06 紅之蘭 著 道 『ハンニバル戦争・アルプス越え』
紀元前二一八年九月。
マゴーネは長兄・ハンニバルの末弟でまだ二十に達したか否かというあたりの青年だ。中兄はスペインにある新カルタゴを守備している。ギリシャ人副官シレヌス、それに通訳を加えた斥候騎兵五百の中にいた。
少年の面影を残すマゴーネが、男盛りの軍師にきいた。
「シレヌス、途方もない高さの山だ。まるで天上界に迫っているようにさえ思える……」
「アルプスといいます、マゴーネ様」
「現在、わが軍は三万六千いるが、ローヌ川を超える比ではない。超えられようか?」
「この軍勢は、あなた様の兄上・ハンニバル将軍が率いているのです。超えられますとも」
少年の面影を残すマゴーネは黒髪だ。ハンニバルの家系は美男子が多く彼もその血筋を色濃く映していた。
藁葺屋根の家々が建ち並ぶアルプス山脈・麓に拠った集落の長たちと、通訳を介して、
「われわれはイタリア・ローマと戦うためにきた。そのためには卿らの領地をどうしても通過する必要があるのだ。決して、ここを奪おうという野心はない。もし通過を許可してくれたら、これを差し上げよう」
軍師は、そういって、スペインの鉱山で採掘したもので鋳造した銀貨がつまった袋の中身を長老にみせてやる。
――われら部族全体での稼ぎ・数年分になるな。
ハンニバル率いるカルタゴの軍勢が、ローヌ川渡河でのガリア人連合軍を撃破した直後であり、また大軍である。ガリア人長老は逆らわず領内通過を許可した。
「九月とはいっても、麓の里と山の上じゃ気候が違う。山の高いところが白いだろ。雪が積もっている。あそこはもう冬になっているじゃ」
長老はさらにこういった。
「毛皮の衣類が必要だ。仲間の部族にも話をして、調達させよう。それと最短ルートを抜けるための道案内も必要じゃろ?」
「助かる。この申し出は、兄上・ハンニバルを喜ばせるに違いない」
マゴーネが長老の手をとった。
吉報を報せに斥候部隊はただちに引き返した。
カルタゴ軍団・行軍隊形は前衛と後衛からなる。前衛は、戦象隊・輜重車隊・歩兵各隊。そして後衛が騎兵隊である。はにかんで弟を出迎えたハンニバルはもちろん最前列だ。戦象の籠に乗っていた。
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斥候部隊はさらに、アルプスの谷筋に集落を構えるガリア系住民とも折衝した。
アルプス中腹を登る山道は雪がちらついていた。
マゴーネとシレヌスがいる斥候部隊が、切り立った崖下にある集落に抜ける道を塞ぐ砦の門前に立ち、いつものように、敵意がないことと通行料を支払うという趣旨を伝えた。
しかし弓矢がその回答だった。
ガリア人通訳がいった。
「山の連中は世界ってものをみようとしねえ。頑固でよそもんを嫌う。また天然の要害であるアルプス山中にいるという強みから、寡兵であることをものともせず、蛮勇を誇示したがるんだ」
マゴーネたちは、山岳諸部族の対応を兄・ハンニバルに伝えた。
戦象の上にいる美麗な将軍は眉一つ動かさない。
――されば叩き潰せ。
実際のところ、山岳民が山道に設けた砦や、山小屋は南国出身者が多いカルタゴ軍団兵士を助けた。貧弱な砦は大軍団の敵ではない。瞬く間に二つばかり落した。むしろ厄介なのは、狭路の崖上といった難所に潜む伏兵だ。
味方が敵の奇襲を受けると、馬に乗りかえた若い将軍は、すぐさま現場に駆けつけた。
そのため、カルタゴ軍はパニックになることがなく、冷静に敵兵を撃退することができたのだ。
「さすがはハンニバル様だ」
マゴーネは、長兄の師がそうつぶやくのをきいて喜んだ。
カルタゴ軍が、山岳民伏兵を捕虜にすると、防寒具を奪った。
結果、敵捕虜たちはシャツとズボンだけという格好になり、そのうえ、ロープで数珠つなぎされて連行される。食糧は貴重だからほとんど与えられるということはない。
ハンニバルの大長征以前のアルプス越えは、土着民であるガリア系山岳部族をしてどうにか可能だった。よそ者が、ましてや軍団がそれをやらかすのは不可能だとされていた。
ゆえに宿敵イタリア・ローマは、地中海南方・カルタゴ本国のあるアフリカと、地中海西方・新カルタゴのあるスペインに目を光らせ、大艦隊を張りつかせていても、地続きであるい氷雪の城壁・アルプスのあたりには注意を払ってはいなかった。
二十九歳の天才総指揮官は、その盲点をついて、フランスの森の中を縦断し、アルプスの山岳地帯を押して、超えてゆこうとしたのだ。……その際、もっとも厄介なのは南国生まれの戦象だった。それらは、横が切り立った深い谷底になっている、崖を削っただけの細道をゆこうとすると、そこで立ちすくんだ。
象使いが、多くの兵士たちやガリア人捕虜奴隷の手を借りて、前に引っぱろうとすると暴走して彼らを道連れに谷底に落ちてゆく。悲鳴ははるか後方をゆく騎兵部隊にまで届いき、こういう騒ぎを一日に一回はきく羽目になった。
それからの上り坂はしばらく砦も避難所もなくなり、だんだん周囲の雪がうず高く積もってきたではないか。
崖下の険路には、テントを設営する敷地はなく、岩肌の窪みに兵士たちは身を寄せた。テント用の幕は、張ることができず、兵士たちはそれを布団代わりにして身体に巻きつけて眠った。
干し肉やパン・チーズといった食糧は凍っていた。焚火をするスペースもない。兵士たちは震えながら、口にしていた。
一人、二人と動けなくなり、そのまま息絶えてゆく。
――やはり、アルプス越えなど不可能だったのだ!
マゴーネが、シレヌスにいった。
兵士たちの不満がピークに達しようとした山越え・九日め。ついに隊伍は山頂に達したのである。眼下には、アルプスのむこう側・イタリアを望むことができた。
ハンニバルはいつもの戦象に乗って、沸き立つ麾下の将兵たちを激励した。
「われわれは、ついに魔の山の頂きを征服した。みよ、足元に広がる沃土を。あれこそイタリアだ。麓におりればローマを囲んだも同じ。いくつか戦えばわれらは全イタリアの主だ! ……あと一息だ、諸君。ここで二日間の休暇を与える。下山のために英気を養いたまえ」
休暇とはいっても、相変わらず山頂は冬の状態で、火も起こせず、天幕を布団代わりにして雑魚寝するだけだ。男同士が身体を密着させ保温する。それでも動かないだけ、体力を温存し、ある程度の疲れを回復することができた。
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アルプス越え開始から十二日めに行軍を再開する。
それから下り坂の四日間に、雪崩で道が埋まって除雪するためにまる一日を要したり、山道が狭すぎるので戦象や荷馬車が抜けられない箇所があって工具をつかって道の両脇に迫った岩を削ったこともあった。その間にも山の天気は回復にむかわず、雪はうず高く積もってゆくのだ。
凍えゆく下り坂では、戦象、馬匹たちが突っ伏してそのまま動かなくなった。隊伍を構成する各地の傭兵たちもしかりだ。そしてカルタゴ人、ギリシャ人、ヌミディア人、スペイン人も、麓を目前にして、ばたばたと凍死していった。……犠牲者は上り坂のときよりもはるかに多かった。
そして十五日めにして、ついに、軍団はアルプスを乗り越えた。
スペイン・新カルタゴ出陣後、四か月に渡るカルタゴ軍団の大長征による消耗の結果、生き残った軍団兵力は以下の通りである。
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フランス・ローヌ川渡河直前の兵員四万六千、戦象三十七頭、騎馬一万三千。
渡河直後は兵員三万七千、戦象推定三十頭、騎馬推定九千。
アルプス越え直後は、兵員二万六千、戦象二十頭、騎馬六千。
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ハンニバルの末弟・マゴーネが、軍師シレヌスにきいた。
「シレヌス、ローマはなぜ、ここアルプスの麓でわれらを待ち伏せしていなかったんだろう。弱り切ったわが軍に襲い掛かれば簡単に叩き潰せたはずだ。奴らはバカか?」
「ここアルプスの麓・イタリア北部は、まだローマ人が制圧していません。すべてはハンニバル様の計算のうちです」
しかし南方イタリアには、ローマとその同盟国が待ち受けていた。最大動員兵力は、なんと七十五万。……ハンニバル麾下のボロボロ軍団二万六千が、それに挑もうとしていた。
(つづく)
【登場人物】
《カルタゴ》
ハンニバル……カルタゴの名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
スキピオ(大スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。ローマの名将。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。