02 BENクー 著 霜 『気持ち』
気持ち
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居間にパチパチと囲炉裏のはぜる音が響く。奥の間では、女房のおさきが小さな寝息を立てている。
目覚めた辰之助は、小さくなった火種に小枝を差し込むと、どてらを羽織り、土間に下り、そっと戸を開けた。空にはまだ星が煌煌と光っていた。
辰之助は、薄っすらと紫色に染まり始めた水平線を見つつ、耳をすませ、風と波の様子を覗った。風はなく、波の音も静かである。ただ、空気は肌を刺すように冷たく、漏れた灯りに照らされた地面に霜柱がキラキラと光っていた。
「今年は冬が早えな。もう霜が立ってら」
土間に身を残したまま、右足だけ外に出して霜柱を踏んでみると、サクッと耳当たりの良い音がした。
「音は好きなんだけどなぁ」
草鞋の裏から伝わる冷たさに、これから始まる冬の漁の厳しさを感じ取った辰之助は、大きな溜息を一つ吐いた。白い息はすぐに星空へと消えていった。
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限られた近海の漁場を往復するしかないこの時代、当然ながら、決まった日数しか行われない村総出の漁より、日々船を出す個人漁が稼ぎの中心であった。また、これも当然ながら、寒さで船足の伸ばせない冬の漁では自然と漁獲が落ちた。
ただし、漁獲が落ちるこの時期だからこそ、大物や大漁が獲れるかどうかで漁師の腕が評価された。
操船には自信のある辰之助でも、大漁のために安易に船足は伸ばせなかった。暖季と違い、もし沖で潮目や風向きの変化を読み違えれば即座に冷たい海の藻屑となるからだ。
おさきと一緒になって二度目の冬、漁への不安に自然と気持ちが重くなっていた。気持ちに不安がある時ほど寒さは身に沁みる。辰之助は一つ身震いすると、囲炉裏の火へと身を寄せ、ふつふつと煮立ち始めた鍋の汁をかき混ぜた。
すると、火に照らされた囲炉裏の角に脚半と共に足袋が置いてあるのが目に入った。足袋はしみ一つない真っさらなもので、脚半にも綿が厚く縫い込まれていた。
足袋なんかもったいねえって言ってんのに」
辰之助は、こう小さく呟くと自分の足の指に目を落とした。節々はごつごつと膨れ、指はほとんど曲がらない。寒くなると、この膨れた節々がひび割れを起こして血が滲んだ。今では全く痛みも感じないが、小さい頃は痛くて眠れない時もあった。
船の上は裸足である。だから、足袋を履くのは家から浜に降りるほんの短い間でしかない。それでもおさきは、去年も足袋を用意した。せめて短い間でもとの思いからである。
辰之助は手早く朝飯を済ませると、上がり間口に腰掛けて脚半と足袋を身に着け、草鞋の紐をぎゅっと締めた。薄い布一枚なのに、裸足で草鞋を履いた時とはあきらかに感触が違った。同時に、身までもぎゅっと引き締まり、いつの間にか重い気持ちも消えていた。
今度は大きく戸を開けると、消えかかる星と共に水平線が青白くなっているのが見えた。無風快晴の夜明けだった。
「行ってくらぁ」
辰之助は大きな声で背中に言うと、霜柱の上に力強く足を踏み出した。
「もったいねぇけど、やっぱ全然冷たくねぇ」
踏み出すたびに響くサクっという音は、耳当たりだけでなく、いつしか辰之助の気持ちまでも高めていた。
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-おしまい-




