08 紅之蘭 著 霜 『ハンニバル戦争・ティキヌス会戦』
【あらすじ】
紀元前三世紀半ば、第一次ポエニ戦争で共和制ローマに敗れたカルタゴは地中海の覇権を失った。スペインすなわちイベリア半島の植民地化政策により、潤沢な資金を得たカルタゴに、若き英雄ハンニバルが現れた。紀元前二一九年、第二次ポエニ戦争勃発が勃発。ハンニバルは、海路からではなく陸路を縦断、不可能と考えられていたアルプス山脈を乗り越えて、イタリア半島に雪崩れ込むという長征に成功する。
ローマ元老院の対カルタゴ戦争の初期戦略は、北アフリカにあるカルタゴ本国と、イベリア半島すなわちスペインにある新カルタゴの双方を同時攻略するところにあった。
五月に、イベリア方面攻略軍を指揮していた執政官コルネリアスは、ガリアすなわちフランスの南部にある同盟都市マルセイユに上陸した際、偶然に敵斥候部隊と遭遇し、ハンニバルの腹がアルプスを越えて、直接イタリア半島に雪崩れ込むということを知り、弟に軍団を預けて攻略戦を続行させつつ、自らは、近習のみを従えた数隻の軍船でローマに戻り、元老院が準備していた新設二個軍団を受け取って、首都防衛の任にあたることになった。
ティキヌス会戦
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紀元前二〇七年九月。
執政官コルネリアス麾下のローマ軍は、本国からの輜重に万難を排すため、街道を整備し橋をかけていた。建設する前にまず船で水深を量り、一抱え以上もある丸太の基礎杭を打ち込んで、その上に橋桁を組んでゆく。ローマ軍の強さは優秀な土木力に支えられているといっても過言ではない。
部材を作る鋸や槌打つ響きが絶えず活気がある中を、百騎ばかりの斥候騎兵隊が通りかかる。隊伍を指揮していた若き士官スキピオは、トレビア河に建設中の橋を視察していた。
「よおっ、スキピオ!」
若い士官は現場に溶け込むのが早い。
「酒樽とチーズを手配しておきました。皆さんでやってください」
おおっ。
材木を担いでいた兵士たちが気勢を上げた。
本国から、新たな輜重隊の馬車がきて橋のところで停まった。車の中に百人分の酒と食糧が準備されていることはいうまでもない
指揮していた百人隊長が、
「陽が沈むまで、もうひと踏ん張りだ」
と、部下たちにいってから、
「スキピオ、あんたも宴には顔をだすんだろ?」
ときいた。
「もちろんですとも」
「そうこなくちゃいけねぇぜ」
百人隊長は市民兵の選挙で選ばれる猛者だ。顔はおろか体中傷だらけ。この隊長もそうだった。平和なときの本業は土木技師で、道路を建設し橋を掛けることを得意としている。どこにいっても人気者である若い士官は、その夜、橋掛け部隊と一緒に酒を酌み交わした。
部下の大半が幕舎に戻ってから隊長がきいた。
「敵将・カルタゴのハンニバルってどういう奴だ。まだ若いっていうじゃねえか」
「直接干戈を交えて戦った者はいません。しかし、イベリア(スペイン)から陸路をつかってガリア(フランス)を抜け、アルプス山脈を乗り越えてイタリアに侵入してきた者は彼が初めてです。卓越した指導力があることは間違いないでしょう」
「一種の化け物だな」
「そうかもしれません。しかし倒さねばローマが滅ぼされます」
「なら俺が最前列に立って奴を仕留める」
「駄目です。あなたが橋を造って下さらないと、前線にいる軍団兵士たちが飢え死にしてしまいます」
「それもそうだ」
百人隊長が豪快に笑った。
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アルプス越えをしてきたばかりのハンニバル軍は、ぼろぼろに疲弊しきっていた。ローマに服属していない、ポー河以北の土地に住むケルト系住民を手なづけ、傭兵を雇おうとしていたのだが、現在のトリノを拠点とする大族・タウルニがハンニバルに敵対していた。
疲弊しているとはいってもハンニバル軍団は、長征を貫徹させた百戦錬磨の精鋭だ。十分な偵察と情報収集をもとにギリシャ人軍師・シレヌスが奇襲作戦を計画すると、一騎当千の猛将ハンノが斬りこみをかけ、ハンニバル本隊が雪崩れ込むや、首邑タウラシアはなす術もなく一日のうちに陥落した。
総大将ハンニバルの帷幕を訪れた軍師シレヌスには喜びの表情がない。
「ここまでしてもケルト諸族は思ったより多くは味方につきません」
二十九歳の総大将は表情をかえず、
「われらがローマ迎撃軍を潰走させぬ限り、ケルトはなびかない」
と答えた。
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イタリア半島の東側にアドリア海があるわけだが、半島北部で同・内海に注がれるポー河を西に遡上してゆくと、プラケンティア付近で、いくつかの支流に分かれる。例えば、北に遡上すればマッジョーレ湖を介してスイス南部の水源に至るティキヌス川があり、あるいは西に遡上すればテュレニア海に臨んだ低い山地に源を発するトレビア川があった。
敵を求めて南下する新カルタゴ総督ハンニバルと、それを阻止せんと北上してきたローマ執政官コルネリアスの軍勢は、ティキヌス川の東岸と西岸にそれぞれ陣を敷いた。
コルネリアスが全軍将兵を前にこう演説した。
「まずもってわれらがローマの騎兵隊は、ガリアのローヌ川・で大勝利を収めた。さらにいえば二十三年前にわれらはカルタゴに勝利している。いま対峙している敵は残党に過ぎぬ。その残党はアルプス越えで三分の二に数を減らし、生き残りも凍傷にかかった死に損ないばかりだ。そんな奴らにわれらが敗けると思うか?」
おおおっ。
軍団の士気は大いに上がった。
しかしコルネリアスの息子・スキピオはローヌ川での前哨戦に参加している。
――よくいうよ。あれはどちらかというと引き分けで、敵数は多く討ち取ったものの、ローマ騎兵は逃げた側だった。
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霜が降りだす十一月。
非舗装路を騎兵隊でゆくとサクサクと音がした。
ティキヌス会戦は、ガリア・ローヌ川における会戦同様に、偵察部隊同士が偶然鉢合わせしてそのまま戦闘状態になったのだ。……ただしここでの戦いは数百騎規模ではなく数千騎規模で、しかも双方の総大将が参加しているというのが大きな違いだった。
コルネリアスが率いてきた騎兵は、ローマ本国、同盟市、ケルト系諸族の騎兵がいた。その数二千。
対して、ハンニバルが率いてきた騎兵は、北アフリカの王国ヌミビア傭兵軽騎兵を主力としていた。それにイベリア・ガリアのケルト系諸族傭兵騎兵が加わっている。その数六千。
ローマに対してカルタゴは三倍の敵だった。これでは勝負にならない。ローマ軍が撤退を始めると、カルタゴ軍が包囲した。大胆な波状攻撃をかけてくるカルタゴ軍麾下のヌミディア軽騎兵が、馬上から器用に、弓で射てくる。騎兵が矢を放つには足で踏ん張る鐙がないとなかなか上手くできるものではないのだが、それが発明されるのは、中世になってからだ。古代においては、こういう芸当ができるのは、ヌミディア軽騎兵くらいのものだった。
矢に当たったコルネリアスが落馬する。
槍を手にしたイベリア騎兵が首級をあげんと迫りくるところを、討死したローマ兵の武器をとって奮戦して救ったのが、奴隷の男だった。
「このどさくさで逃げて故国に帰れただろうに――」
「顔なじみの商人が故国にいる家族の消息を教えてくれました。家族の大半は疫病と兵役で死に、残った女房は再婚したと……」
「ならばローマ市民になるがよい」
解放奴隷となった男は、執政官に肩を貸して、掛けられたばかりの真新しい橋を渡った。
殿軍がスキピオだ。
例の百人隊長と土木部隊がスキピオに、
「橋をぶち壊す。そうすれば敵の追撃が遅くなるだろ」
といって、浅瀬に駆け出し橋桁を斧で切り崩し始めた。
スキピオが馬を降りて、百人隊長と麾下の兵士たちを手伝おうとした。
「邪魔するんじゃねえ。おまえにはおまえの持ち場ってもんがあるだろ」
若い騎兵士官は隊長に怒鳴られ、現場からつまみ出され、泣きじゃくりながら橋から離れた。敗走する馬上のスキピオが振り向くと、カルタゴ軍六千騎が岸辺に迫って、橋を渡ろうとする刹那、真中で二つに折れて崩落した。
橋が落ちたことで時間稼ぎができたローマ軍は、ピアチェンツァまで後退し、さらに、トレビア川以南まで後退した。
逃げ遅れた百人隊長と麾下の兵士たちが捕虜となった。ハンニバルの策略で、一緒に捕まった同盟市の兵士五百名は厚遇されたが、ローマ人捕虜百名は食糧もろくに与えられず虐待された上で殺された。
これにはハンニバルのローマとその同盟市の間に楔を打ち込む「離間策」があった。
「われらの敵はローマのみ。同盟市を味方につけたい。諸君らを解き放つ。ゆえに今の話を故国に伝えてほしいのだ」
新カルタゴの若い総督は、そういってローマの同盟市捕虜たちを解放した。
ティキヌス会戦によってローマ側は決定的な打撃を被ったわけではなかった。しかし、カルタゴにつくかローマにつくか態度を保留していたケルト諸族は、競ってハンニバルのもとに馳せ参じた。さらに、コルネリウス麾下のローマ軍にいたケルト系ガリア族の兵士二千が寝返ってハンニバル陣営に走った。
カルタゴ軍は兵四万に膨れ上がった。
【登場人物】
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《カルタゴ》
ハンニバル……カルタゴの名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
スキピオ(大スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。ローマの名将。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。
グネウス……グネウス・コルネリウス・スキピオ。コルネリウスの弟で大スキピオの叔父にあたる将軍。
アシアティクス(兄スキピオ)……スキピオ・アシアティクス。スキピオの兄。
センプロウス……カルタゴ本国上陸を睨んで元老院によりシチリアへ派遣された執政官。




