****



 翌日、雲一つない快晴の空と涼しげな秋の風が心地よい。


 描いた絵を一枚残らず紙屑にされてしまったが、大通りの隅っこに座るジェードは凝りもせずまた紙の上に木炭を走らせていた。


 今日は意地でもここを動かない。


 彼はそう心に決めて朝一番から座っている。

 いつ来るかわからない、本当に来るのかどうかすらわからない妖狐(かのじょ)を待ちながら、ジェードはひたすら手を動かし続けた。


 まだ肌寒く人通りの少ない朝。

 他の街からやってきた荷馬車や出掛ける住民たちで賑わう昼下がり。

 あちこちの家から夕食のいい匂いが漂ってくる夕暮れ。


 ジェードはこの日のうちにそのすべてを経験したが、妖狐は彼の前に現れない。

 彼女を待っている間に、ジェードの周囲には数枚の素描が出来上がってしまっていた。


 来てはくれないか……


 昨日妖狐と出会った時間はとっくに過ぎてしまっている。


 この一枚が仕上がったら諦めよう。


 そう心に決めたジェードは、もうすぐ完成する絵の上で手にした画材を無心で動かし続けた。


 そのときだった。

 ふと視線を上げたジェードの目に見覚えのある姿が映った。


 金色を少し溶かしたような橙色の髪、ところどころほつれた村娘のような質素な格好、折れそうなほど痩せ細った小さな肢体。

 初めて会ったときの妖狐の少女と極めて似つかわしい人物が、ジェードのいる大通りの反対側を歩いていた。


 思わずジェードは立ち上がり、背伸びをして少女を目で追う。

 しかしその姿を再び視界にとらえることはできなかった。


 見間違いだろうか。


 多くの商売人たちが家へと帰っていった黄昏時とはいえ、通行人の数は決して少ないわけではない。

 似たような外見の娘が一人や二人いたところで不思議ではない上、互いに大通りの両端にいたのでははっきりと確かめられない。


 彼女に焦がれるあまり、幻でもみたのだろうか。

 とうとう本当に頭がおかしくなってしまったかな。


 よくよく考えれば、妖狐(かのじょ)が会いに来たのであればそんなに遠くを歩くはずがない。

 まっすぐジェードの元へ向かってくればよいのだ。


 ジェードは再び椅子に腰掛け、素描の続きに取り掛かった。

 それから僅かに数分、とうとうジェードは最後と決めた絵を完成させてしまったのだった。


 やっぱりあれは泡沫(うたかた)の夢だったのか。


 包帯を巻いた首や胸の傷を思い起こしながら、ジェードは画材を道具箱に戻し、周りに広げていた絵をくるくると巻いた。


 すると、屈んで後片付けを行うジェードの隣に立ち止まった影が一つ。


 顔を上げるとそこにいたのは、待ち焦がれていた妖狐の少女の姿だった。


 彼女はジェードに対して横を向いたまま立ち止まり、まったくこちらを見ようとしない。

 ジェードの胸には何をしているのだろうと疑問が湧くと同時に、一日中待ち続けた努力が報われた安堵が溢れた。


「ええと、もう店じまいにしようと思ってたんだけど、見ていくかい? …………昨日ぶり」


 気の効いた言葉も浮かばず、なんとなく冗談を言ってみたが後悔しか残らなかった。


 その言葉を聞いてようやく少女はジェードの方を向いたが、その表情はなんとも形容し難かった。

 眉を釣り上げ、白い肌を真っ赤に染めて口をくしゃりと結び、目には大粒の涙が浮かんでいる。

 ジェードに対して怒っているのか、それとも今すぐ泣き出したいのか、どちらにせよ虫の居所が悪いことだけはすぐにわかった。


「……四回」


「……えっ?」


 何を数えたのかわからないが、少女はジェードにしか聞こえない蚊の鳴くような声で呟いた。


「主の前を通り過ぎた数じゃ! なぜ呼び止めてくれぬ! 本当は待ってなどおらんかったのか!?」


「えっと!? ごめん、気づいてあげられなくて……!」


 どうやら彼女はジェードに会いに街まで来たものの、彼に声をかけられずにいたようだ。

 ジェードは本当は自分を怖がってはいないだろうか、怪我をさせたことを恨んではいないだろうか。

 きっとそんな葛藤の中、この街までやってきたのだろう。


 そして気づいてもらえたらもう一度話をしてみようと思ったものの、下を向いて絵を描くジェードが簡単に気づくはずもない。

 諦めきれず四回も通り過ぎた挙句、五回目は結局自分から接触しに行ってしまったといったところだろうか。


「でも、あんなに遠くを歩いてたらわからないよ! 人通りだって少ないわけじゃないのに」


「気づいておったんじゃな……! 気づいておったのに主という男は……!」


「わかった、謝る! 遠すぎて見間違いかと思っちゃったんだよ……」


 思えば彼女にとっては正体を知られた人間に会いに来るなど、それだけでもかなり勇気が必要なことだ。

 それなのに自分から声をかけに来いなんてことを言うのは酷というものだろう。

 そう思ったジェードは、今回については自分に非があるとすることでおさめようとした。


 内気な性格故に相手に押されるとすぐに引いてしまう。

 自分の悪い癖だとわかってはいるのだが、簡単に治るものでもない。


「でも、嬉しいよ。こうして君がまた会いにきてくれて」


 少女は相変わらず泣きそうな顔をしたまま俯いている。

 その頭に耳はついておらず、腰にも尻尾は見られない。

 爪も牙も短くなっており、本当に人間のそれとまったく変わらない姿だ。

 妖狐は人に化けるのが得意だとは聞いているが、本当に見事なまでに正体を隠せるものだと感心する。


「それじゃあ、どこかのお店にでも入ろうか。そろそろ冷えてくるし、ゆっくり話すならそのほうが──」


 歩き始めたジェードだったが、少女がついてこないことに気づいて足を止めた。


 どうしたんだろう。

 まだ怒っているんだろうか。


「……りが……よい……」


「ええと、なんて?」


 俯いたまま何かを呟く少女の声に先程までの猛りはない。

 まだ怒っているわけではないようだが、今度は妙に照れ臭そうにモジモジしている。


「主と二人きりが……よいのじゃが……」


 ジェードは自分の頬が熱を持つのを感じた。

 恋人を持ったこともないジェードは、妖狐とはいえ異性にこのようなことを言われたのは産まれて初めてであった。

 さらに追い打ちをかけるように、潤んだ瞳の上目遣いがジェードの胸を突いた。


 妖狐がどのような意図でこう言ったのかはわからないが、ひとまずジェードは少女の意思を汲み、人気のないところへ行こうと決めた。



 *****



 プラムの街の北の森。

 二人きりになれる場所を探したが街の中には見つからず、妖狐の少女とジェードは二度目に出会った川辺へとやってきた。


 先導して歩いていたジェードが振り返ると、後ろを歩く少女にはいつの間にか耳と尾がついていた。


「ねえ、その耳と尻尾は普段どうやって隠してるの?」


 川辺に腰を下ろしながらジェードは少女に尋ねた。


「どうやってと言われても困るのう」


 ジェードの問いに対し、妖狐は少し間を空けて隣に腰掛けながら答えた。


「わしら妖狐(きつね)にとっては物心ついたときからできる当たり前のことじゃし、立ったり歩いたりとさして変わらぬのじゃが」


「そうなんだ。じゃあずっと隠していれば妖狐だって気づかれないんじゃない?」


「ずっとはできぬのじゃ。今のような中途半端な姿に化けるだけなら容易なのじゃが、耳や尻尾、爪や牙を隠すには多く養分を使うのでな」


「養分……ええと、つまり?」


「ずっと隠しておると、ものすごく腹が減るんじゃ」


 随分と野性的な原動力であるが、しかしこれで合点がいった。

 だから彼女は既に正体を知られているジェードの前では余計な消耗を抑えるため、最低限の扮装で済ませているのだ。

 逆に街の中を歩くときは自分の正体に気づかれるわけにはいかない。

 耳や尾といった特徴的な部分もすべて隠しておく必要があるということだ。


「それはそうと主、怪我の具合はどうじゃ?」


 妖狐はジェードの首に巻かれた包帯を痛々しそうに見つめながら呟いた。


「ああ、君の応急処置がよかったのかな、割と平気だよ。触るとまだ少し痛いけど」


「本当にすまぬ……」


「それは昨日も聞いたよ、怒ってないから気にしないで」


 せっかくまた会えたというのに、妖狐はまたしょんぼりとしてしまった。


「ねえ、聞いてもいいかな?」


 これでは昨日のような気まずい空気になりそうだと予感したジェードは、話題を変えようとした。


「なんじゃ?」


「さっきの言葉……二人きりがいいっていうのはどういう……?」


 ジェードは街で妖狐が口にした言葉の真意を問うた。

 まさか自分のことを好いているなどとは思っていない。

 きっと他の意味があって言っているのだから気にしないでよいとは思っているのだが、やはり尋ねずにはいられなかった。


「それは、わしがまだ慣れておらぬからじゃ……人間に」


 ほら、やっぱりそうだった。

 わかっていたとも、うん。


「たくさんの人間に囲まれるのはやはりまだ怖くてな。わしが妖狐(きつね)じゃと気づいておらぬうちはよいが、気づかれたらどんな顔をされるか……」


「街にはよく来てるって言ってなかった? それなのに人に囲まれると嫌なの?」


 ジェードが妖狐の絵を描く前、彼女は確かにそう言っていた。

 本当に楽しかった久々の客人との会話だ、一言一句忘れてなどいない。

 それともあれは適当に話を合わせるための方便だったとでも言うのだろうか。


「街によく行くのは本当じゃぞ。ただ、今までは陰から人間たちを見ておるだけじゃったから……」


「なんでそんなことを?」


「……憧れだからじゃ」


 妖狐はちらちらとジェードの顔色を伺いながら返答を述べた。

 その返答はジェードにとってはまったく予想もしていなかったものである。


「憧れ……?」


「そうじゃ。"生きるために"生きておるわしら妖狐(きつね)と違って、人間は生きることにいろんな目的や意味を見出しておるじゃろう? わしはそんな人間の生き方に憧れておるのじゃ」


 ジェードは妖狐の言っていることがなんとなくわかる気がした。

 自然の中で動物や獣といった存在が持っているのは、食事にありつき、安全な場所で眠り、子孫を残すという同じサイクル。

 それは生命維持や種の保存のための本能的で生理的な欲求に基づいている。


 しかし人は"生き甲斐"を非常に重視する。

 人間は動物たちのような生理的欲求も持っているが、それとは別に"自身の生きる意味"を求める。

 商売人たちが富を手にしたり、政治家が上へと成り上がることで他者に認めてもらおうとしたり、芸術家が生きた証を作品として残したりするのがいい例だ。


 おそらく妖狐が言いたいのはこういうことなのだろう。

 生きていることはそれだけで奇跡であるというのに、人間とはどこまでも欲深い生き物である。


「別にこの森で妖狐(きつね)として生きていくことに不満や不都合があるわけではない。じゃが、"生きるためにどうするか"ではなく、人間のように"どう生きるか"を追い求める生涯は、わしの目にはとても華やかに見えたのじゃ……」


 ジェードは言葉を失った。

 街の人々に忌み嫌われる妖狐である彼女だが、こんなにも美しい心と感性を持っている。


 心は人間と変わらないのに、どうして互いに歩み寄ることができないのだろうか。


「だから人間の近くでその生き様に触れたかったと、そういうことかい?


「うむ、その通りじゃ」


「なるほど納得した。ねえ、もう一つ聞いてもいいかな?」


 ジェードの言葉に俯いていた顔を上げた妖狐はこくりと小さく頷いてみせる。


「さっき君は、いつも"陰から見ているだけ"だったと言ったよね。なのに僕に近づいてきて話をしてくれたのはどうしてなんだい?」


「それは主が一人ぼっちだったからじゃ」


 その言い方はなんだか応える。決して間違っているわけではないのだが……


「主は一人で絵を売っておったし、街の人間も誰も主に近づこうとはしておらんかった。それがわしには好都合じゃった。産まれて初めて人間と話すことができる機会かもしれぬと思ったのじゃよ」


「あはは、僕を選んだというよりは成り行きだったわけか……」


 多くの人間が集まる場所を苦手とする妖狐。

 今までは人間に近づくだけで接触は避けてきた妖狐。

 その妖狐が勇気を振り絞って初めて話をしてみた人間がジェードだった。


 ところがその結果、妖狐はジェードを恐れて逃げ出す事態となってしまった。

 きっとあのときは後悔の念も大きかったことだろう。やはり見ているだけにしておけばよかった、と。


「確かに最初は成り行きじゃったかもしれぬ。じゃが今は、他でもない主だから近づきたい、話がしたいと思っておるのじゃ」


「……というと?」


 ジェードが説明を求めると、妖狐は頬を赤らめて俯いてしまった。


「主はあのとき、わしに触れたじゃろう……?」


 妖狐に川辺で襲われたあのとき。

 酸欠で意識が朦朧とする中、目の前にいる少女の姿に心を奪われ、気がついたら手を伸ばしていたあのときだ。


「あぁ、うん。頭がぼーっとしててよく覚えてないけど、多分。」


 白肌を真っ赤に染め、恥ずかしそうな上目遣いで見つめる妖狐の顔を見ていると、なんだが自分まで気恥ずかしくなるようだ。


「主なんじゃよ、わしの……"初めて"は……」


「ええと、"初めて触れたのが"ってことでいいんだよね? なんだか誤解が産まれそうな言い方はやめて欲しいな?」


 妖狐の表情と言葉にジェードの顔が熱を持ち、猛った心臓が容赦なく胸の内側を叩く。

 この異様に胸の中がふわふわするような背徳感はなんなのだろうか。


 恋人と話していてドキドキするというのはこんな感じなのだろうかという考えがジェードの頭をよぎるが、なんせ恋人などいたことがない彼には確かめようがない。

 さらには目の前にいるのは人間ではなく妖狐だ。

 彼女を相手にこのような気持ちになってよいのかもわからず、背徳感は増す一方であった。


 しかし同時に妖狐の言いたいこともなんとなく伝わってきた。

 ずっと遠目に憧れるだけの存在だった人間。

 その中でも産まれて初めて会話したジェードという男。

 その男が自分に触れたという事実──妖狐である自分は人間に疎まれるものだとずっと思ってきた彼女にとって、これ以上に胸を打つ出来事はないのかもしれない。


「なあ、主よ──」


 頭の中も胸の中もよくわからない感情でいっぱいいっぱいのジェードの眼を、妖狐は真っ直ぐに見据えて彼を呼んだ。


「──もう一度、触れてはくれぬか……?」


 妖狐の潤んだ瞳に見つめられると、ジェードの胸の中に風が突き抜けるような感覚が走った。

 妖狐の頼みはジェードにとって物理的には非常に簡単で、だが精神的には非常に難しいものだった。


「そう言われても、僕はどうしたら……?」


「昨日のように触れてくれるだけでよい。わしはどうしても忘れられぬのじゃ。慈しむように髪を撫で、優しく涙を拭ってくれた主の温かい手の感触が……」


 妖狐は頼みを無下にすればこのまま泣き出しそうな雰囲気だ。

 泣き出されるのは困るが、引き受けると背徳感に押し潰されそうになる。

 照れ臭いような後ろめたいような気がして尻込みする自分自身が、ジェードはとても情けなかった。


「主や……?」


「ああ……わかった、やってみるよ」


 躊躇いを妖狐に悟られそうになりながら、ひとまずジェードは頼みを聞くことにした。

 大した要求ではない。ただ妖狐に触れるだけでいいのだ。

 それも昨日一度できたことである。きっと今日だってできるはずだ。


 ジェードは自分を見つめる妖狐の頬に向けてゆっくりと右手を伸ばしていく。


 右手が熱い。

 手そのものが熱を持っているせいでもあるが、まだ触れていないはずの妖狐の頬から感じられる恥じらいの感情が右手を焼いていた。


 あと少し──


 しなやかな柔肌を赤く染めた頬が、ジェードの体温を感じる瞬間を今か今かと待ちこがれている。

 ついに風が吹けば触れるのではないかというところまで右手が妖狐の頬に近づき──


「……ごめんっ!」


 ──ジェードは触れる寸前でその手を引き戻した。


 荒げた息を肩で整えながら自分の右手を左手で握り締める。


 とんでもなく熱い。


 手だけではなく全身から火が出ているようにすら感じられた。

 いつの間にか上がっている息も、妖狐に触れようとする際に無意識に呼吸が止まってしまっていたせいだ。


 ジェードがふと視線を持ち上げると、妖狐は目を見開いて驚いたような表情をしている。

 しかしその表情はすぐに曇ってしまった。

 耳と眉が垂れ下がり、目に浮かぶ涙が今にも零れ落ちそうになっている。


 いけない……!


 昨日出会ったばかりの少女。

 それも人間ではなく妖狐。

 しかしその程度のことはどうでもよいと言い切れるほどに、いつの間にか彼女はジェードにとって特別で大きな存在になってしまっていた。


 彼女のこんな顔は二度と見たくなかったのに、僕が躊躇ったせいで……!


 ジェードの胸の中に後悔が広がった。情けなさが湧いた。自己嫌悪が渦巻いた。


 どうして僕はこんなにも意気地なしなんだ。

 どうしてたった一人の少女の小さな望み一つ叶えてあげられないんだ。

 躊躇う必要なんてないじゃないか。

 彼女の心はこんなにも純粋で、こんなにも尊くて、こんなにも愛おしいのに……!


 ジェードは無意識のうちに少女の肩に両手をかけて自分の方へ引き寄せ──


「……ぬ……し……?」


 ──抱き締めていた。


 何が起きたかわからない少女は目を見開いたまま動くことができない。

 ジェードの体温が伝わってきて全身が焼けるように熱い。

 しかし不思議なことにそれを振り払う気にはならない。

 そして溜まりに溜まっていた涙が大きな一雫となり、艷やかな頬を流れ落ちた。


 あれ、僕は何を……?


 ふと我にかえったジェードは、いつの間にか腕の中にいる妖狐の姿に気づいた。


「……わああっ!? ご、ごめん!!」


「主よ、今のはなんじゃ……?」


「ちが、違うんだ! 今のはその、なんと言えばいいか……!」


 まだ心臓が暴れている。まだ全身が燃えるように熱い。

 ジェードは冷静になりたくてもなれない状況に陥っていたが、それは妖狐も同じようであった。


「もう一度……してみてくれぬか?」


 身体に僅かに残ったジェードの体温を確かめるように、妖狐は自分の肩を抱いて俯いている。


「え? う、うん……」


 驚いて距離を取ってしまったジェードは、またゆっくりと妖狐へ近づいた。

 妖狐は肩を抱いていた腕を下ろし、ジェードの腕が伸びてくるのを待っている。


 二度も同じ躊躇いをするものかと覚悟を決めたジェードは、再び妖狐の肩に手をかける。

 そしてゆっくりと自身の身体に引き寄せ──再び少女を抱き締めた。


 彼女の身体は驚くほど細い。

 決して身体つきがよくはないジェードよりもかなり肩幅が狭く、腕にすべての力を注ぎ込めばこのまま折れてしまいそうな印象を受ける。


 ジェードは少女を抱き締める左手を腰に、右手を後頭部にそれぞれ添えた。

 腰に左手が触れた瞬間、少女の身体が僅かにぴくりと反応した気がするが、そのままジェードを受け入れた様子だった。


 一方で少女の胸には形容しがたい感情が再び溢れていた。

 嬉しい。尊い。優しい。暖かい。愛おしい。

 あらゆるものがこみ上げてきて胸が苦しいが、それでもやはり悪い気はしない。


 少女は細腕を持ち上げると、そっとジェードの背中へとまわした。

 妖狐(きつね)として生きてきた今日まで、このような感情を味わったことは一度もない。

 ずっと味わっていたい。この感情に浸ったまま眠ってしまえたらどんなに幸せだろうか。


「──ごめん!」


 再び発せられたジェードの謝罪の言葉とともに、少女は腕の温かさから引き離された。


「ちょっと……休憩させて……」


 妖狐にとって夢心地だった時間は一瞬であったような、しかしそれでいて随分と堪能出来たような、複雑な気分であった。


「主よ、教えてくれ。今のは何じゃ……?」


「何って、何が?」


「わしが主の腕の中で感じたもののことじゃ!!」


「ちょっと待って!? 君が感じたものの説明を僕に求めるのは筋違いじゃないかい!?」


 妖狐自身も気が動転していてわけがわからなくなっていた。

 相手に捕らえられるという状況は、森の中で妖狐が生きてきた経験では非常に危険なものであるはずだ。

 実際に妖狐がジェードを押し倒し、牙を突き立てて命を奪おうとしていたあのときはまさにそうであった。


 本来なら死を意味するはずの状況下で胸の中にこみ上げてきた心地よい感情。

 その正体がなんなのかを妖狐が知る術はなかった。


「知らぬ……こんなものは知らぬぞ……」


「嫌だったなら謝るよ……」


「違う! むしろ逆じゃ! ずっと主の腕の中にいたいくらいじゃ!!」


「それはいろいろとまずいんじゃない!?」


 言葉を強めながらじりじりと詰め寄ってくる妖狐は冗談を言っているようには見えない。


「あんなに心地よいのに、何がまずいんじゃ? それとも主は嫌じゃったとでも言うのか……?」


「まさかそんな、嫌だったわけじゃないけど……なんだか照れ臭いし、それに僕たちはまだ知り合ったばかりだろう?」


「知り合ったばかりではまずいのか?」


「まあ、普通はね」


 ジェードはあまりにも人間味溢れる彼女を見ていてすっかり失念していた。

 彼女は森で育った妖狐だ。人間の常識が通用しないのは当たり前である。


 本能的に心地よいと感じたのなら分別など関係なしに、迷わずそれを追い求めてしまうのだろう。


「あんなにも心地よいのに、出会ったばかりではまずいのか……人間の感覚はよくわからぬ」


「あはは……」


「そうじゃ、主よ──」


 顔を赤くして頬を掻くジェードを見て、もしかして申し訳ないことを頼んでしまったかと予感した妖狐は話題を変えようとした。


「主が描いてくれたわしの絵、もう一度見せてくれぬか? 今なら逃げ出さずにちゃんと見てやれそうじゃ」


「あー、それなんだけど……昨日街に戻ったら、僕の絵は全部めちゃくちゃにされてたんだ」


「なんじゃと!? 一体どうしてじゃ!?」


 驚きで耳と尾がピンと立つ妖狐。

 人間にはない感情表現の仕方が、見ていてとても新鮮に感じられる。


「僕の絵は街のみんなに気味悪がられてるんだよ。でも別にいいんだ、嫌がらせされるのはもう慣れっこだし、絵なんてまたいつでも描けるんだから」


「もったいないのう、どれもあんなによく描けておったのに……」


「ありがとう。そう言ってくれるのは君だけだよ」


 苦笑いを浮かべるジェードを見つめる妖狐の耳がまた垂れ下がる。

 浮き沈みが激しいというか、一喜一憂しやすいというか、そんな妖狐の豊かな感性は不思議とジェードの心を引きつけた。


「なぜ街の人間は主の絵を嫌っておるのじゃ?」


「僕が人の絵を描くと、不思議とその人にとって都合の悪い絵が出来上がってしまうみたいなんだ……って言っても何のことかわからないかもしれないけど」


 妖狐はやはり話がわかっていないようで、首を傾げてジェードを見つめている。


「具体的にはそうだな……まだ僕の絵が嫌われていない頃、恋人を連れた男の人に頼まれてその人の絵を描いたことがあったんだ。でもその人はそれを買わずに帰って行った。二人の女性に挟まれて歩いている構図が気にいらなかったみたいでね」


「その男は何が不都合だったのじゃ?」


「恋人の前で女癖の悪そうな絵を描かれて腹を立てちゃったんだよ。でもあとから聞いた話だとその人は浮気癖があって、そのあとすぐに別れてしまったらしいんだ」


 男の本性はまさに描いた絵の通りであった。

 ジェード本人としては何の意図も含みもない絵、ただ直感的にそんな構図が浮かんだから描いた絵に過ぎなかった。


「でもこんなことは一度や二度じゃなかった。別の日、今度は派手で高そうな服を着飾った女の人に絵を頼まれたんだけど──」


「また嫌がられてしまったんじゃな」


「その通り。高そうな服よりももっと庶民的な格好のほうが似合いそうだなって思ったから、そういう絵を描いた。そしたら馬鹿にしてるのかって言われちゃったよ」


 ジェードは地面に座ったまま後ろに手をつき、暗くなり始めた空を仰いだ。

 思い出すだけでも胸が締め付けられるようだが、なぜか彼女になら話してもいいと思えた。


 彼女なら自分をわかってくれるかもしれないと、根拠もなくそう思えた。


「これもあとから知った話なんだけど、その女の人は裕福なわけでもないのに、知り合いに見栄を張るために多額の借金をしてまで高い服を買い集めていたんだって。それを見抜かれたのかと思って気を悪くしてしまったんだろうね」


「じゃが主は何も知らなかったのじゃろう?」


「もちろんだよ、その日初めて会った人のことなんてわかるわけがない」


「なら主が責められる理由などないではないか! 納得がゆかぬなーっ!」


「けどそれが商売ってものだよ。客を喜ばせないと生き残れない世界だから」


 妖狐は歯痒そうに頭を掻いた。


 もしかして僕を慰めようとしているのだろうか。きっと優しい子なんだろうな。


「まったく、いつから僕はこんな絵しか描けなくなったんだろう。もしかして不思議な力でも宿ってるのかな、僕」


「わしら妖狐(きつね)が人の姿に化けるようにか? 生憎人間はそのような力は持たぬはずじゃが」


 慰められたかと思えば、次はあっさりと否定された。


「これはあくまでわしの勘なんじゃが、主はおそらく観察力が非常に優れておるのではないかと思う」


「観察力……?」


「そうじゃ。それと直感かの。」


 妖狐は両手を前につき、ジェードの顔を覗き込むように言った。

 その仕草に心臓がギュッと少し縮んだような感覚がする。


 なんとなく、可愛いと思ってしまった。


「主は鋭い直感と観察力を持つ故、相手の胸の内や本性を知らぬ間に見抜いて、無意識に絵の中に反映しておるのかもしれぬ」


「それは何というか、超人的な力とは違うのかい?」


「わからぬが、人間はそんな力など持っておらぬはずじゃ。強いて言うなら"才能"というやつなんじゃろうな」


 相手の本性を見抜き、無意識に(えが)き出す才能。


 こんなに嫌われるような才能なら、持たないほうが幸せだったのかな。


「そうじゃ!」


 何かを思い立った妖狐はニパッと笑顔を浮かべ、ジェードの顔を見上げた。

 その無邪気な笑顔は、少し重くなりつつあった雰囲気を溶かしてくれるかのように明るかった。


「なくなったのならまた描いてはくれぬか? わしは主が描いてくれた絵をもう一度見たい!」


「うん、いいよ!」


「別嬪に描くのじゃぞ、主?」


 妖狐の冗談にあははと笑いながら、ジェードは横に置いていた鞄から画材を取り出した。

 板の上に紙を広げ、妖狐の得意顔を見つめながら木炭を握り締める。

 ところが、ジェードはどうしても手を動かし始めることができなかった。


「……主、どうしたのじゃ?」


「いや、やっぱりやめよう」


 ジェードは地面に画材を置き、不思議そうな顔をする妖狐を見据えた。


「今描くと同じような絵が出来上がりそうで、なんとなく嫌だ。僕は自分の絵に妥協をしたくない。君を描こうとするなら尚更そうだ──」


 妖狐を見つめるジェードの瞳は強い覚悟と意志に満ちている。

 自分を見つめる鋭い眼差しに妖狐が頬を染めると、ジェードは再び口を開いた。


「うまく言えないけど、君は僕にとって特別な存在なような気がする。だから、僕は僕自身が満足できる絵が描けると確信できるときが来るまで絶対に君を描かない。今そう決めた!」


「……そうか」


 妖狐は残念がるかと思ったが、目を閉じてそう呟く彼女の口元はうっすらと微笑んでいるようにも見えた。


「では、わしはそのときを大人しく待っているとしよう。楽しみにしておるぞ」


「うん、ありがとう……!」


 髪を撫でる冷たい風が夜の訪れを告げる。

 気がつくとあたりはすっかり暗くなっていた。いつの間にか随分と話し込んでいたようだ。


「さて、もっと話したいところだけど、そろそろ帰ることにするよ。あんまり遅いと家族が心配するからね」


「うむ、そうか」


 立ち上がるジェードを見上げる妖狐の瞳がなんとなく物寂しそうに見えた。

 別れ際にこんな顔をされては帰るに帰れなくなってしまう。


「ねえ君、名前はなんて言うの?」


「……む?」


「いや、なんていうか、僕は君のことをもっとよく知りたいし、もっと話がしたいんだ。だから今日はせめて名前だけでも覚えて帰ろうかなって思って」


 名前が知りたい理由を話しても妖狐は首を傾げたままだった。


「ナマエ……確か人間は一人一人に違う呼び名がついておるんじゃったかの。わしは妖狐(きつね)じゃ、そんなものは持っておらぬぞ」


「そうなんだ。じゃあ君のことはなんて呼べば……?」


「今のように"君"と呼んでくれて構わぬのじゃが……そうじゃ!!」


 妖狐は突然立ち上がり、瞳を輝かせながら少し上の方にあるジェードの顔を見つめた。


「主がつけてはくれぬか?」


「えっ、僕が!? 急に言われても困るな……」


 まだ若いジェードはもちろん子どもなどいないし、自分の絵に題をつけることもあまりしない。

 そのため何かに名前をつけるという行為そのものに縁遠かった。


「主の名前は何というのじゃ?」


「僕かい? 僕の名前は『ジェード』。どこかの国の言葉で"翡翠"って意味らしいんだ」


「……ヒスイ?」


「僕の瞳の色だよ。こんな色をした宝石のことなんだってさ」


 若干身長差がある妖狐の前に少し屈んで目を見開くと、妖狐が瞳を覗き込んできた。

 彼女の顔が近くに来るとやはり少しドキドキしてしまうのがやりづらい。


 瞳は濃い緑色。

 自己嫌悪の激しい性格のジェードでも、この瞳の色だけはなかなか気に入っていた。


「『ジェード』……それが主の名前か……」


 ジェードの瞳を覗き込みながら顎に手を当ててふむふむと頷く妖狐の感慨深そうな表情がなんとなく滑稽に見える。

 名前一つ聞いただけでなんとも珍しい反応をするものである。


「君の名前は、そうだね……『アンバー』?」


「あんばー?」


「これもどこかの国の言葉なんだけど、"琥珀"って意味なんだ。君の髪と同じ色をした宝石なんだそうだよ」


 妖狐は自分の髪を指先で摘み上げてじっと見つめた。


「『アンバー』……それがわしの名前……」


「気に入らなかったなら他の名前を考えるけど──」


「そんなわけがなかろう! 主と同じ、宝石を意味する名前なんじゃろう? お揃いじゃ、大満足じゃ!!」


「そ、そうかい? そんなに喜んでもらえるとは思ってなかったよ……」


「というか、なんで主はいつもそんなに自信なさげなんじゃ」


「あはは……」


 ジェードは飛び跳ね小躍りする妖狐の姿に困惑しながら頭を掻いた。

 そんなジェードの戸惑いなどつゆ知らず、妖狐は終始口元が緩みっぱなしだった。


 ずっと憧れてきた人間からもらった名前。

 それも自分のことを特別な存在として接してくれる相手からもらった名前。


 妖狐の胸の中には、森で暮らしていたときには一度も感じたことのない満ち足りた感情が溢れていた。


「それじゃあ、そろそろ本当に帰るよ」


「うむ、ならわしも森に帰るとするかの」


 そう言うと妖狐は着ていた古着を突然脱ぎ捨て始めた。


「わわっ!? ちょっと、なんで脱ぐのさ!?」


「ん? 森の仲間は人間の匂いがすると嫌がるのでな。水浴びをしてから帰らねばならぬ」


 ジェードが最初に彼女を追って森にやってきたときに水浴びをしていたのは、仲間のもとへと帰る準備だったのだ。

 とはいえ突然目の前の少女が衣服を脱ぎ捨てるというのはジェードにとってはとんでもなく大事件である。


「ふふっ、昨日も思ったが主はもしや女子(おなご)の裸は苦手か?」


「当たり前だ! 得意なもんか!」


「人間はよくわからぬのう。こんな布を被って身体を隠すとは」


 川で水浴びを始めた妖狐に背を向けたまま返事をするジェードの顔はまたも真っ赤に染まっていた。


 森に住む妖狐は普段は狐の姿をしているため服を着ているはずはなく、それゆえ裸体を晒すことに羞恥心もないようだった。


 というかむしろ、見せつけられる僕のほうが恥ずかしい……


「……ねえ、また会いにきてくれるかい?」


 顔を赤らめて背を向けたままジェードが問うた。


「また会いに行ってもよいのか?」


「もちろんだよ。あの街でいつでも待ってる」


「うむ、わかった。しかし、さよならくらいはこっちを向いて言ってはくれぬか?」


「なかなか苦しい注文だね!?」


 恐る恐るジェードが振り向くが、目線だけは妖狐に向けられない。

 そんな初々しい反応に妖狐はくすくすと笑いながら背を向けた。


「ではわしは()く。次に会えるときを楽しみにしておるぞ」


「……うん」


 妖狐は先ほど脱ぎ捨てた服を咥えて両手をつき、対岸の森へと走り去った。


「……また──」


 ジェードがぽつりと呟いた。

 その小さな声を噛みしめたあと、彼は大きく息を吸い込み、見えなくなった少女に力いっぱい声を張り上げた。


「"またね"、アンバー!!」


 木々の隙間を縫うように走る少女の耳に、その声は確かに届いた。


 もう一度会うことを彼が望んでくれている気がして、"またね"という言葉がとても嬉しい。

 たった今もらった名前を大きな声で呼んでもらえてなお嬉しい。


 森で生きていては感じることのできない感情。

 これが人間の華やかさというものだろうか。


 こんな感情をもっと知りたい。人間らしさというものにもっと触れてみたい。


 これから彼と一緒に、彼の隣で。



 *****



 これは、とある時代のとある街で始まった、一人の青年と一匹の少女の──翡翠と琥珀の尊く美しい出会いの物語。

 お付き合いいただきありがとうございました!


 今回は短編という形ですが、そのうち連載に切り替えて続きを書くかもしれません。

 そのくらい自分で気に入っているお話です笑


 書きたいなと思っているお話が他にもいくつかあるので、また短編として試しに上げてみようかとも思います。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 一つひとつの描写が丁寧で、それでいて単調でない。美しいです! それでいて、読み手の想像をバックアップしてくれているので、深まるというか、……例えば、獣道に入っていくジェード。もしかしたら…
[一言] 始まり方がファンタジーといった感じでいいですねえ 流行りで書いてるのではなく、本当にそういった作品が好きそうだなあと感じるような始まりでした^^
2017/01/10 00:56 退会済み
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