04 紅之蘭 著 裂ける 『ハンニバル戦争、スキピオの献策』
【あらすじ】
紀元前三世紀。古代ローマとカルタゴの二大勢力が激突した第一次ポエニ戦争で敗北した西地中海の大国カルタゴは国力を急速に回復させ、スペインの植民地経営により、潤沢な資金を得たカルタゴは、イベリア半島の若き新カルタゴ総督ハンニバルのもとに、ローマに戦いを挑み、第二次ポエニ戦争が勃発した。――不可能と思われたアルプス越えをやってのけたハンニバル。鉄壁の守りだったはずのローマは虚を衝かれ窮地に陥る。
スキピオの献策
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ここで物語を遡らせ、ローマ側の動向を述べねばなるまい。
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歓声が沸き起こった。
ある青年が、力自慢で有名な騎兵隊長と腕相撲をやって、互角以上に渡りあったばかりか負かしてしまったのだ。
「悔しいが俺の負けだ」そういった隊長は筋肉質で顔やら腕・全身が切り傷だらけになっている。
「いえ偶然です。満月になると僕、体力が絶好調になるんですよ」
青年は丸顔で中肉中背といったところだ。愛想がいい。
「満月か。逆に俺は勝負運が下がる。だが次は負けん」といった隊長が、「スキピオ、いつかは執政官になるって皆がいっている。俺も思うぞ。いつかお前の部下になって、斬りこみ隊長になってやる」と続けていうと、店の女将にビールを追加注文して、若者の背中を思いっきりはたいて、「おごりだ」といった。
居酒屋をのぞいた初老の貴族二人が笑みを浮かべた。痩せて背が高い白髭が兄で、肥って背が低いほうが弟だ。
「兄上、スキピオの人気は大したものです。この地に集結した将兵たちに、あんなに溶け込んでしまっている。そればかりか、細かいことを気にせず、目上の者を立て、目下の者には細かい気配りをする。……生まれながらに将領の器がある」
「あとは兵略というものを身に着けているか否かだな」
「そういう細かなことは、優秀な参謀をつければ、なんとかなることです」
港湾都市ピサ。
紀元前十世紀よりは昔に築かれたのだが、最初にこの町を築いたのが、ペラスゴイ人、ギリシャ人、エトルリア人、リグーリア人と列挙される諸民族のうちいったいどれなのかよく分かっていない。のちにピサの斜塔が築かれる有名な都市で、中世では独立国であった。――古代共和制ローマの時代においても、重要都市であったことには変わりない。
老貴族の兄はコルネリウス、弟はグネウス。そしてスキピオと呼ばれた青年はコルネリウスの二男坊だった。
スキピオの一族は軍人貴族であった。父親コルネリウスは国防大臣に相当する執政官の地位にあるある人だ。通常、執政官は二人おり、それぞれ二個軍団を管轄していた。
コルネリウスが港湾都市ピサにきたいきさつは次のようなものだ。
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ハンニバルがスペインにあるローマの友邦サグントを攻略。息つく間もなくカルタゴとローマの国境になっている河エブロンを渡河したという報せが、元老院に届いた。ローマ側はカルタゴの不穏な動きを知って、ただちに特使を送ったが交渉は決裂し、ローマはカルタゴに宣戦布告をおこなった。
元老院布告。
――カルタゴが兵を挙げた。コルネリウス並びにセンプロス執政官双方は麾下の二個軍団と同盟諸国の兵を率いてすみやかに任地に出立せよ。執政官はローマの守護者である。奮励なされたし。
第一次ポエニ戦争で、カルタゴを破って西地中海の覇権を手に入れたローマ共和国は、強大な艦隊を養成してイタリア半島を囲む海・東・西・南の三方の守りを盤石なものとした。地続きである北側には峻厳なアルプス山脈が立ちはだかって、天然の城壁をなしている。先の大戦で艦隊の大半を失ったカルタゴなど問題にならないはず――と考えたわけだ。
そして、敵の息の根を止めるべく、コルネリウス執政官にはスペインの植民地でハンニバルが総督を務めている新カルタゴを、センプロス執政官にはカルタゴ本国を攻略することを命じた。
ピサに麾下の軍団を集結させたコルネリウスは、海路、南フランスにあるギリシャ系植民都市マルセイユにむかい、ローマの外港オスティアからイタリア半島南端に浮かぶシチリア島マルサラにむかった。
当時の超弩級戦艦ともいえる五段層軍船六十隻に兵員二万四千二百名を分乗させ、出立。このとき、ピサの町の街娼たちがスキピオを見送りに波止場に押し寄せ、薄絹を振っていたのだが、老父と叔父が甲板でこれをみて閉口したことはいうまでもない。
西にむかった執政官の一人スキピオが元老院から与えられた第一の任務は、――東にむかったハンニバルは必ず南フランス最大の都市マルセイユを攻略する。敵より先に到着し、そこをまず防衛せよというものだった。
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しかし数か月かかって、ようやく目的地マルセイユに着いてみると、ハンニバルが押し寄せてくる気配などいっこうにない。
老執政官とその弟が、禿げ頭のマルセイユの長を訪ね話をした。
「ハンニバルの動きは?」
「交易商人の船団に潜りこませた内偵の話によりますと、エブロ河を渡ったハンニバルは、ピレネー山脈を越えてガリア(フランス)の地に入ったのは確かです。しかしそれから消息を断ちました」
太っちょのグネウスが苛立っていった。
「敵は、ここ南フランスとシチリア島を主戦場にするはずだったのでは? 敵はわれわれの到着をみて臆して逃げ帰ったとでもいうのか……」
「騎兵隊三百騎で索敵をさせよう」弟をなだめるように白髭のコルネリウス執政官がそういった。
するとすかさず、禿げ頭であるマルセイユの長が、
「されば道案内をおつけしましょう」
と申しでた。
こうして急きょ、マルセイユに到着して日もおかずに、騎兵隊が索敵に出動した次第だ。
指揮していたのはピサでスキピオ青年と腕相撲していた騎兵隊長で、もちろん、部下であるスキピオ自身もそこにいた。
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もう一人の執政官センブロースはといえば、シチリア島に上陸してみて、あまりにも島が平穏なので驚いた。しかし艦隊を洋上に浮かべ、カルタゴ本国の動きを監視させた。それで、ハンニバルが首都防衛のために、新カルタゴから二万人の兵を送ったことが判明したということもあり、彼の地に釘付けになった。
こうしてイタリア半島が一時的にガラ空き状態になったわけだ。
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「ガリア。――聞きしに勝る樹海と沼の世界。これほどとはな」
マルセイユの道案内を伴ってローヌ河を遡り索敵していた傷だらけの騎兵隊長が、横にいた丸顔の青年にいった。
当時、馬に乗れるのはほぼ貴族に限られていた。馬自体が高価なものというのもあったが、当時は馬具が未発達で、鐙というものがなかったのだ。これでは騎手が踏ん張って、槍や剣で応戦したり、弓を放ったりすることもままならない。それでもなおかつ騎兵が存在するのは、幼少のときから馬に慣れ親しんだ者に限られるのだ。
ローマ側とすれば貴族。
カルタゴ側とすれば、北アフリカのヌミディア人や、ガリア・イベリア(スペイン)にわたって住んでいるケルト系諸部族といった馬を巧みに操ることができ傭兵になっていた。
そしてマルセイユから百五十キロばかり上流に遡ったあたりにあった、ガリア人要塞の廃墟を発見。そこで、戦闘の痕跡をみたのだった。
スキピオが半ば腐って、狼や烏につつかれた遺体が身に着けていた甲冑やら剣戟に、ガリア人のものではないものをみつけた。
「――この武具はカルタゴのものだ。ガリア人同士の部族抗争の跡じゃない!」
「ハンニバルがここを渡河して東岸に渡ったってことだな」横にいた隊長がいった。
「僕、思うんですが、隊長……」
「なんだ、いってみろ」
丸顔の青年将校が顎に手をあてた。
「敵は、ハンニバルは、僕たちと戦いたいのじゃなくて、みつからないように樹海に隠れてどこかにむかっているような気がします」
斥候騎兵隊三百騎が、ローヌ河東岸の要塞跡からさらに東にむかい樹海の奥を探索した。
渡河地点からどれだけ奥にいっただろう
やがて、
木立の影から数十本の矢が飛んできて、不意を喰らったローマ騎兵十騎ばかりが馬から転がり落ちた。――と同時に、雄叫びがあがって、味方を上回る数の蹄の音が樹海に轟いた。馬にまたがっていたのは黒い肌の種族だ。
「噂にきくヌミディア人か。五百騎はいるな」と隊長が横にいるスキピオを尻目につぶやくと、「皆の者、撤退する、続け」と叫んだ。……むこうも騎兵索敵を行っていたのだ。しかもこちらの倍近い数ではないか。
「敵の意図が読めただろ、スキピオ。……父君である執政官コルネリウス閣下にお伝えするのだ。いいか、生き残れよ、命令だ!」
そういうと手にした槍を振るって続く麾下の兵に合図を送った。
「手筈通り、縦列陣形をとれ。中央列百騎を生き残らせ本陣に生還させるため、残り二百騎は両側で盾となる」
ヌミディア騎兵は機動力優先で鎧らしい鎧を着ていない。軽騎兵だ。ゆえに矢があたればすぐに馬から転がり落ちて死んだし、接近戦になればローマ側のほうが強いくらいだった。……だが機動力があり数も多かった。
ローマ側縦列陣形に対して両側面から挟撃する格好でヌミディア騎兵が波状攻撃を仕掛けてくる。勇敢に戦って死傷者はむしろヌミディア騎兵が多いくらいだったが、一人また一人とローマ騎兵が討ち取られてゆく。
縦列陣形の両側がヌミディア騎兵によってほぼ壊滅させられたとき、中央の隊列は虎口を脱した形となった。
そして丸顔の青年将校が振り返ったとき、傷だらけの騎兵隊長と近習がヌミディア騎兵に包囲されなぶり殺しになる様をみて、涙があふれかえった。
両側を守っていた二百騎のうち四分の一である五十騎がなんとか生き残り、中央列の百騎に合流。都合百五十騎がマルセイユに帰還し、執政官に事態を報告をした。
ここにきて白髭の執政官コルネリウスは、若き敵将ハンニバルの意図がようやく理解できたのだった。
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海軍力が弱くなったカルタゴは艦隊戦など鼻から考えていない。
――唯一の盲点、アルプスを越えて、北から一気にローマに雪崩れ込む腹だ! と。
本陣に与えられた建物に将領を集めたコルネリアス執政官が麾下の将領たちに意見を求めた。
第一の策は、『われらの任務はスペイン攻略なのだから、本国防衛は、シチリアにいるもう一人の執政官センプロウスに任せるべきだ』というものだった。
第二の策は、『全軍をイタリアに戻して、ハンニバルと決戦をすべきだ』というものだった。
第三の策は、執政官の息子であるスキピオがこう主張した。
「六十隻からなる艦隊を引き連れて本国に引き返すですって? 冗談じゃない。何か月もかかるし、兵士たちは長旅で疲れる上に、食糧がなくなって合戦どころの話じゃなくなる。また戦う前に嵐で船がやられてしまうかもしれない。――それより、マルセイユからイベリア(スペイン)本国は目と鼻の先だ。グネウス叔父上が全軍を率いて敵地に乗り込み敵の後背を突くのです。他方、父上は数隻の船といった軽くなった脚でイタリアに戻り、戦時用に増設されているでしょう二個軍団を受け取ってそこの執政官としてハンニバルに当たればいい」
太っちょのグネウス叔父がパンと膝を叩いた。
「なるほど、その手があったか。儂がイベリアにいれば、友軍ローマ艦隊の補給を受けつつ、海運力が貧弱な敵・カルタゴの陸上補給線を完全に寸断でき、最前線に立ったハンニバルは日干しになる」
こうして、兄・執政官から全軍を託された弟が西のイベリアにむかい、兄が数隻の五階層船を率いて祖国に帰還。新設二個軍団と同盟諸国軍を指揮することになった。
ローマの北を流れるポー河。最終防衛線のむこうに戸口があり、アルプス山脈を背にしてハンニバルが立っている。
まだ無名であったローマの青年将校スキピオの、カルタゴの後陣を裂くという献策が効果を上げ、天才児ハンニバルを苦しめることになるのは、さらに四年という歳月を待たねばならない。
つづく
【登場人物】
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《カルタゴ》
ハンニバル……カルタゴの名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
スキピオ(大スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。ローマの名将。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。
グネウス……グネウス・コルネリウス・スキピオ。コルネリウスの弟で大スキピオの叔父にあたる将軍。
アシアティクス(兄スキピオ)……スキピオ・アシアティクス。スキピオの兄。
センプロウス……カルタゴ本国上陸を睨んで元老院によりシチリアへ派遣された執政官




