02 奄美剣星 著 珊瑚礁 『マラッカ要塞の大砲』
挿図/Ⓒ 奄美剣星 「マラッカ要塞の大砲」
初秋。
童貞を捧げたカノジョ・ウィンクさんにこっ酷くフラれた僕は、上海の空港からシンガポールゆきの飛行機に乗った。どういうわけだか、ファースト・キスを捧げた元カノさんに見送られて、南に飛んだわけだ。
改札を抜けるとき、笑顔で手を振る彼女。元カノさんは色白で細身。ショートカット。縦縞のシャツに黒いパンツを履いていた。ちょっとバービー人形に似てなくもない。
たぶん僕は元カノ・バービーさんに泣きっ面。そしてつぶやいたのさ。
「再会」と僕は、決め顔でそういった。
横のシートにいた白人紳士が怪訝な顔で僕をみた。
ビジネスマンにみられないように、足元のリュックから、ひょい、と顔をだした猫がしらけたようにつぶやく。
「泣き顔なんだろ。決め顔だって? 矛盾しておるぞな、もし?」
灰色の毛をした猫。極めて安直なネーミングだが僕はニャンコ先生と呼んでいる。
飛行機はシンガポール航空のもので、キラキラ光る短いチャイナドレスを着た添乗員女性たちが、救命具の装着方法を説明してくれる。その動きというのが、一糸乱れぬ舞のようで美しかった。
*
飛行機が降りたシンガポールでは、白亜でできた半魚体のライオンが水を噴いていた。メタルな摩天楼が並ぶ都会島だった。地下鉄やらバス、タクシーに乗ってゆくのだが、どこをどういっているのだが、よくわからない迷宮でもあった。
タクシーの運転手さんの紹介で、気さくな華僑の親爺さんがやっている安宿に泊まった。
中庭を囲んだ回廊式の木造二階建てで、夜になると薄着の綺麗なお姉さん三人が玄関先に立っている。……そのあたりは、言葉ができないふりをして、部屋に逃げ込む。
「善哉善哉……」リュックからするりと抜けだしたニャンコ先生が、大きく伸びをして、悟ったような顔でそういった。
ベッドで大の字なった僕の横に、ニャンコ先生がこれまた大の字になって寝た。
シンガポール観光を終えたら、上海の元カノ・バービーさんにプロポーズしてみようか。
ぷるぷる。
それはいけないこの傷心旅行をウィンクさんに捧げたい。そういう、うわっついた考えがある限り、旅を続けるのだ。
そう思い直した僕は、ふらふら迷い込んだアーケードの辻にあった。
「いらっしゃいませ。お茶でもいかが?」
花崗石のタイル、店の前にテーブルが置いてある。
マダムと若い店員さんがいて、座ると紅茶とビスケットをだしてくれた。
「学生さん? 旅行なの? どこへゆくの」
卒業旅行というところです。傷心旅行でもあります。ちょっとマラッカにでもいこうかなって……。と、僕は決め顔でそういった。
足元に置いたリュックから猫が顔をだす。
「だから、その、決め顔でそういったってのはなんなんだ」
いやあ、なんか、そのお、こないだ読んだラノベに書いてあったもので、伝染ったんですよ、ニャンコ先生。
マダムと若い店員さんが、リュックから顔をだした、喋る猫をみてから、互いの顔を見合わせた。日に焼けた二人はがっしりした肩をしている。サリーのような布をまとっていた。たぶん母娘だろう。
「ねえ君、いまの猫、なに?」
「猫、え? 気のせいです、気のせいです」
お茶を御馳走になったお礼に、僕は、絵葉書ワン・セットとスカーフを一枚買った。
店を出る際、マダムが教えてくれた。
「そうそう、マラッカにゆくんだってね。ここから三つ先にあるお店が旅行代理店さ」
旅行代理店のカウンターには、二十歳前後で色白で華奢な受付嬢が座っていた。はきはきした口調、スーツを着こなしている。ちょっと鼻声になっているのは風邪をひいているからだ。――熱帯だというのに。
「くしゅん。オフィスと外の寒暖差が激しいの。もう、まいっちんぐ。テヘ」(←意訳!)
先日フラれた姑娘・ウィンクさんにちょっと似ている。
駄目だ、恋をしてしまいそうだ。――と、僕は決め顔でそういった。
「だから、その趣味の悪いラノベの真似はやめろ。毎度フラれるのはそのウザさだ」
膝元のリュックから、また膝元に置いたリュックからニャンコ先生が顔をだした。カウンターの下なので、受付嬢からはみえない。
「ねえ、君、なんかいった?」
ぷるぷる。
何もいってません。
ぷるぷる。
受付嬢に、恋のスイッチが入る前に、僕は長距離バスに乗った。
*
シンガポール海峡に浮かぶ同名の島は都市国家でもある。浅瀬にかけられた国境の長い橋を渡りきったそこからは、マレー半島、マレーシアだ。青い空、紺碧の海。浅瀬が少し白くなっている。マラッカにゆくのに、昔だったら船で行ったのだろうけれど、現在はバスでいたほうが早いのだろう。
五十人くらいが乗れる深緑色に塗装したボンネットバスは満席。
僕と相席になったのは、十七歳だという若いお嫁さんで、髪の長い日に焼けたよく笑う女性だった。白い歯が目立つ。
「ねえ、お兄さん、旅館の予約とかしている?」
あ、まだしてなかった。
「なら紹介してやるわよ」
椰子やらバナナといった果樹園を貫く道路の途中には、女性の子宮を象ったような花で囲まれた土盛りがいくつもあった。若いお嫁さんにきくと、
「あれね、お墓よ」
と教えてくれた。
若いお嫁さんがハミングを混じえ歌った。
ヤシは栄える サンゴは生える
なのに人々だけは死んでゆく
(北杜夫 『どくとるマンボウ航海記』 )より
〈果樹園街道〉というのは、シンガポールからマラッカに至る田舎道に僕が勝手につけた名前なのだが、そこには日本でいうところの〈道の駅〉みたいな休憩施設があった。僕は若いお嫁さんに椰子の実ジュースをおごってあげた。
マッチョな小父さんが、
「新婚さんかい。いいねえ、若いって」
めんどくさいのでいちいち否定はしないことにした。それは若いお嫁さんも同じ。
丸いテーブルに僕らは座らされる。
マッチョ小父さんは手馴れた感じで鉈をつかい、椰子の頭を飛ばし、穴が開いたところにストローを突っ込むと、丸テーブルの上に、ポコンと二つ置いた。ハイビスカスはサービスだ。
夜。
バスはマラッカについた。
若いお嫁さんが知り合いの安宿に連れてってくれた。
チェックインの後、お嫁さんは僕を抱きしめると、頬っぺたにキスしてくれた。
「いろいろあったみたいだけど、ガンバね♡」
カブのバイクに乗った旦那さんが迎えにきて、お嫁さんは後ろのシートにまたがると、何度も振り返って、僕に手を振ってくれた。
背負ったリュックから、たぶん顔を出しているのだろう、ニャンコ先生がいった。
「おぬし、人妻に危なく惚れるところだったぞな、もし」
翌日、僕は東京でいうところの〈鳩バス〉のようなワゴン・ツアーに参加。街の散策を楽しんだ。かつてここには、王国があり、十六世紀あたりから、ポルトガル、オランダ、イギリスといった列強が押し寄せ、分捕りあいをしていた。石積みの廃墟は瓦礫の要塞跡。有名なマラッカ海峡だ。
シンガポール海峡からつながっている、マラッカ海峡というところは、マライ半島とスマトラ島との間に挟まれた細長い水路だ。全長八百キロ。珊瑚礁やら浅瀬がやたらにあって、水路の幅は極端に狭く、僅かに四百メートルしかない部分もある。
復元された青銅製キャノン砲の群れがエメラルドな海にむけられていた。
ズドン。
地道に生きねば……。
若いお嫁さんのショック療法で、ヘタレ・チャラ男を卒業した僕は、帰国後就職し、やがてふつうに結婚した。
*
休憩時間の高校・科学室だ。
顕微鏡、フラスコ、試験管、アルコールランプが、大テーブルに置かれている。
黒板前の教壇で、四人の生徒が妄想劇を演じていた。
吊目でエルフ系な顔立ちをした化学教師・麻胡先生。三つ編みに丸眼鏡をかけた学年トップのチエコを最前列に、二人を取り囲んで他の女子生徒たちが観劇していた。
ヘタレな〈僕〉役が田村恋太郎、リュックから顔を出すニャンコ先生が副委員長の西田加奈。
そして、元カノのバービーさん・土産物屋看板娘・旅行代理店受付嬢・若いお嫁さんの四役が川上愛矢、土産物屋のマダム・マッチョ小父さんが黒縁眼鏡の委員長である。
頬杖をついた麻胡先生と、眼鏡をずりあげたチエコの二人はコメンテーターだ。
エルフな化学教師が横にいる学年トップにいった。
「おお、今回は加奈ちゃん、準主役じゃない。凄い!」
「そうですよね、先生。努力っていつか報われますよね」
三つ編み・眼鏡のチェコは、ともかく友人をたてる賢い女子生徒であった。
片や。
劇団員の一人、ショートカットの副委員長が教室の隅で拳を震わせていた。
「ど、どこが準主役なの。この物語の実質的なヒロインは、若いお嫁さんよ。……つ、次こヒロインの座を、奪ってやる~っ!」(←副委員長・加奈の野望、学園版)
FIN
【キャスト】
♦僕……田村恋太郎
♦ニャンコ先生……ショートカットの副委員長・西田加奈
♦元カノのバービーさん・土産物屋看板娘・旅行代理店受付嬢・若いお嫁さん(四役)……川上愛矢
♦土産物屋のマダム・マッチョ小父さん(二役)……黒縁眼鏡の委員長
【コメンテーター】
♦塩野麻胡……シオサイ高校化学担当教諭
♦芳野彩……通称「チエコ」、シオサイ高校生徒・学年トップ




