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自作小説倶楽部 第9冊/2014年下半期(第49-54集)  作者: 自作小説倶楽部
第52集(2014年10月)/「ススキ」&「裂ける」
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03 BENクー著  裂ける 『奇跡』

「救世主よ、早くここから立ちましょう。ぐずぐずしていたら追い付かれてしまいます」

軍が迫ってきた…殿の物見からの報告を受けたルベンは、対岸に向かって座ったままのモーセに焦りの声で訴えた。早く入り江を迂回しようと言うのである。

 対岸まではほんの100mほどしかないが、海水が東西に細長く河のように横たわっていて、身軽な者ならともかく、女子供、家畜や荷物も抱えているのではとても渡る事などできない。たしかに迂回するしか道はないのである。

 だが、モーセは動かなかった。否、動けなかった。まして軍隊が追いかけてきたからには、入り江を迂回してもすぐに追いつかれてしまうのは目に見えていた。

『これほど大勢の民を逃れさせるには海の道が啓くのを待つしかない』

 実のところ、脱出者の人数が多すぎた事にモーセ自身が一番困惑していた。

だが、ルベンたちの焦る声を聞いているうちに逆に腹が据わり、黙ったままじっと風の音に耳をすませた。

 モーセはこの入り江に東風が強く吹きつける時、対岸までの一筋の海の道ができる事を過去に砂漠を旅した時に知ったのである。

 モーセがユダヤの民の独立を説き始めた頃からエジプト国内では赤潮、疫病、イナゴの襲来などの不幸な出来事が続けざまに起こった。モーセは、時を得たとばかりにユダヤのいち発言者としてエジプト王に訴えた。

『この不幸は我がユダヤの民を軽んじているエジプト国に対する神の怒りであり、神の怒りを鎮めたければ少しでも下層民たるユダヤ人を解放すべきである』と。

 このモーセの言葉に突き動かされたエジプト王は、不幸続きで飢饉状態にあるエジプトの口減らし策として一部のユダヤ人たちの出国を認めたのである。

モーセも、初めから全てのユダヤの民を解放しようとは考えていなかった。下層民として貧しい生活を強いられている多くの同胞たちの地位や生活が少しでも向上できればと思っていただけである。だから彼自身、彼の建国思想に賛同した少数の者たちだけを連れてエジプトを出るつもりでいた。

 また、「これは新しい国を創るための旅である。もちろん新しい土地に着くまでは長い旅となる。だから今の生活を守りたい者たちはここに残っても構いません。私は貴方たちに苦難を強いる者ではないのだから」と、何度も民に説き聞かせていたのである。

だが、差別のない民族だけの国を創りたいと願うのは人間として当然の思いであり、下層階級で貧困にあえぐ多くの者たちほどその願いは強かった。そこに、政治に携わる部族の長ばかりが主権を握っている事に不満を持つ者たちまでモーセの思想に賛同したのである。そのため、モーセどころかファラオの予想を遥かに上回る大人数の民がエジプトを出る事になったのである。

 あまりに大勢のユダヤ人が出国する事に驚いたファラオは、大勢の労働力を失う事によって国家が窮地に立たされる事になるとして急ぎユダヤの民を引き止めるために軍を発し、ようやく紅海の端にある入り江で追いついた。

 ファラオは、決してユダヤ人を迫害しようなどと考えてはいなかったのである。

だが、軍隊が追いかけてきた事にユダヤの民は怖れた。説得の使者だけなら彼らも怖れなかっただろうが、軍隊が追いかけてきたからにはただでは済まない事になると考えたのである。

 特にこの出国の指導的立場にあったルベン、シメオン、レビ、ユダなど、部族の次席の地位にいた者たちほど軍隊(支配者層)から受ける懲罰を怖れていた。それが焦りと不満の声としてモーセに向けられているのである。

 陽が昇るほどに東風はどんどん強くなってきたが、まだ海の道は現れない。戻ってくる物見の報告もただ軍隊が近づいてくると言うものばかりである。

「救世主よ、あなたが動かなければ私の一族だけでも先に行きますぞ。どうして動かないのですか!」

 ルベンの言葉は追われる身として当然の事であり、それは他の部族の代表者たちの声でもあった。

 それでもモーセは海の道の事を話さなかった。たとえ話してもすぐに信じてはくれないだろうと思っていたし、何よりモーセ自身が確実に海の道が現れるとは断言できなかったのである。

『もっと強い風になれ。砂粒が巻き上がるほどに』

 モーセは心の中で、ただこの言葉を繰り返すしかなかったのである。

最後の物見が戻って来た時、ついにルベンはモーセに向かって言い放った。

「このままじっとしていては我々はエジプトに連れ戻されるでしょう。そうなればこの大勢の民たちはもっと下層に落とされるでしょう。あなたが救世主であろうとなかろうともう我慢できません。私たちはすぐにここを立ちます」

ルベンがこう言ってモーセのそばから離れようとした時、それまでよりもはるかに強い東風が吹き始めた。

 モーセは立ち上がって目の前の入り江に向かって歩き出すと、渚にひざを浸しながら手にした杖を海中に突き立て、両手で杖を握って俯きながら祈りの言葉を唱え始めた。

ルベンたちは、モーセが何をしようとしているのか全く理解できなかった。それも当然で、 モーセはただこの風が強くなる事を神に祈るしかなかったのである。

 モーセの祈りと共に、東風は音を鳴らして吹きつけるようになった。そのあまりの強風に、入り江の水が飛沫となって砂浜じゅうに降り注ぎ始めた。高く舞い上がる飛沫は、渚に立っていたルベンたちの上にも雨のように降り注いだ。

 モーセが波に引き込まれると思ったルベンは、目を細めながら波打ち際のモーセに駆け寄った。

「ルベン、見なさい」

 全身びしょ濡れのモーセは、顎を上げて対岸を見るように言った。そこにはモーセが跪いたところから対岸まで続く一筋の海の道が現れていた。

 モーセは、愕然とするルベンの腕を取ると、「さあ、道は啓かれた。今すぐ民を対岸に渡しなさい」と穏やかな声でルベンと目を合わせた。

 飛沫を避けるのに砂浜まで下がっていたシメオン、レビ、ユダたちも、突然目の前に現れた道を見てただ驚くしかなかった。

「道ができたぞ。みんな、すぐに対岸へ渡るのだ。海が裂けたのだ。奇跡を踏みしめよ」

ルビンたちは奇跡を目の当たりにした興奮のまま、大声で叫びながら砂丘の上で待っていた民の間を駆け回った。

     -おしまい-

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