01 有俐沙 著 ひまわり 『DROP・結』
【結】
ベランダから聞こえる、金属に跳ね返る雫の音で瑞希は目を覚ました。あれから探しに行くことを諦め、手軽にカップラーメンを夕食とし就寝したのだった。
「朝か……」
時刻は午前七時。雨は上がっていて、レースのカーテンの隙間から陽の光が差し込んでいた。
雫のイヤリングは、久しぶりに会った母が二十歳のお祝いにとネックレスとセットでプレゼントしてくれたものだった。大学へ行くのと同時に上京し、少なからず寂しい思いをしていた彼女にとって、大好きな母からのプレゼントはとても大切なものだった。
上半身を起こして伸びをする。身体はずっしりと重かった。
「探しに、行こう」
瑞希はベッドから降りた。冷蔵庫を覗いて、そこから牛乳パックを取り出し、牛乳はコップに注がずにそのまま口をつけて飲み干した。
「うぅ、一気に飲み過ぎたかも……」
そうぼやいて、デニムのショートパンツと白のくるぶしソック、無地の白いTシャツを着る。玄関へ向かって、黒のスニーカーを履いて家を出た。彼女はいつものヘッドフォンをかけ音楽を流し始めた。
念のため、家を出てからの道も注意深く見ながら歩く。自宅のアパート前にある花壇も隈なく探した。
やがて、昨日瑞希が転んだ場所の近くに到着した。
「確かここら辺だったような」
数メートル先、直径三十センチメートルほどの水たまりに、水を含んだヤング雑誌が浸っていた。雑誌はふやけ、根本からページが破けていて、彼女が滑ったという跡がしっかりと残っている。
「まったく。 こんなところに捨てるから転んじゃったじゃない」
そう言って瑞希は水たまりに近寄り、雑誌を思いっきり踏みつけた。
そして辺りを見渡して、イヤリングを探す。
すると、白いかたまりが目の前を横切った。
「ん? ねこ?」
白いかたまりの正体は、真っ白い毛並みの猫だった。首輪はしていないが、特に汚れている様子もなく綺麗に整った毛並みを見る限り、おそらく飼い猫だろう。
「あれっ?」
瑞希は違和感を覚えた。
その目の前にいる猫の口もとは太陽の光を受けて、光っていた。彼女はそうっと近づき猫の口もとをよく観察した。
「あ、私のイヤリング!」
落ちないよう、犬歯にうまくひっかけられていたのは、瑞希がずっと探していた雫のイヤリングだった。
「そ、そのままじっとしてなさいよ?」
捕まったイヤリングに手を伸ばそうと、白猫との距離をぐっと縮めた、その時。
「にゃぁ」
猫は急に身体を百八十度転換させて、伸ばした手を尻尾で振り払いそのまま逃げたのだった。
「ちょ、ちょっと! 返してよ!」
彼女が歩いてきた道を猫が一目散に駆けていく。
慌てておいかけようとした瑞希の左足は濡れた雑誌で滑りそうになるが
「昨日と同じことはしないから」
と今度はうまくかわしたのだった。
猫は軽やかに逃げていく。それを追う瑞希。
十字路を右へ曲がり、しばらく走って信号を渡る。しばらく直線を走って今度は狭い路地へ入った。猫との距離は一定を保ったまま、近くの土手へと辿り着いたのだった。
土手へ続く階段の手前には、大きな水たまりがあった。昨晩、瑞希が転んだ時にあったものより更に大きく、直径は猫の身長の二倍くらいはあるのではないだろうか。しかし白い猫は臆せず、前足を蹴って思い切り飛んだ。華奢なその身体は綺麗に伸び、見事に飛び越え向こう側へと着地した。
そして、お前も早く飛び越えて来い、とでも言わんばかりに、後ろを振り向き彼女を待っているかのような素振りを見せる。
「これを飛び越えろ、ってこと?」
その疑問に答えるかのように、
「にゃぁぁ」
と猫は鳴き、澄んだ青い目は瑞希をじっと見つめてきた。
それは、昨日イヤリングを拾ってくれた老婆の瞳の色と同じだった。正しくは、一瞬そう見えただけだが。
『狭い画面のむこうだけを見ていると近くにある大切なもの、落としちゃうからね』
言われた言葉が脳裏に浮かぶ。
自分がいつも見ているのはスマートフォンの向こう側だった。現実での自分の周りを見ているつもりで、実際見えていたのは、自分にとって都合がいいことだらけの世界だった。
「そっか、私が見てた世界、少し狭すぎたのかもしれない」
思わず、口角が上がっていた。両腕を大きく開いて深く空気を吸い込み、勢いよく自分の頬を叩いた。ひりひりと痛むが、気にならないほど、気分は清々しい。
「こんな水たまりくらい、飛び越えられるよ、猫ちゃん」
数歩下がって、助走をつけ、思いっきり地面を蹴った。身体は宙に浮き、簡単に水たまりを飛び越えたのだった。
そして、逃げることなく瑞希の様子を見ていた猫は、あっさりと瑞希に捕まってしまった。
「全く、歯に引っ掛けるなんて器用だね」
無事にイヤリングを回収し、今度こそ落とさないようにポケットに大事にしまった。猫を抱き抱えたまま、階段を上る。
「ひまわりー、ひまわりー!」
向こうから、小学生くらいの年齢の女の子と、その母親らしき女性がこちらへと駆けてくる。腕の中にいる白猫はその呼び声に反応した様子だった。
「ひまわり!」
女の子がもう一度名前を呼ぶと、猫は瑞希の腕を振りほどき、飼い主の元へと駆けていった。
「うちの子を捕まえてくれてありがとうございます。」
女の子の母親が丁寧に頭を下げる。
「い、いえ、そんな」
「お怪我はありませんか。いつもは外が嫌いなのに、ドアを開けた瞬間いきなり飛び出したものですから、お姉さんがたまたま捕まえてくださり助かりました」
「大丈夫でしたよ。むしろ……」
瑞希は、女の子に抱かれている猫をもう一度見て、言った。
「むしろ、大切なものを拾ってくれた恩人――いや、恩猫です。こちらこそありがとうございます」
END