白蛇様の使用人・小噺
『我はそなたを歓迎するぞ。異界からの客人よ』
茜色の空が濃紺色に変わっていく。空の色を押し出す勢いに合わせるように、参道に灯り始めた提灯の明かり。祭囃子の音が聞こえる。
甲高い笛に、低く響く太鼓の音。時折どっと湧く歓声は、祭囃子に合わせて踊る人達に向けられているものだろう。
参道の両脇に並ぶ屋台。人込みの中を飛び交う、言葉としては聞くことの出来ない会話。自分の脇を過ぎて行く何種類もの色。
「どこもかしこも人だらけだ……」
「そなたが祭りに行きたいと言ったからではないか。やれ、高城神社の夏越の祓いに人が来ぬほうがおかしい」
「いや、確かにね、予想はしてたんだ。向こうの世界でも高城神社の夏越の祓いはすごかったから」
人込みにげんなりとする香澄の首筋に、するりと白汐霊の身体が触れる。白蛇の姿をとった、彼の身体は冷たくて気持ちいい。
さすが爬虫類である。いや、一応化生のモノだからだろうか。管狐は冬はもふもふが気持ちよかったが。
「あれ? ワランはどこ行った?」
キョロキョロと自分の周りを見て、一緒に来ていたあの身長三十センチほどの自立歩行する藁人形がいないことに気が付く。奇怪というよりも、自我を持った姿に愛らしさが存在するが、やはり見た目はただの藁人形だ。
神社の宮司たちに発見されて、お焚き上げされなければいいが……。
「あやつはワランではなくアランであろうに。そなたは珍妙なあだなをつけおる。あやつが泣いておったぞ」
「泣いたらふやけたりしないのかしら?」
主に顔の辺りの藁が。
ペシリと尻尾で頭を叩かれた。
「いつまでも立ち止まっておるな。通行の邪魔ぞ。アランが滅却される前に回収せんと」
「はーい」
見た目は藁人形であるが、彼は立派な人間だ。生物的にも、社会的地位としても。
峰熊市の月河地区退魔部隊に在籍している彼は、いろいろな諸事情の末に藁人形にその魂が入っている。現在は藁に癒着してしまった魂を剥がすために、香澄たちのところにいるのだ。
「おや、白汐霊様。今宵はいい天気ですな」
「小鬼らか。息災であったか?」
人込みの中、その足元を縫うようにひょこひょこと歩いていた小さな鬼たちの一匹が、香澄とその肩の白蛇に気が付いた。
香澄の足元にたまる小鬼たちに、白汐霊が肩から乗り出すように身体を伸ばした。チロチロと舌を出して、目を細める。
はたから見たら、獲物を狙う捕食者にしか見えない。
「へい。今宵は夏越の祓いなんで、茅の輪っかをくぐりにきやした」
……鬼が茅の輪をくぐって大丈夫なのか、激しく問いたい。
よくあるしばらく振りのご近所さんにご挨拶、のような光景を眺めながら、香澄はそんなことを思った。
香澄の肩に乗っている白蛇こと白汐霊は、今香澄が住んでいる、近所では有名すぎる幽霊屋敷の主だ。実際この周辺では顔の広い妖だ。
異界に来た早々行き場のない香澄に声をかけ、居場所を与えた存在でもある。香澄が来てからは菓子にこだわるようになったが。
「ではあっしらはそろそろ。お二人の邪魔になっちまうんで。失礼しやしたー」
「は!? ちょっと何かその言い方変だよ! ねえ! 小鬼さん!」
「はて、何がおかしいと?」
「いや、その、えーと……」
白汐霊はチロチロと舌を出しながら、そろりと視線を逸らす香澄の前にその首を持っていく。
「そなたの邪魔は我の邪魔であろう? それともそなたの邪魔は違う意味の邪魔なのか?」
涼しげな水色の瞳が、どことなく笑っているように見えた。
「白蛇様、人間で遊ばないでください。私はあなた様のおもちゃではありません」
「いかにも。そなたは我の使用人ぞ」
元の世界と同じはしゃぐ人の集まり。その人たちの足元を歩く付喪神たちが、この世界が違う世界なのだと香澄に突きつける。香澄の眉間に自然と皺が寄る。
手足の生えたお椀のような姿の付喪神が、足をもつれさせながらも香澄の脇を器用にすり抜けていった。
「ところで、白蛇様って神社に入って大丈夫なんですか?」
「気にすることはない、我は鳥居をくぐれるぞ」
白汐霊は至って涼しい顔だ。
神社の鳥居の向こう側は神域だ。穢れへと堕ちたもの、人や物に害を与える存在は立ち入ることは許されない。
格の低い妖もそうだ。だが本殿に近い場所、一の鳥居の向こう側に入れないだけで、三の鳥居から先、参道には入れたりする。
「さて、我は久しぶりに旧友に会いに行くとするか」
するすると香澄の肩から降りながら、白汐霊はそんなことを言う。
「旧友?」
「さよう。そなたも我が一緒におると無用な小物に絡まれ、祭りどころではなかろうて。何、我を気にすることなく祭りを楽しめ」
心なしか弾んだような声音で言いながら、白汐霊は地面を滑るように進んでいく。途中、白汐霊の姿に気が付いた宮司が、慌てて頭を下げる光景がなんだかシュールだ。
……というか、白汐霊が向かった先が明らかに本殿な気がするのだが。あれか、旧友とは神社の神様か?
そんなことを思いながら、賽銭箱の前に立つ。この世界でも通用するか分からないが、五円玉を投入してお参りをする。手をあわせてから、香澄はふと思う。
お願い事は、特にはないのだ。願ったところで叶わないと判っているから。
白汐霊は言った。異界からの客人が、元の世界に戻ったことはないと。
長く生きている白汐霊でさえ、めったに遭遇することのない異界からの客人。その客人が帰ったことを耳にしたことがない、とはっきり言った。
結局自分は、未だ元の世界を見てしまう。先に進もうと思っても、どうしてもかつての世界が恋しい。
今もそうだ。隣に立つ幼い兄妹たちの姿に、昔の自分を重ねている。てっきりしまえたものだとばかり思っていたのに……。
未練がましく、まだ持っていたその感情。
そう、あの瞬間に全て失ったんだ。二度と手にすることの出来ないものになった。
だったら何故、自分はまだ思い出してしまうのだろうか?
今更思い起こしたところで、会いに行くことなど出来ない。足掻いたところで戻れないのだから、一体何の意味がある。
「お父さん、お母さん、兄さん。私は元気にやってるよ」
元の世界に戻れないなら、せめて、この言葉を伝えてほしい。私がこの世界で無事に過ごしていることを。
叶うかどうか判らない願い事に、皮肉めいた笑みが浮かぶ。軽く頭を降って、参拝殿の前からどく。
すぐ脇にしめ縄で囲われた箱のそばに、人の形に似た紙人形があるのに気がついて思わず笑ってしまった。
なんだって、こんなところまで元の世界と同じなんだろう。せっかくなので自分の名前を書いて箱の中に入れる。
箱の近くにいた宮司に、使い魔の藁人形が行方不明になっていることを話しておく。アランとしては使い魔扱いは不服だろうが、話を説明するとアランに不名誉な事実が表沙汰になる可能性もあるのだから、諦めてもらう。
これでお焚き上げされるという事態は避けられるはずだ。
一の鳥居をくぐり抜けた先のベンチに気がついて、香澄の表情が曇る。美咲に初めて会ったのは、このベンチだった。
彼女は純粋に、家族の行く末を案じていただけなのに。
その結末は、なんて残酷なんだろう。そう思うとため息がでる。
参道の屋台を眺めながら、何の気なしに歩いていく。キャラクターの袋に入れられた綿飴に、真っ赤なリンゴ飴。たこ焼きに射的の屋台を通り過ぎる。
金魚すくいとかかれた屋台を越えたところで、飾り飴の文字が見えた。手早く形を整えていく屋台のおじさんの手前には、何種類もの生き物の形の飴が並ぶ。
なかなかのお値段である。技術料とはかくも高いものだ。うう、あの尾ひれが綺麗な赤い金魚の飴に惹かれる。が、きっとお祭り効果なんだ。家に帰ったら、あれって思うよ。実は意外と普通じゃん、とか思っちゃうよ絶対。
異世界でのお財布事情はあまりよろしくない。一応、最近はなんとか稼げるようにはなったが、それでも元の世界に比べたらまだまだだ。
白汐霊がお小遣いを渡してはくるが、いい年の大人だ。なるべく自分でなんとかしたいのが本音だ。
よってお祭りでのお財布の紐はきっちり……涙をのんで縛ります。ぐすん。
賑やかで華やかな祭り。参道を歩く人の姿には、家族や友人、恋人たちの姿が見える。その中に、さも当たり前のように異形の者が混じっている。
――やはりここは違う。
一の鳥居に戻ってあのベンチに腰を落とし、香澄はぼんやりとその景色を眺める。
「ややっ。白汐霊様の使いの方じゃあございませんか。どうなさったんで? 随分とお暇そうに見えやすよ」
いつの間にか目の前に、土気色の肌をした子供がいた。甚平を着た姿、下腹の膨れた子供。どうやら子供の妖らしい。
「白汐霊様を待っているのよ」
「そうだったんですかい? でしたらあっしと一緒に祭りを回りやせんか? ずっと待っているのも退屈じゃぁありやせん?」
随分な江戸っ子口調の妖だなぁと感心していれば、妖は香澄の手を掴むと引っ張りだした。
よっぽど香澄が退屈そうに見えたのか、それとも妖が祭りを楽しみたかったのか。
もしくは――
「ささ、白汐霊様の使いの方ならさぞ美味かろうて。みんなと食べねばもったいない。ささ、使いの方、あっしと一緒に祭りに行きやしょう。そうそう、みんなと美味しく肉を喰ろうてやりますから」
やっぱり! 一の鳥居の近くなら大丈夫だろうと思っていたが、近づく妖は少なくないらしい。
内心で舌打ちをして、香澄は白汐霊に教えられた祓いの呪文を唱え腕を動かし――
「やれ、我の使用人に何用ぞ?」
「は、白汐霊様……」
背後から聞こえてきた声に、香澄はその手を止めた。
土気色の肌をさらに青くさせた子供の妖が、ガタガタと震えだす。その様子に、いったい白汐霊はどんな恐ろしい妖なのかと香澄は首を捻りたくなる。
少なくとも、香澄の前ではパンケーキをこよなく愛すただの白蛇にしか見えない。恐怖を感じるような対象でないのは確かだ。
「もう一度、問う。我の使用人に何用ぞ?」
「ひっ!」
「童。我の使用人に何をしようとした?」
「ひぎゃっ!」
パッと香澄の手を離し、目の前の子供の妖は姿を消した。痺れる右腕を擦りながら、後ろを振り向けば、
「白蛇様?」
長身の男が一人、立っていた。色白の肌に、サラサラと風に揺れる真っ白な髪は、一箇所だけ飾り紐で纏められていた。すっとした鼻筋に、切れ長な目は涼しげな水色だった。
あの、館の火事のときに見た姿。
「いかにも」
「化けましたね」
鷹揚と頷く白汐霊は、青い帯の白い着流し姿だ。緩く広げられた襟から見える首筋が、いっそ艶めかしい。
「そなたは言うことがそれか? 助けてやったというのにこの使用人は……」
「ああ、すみません。化けた姿に驚いてしまって。白蛇様、助けてくださりありがとうございます」
「うむ」
そう言いながら白汐霊が手の中に何かを出した。手品のように現れたそれは、八重に尾ひれを開かせた赤い金魚の飾り飴。
さっき屋台を見ていたときに、香澄が気になっていた飴細工だ。
「ああー! それ!」
「これがどうした?」
「それ、それ、どうしたんですか?」
「どう、とは。これは我が買ったものぞ」
「買ったって……」
購買意欲とは実に不思議なもので、人が持っていると欲しくなるものだ。目の前で少し前まで蛇だった人物が持っていると、急に買いたくなってくる。
「ぐぁ。買いたくなってきた……」
「そなた、これを食べたいのか?」
「いや、そんな食べたいとか、そんなこと……」
ほれほれと、嫌がらせの如く香澄の目の前で飴を振り始めるのだから性格が悪い。あんた年食った妖でしょうが! 大人気ない事しないの!
「……やっぱり、買ってきます」
「買いに行かずとも、これを食べればよい」
「だってそれ、白蛇様の飴じゃないですか」
恨みがましく香澄が白汐霊を見れば、もう片方の空いた手に黒い飾り飴が現れた。
「我はこちらの黒い出目金がよい」
「出目金なんてあるのかよ」
「細工師の腕はよいぞ」
ぽいっと赤い金魚の飴を香澄に向かって放り投げると、白汐霊は黒い出目金の飴を舐め始めた。
美形がすることは何をしても様になるのだな……このう。ただ中身を考えると、出目金を食べる蛇だ。一気に補食シーンに様変わりした。
……うん。考えるのはやめよう。せっかくの飴が美味しくなくなる。香澄は大人しく飴を舐め始める。
「のう」
「何ですか?」
色の落ち始めた飴を見ていた白汐霊が、瞳だけを香澄に向けた。
「我は香澄を歓迎するぞ」
いつもの「そなた」や「使用人」じゃない、「異界からの客人」でもない。
香澄と名前で呼ばれたのが嬉しくて、
「……白蛇様。ありがとう」
香澄は自然と笑みを浮かべた。
参拝客から歩く藁人形が社務所に届けられたと放送が入ったのは、その直後のことだった。
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