05 奄美剣星 著 蛍 『教育実習生』
夏休みの少し前。
教育実習生として、東百合が丘中学校にゆくことになった。多摩丘陵の高台にあるありふれた公立中学校。そこが受け入れたのは、大学三年生・田村恋太郎のほかに、女子学生一人、男子学生が一人の三人だった。
校長室には、手前がソファ、奥にデスクが置いてある。扉側に三人の実習生が立つと、校長が、にこにこして、
「君たちが実習生か」
といって出迎えた。
「はい、これから二週間よろしくご指導ください」
実習生たちは深々と一斉にお辞儀した。
校舎は三階建てだ。
各学年は三クラスで、三十人くらいいる。
社会科を担当することになった恋太郎は、教室に入るなり、女子生徒から、
「可愛い!」
といわれ、不覚にも顔を赤らめてしまった。
からかわれているのである。
恋太郎は、同じ年頃の女性にはモテなかった。しかしなぜだか、間隔の離れた年上女性と年下女性には人気があるのが不思議なところだ。
三年生の教室をまわったときだ。教室の真ん中あたりに、とても綺麗な少女がいる。
担任がくれた名簿と照らし合わせると、葵ホタルという名前だった。
細身で色白で肩のところで髪をそろえている。眼鏡をつけていて、恋太郎の授業をとても熱心にきいてくれていた。
恋太郎は戦っていた。
幽体離脱にも似た感覚で、天井から、チョークで板書しているスーツ姿の自分がみえる。魂魄が身体から抜けかけているのだ。
*
暗闇のなかを蛍の群れが舞っている。
帰り道の下り坂を小田急線の駅にゆく途中、後ろから声がした。
「田村センセイ……」
「ああ、君はホタルさんだね」
「あの、センセイ……」
少女が小走りしてきて横にきて、恋太郎を見上げた。
細面で大きな目をしている。
「僕は上り列車に乗るけど、ホタルさんはどっちにいくの?」
「上りです」
電車は満員で、少女は恋太郎に身体を押しつけてきた。
こんな場面を、オールド・ミス様にみつかったら、ただじゃすまない感じがした。
白地に、青のストライプが横に入った、小田急線の上りと下りの列車が交差して走り去った。
駅を降り、改札口を過ぎても、ホタルは着いてきた。
「奇遇だね。僕が住んでいる学生寮とおんなじ方向だ」
「ごめんなさい。実は私、反対方向の帰り道なんです」
「え?」
「あの、あの……」
立ち止まった少女はしばらくもじもじしてから、彼を見上げていた。
「好きですう」
二人して、ぽっ。
ホタルが、ぺこん、と一礼すると回れ右をして、もときた駅の改札口をくぐっていった。
*
――い、いかん、戻れ、戻れ、僕!
ブラックホールのような、妄想世界の入り口に、腰のあたりまで吸い込まれかけた流し髪の青年の魂魄の腕が、黒板前に立つ自らの頭髪をワシづかみして、どうにか身体に戻ってゆく。
ふう。
「一六〇〇年に起きた関ヶ原の合戦は、豊臣家対徳川家のイメージがありますが、この時点では、豊臣家の内部抗争でした。しかし、この戦いによって徳川家康の実権掌握は確定して主格逆転するきっかけとなりました。さて、織田信長の姪である三姉妹が、豊臣秀吉の養女となっていて、長女・淀君が秀吉の側室になり、三女・江姫が二代将軍となる徳川秀忠の夫人になります。秀吉と淀君の間にできた豊臣家二代目当主・秀頼と、江姫の娘・千姫は二人は結婚します。イトコの関係です。そして大坂の陣に際して、悲劇的な別れをすることになります。そして……」
恋太郎は、テストにはでないような話を、十分くらい延々と話した。
〈これって、僕がノートにまとめた内容じゃない〉
授業が終わると、女子生徒が押し掛けてきて、
「センセイ、恋人いる? どこに住んでるの? 遊びに行っていい?」
と、迫ってくる。
「まっ、また今度……」
廊下には、担任である黒縁眼鏡のオールド・ミスが、きっ、と睨んで立っていた。
畏縮して廊下にでてゆく。
「田村センセイ、あがっちゃったんですね。一瞬言葉がつまったから、どうなるかと思ったけど、ナイスなつなげ方でしたよ。歴史嫌いな女子生徒も、ああいうエピソードをいれてやると喜ぶわ。……そうそう、晩御飯おごらせてよ。ヒレカツの美味しい洋食屋さんがあるんだ」
老嬢センセイは、陽気に笑って、新米の背中をポンと叩いた。――やったね、恋太郎。おばちゃまとのデート決定だ!
恋太郎が振り返ると、見送るブレザー姿の女子生徒たちの喧噪のなかに、ホタルの姿もあった。
一瞬、二人の目線が重なった。
ぽっ。
――い、いかん、僕はいま実習生なんだ!
プルプル。
運命の出会いか。二週間の教育実習期間は瞬く間に過ぎた。
それからしばらく経って成長した美少女・ホタルと再会した。
……というような美味しいイベントは、生涯のなかで、ついになかったのである。
夏の夜に淡い光を放つ蛍。けれども一瞬のきらめきが恋太郎の脳裏に残った。
了