09 紅之蘭 著 櫛 『ハンニバル戦争』
ハンニバルは出陣の前夜に妻・イミリケを抱いた。欲情にかられたというよりは、後継ぎをもうけるために、義務的に抱いたのだ。どちらかというと男色を好んでいた彼だが、妙なもので、それまで、意識していなかった異性というものが愛おしく感じられてきた。
明け方、若い新カルタゴ総督が寝台から立ち上がると、妻が化粧台にあげていた櫛を彼に渡した。象牙製で宝石が埋め込まれているものだ。
「せん別か、ありがたく戴いておこう」
若い将軍は、黒髪の新妻を抱き寄せ、最後の口づけを交わした。はじめは夫を恐怖した彼女も、寝台をともにし、優しい言葉をかけられて、少し心を開いたようだ。だが、そうなった途端、もう遠征だ。
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カルタゴ軍を構成しているのは傭兵である。将校をなすカルタゴ人に加えて、主力をなすスペインの諸部族、アフリカ北岸の騎馬民族・ヌミディア人、ギリシャ人なんかがいた。 戦象はアフリカ象だというのが支配的だ。よくわれわれがイメージするステップ地帯に棲む大型で体高三・三メートル強もあるそれは気性が荒く人に飼われるのを嫌うので、これではなく、森林に棲む体高二・四メートルの小型アフリカゾウ象だというのだ。……しかし、こっちも、家畜化されているなんて話はきいたことがない。
では、その戦象はどこ産のものか。
アレクサンドロス帝国が解体するとき、将軍の一人がインドを支配していた王朝と取引して、インダス川一帯の土地を手離す代わりに、大量の戦象を引き渡されている。帝国解体後、アレクサンドロス諸国を通過して、カルタゴ本国、そしてスペイン・新カルタゴに渡ってきたという説もあり、こっちのほうが乗用には適しており、体高三メートルと大きく、籠を背中に乗せて多数の戦士を乗せることができ、話として面白い。もちろん、この物語で採用するところだ。
現代的な感覚でいえば、騎兵が軽戦車なら、戦象は重戦車に相当する。
ヌミディア騎兵隊は地中海沿岸で最強と呼ばれ、それに戦象隊は、宿敵ローマ共和国がまだ知らない未知の兵科だった。
――戸口にハンニバルが立っている。
悪童を叱るときにローマの母親たちはそういったそうだ。……日本の東北地方でも、最近まで、「泣くとモンゴルがくる」といってたしなめていたことに似ている。
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紀元前二一八年五月にハンニバルは長征した。
後方に備えるために配下の将軍たちに兵を裂いたためカルタゴの遠征軍は、ピレネー越えの段階で、歩兵五万、騎兵九千。戦象の記録はないが五十というところか。
八月、軍勢はスペインからフランスに侵入した。
現代でこそ、半砂漠や田園地帯になっている両国の土地も当時は湿潤な森であった。フランスの土地には、ケルト系ガリア諸部族が割拠していて、ローマにも、ましてやカルタゴにもつかず、大軍の行く手を注視していたのである。
師でもあるギリシャ人の副官シレヌスが、戦象にまたがった若い将軍をみやっていった。
「閣下、ローヌ川です」
現在のフランス・アヴィニヨン付近だった。
対岸にガリア人の砦がみえる。川幅・数百メートルあり、軍団が渡河するには船がない。急いで筏をつくっている最中だ。
戦象の籠上にいた若い将軍の前には、現地で雇ったガイドを連れた将校たちがはべっていた。
「道を塞ぐ諸部族との無駄な戦は避けねばならぬ。金は惜しみなくつかえ。」
スペイン産の銀を詰めた革袋が使者に渡された。
将校の一人がいった。
「もし、ガリア人たちがいうことをきかない場合は?」
「きくまでもなかろう。叩き潰す」
対岸にはガリア人たちが集結していた。こちらにみえるように、薪が積まれ、火がくべられた。先ほど筏で渡った使者は、生きながらにして焼き殺されたのだ。戦象上でそれをみたハンニバルは、麾下の将校たちが拳を握って怒りをあらわにしているときも静かにしていた。
後方の森では、大木がつぎつぎと切り倒され、筏が組まれていた。
若い将軍が、ギリシャ人副官にきいた。
「師よ、明日の朝、別働隊を渡河させ、敵の背後を衝かせようと思う」
「ならばハンノと麾下の部隊が適任でしょう」
前に進み出てきた将校は、みるからに筋肉が隆々とした猛者だった。
ハンニバルは策を授けた。
ハンノ麾下の隊伍はスペイン諸部族傭兵から成っていた。
騎兵の索敵で、ローヌ川西岸の本営から、三十五キロ上流に中洲があることを確認にしている。その案内によって数千の槍歩兵が中洲を介して東岸に上陸。翌朝、ハンノの手勢は、対岸沿いに下流である南に戻ってきて、狼煙をあげた。
――いまだ!
ハンニバルは、筏に乗せられるだけの主力歩兵部隊を乗せ、対岸に一気に漕がせた。
砦に集結した敵兵が、矢を放ってくる。
筏上の重装歩兵たちが、盾で防御陣を組む。
兵士正面への備えは万全だが、側面を衝かれると案外に脆い。目の届かぬ後方を衝かれるともはや隊伍はパニックに陥ってしまう。……別働隊・ハンノ隊は、ガリア諸族連合軍が籠る砦の後方から奇襲をかけた。混乱したところを、正面の主力が一気に渡河上陸して、攻めたてた。たまらず、敵は一日にして壊滅してしまったのだった。
渡河作戦の成功を知った若い新カルタゴ総督は、ヌミディア騎兵や戦象たちを筏に乗せ、素早く渡河させた。
そのとき――
ギリシャ人副官と自分が筏に乗ろうとしたときのことだ、川の水面から、ガリア人の小部隊が立ち上がり、ハンニバルを狙って一斉に矢を放ってきた。戦象上の籠を囲う盾に大半が刺さったのだが、何本かが、乗り越えてきた。
「閣下!」
副官シレヌスが叫んだ。
矢が刺さったのは、ペンダントにして懐中にしまっていた新妻がくれた櫛だった。
将軍の無事を知り、巻き返しにでたカルタゴ兵たちは、襲ってきた連中の大半を討ち取り、一部は生け捕りにした。
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ハンニバルの大軍がローヌ川の渡河に成功すると、敵対していた諸部族は、手のひらを返すように降伏してきた。すると、
馬上の師・シレヌスを横にした戦象上の若き将軍がいった。
「師よ、アルプス山脈までの道は開かれた。少し軍容を軽くしたい」
「兵士の一部を本国に返すのですな。ガリア人たちは渡河したわれらが兵の数の多さをみて畏怖し、軍門に下った。峻厳だといわれるアルプスを越えるには精鋭を選ぶべきでしょう」
こうして、カルタゴの遠征軍は、兵員を歩兵三万八千、騎兵八千、戦象三十七に絞り込まれ、余分は本国に帰還させられた。若い総督が連れてきたギリシャ人美青年たちもついでに返してやった。
ハンニバルは、また、アルプスへの道を索敵するため、ヌミディア騎兵五百を北に送り込んだ。このとき、最初にローマが放った偵察用の騎兵三百と遭遇し、小競り合いがなされることになる。
ローマ騎兵はほぼ壊滅したのだが、ヌミディア騎兵も二百を失った。
このとき、偵察を行わせた指揮官というのが、ブブリウス・コルネリアス・スキピオ……俗にいう父スキピオ。物語ではコルネリウスと呼ぶことにする。逃げ帰った騎兵隊のなかにいたのが、その息子でハンニバルの宿命のライバルになる若き日の大スキピオだ。
つづく
【登場人物】
《カルタゴ》
ハンニバル……カルタゴの名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
大スキピオ……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。ローマの名将。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。
第9冊49集はこれにて完結。では8月25日あたりでまたお会いしましょう。皆様のご高覧に感謝いたします。(管理人・奄美)