ブラッキーと雪
ブラッキーは雑種の雌犬だ。
この家の長男坊が小学三年生の時に拾われて、以来ここの犬になった。
ブラッキーは『真っ黒だからブラッキー』と、拾ってきた張本人である長男坊の思いつきで雌犬にしては少々無骨な名になった。
『お前は女の子なのにね』と長男坊の姉が気の毒そうによく云ったものだが、ブラッキーは犬なのでそんな事に別に頓着はしない。
ブラッキーは不細工だ。ぶすかわいいと称される犬のような、ある種の愛嬌や可愛らしさをまるで持ち合わせておらず、小さい子供にはまんべんなく泣かれてしまう凄みさえある。それをまた『お前は(以下略)』と気の毒がられたりもするが、やっぱりブラッキーには関係のない事である。
ブラッキーは『マテ』も『オスワリ』も、ごはんをくれるお母さんの命令しか聞かない。
命の恩人かもしれない長男坊は、ブラッキーからしてみれば弟分である。長男坊=弟分は機微を読むと云う事を知らないため、しつこく構っては都度ブラッキーに吠えられている。生意気な弟分を躾けるのは自分の役目だとブラッキーはそう自負している。
ブラッキーは外で飼われている。
鎖で繋がれているので自由に動き回れはしない。下が土であれば掘り返して虫を捕まえる楽しみもあっただろうが、残念ながらレンガで舗装されている。たまに顔馴染みのどこかの家猫が目の前を通るが、年老いたその猫もブラッキーも、じゃれあったり甘噛みしたりと云う季節はとうに過ぎたので、気配を感じれば互いに目線を交わし合うのが挨拶のようなものだ。
ブラッキーはこの家の自家用車が出入りする時の匂いが大嫌いだ。
車が出ていくとお母さんがいなくなるから嫌いだ。
車が入って来るとお母さんが帰って来るから嬉しいけれど、それでも車から出る匂いは嫌いだ。
車に乗るのも大嫌いだ。乗せられると必ず吐いてしまうし、乗せられて行く先は針を刺される嫌なところだから、吐いた上に嫌な思いをするだけで、ブラッキーには何の得もない。
それは人間の云うところの『予防接種』で、ブラッキーが病気に罹らないようにちゃんと面倒を見てもらっている証拠なのだけれど、やっぱり犬のブラッキーにはそんな事は関係ない。
ブラッキーは毎日、ごはんの事を考えて、ごはんを食べ終わってもまだごはんの事ばかり考えている。たまに、弟分が気をきかせて甘いパンをくれる(たくさんあげるとお母さんに怒られるので、ほんのぽっちり)。弟のくせに気の利く奴だとブラッキーは褒めてやりたい気持ちになる。全部食べたいところを我慢し少し取っておいて、弟分にくれてやろうと思うのだけど、前足で差し出しても『何だよ、せっかくやったのに残したのかコイツ』と、ブラッキーの心遣いなどまるで通じてはいない。
そんな訳で、いつも弟分にもらうパンは少しだけ残されて、そして食べられないくらい固くなって、いつの間にか捨てられている。
ブラッキーは朝が好きだ。嬉しい事が二つもあるから。
一つは、お父さんとお散歩に行く事だ。
眠りについていた家の中から、だんだんに人が動き出す音が聞こえると、ブラッキーはそれだけでもう焦るような気持ちが抑えられない。
はやく。
はやくいこうよ、おさんぽいこうよ。
そう誘うと、散々焦らしてから出てきたお父さんは困った顔で笑って、「ブラッキー、静かにね」とたしなめるが、そんなのは人間の都合だからブラッキーにはやっぱり関係がない。
におい。
自分の匂い、誰かのおしっこの匂い、草の匂い、地面の匂い。
ブラッキーはくんくんとにおいを嗅ぎながらパトロールする。途中、たくさんの犬に会う。ピレネー犬、秋田犬、雑種、ボーダーコリー。
ブラッキーは自分も犬のくせに小型犬が苦手だ。こちらが戦いを挑んでいないのに、ものすごく吠えてくるからだ。
べつに、あんたなんかどうでもいいんだけどあいさつくらいしてあげる! おはよう!
この日、最初に声を掛けてきたよその犬はショコラと云う名前のかわいいトイプードルだ。犬は目が悪いので、ショコラのかわいさをどこまでブラッキーが認識しているか、逆にショコラがブラッキーの不細工さをどこまで認識しているか測りかねるが、双方にとってそれは別にどうでもいい事だ。
ショコラの挑発的な吠えに、ブラッキーが応じた事はない。にもかかわらず、会えば必ず角を曲がり姿が見えなくなるまでショコラはずっと吠えてきた。この日もそうだ。
ようやく途切れたと思ったら、今度は他の犬に向かってか、再び聞こえる攻撃的な吠え声。元気だなあ、とブラッキーはただただ感心する。
家に帰ると、朝のお楽しみのふたつめの時間だ。
皆、家を出てくると外にいるブラッキーを一撫でしてからそれぞれ出かける。
一番最初は、お父さん。「行って来るよ」と優しい声。そして、頭から背中をわしゃーっと撫でて、歩いていく。
二番目は、お姉さん。「ブラッキーおはよ。行って来るね」と、頭のてっぺんをわしゃわしゃっと小さく撫でてから、原付バイクに乗っていく。
最後は、長男坊。「吠えんなよバカ犬」と云いながら、誰よりも長く、たくさんわっしゃわっしゃと豪快に撫でまくってから、自転車に乗っていく。
お母さんはだいたい家にいる。でもたまに、頭とお腹とゆっくり撫でた後、車に乗って行ってしまう。
皆は早く帰って来る時もあるし、そうじゃない時もある。
一人になると、若くないブラッキーは大抵寝ている。たまに、セールスの人や宅配便の人がやって来ると吠える事もあるけれど、大抵は見知った匂いの人間だ。犬が好きな人なら、撫でてくれたりもする。
一度撫でてくれた人の匂いをブラッキーは忘れずに、また撫でに来ないかとずっと待っている。また来る事もあるし、二度とやって来ない人もいる。
ブラッキーは春が好きだ。夏は嫌いだ。秋は普通だ。冬は嫌いだけど好きだ。夏にはあんなに照りつける日差しがまったくなくなって、毛布を敷いてもらった上に寝転がっていても、冬の間ずっと日陰になるレンガの上は寒い。
でも。
――あれが、きた。
ブラッキーは空に向かって吠える。長く一声。
それを聞きつけて、お母さんがからりと硝子戸をあけて、「ああ、ブラッキーは賢いわねえ」と笑って、ガラス戸をまたからりと閉めた。そして。
「おいで」とレンガの上に敷いてあった毛布を運ぶお母さんが、鎖を外してブラッキーを連れて行く先。
こんな天気の日、ブラッキーは玄関の中に入る事が出来る。
空から降ってくる白い何かはとても奇麗で見ていて飽きないけれど、いつもは入れてもらえない家の中に入れることが、ブラッキーは嬉しくてたまらない。
皆が帰って来る。この日のはじめは弟分の長男坊。
「お、ブラッキー今日は中かよ。お前みたいにデカイのが玄関にいると蹴りそうで怖いんだよなー」なんて云いながら、決してそんな風にしたためしはない。
次に帰ってきたのはお父さん。
「やあ、外にいないからこっちだと思ったよ」と、わしゃーっと一撫で。
「積もる前に散歩に行こう」と云われて、それだけでもうブラッキーは狭い玄関の中でぐるぐる回ってしまう。
白い何かがちらちらと降る中を、お父さんと二人してお散歩する。こんなに寒いからか、すれ違う犬は少ない。いつもより早めに散歩を切り上げられて家に戻ると、ちょうど帰ってきたお姉さんが玄関で雪を払っていた。
「ただいま、ブラッキー。今日は寒いからこっちでよかったね」と、お洒落なお洋服に毛が着くのも厭わずにブラッキーをそっと撫でるが、ブラッキーは犬なのでそんな事に別に頓着はしない。
雪が解けると、ブラッキーと毛布は再び外の住人になる。はじめのうちは家の中もいいなと思ったけれど、やはり寒くても外の方がブラッキーには面白い。
お散歩をする。ご飯を食べる。たくさんお昼寝をする。
そうして、随分長く過ごしてきた。
ブラッキーは、この家族が大好きだ。お散歩よりも。ご飯よりも。
若くないブラッキーにはだいぶ白い毛が増えてきている。それを見た弟分は「ブラッキーって云うよりだいぶグレーだよなお前」とバカにしてから、しみじみと「長生きしてホワイティになれよ」と云って、いつまでもわっしゃわっしゃ体を撫でる。
それには『出来るだけ長く自分たちの傍で元気に生きていてほしい』という願いが込められているのだけれど、犬であるブラッキーにはやっぱり関係のない事なのである。




