会社のことと不思議な縁
● 2011年:7月頃(現代)
「京ちゃん。うっかり降りる駅を通り過ぎちゃったよ」
未だにあの頃について物思いに耽っていた最中、突然、鈴子の声に現実に引き戻された。電車の扉はすでにしまっていて、ゆっくり電車の窓越しに駅名を確認すると、確かに通り過ぎようとしている駅名が岸辺駅だった。大幅に乗り過ごしたというわけではないため、次の吹田駅で引き返すことにした。
明日は敦子の新しい家探しで、不動産屋を尋ねることになっている。もちろん、敦子が「一人で行くのは不安で怖い」と私たち2人に訴えたため、付き合うことになった。正直、彼女はもうすぐ30代なのに一人で何もできないなんて、ブリっ子を超えて情けなさを感じていた。
しかし鈴子は「いいよ。一緒に行こう」とにこやかに答えていた。そんな2人を前にして断ることはできないので私も無言で頷いた。
今回は鈴子の家に泊まることになっていた敦子は、私の部屋に置いてある私物を受け取り「じゃあ明日、迎えに来る」と言い、鈴子と一緒に暗い夜道に消えていった。
部屋に戻ると、案の定、少女が立っていた。
「どうしてそんなに嫌いな相手に必死にあるの?」
私は、色んな面で図星をつかれていることに苛立ちを覚えていたので、少女の言葉を無視して風呂場へ直行した。
背後から「八方美人は身の破滅を呼ぶよ」という不安極まりない言葉が聞こえた気がした。
翌日、3人で大阪駅周辺にある有名な不動産チェーン店を見て回った。
敦子は「店内に入って話を聞くと1軒1軒が長くなる」と言ったため、店内には入らずに表の物件情報を見るだけに留めながら歩き回った。
途中、何軒目かの店舗では、担当者がにこやかに挨拶をし「相談に乗りましょう」と言ってくれたが、敦子が即座に「見ているだけです。必要ありません」と言い、私たちを無理に引っ張ってはその場を後にして次に行く。そんなことを2時間ほど続けた。
「あんまり、条件にぴったりな良い部屋ってないね」
「どんな部屋が良いの?」
「安全で、日当たりが良くて、安くて、職場から近くて…最低限の家具が付いていて…それから、あとは・・・・どうしようかな?」と敦子がペラペラと話し始めたところで、私と鈴子は顔を見合わせて理想が高すぎる」と肩をガックリと落とした。
敦子の条件で考えると、私たちの職場は大阪駅から10分の場所にあるので、家賃が格安なんて確実に望めないと思っている。日当たりが良いと言うのは、この高層ビル群の中に立っているアパートでは絶対に望めない。
なおかつ家具付きなんて条件を上乗せすると、もはや格安なんて言えそうにもない。が、これはあくまで私と鈴子の解釈だった。
敦子だって大阪での一人暮らしは数年経っているのだろうから、未だに故郷の鳥取県との賃料や、地方独特のサービスとの差を理解出来ていると思う。
たしかに大阪駅周辺という条件を諦めて、大阪市外で物件探しをすれば敦子の言う条件に近い物件が見つかるかもしれないが、このままでは1日中歩き回っても無駄だろうと思っていた。
すると敦子は、現在の家賃料もほとんど実家の母に払ってもらっていると話していた。
一人暮らしを始めると単身で大阪に出て「私は一人で大丈夫。なんでもできる」と私に言っているものの、結局は親に頼って生きている。
それなのに「親がいちいち家のこととか、結婚のこととか、仕事のことを聞いてきて面倒なのよね」と言う。
親のおかげで今まで生かされていることに、何故気づかないのだろうと疑問に思えた。それなのに私や鈴子には、「私は一人で大阪にいて、すべて一人で稼いだお金でやりくりしている」と自慢げに話しては、彼女の母親と同じ内容で説教する。
どうしようもないくらいの、身勝手な考え方の持ち主なんだなと感心した。
もういっその事、不倫相手の手が届かない鳥取県に帰ればいいのにと思ってしまった。彼女が引越しを考えた理由は、不倫相手の妻に2人の関係がばれてしまい、その彼との関係を早く立ち切りたいという強い思いからだ。
しかも、今の仕事も満足していないと言っている。転職も視野に入れているというのなら、心機一転、自分の原点に戻ってやり直せばいいのではないだろうか?と思うのだが、彼女はすでに「大阪の人間」になったというプライドがあるのかもしれない。そんな彼女が、故郷に帰るなんてプライドが許さないのかもしれない。
「阪神電車沿線で探しなおそうかな?」
「どうして?」
「あのね、カラオケ仲間がいるんだけど。その子の近所に安いアパートがあるって聞いたんだよね」
私も鈴子も、その瞬間に「だったら、最初からそこで調べたらよかったやん」と叫びたくなったが、お互いに顔を見合わせて慰め合い、激しい憤りを必死で我慢した。
そして私は、そのカラオケ仲間は男である確信を持っていた。ただの直感ではあるが、敦子の新しい恋人候補なのかもしれない。
鈴子を見ると、彼女もそのことに勘付いているようだった。鈴子は私よりも勘が良く、洞察力もずば抜けてあるのだから気付かないはずがない。敦子は「誰にも気づかれていない」と思っているだろうが、短い付き合いでも恐ろしいくらいに分かりやすい女性だった。
きっと鈴子は、その「カラオケ仲間」という相手が誰なのかさえ気がついているのかもしれない。
「ところで、2人とも彼氏居ないんだっけ?」
「どうしたん?急に?」
「ほらきた」と私は鈴子に目配せした。鈴子も呆れたような表情で「いつものやつだな」と苦笑いしている。それから数十分間、敦子の「下らない恋愛講座」が始まり、その間、私たち2人は「へぇ、そうなんだ」と適当に相槌を打っていただけだ。
敦子の気になる物件は、結局、阪神電車沿線で数件見つけることができた。
そのうちの1件が、今の部屋よりも圧倒的に狭く日当たりも圧倒的に劣るが、駅までの距離や利便性を考えるとお手ごろな家賃と納得できるものだという。
彼女は早速契約書類をもらい、明後日までに契約金と印鑑と保証人のサインをもらってくるようにと案内をされていた。
実家の両親が保証人になるなら、安易に約束するのはどうかと思ったが、大阪府内に住んでいる妹に頼むという。
そんな妹は、高校時代から付き合っている彼を追いかけて大阪にでてきたそうで、今もその彼と同棲しているそうだ。そして、結婚も視野に居荒れているそうで、妹にとっては、今がとても幸せなの時期だと説明してくれた。
妹がいるなら、私たちではなくて妹に物件探しや相談を持ち掛ければいいのにと思ったが、それはそれで姉としてのプライドが許さないんだろうと感じた。事実、私が敦子の立場であったら、同じく妹には何も相談しないだろうと思ったからだ。
「ところで2人は、なんで彼氏を作らないの?」
「彼氏なんていなくても、趣味もあるし友達もいるからなぁ。今のところ必要ない」
「そうかな?趣味とか友達との話を聞いてくれる優しい彼氏がほしいとかないの?」
「ないよ。こうやって、女同士で話すほうが気楽だし」
私は鈴子と敦子の会話を聞きながら「そうだ。本当にそうなんだよ」と鈴子を必死で応援していた。
敦子をみると、全く理解しできていないのか、キョトンとした表情で首をかしげている。そして「鈴ちゃんの言っていることが、よくわかんないや」と呟いた後、私を見つめ「今のって、どういう意味かな?」と助けを求めてきた。
どうやら、私は鈴子とは違う考えを持っていると感じているのか、私に鈴子を負かす力を貸してほしいと言っているようだ。
私は苦笑いをしながら鈴子を見て、そして敦子を見た。
「何度も言ってるけど、彼氏がいるいないで幸せを感じる以外にも方法があるねん」
「どんな方法?」
「趣味。鈴子ちゃんもいってるけど、自分の時間をどれほど費やしてもお金を費やしても惜しいと思わないような趣味があるとき。それから、誰にも支配されずに自分のペースで平和に暮らせる部屋。」
「それがあれば、2人は幸せなの?」
そうだ、と私たちは頷いた。敦子はしばらく考えていたが、やがて自分では理解できない次元の話だと判断したようで、自分から話を切り出しておきながら「2人と話してると面倒だから、この話はもういいや」と勝手に切り捨てられた。自分から切り出しておいて、自分が理解できない状況や優位に立てそうにない状況に追いやられると、開き直っては「あんたたちはバカだ」と言わんばかりに逃げ出す癖は彼女の悪いところだとがっかりしている。
それからすぐに「用事がある」と敦子は言い出し、私たち2人を置いて何処かへ消えていった。あっけに取られた私たち2人は顔を見合わせ、そして大声で笑った。
べつに彼女の身勝手ぶりに笑ったのではない。彼女の性格をよく知ったうえで、ここまでよく付き合えたなとお互いを褒め称えて笑いあった。
折角だからと、いつものようにキャラクターグッズや珍しい模型が置いている専門ショップ店へ行くことにした。
この店では、今では手に入れることが難しい限定版の本や音楽雑誌、それから大型の模型が所狭しと並んでいる。いわゆる『ヲタク』が集まる場所で、私たち2人は聖地と呼んで崇めている。
「こ、これ!この1号機ってさ、予約で完売しちゃって買えなかったんだよなぁ」
「何それ?みたことない」
「ほんま?一時期、めちゃくちゃ流行ってさぁ…」
「そうなんや。テレビで放送されてるのを何度か見たくらいで、こんなもん世に出てたなんて知らんかったわ」
とヲタク話に夢中になっていた時、何やら背後に視線を感じたので何気なく振り向いた。すると、私の視線の先には敦子がいた。彼女の横には同じく会社の同僚で、近藤という青年がいる。
なるほど、今度の相手は金堂なんだと理解した。敦子は私たちに気づいていないフリをして、近藤に耳打ちして慌てて店を出て行った。
その一連の様子を見た後、「やっぱりな」とすぐ横で鈴子の声がした。
「今の…やっぱり言ったらあかんよなぁ」
「うん。だって、近藤くんって秋山さんと付き合ってるし」
「そうやんな。うちもそうやって聞いた」
「…まさか、不倫相手とゴタゴタの最中に新、他に新しい男を作ってるとかないよなぁ」
「あのさ、私ね京ちゃんに聞きたいことあるねんけど」
鈴子が真顔で相談したいことがあると切り出したため、私たちもこの店を後にして、すぐ近くにあった喫茶店に入った。
私たちは小さな2人掛けのテーブルに早速案内された。そして私はコーヒーとカップケーキ、鈴子はオレンジジュースとマフィンを注文した。
しばらくすると、鈴子が真剣な目をして重い口を開いた。
「敦子と不倫相手、もうそろそろ別れるつもりって相談されてた?」
「まさか。不倫っていうことすら、ギリギリまで聞かされてなかった」
「そっかぁ」と鈴子は呟いた後、俯いてその先の言葉を続けようかと悩んでいるようだった。
そして、意を決して私に向き直り「私から聞いたということは他言無用にしてほしい」と一言添えて話を続けた。
もちろん私は、鈴子や敦子以外とこんな面倒な話をするつもりはないので、当たり前だと心の中で呟き、大きく頷いた。
「あの不倫相手、束縛が厳しかったらしくて別れるつもりでいたらしい」
「じゃあ、その最中に奥さんにばれちゃったんや」
「と、思うねんけど…うちとしては、何とも言いにくいというか」
「敦子が奥さんに、わざとバラした感じなん?」
「…タイミングが妙に良すぎるというか、今までばれていなかったのに」
たしかに彼女の恋愛遍歴の話を思い直すと、もうそろそろ不倫相手とも終わりに近い時期だったと推測される。でも、彼のほうがなかなか敦子を離そうとしない。
それに飽きるどころか、どんどん敦子に固執するようになったそうだ。
敦子としては不倫と割り切っていて、別れを想定したうえで次の相手を探していた。
そして、職場で好みの男「近藤」に出会った。当の近藤は可愛らしい年下の彼女が居るが、そんなことは敦子にとっては関係ない。すでに相手に恋人がいるという障害があればあるほど、獲物を捕獲したときの充実感というご褒美が待っている。
しかも、近藤の恋人である秋山さんは敦子の後輩で、あまり敦子との関係がうまくいっていないと聞く。そんな相手から奪うなんて、恋愛シュミレーションゲームばりのストーリーで、いつも以上に興奮と恍惚感を楽しめているのではないだろうか。
「秋山さんがね、近藤くんと最近は喧嘩ばっかりで全く上手くいってないってぼやいてた」
「そうなんや。じゃあ、もうすぐ別れそうな予感があるんや」
「たぶんね。近藤くんは休みの日も用事があるとか言って、なかなか会ってくれへんって言ってたし」
「その休みの日に、敦子と会って遊んでるってわけか…」
「うん、たぶんね。他の用事が本当にあるかもしれないけど」
鈴子も私と同じようなことを考えていたようで、このところの敦子の様子を非常に注意しながら見ていたという。敦子が体調を崩して休んだあの日も、実は近藤も風邪をひいて休んでいたのだという。
「秋山さん、さすがに心配になって近藤くんに電話したらしいんよ」
「そうやろうなぁ。好きな人なら看病したいって思うよなぁ」
「…そしたら体調悪くて部屋で寝てるからって、お見舞いは断られたらしい」
「まあ、わからないではない」
「でもな。一人暮らしのはずやのに、女の声がしたらしい」
「こ、こえ?」
私は一瞬、真夏の怪談話でよく語られる電話口で子供が頷く声や、笑い声がきこっるという思い出した。すぐにそうではないと思い、それが敦子なんだと推測した。
「近藤くん、ごはんできたよっていう声が聞こえたんやって」
そんな丁寧に住民に接する心霊現象は生まれて数十年、聞いたことがないのでやっぱり敦子、もしくは別の女の可能性を考えた。
そんな私の考えを知ってか知らずか、鈴子はそのまま話を続けた。
「そしたら近藤が、受話器を押さえて『電話してるから』って相手に向かって言ってたらしいねん」
「そうなんや。お母さんとか?」
「違うよ、可愛らしい女の子の声って言ってた」
「ああ、…やっぱり浮気ってやつか」
この私の「浮気」という言葉に対して何か感じたようで、鈴子は一瞬だけ顔をしかめたが、何事もなかったようにそのまま話を続けた。
秋山さん曰く「その声は同じく体調を崩して休むと連絡をくれた、敦子の声だった」というのだ。
鈴子としては、敦子のことも考えると断定してしまうことはよくないと感じたようだった。鈴子は秋山の不安から来る思い込みの可能性も捨てきれないと、その時は彼女を何とか説得した。
しかし今日、彼女と近藤が一緒にあの店にいたことを見て2人の関係について確信したという。敦子は新しい獲物を見つけたから、使い古した男は必要ないと判断した。そして不倫相手を捨てようとしたものの、相手が諦め悪くズルズルと追いかけてくるものだから、奥さんに何らかの方法で不倫を知らせたかもしれない。
大方、奥さんが休日に居そうなところにわざと出かけたり、不倫現場を押さえさせたのだろうと鈴子は推理したそうだ。
残念ながら私はそこまでの想像力がなく、敦子から聞いたままの事実と鈴子から聞いた事実を吟味することにした。
そして、敦子の性格を考えると不倫現場を押さえられて、妙ないざこざに巻き込まれないようにと最低限の準備をしていたと考えている。
だからといって、ばれるためにデートしたということは考えにくいが、それなりに隙を作って男へ全責任を押し付けるように算段した可能性は十分にある。
その下準備にどうしても必要なのが、敦子の本命の男だ。本命の男がいるおかげで「私はあなたの夫には興味がない。どうしてもと言われて数回会っただけ」という展開へ持っていこうとしたのではないだろうか。
結局、敦子のことは敦子にしか分からないことだろうという答えに達し、この場ではそれ以上の話をすることはやめることにした。
それよりも、先ほど店内で見たレア物の商品について値段交渉をすべきか等、他の話で2時間ほど喫茶店に居座っていた。
結局、先ほどの店に戻って買い物を済ませた後、鈴子は私にこう言った。
「あまり、彼女の肩ばかり持たないほうがいいよ。敦子の評判は良くないし。少しずつ評判が悪くなってきてる。いつか共倒れする可能性があるよ」
私はその言葉の意味を理解し、そして今後はもっと冷静に敦子と付き合っていこうと心に決めた。
そして同時に、時々現れるようになった少女の言葉を心の中で繰り返しつぶやいていた。
『八方美人だから、嫌いだって陰口を言いながら嫌われたくないんでしょ。みんなに良い顔をしていい人でありたいんでしょ?』
翌朝、駅の改札口で磁気カードが通らず困っている男性に出くわした。首を傾げながら、もう一度タッチしてみるが「もう一度やり直してください」とアナウンスが流れている。後ろに並ぶ人たちが、「朝の急いでいる時間なのに」と言わんばかりの顔でため息をついていた。やがて、隣の改札口が空いたので後ろの人たちが隣の改札口へ移動していく。
私は急ぐわけもなく、のんびりとその男性の後ろに並んだ。岸辺駅では駅員がラッシュ時間なのに1人体制で切り盛りしていることが多々ある。今日もそうだった。そして、その駅員は別の利用客への対応に追われているために、男性へ手助けすることができないでいた。
太めの使い古した折り畳み財布を何度もタッチしているが、同じアナウンスが流れている。我慢しきれず私は男性の背中を軽くたたいて言った。
「カードだけでタッチしてみたらどうですか?」
「え?…ああ、そうか」
彼は気が付いたように財布からカードをを取り出して、恐る恐るタッチした。すると、すぐに認識音を発して彼は改札を通ることができた。私はその後ろをのんびりと通り過ぎて大阪方面のホームへ向かった。
彼はと言うと、余程急いでいたようで駆け足でホームへ向かっていた。内心「お礼とかないの?」と不平をこぼしかけたが、こういうものなんだと納得することにした。
職場へつくと早速、敦子から呼び出しがあった。休憩時間に相談したいことがあるそうだ。しかも何故か私と2人で話したいと言う。
恐らく昨日のことだろうが、生憎、私は同僚とランチの約束をしているので、丁重にお断りを入れた。
すると今度は、定時に仕事を終わらせて一緒に帰ろうと提案してきた。ここまで必死になるということは、かなり相手に入れ込んでいるのか本格的な男性狩りが始まっている最中なのだと思える。
約束はできないが定時に帰る事ができるならそうしようと言った。無理ならメールを送ると断りを入れて、さっさと自分の席に着いた。
昼休みは同僚の松岡と伊藤、そして光井と4人で地下1階にある定食屋で食事をとることにした。
今日は松岡が手に入れた当てた割引券を使うために、午前中は必死で働いて全員で昼食を一緒にとることを目指した。
食事を済ませ、午後からは昼食の楽しい余韻に浸りながら、明日の業務の準備や午前中の業務報告に対する上司からの返信内容のチェックで過ごすつもりだった。
それが突然、今の仕事をすべて残した状態で緊急ミーティングを開くことになった。
中川や安藤が渋い表情をしながらミーティングの経緯を話し始めた。
先日、クライアントへ返信したホームページ上に記載予定の内容で、一部誤りがあるという指摘をされたという。
そのメールのチェックをしていたのが、私と光井、そして松岡の3人だった。3人で細部まで見直しをしては文章の再作成を何度も行い、完成した後、それをまず中川に通知してクライアント側へ完了報告をした。
しかし、その掲載内容の誤りの見落としが発生した原因について詳細に説明するようにということだった。
まず、私たちの上司である中川が暗い表情で状況を話し始めた。
「この前、3人に渡した文書。クライアント側から来た内容そのままだったんよ。それを私たちで再構成をして、クライアントへ提出してホームページへ掲載する手はずになってたの」
「たしかに、その説明は先日も中川さんから聞いています」
「そうそう。3人で各カテゴリーごとに分けて編集をして、構成段階で辻褄や文章表現に間違いがないか確認を繰り返した。そてから私と打ち合わせをして…そして完成して、私からクライアント側へ提出したんです」
安藤はじっとみんなの表情を見ながら無言を貫いている。この件については、自分ではなく、中川にすべての責任を負わせているようだ。
そうすることで、中川がさらに責任者としての自覚を養わせることが目的なんだろうと推測できた。
「そのね、実は凄く言いにくいねんけど」
中川は本当に申し訳なさそうな表情で、私たち3人の顔を見た。
実はクライアント側が提出した文書事態にそもそもの誤りがあり、クライアント側もその事実を確認せずに、届いた内容をそのままホームページ上へ部掲載してしまったのだという。
私たちは唖然とし、言われた内容を心の中で復唱した。そして、あれだけ掛かった時間と労力のことを考えると、何もしていないのに体中に疲れが押し寄せてきた。
完全に私たちの間違いではないと分かっているうえで、開き直った状態で「お前たちが間違いに気づいてくれなかったからこうなった」と言っているようなものだ。思わずため息が出てしまい、それを安藤にぎろりと睨まれて無言で注意された。
そしてクライアント側からは「一部、掲載に誤りがあったことへのお詫び掲載」と「正しい文書を送りなおすから再構成して欲しい」ということだった。
なおかつ、今日中にすべての内容を完成させて提出して欲しいという。
それに対して3人とも、何も言葉が出なかった。怒りもあるが悲しみもあり、下請けと言う会社の役割に違和感を感じた。
クライアントに対しては、何故、最終確認をせずにホームページへ掲載してしまったのか。『この会社への信頼が厚い』と言われると何とも言えないが、会社間での信頼と『確認を怠り、誤掲載をした』ことの言い訳にはならない。
あの文章構成には、会社の全イメージが関わると何度も念押しされた。だから残業時間も含めて4日間、念入りに文章構成とすべての内容をチェックして、ようやく完成したのだ。
あれだけ『会社のイメージに関わる』と言っていた内容をあっさりと掲載したなんて、手を抜くにもほどがあるのではないのかと思った。
横にいる松岡や光井はさすがに社会人としての常識を弁えている。とても冷静に中川や安藤と話をしている。
「何時ごろまでの提出ですか?」
「クオリティを高めるためには、半日は時間が欲しいです」
「うん、今日の20時までには提出したい」
時計をみると、午後2時だった。今からそれぞれの役割と段取りを決めて、一斉に取り掛かることになった。
今回は中川も加わり、それに伊藤も今日中と言われていた仕事を処理し終えたので参加できると言ってくれた。
それに午後からは武藤と池田も出勤するので、誤字・脱字や文章誤りのチェックを頼めるかもしれない。
私たちは気合を入れなおして席に戻った。途中、敦子に『今日は定時で帰宅できない。また今度にしてくれないか』とメールを送っておいた。
みんなの機敏な動きと無表情で冷静は会話を聞くたびに、自分が子供っぽくて身勝手で我儘だとつくづく感じては暗い気持ちになった。
ロッカーから出る寸前に、メールが返ってきていた。内容を見るだけなら数秒で済むと思いメールを開いた。すると、やはり敦子からだった。彼女はどうやら休憩室か別の場所で携帯電話を確認しているようだ。
『どうして?仕事が忙しいの?私のほうはすぐ終わるから大丈夫だけど?』
やっぱり彼女には自分の部署と私の部署の違いを理解できていない。いや、理解しようとしていないのだと痛感した。
すると、暗い表情がもっと暗い表示に変化している私に気が付いたようで、光井が「どうしたの?」と聞いてきた。
「今日、定時で終わったらお茶でもしようって誘われてて」
「え?男?」
私は苦笑いしながら、首を左右に振った。そして敦子からだと説明すると「ああ、なるほど」と訳知り顔で納得してくれた。
実のところ、光井も敦子の性格やあらゆる噂について熟知しているのだ。敦子だけではない。秋山さんと近藤くんのことについてや、細井という上司の女好きで職場の子にすぐに手を出すという話、それに他にもある男女関係の噂話まで。
とにかく小さなことから大きなことまであらゆる情報が、同じ社内でも別室に押し込まれて、日々悶々と作業に勤しんでいる私たちの部署にまで伝わってきている。
それぐらい、この会社の人間は噂話が大好きなのだ。それについては、私もある意味、ストレス解消の一環にもなるので嫌いではなかった。ドラマのような話だと半分楽しみながら聞いている。
「私、毎回思ってるんやけど。なんで敦子さんと親友なの?」
「え?なんで?」
「今まであの子と一緒に帰ったり、食事したりする人なんて全くいなかったんよ。ホンマに、一人もおらへんかったのにって思ってね」
「そうなの?」
そうそうと光井は頷いて、私と鈴子は心が広いというか仏様でないかと冗談めかして言った。そんな話を敦子が聞いたら何と言うだろうと思った。
そういえば、かつて敦子から自分が社内で色んな噂を振りまいている獲物になっていると言っていた事がある。私は全く知らず「どういうこと?」と聞くと、私を見て笑ってこういった。
「みんなね、狭い社会でストレスが溜まってるの。で、誰か標的を見つけて、その獲物を馬鹿にすることで鬱憤晴らしをしてるの」
「まあ、そういうことってあるかもね」
「でもね。私はみんなよりも色んな社会を見てきて、十分色んな社会を理解してるの。」
「理解?」何を理解してるの?と聞くと、彼女はわざとらしく人差し指を口に当てて、
「大人として、子供の我侭を甘んじて受け入れてあげているってこと」と言い放った。その言葉を聞いた瞬間の私の表情が、一体どんなに情けない表情だったか、誰かに写真に撮ってもらいたかった。どうやら彼女は、自分が誰よりも大人っぽくて常識人であると主張したのだ。
なるほど、だからこそ由美のような我侭な子と気が合うんだと納得した。それに由美は由美で、敦子が唯一自分を理解してくれる女友達だと思っている。
これぞまさに『類は友を呼ぶ』という言葉そのものだと言いたくなった。
でも、そうしたら私もその『類』ではないかと急に不安になった。
しかし、その不安はすぐに吹き飛んだ。同じ『類』でもその中に鈴子もいるのだから、それなら『類友』でも構わないと思った。
「京ちゃん、ここ。この表現だけもう少し分かりやすくやり直して」
「わかりました。やり直します」
私はそう言って、もう一度パソコン画面に向き直り作業を再開した。するとまた、中川に名前を呼ばれた。今度の話は周りの人間に聞かれたくないようで私の腕を引っ張ると、部屋の端に連れて行かれた。
何事かと彼女を見ると、やはり言い難そうな表情でこう言った。
「さっき、寺川敦子さんから内線があったんやけど」
「え?な、内線ですか?」
「昼休みに出かけた後と、戻る直前に。2回も諸事情でって」
彼女曰く、私と用事があるのに仕事があるからと断られたことと、残業しなければいけないことなのか?という内容で、2回も連絡がきたらしいのだ。
1度目は中川自身が応対をしたが、2度目は部の統括部長の安藤が応対して激怒したというのだった。彼女の素行は品質的にはそれほど悪くないが、わざわざ社内電話を利用して話すことなのか?と、私自身へは中川から確認を取るようにと言われ、安藤は敦子自身のもとへ厳重注意をしにいっているそうだった。
「ほんとに、言いにくいんやけど、仕事以外のことは携帯電話でやってほしい」
「申し訳ありません。彼女には私からも言っておきます」
「それから…こんなこと言うのも、余計なお世話かもしれないけどね…寺川さんって評判が良くないのよ」
「わかってます。彼女とは、あまり付き合わないほうがいいってことですね」
「プライベートまでは制限する権利はないけど、勝手すぎるところがあるんよ」
「はい、すみません。以後、気を付けます」
ご迷惑をかけますと中川に謝罪し席に戻った。すると早速、松岡と光井が「敦子のこと?」と聞いてきた。私は苦笑いをしながら「そうだ」と答えて「仕事も人付き合いも難しいね」とだけ言った。
夕方5時になると、松岡の作業は大方終了の兆しが見えてきていたようだ。なおかつ、午後から出勤してきた武藤と池田も同じくかなりのスピードで作業を終了へ向かわせていた。
やはり彼女たちのタイピングスピードと、最終チェックの連係プレイについては驚きを隠せないでいた。武藤と池田は、30代で同じ派遣会社からここへやってきた。それから5年以上も、相棒としてお互いを支えあいながら活躍しているだけはある。
私のような1年半の新参者では太刀打ちできなず、何もかも遅れを取っていると痛感した。
2人の仕事をする際の軽快なやり取りは、いつ聞いても楽しげで一緒に仕事すると疲れもストレスも忘れてしまう。
「武藤ちゃん、ここの1文だけさぁ…おかしくない?」
「おかしい?笑えるってこと?」
「いやいや、日本語が日本語として機能してないってこと」
「ああ、それは大変やなぁ」
「うん…せやからね」
「うん、その1文が私には見つけられないことが、非常に残念やなぁ」
「うん、わかった。こっちで修正するわ」
これを「支え合って仕事をする姿」というべきなのか、それとも武藤の池田に対する甘えなのか。それでも、こういった2人のやり取りがあるからこそパソコン画面としか対話しない暗い部署と言われているにも関わらず、誰もが明るい表情で気楽に仕事をしていられるのだ。明るい職場に変貌した要因は、それ以外にもある。
統括部長の安藤や中川の常識外に明るい性格と、多少の愚痴や世間話も仕事のうちという考え方が、私たちみんなの心を軽くしてくれている。
おかげで私や松岡や光井、伊藤、武藤、池田、そして新しく入った仲間である大井はこの部署を何処よりも大好きで、同会社内でも仕事内容に対して誇りを持って臨むことができるのだ。
「京ちゃん、このファイルの見直し終わったから」
伊藤が私に缶コーヒーを渡しながらそう言った。私が担当しているフォルダ内のファイルに「完了」と書かれたものが3つあった。残りは今作業に取り掛かっている4つ目のファイルだけになっていた。思わず「やった」と叫び、伊藤にお礼を言った。彼女はとても照れ屋でお礼を言われて「まぁ、仕事やし」と小声で言いながら、右手をひらひらとさせて「ちょろいもんよ」と言ってのけた。
「じゃあ、うちらは遅めの食事タイムに行ってきます」
武藤と池田が席を立ち、中川と安藤に仕事の経過報告をして部屋を出て行った。2人が抜けたあとは、しばらくパソコンのキーボードの音が室内に響くのみで、誰も話そうとしない。
何事かと思い、松岡を見ると私の視線に気づいたようで軽い咳払いをしたあとに、安藤の機嫌が物凄く悪いということをパソコンのインスタントメッセージ越しに知らせてくれた。
安藤の席を見ると、むっつりした表情をしながら携帯を片手にメモを取りながらヒソヒソと話をしている。
つい先ほどまでは、機嫌よく武藤や池田を送り出していたのに、一体この短期間に何事があったのかと訝しんだ。どうやら、別支店の部長から仕事の連絡のようで、要所要所の会話がポツリポツリと聞こえてくる。
● 新部署の開設の人員
● 部屋の確保
● 新しいクライアント
私は、安藤の話の内容が非常に気になったものの、聞き耳を立てすぎると中川に釘を刺されてしまうので目の前の仕事に集中することにした。
すると、松岡からもう一通のメッセージが届いた。「昼間の電話の件、敦子が安藤さんに今日の残業について根掘り葉掘り仕事内容を聞いたらしい」という。
安藤は、会社内でも特に敦子を要注意人物として注目している。どうやら20分ほど敦子との電話に付き合わされたことも、安藤がむっつりとした表情をしている原因のひとつのようだ。
それなのに安藤は、私には一切お咎めの話がないのはどういうことなんだろうと不安になった。
もしかして次の契約更新時に、敦子のことも含めて「これを最後に更新しない」と言われてしまうのではないだろうかと思った。しかし、私のそんな心配は取り越し苦労だったようだ。どうやら中川から詳しい事情を聞いたようで、それならば私に再度聞く必要はないと判断していたそうだった。
安藤の電話が終わり、徐にこちらにやってきた。何事かと思えば「小腹空いたけど、食べたいものない?」と私たちに聞いた。
こんなとき、安藤に気を使うのは彼の気を悪くさせる原因になるので遠慮なく「カリカリ梅や茎わかめを食べたい」と私が言ったのを皮切りに、一斉にお菓子の注文が安藤に殺到した。
「君らの胃袋の心配をしてやったのに、お菓子が食べたいっていうだけなの?」
「女性は夕食前にお菓子を所望します」と松岡が冗談めかして言うと、全員が頷きながら笑った。
安藤の様子をこっそり伺い見ると、どうやら機嫌は少しずつ良くなっているようだ。 折角なので、私と松岡が買い物に付き合うと申し出た。安藤は「もちろんだ」と言い、私たちを連れて部屋を後にした。
「君のさぁ…あの親友、仕事と遊びの区別つかないの?」
エレベーターホールで突然、安藤が私に言った。敦子のことだと咄嗟に気づき、「時々、判別付かなくなるみたいです。ご迷惑をおかけしました」と改めて電話の件も含めて謝罪した。
「それ以外にも、素行が悪いよね。君って、ほんとによくあんな子の友達でいられるよね」
「それは、私も自分自身を褒めているくらいです」
「だろうねぇ。俺だったら、友達どころか話すことだってやめるわ」
彼の物言いは、上司としてどうなのか?と言う人間も多い。しかし、トイレや喫煙室でコソコソ噂話をしている人間に比べると陰湿なところがなく、はっきりと間違いの指摘や褒めるべきところは褒めることができる人だ。
少々の口の悪さはともかくとして、私はこういうはっきりとした人物が大好きだ。
だから余計に嫌々ながらも敦子と友達付き合いしている、はっきりしない性格の自分が嫌になる。私も彼のように「友達やめる」と言えたら良いのにと思う。
「君の他人への優しさは、大変褒めるべきところだけど。人が良すぎるのは悪いところだからね」
「はい。よく言われます」
「でしょ?彼女もそうだけど、誰だっけ?もう一人いる、あの我侭な女」
「ああ、田中由美ですよね?」
「そうそう。2人の評判は悪い。でも君の評判はとても良い。だからこそ、あの人間たちと共倒れなんてやめてほしいね」
と、最後の最後に安藤に釘を刺され、その話は終了した。
地下にあるコンビニに着くと、私たち3人は早速、みんなから頼まれた買い物をするために、思い思いのところへ散って行った。
その間も私はエレベータホールでの安藤の忠告を思い返していた。
あくまで推測であるが、彼女たちのせいで私の評価も下がる可能性があると教えてくれたということは、現実としてありうることだということだ。だったら、何としても避けなければいけない。
「カリカリ梅と茎わかめってこれ?あと、いつものカフェオレでいい?」
急に松岡にそう話しかけられて、現実に引き戻された。「そうだよ」と答えて他のメンバーの注文品を探しに飲み物コーナーへ向かった。
気にしない風を装いながら買い物をしていたが、案の定「考え事?」と松岡に聞かれた。おそらく嘘だとばれてしまうだろうが、必死で「何でもない」といろんな言葉を利用して誤魔化した。
松岡に相談するとしたら、敦子が告白した相談事までも話さなければならない可能性がでてくる。そうなれば、彼女に対する噂話がもっと大きくて大げさなものになる。
「あまり悩みすぎないほうがエエよ。何でも聞くし」
「うん、ありがとう」
私は松岡から出た、私を気遣う優しい言葉に救われた。彼女も私がなかなか人に相談できない性格だと知っている。
それから、買い物ついでにロッカーでメールチェックをしに行くことにした。もちろん、安藤や松岡の2人もメールチェックをするつもりで、一緒にロッカールームへ向かっていた。
「うわ。何これ?」と私は思わず声を上げ、それに気づいた2人が私に何かあったのかと駆け寄ってきた。
私は驚た表情のまま、携帯の着信履歴を2人に見せた。就業終了時間の17時半以降から、2分おきに敦子から着信が入っているのだ。
「何これ?ストーカー?」
「いやいや、ただの嫌がらせじゃないですか?」
「あの子、こんなに着歴残してどうしたいの?」
「これじゃあ、彼氏の浮気を疑う彼女じゃないか?」
2人が口々に言い合っている間に、私はメールの受信ボックスを確認した。そこでもやはり驚愕した。敦子からのメールが5通も届いている。
恐る恐る内容を見ることにした。2人はと言うと、さすがにメールの内容を見るのは失礼なのでと、少しはなれたところで私の様子を伺っている。
1通目:さっき、武藤さんと池田さんに会ったよ。2人は今からご飯だって。京ちゃんはいつご飯なの?
2通目:もうすぐ18時です。今何処に居ますか?会社ですか?今日は残業ってことだけど、本当に残業ですか?
3通目:18時過ぎたけど、まだ会社にいたりする?私は30分前に仕事が終わってるから、いつでも会えるよ。連絡してね
4通目:残業終わらないの?残業しなくていいんじゃないの?だって、契約社員なんだからさ。誰かに仕事任せて帰りなよ
5通目:ねぇ、何で連絡ないの?もうすぐ18時半になっちゃうよ。親友として、残業とか仕事が大事とか、あんまり良くないと思うよ。我侭言ってばっかりじゃ友達なくすよ?もう帰るね。
結論から言うと、とくに隠す必要もない内容だったために2人へ掻い摘んでメールの内容を話した。目の前で心配そうにしている2人をみると安心させる必要があったからだ。
「悪いことはいわないからさ。友達、考えたほうがいいんじゃないの?」
「これ、本当に怖いんですけど?」
「女が女のストーカーするってことも、何かの記事で見たことあるし」
「やめてください。縁起悪いですよ」
とにかく、この着信履歴とメールについては他の誰にも話さないで欲しいとお願いして仕事に戻った。この後の仕事は、ほとんど放心状態だったが、それでも何とか自分のノルマをやりきって19時半過ぎには安藤と中川の最終確認で終了する段階にまで進んだ。
そのあとの30分間は、コンビニで購入したお菓子や飲み物でコーヒーブレイク・タイムとなった。
帰り道は、たまたま松岡と光井と一緒になり、そのまま駅まで向かうことにした。光井とは何気ない仕事の話から趣味の話、そして最近見た映画の話をした。その間ずっと、松岡は黙ったままで私たちの話を聞いていた。2人の会話が途切れた頃合いを見計らって彼女が切り出した。
「敦子さんと由美さんのことやけど」
「え?どうしたん?急に」
「京ちゃんには話しておいたほうがいいかな?って思ったから言うわ」
何故私に?と思ったが、恐らく2人から親友と慕われているからだと瞬時に理解した。
「由美のほうは、次の契約更新はないって」
「更新なし?」
「仕事のミスが多い。遅刻も多いし、就業態度も悪いってことで、人事部から通達があったらしい」
「そっか…仕方ないね」
敦子については仕事でのミスも少なく遅刻もないことから、契約の更新はあるものの、就業態度については厳重注意を行う予定らしい。ということだ。
私も光井も、突然の松岡の告白について何も言えなかった。2人の問題にあまり首を突っ込んではいけないと悟った。そのこともあって、数時間前に安藤も私に遠まわしに注意を促してくれたのだ。
「ありがとう、言ってくれて」
「いや、人事部と仲いいと色々聞いてまうからなぁ」
「それもしんどいなぁ」
その日の帰りは珍しく缶ビールを買って帰った。ほとんど飲めないくせに、何だか飲みたいと思った。
どのメーカーでもいいから目に付いたビールを買って帰った。そして、案の定ものすごく不味いと感じてしまい、半分以上も飲めなかった。それからすぐに、ウトウトとしてしまい、いつの間にか小さな頃の夢を見ていた。
高校在学中の夢で、高槻の府営住宅に住んでいた頃の夢。二度と体験したくないあの生活。ビールなんて飲むから思い出したんだと、自分自身を本気で恨んだ。
● 1999年 高校時代(10代)
大阪に戻って数年が経った頃、父と母が何度か会うところを目撃した。
決して楽しげな雰囲気ではなく、母がお金に困っては父に借りに行っているのだろうと思っていた。母と父の離婚後の慰謝料や養育権についてはかなり適当たっだ。あの頃は、誰もかれもが社会のルールや離婚後の生活に対して無知であった。
親権以外のことは何も深く相談していなかったようで、未だに母は父の姓を名乗り、何か大きなものを購入するときには父の名前を書いて保証人にしていた。 今回もそのケースで、車を買うというのだ。
「だって、車があったら色んなところに遊びに行けるやん」
「でも、駐車場とか車って色々お金かかるんやろ?」
すると母は、なんでもない風に言うのだ。
「あんたらのお父さんに頼めばいいねん」。
母にとっては別れた元夫だが、私たち姉妹にとっては未だに同じ姓で父親なのだから、子供のために何かしてあげるのは親の務めだと言う。
私は、母のこの周到な計画に驚いた。慰謝料を全くもらわない代わりに、あらゆる面で私たち姉妹のことを引き合いに出しては、お金を借りたり車を買ってもらう。最終的には自分のパーティドレスや着物、化粧品に至るまで父親に交わせるようになった。もはや子供のためではなくて、自分と新しい彼氏のためなのだと理解した。
府営住宅の全体像は、迷路のようなつくりで長年住み慣れない限り自分の団地棟に到着することが困難で、あのタクシー運転手や郵便局員も迷ってしまうほどだ。
父と母が別れる原因を作った武田と母は、数年前に別れていた。別れていたことすら私たち兄弟は知らなかった。その後は、数人の男性と一晩限りであったり、食事デートだけであったり、色んな出会いを求めて歩き回っていたようだで、今は大柄で詩人のような心の綺麗な男が恋人だと母に聞かされていた。
その男は津田と言う男で、私が家を出て一人暮らしを決心させてくれるきっかけを作った男だ。
私は母から知人に新しい男を紹介してもらったということだけを聞いており、名前を教えてもらったことが無かった。私は母の友人からようやく「彼は津田、という名前だ」と教えてもらった。
津田という男はほとんど毎日のように家に来ては、大きな声で自分がどれだけ凄い人間で、どれほど破天荒な人生を歩んできたのかを一生懸命に話してくれた。それこそ、馬鹿馬鹿しくなるくらい話してくれた。
「京ちゃんも、友ちゃんも、おじさんくらい苦労した男と一緒になるほうがいいで」とは言うものの、津田は離婚経験があるそうだ。という設定だ。結局は、離婚もせずに母からお金を巻き上げようとしていただけなのだが、その頃は母も私たちも、そんな事実を全く知りもしなかった。
しかし、母はその自慢気に話す嘘を全て信じていて陶酔していた。いつか、その男が趣味で書いているというイラストを見せてもらったことがある。イラストのほかに、くそ寒いポエムも添えられている。
「ほら、とってもうまいやろう?」
「…へぇ」
「なんか、相田みつをっぽくない?」
「ふぅん」
「お母さん、こういう人と出会えてホンマによかったわぁ」
とは言うものの、本当に「相田みつを」の真似をしているのではないだろうか?と思った。
母によると、彼がこれを書いているところを一度も見たことが無いというのだ。こんなポエムつきのお手製のポストカードなんて、大阪駅周辺を歩いていれば簡単に手に入るものだ。
大阪駅周辺には、未来の「相田みつを」や、もっと優秀な絵描きもいるのだ。その中の誰かの作品をまとめ買いして、カードに書いてあるサインについても「作家名だよ」と適当に言っているのではないだろうか。
何しろストリートで絵を描いている人間は、何故だか全員が揃って文字の意味を成していない文字が自分の名前だと主張していることが多いのだから。こんな手書きポストカードの偽装なんて案外簡単なのだ。
それでも相変わらず、何にも気付かず相手を見る目は昔から変わっていない母親をみて、本当にこの人から離れたいと思った。
府営住宅に住むようになってから、大きく変化したことがある。兄と一緒に暮らすようになったことだ。兄はたまたま私たちの住まいの近くの会社に勤めていて、利便性があると実家の祖父母たちを説得して家を出てきたのだという。父もそれに大いに賛成したそうだ。
父としては、自分の子供なのかわからない子供で、しかも折り合いも悪い相手と一緒に生活するのは面倒でしかなかったのだろう。
そして、兄と一緒に暮らすことで、少しは母も男を連れ込むことを自重するだろうと思った私の考えは甘かった。
兄がいてもいなくても、最早何も変わらなかった。
私は学校から帰宅すると、念入りに化粧をしている母を見てはため息をついていた。
すると母親は、かならず「あんたがお兄ちゃんと妹の2人の面倒を見てやればいい」と言った。
その理由は「お母さんは、永遠に好きな人のそばにいたいんよ」とか「お母さんは、あんたと違って女や。お姫様みたいに可愛がられたいと思うのが、当たり前なんや」と何度も言われた。そしてそれを兄と妹は他人事のように傍観していた。
「お前、勉強以外は部活くらいなんやろ?」
兄は私に言った。そして学校帰りに買い物をして、帰ってきて洗濯物を取り入れて、掃除をすればいいと簡単に言ったのだ。
「私だって友達と遊びに行ったり、寄り道だってしたいねんけど」
「それは、お前の我儘やろ?俺には関係ない」
兄の言葉に愕然とした。妹は何も言わずにテレビをゲラゲラ笑いながら見ていた。
「お前の母親やろ?好きにさせたらええやんけ」
兄は一切「手伝わない」と言う。妹も「私は子供だからわからない」と逃げる。私の意見が我儘と言うなら、私に一切の家事を押し付けて家を空けるのと、「面倒だから一切手伝わない」というのと「子供だからわからない」という言葉は、身勝手というべきではないだろうか。協力し合って生活していくと言うことをしてくれないのだろうか。
「学校の帰りにさ、淡路のマクドで試験の答え合わせするんやけど?」
「ごめん。買い物せなあかんし、洗濯物も干したままやねん」
「そうなんや。なんか、大変やなぁ」
高校時代に何かと私の世話を焼いてくれた松下と池上、そして大野はいつもそうやって心配してくれた。他の同級生は付き合いが悪いと言って、すぐに私への興味をなくしたのに、この3人は最後の最後まで友達で居てくれた。
そう言えば、よく学校帰りの電車で自分の生活を呪い母を呪い、兄や妹を呪い、火事で何もかも無くなってしまえばいいのにと願ったことがある。
家までの道のりを、とぼとぼと歩きながら泣いていたこともある。修学旅行のお土産を意気揚々と持って帰ると、「こんなつまんない物買ってきて」と馬鹿にされてテーブルに放り投げられたときは、発狂したいのを我慢するのに相当の努力を必要とした。
あの高校生活をもう一度だけ繰り返し経験できるとしたら、私は迷い無くあの家を焼いて、この世から家族を消してしまっていただろうと思う。
あの時の私は、あらゆる意味でどうかしていたんだと思う。もう1ミリも望みが無いはずなのに何を願って何処に希望を見出して、ひたむきに生きていたんだろう。
どうして一生懸命にあの3人のために自分の遊びを犠牲にして生きていこうと思ったんだろう。良い意味では「気が良い」、悪い意味では「気が弱い」自分が情けなくて仕方なかった。
そんな夢から覚めると、頬の横がびっしょりと濡れている。どうやら泣きながら眠っていたようだった。
本当に悪い夢をみた。あれ以上のことを何も思い出さなくて本当によかった。
● 2011年:7月頃(現代)
翌朝、いつもどおりに家を出て駅のホームで電車を待っていた。
私はヘッドフォンでお気に入りの歌を音漏れギリギリのボリュームで聴くのがお気に入りで、いつか敦子に『耳が悪くなるよ』と窘められたことがある。でも、どうしてもやめることができない言わば『出勤前の儀式』のようなものだった。
現実から歌の世界へ陶酔することで、心を軽くして仕事に望むことができるのだ。ぼぉっと目の前の線路を見つめていると、隣に人がいる気配を感じた。足元を見ると気味が悪いほどに私に接近していて、つま先が私のほうへ向いている。 後ろを通りたいが、通れないのかと思い、少しだけ前に進んだ。それでもその足は私へ向いたまま動こうとしない。
何事かとゆっくりと目線を上に向けると、長身で細身の男性が私に話しかけているようで、口をパクパクさせている。『ヘッドフォンをしている私に何でわざわざ話しかけるのか?』と思い、もしや音漏れを注意されているのかと、ボリュームを下げて「なんですか?」と聞いた。
「あの、この前はありがとうございました」
私は怪訝な表情をした。見ず知らずの男性にお礼を言われる筋合いはないからだ。私は首を傾げて「はぁ?」とだけ返事した。
「ほら、あの改札口で…その」
その時、ようやく思い出した。改札口で磁気カードが通らずにモタモタしていた男性だ。
「あの…助かりました」
「いや、よかったですね」
「お礼を言い忘れていたので、会えてよかったです」
「そうですか。わざわざありがとうございます」
会話が一通り終わると、私は何も言わずに前を向いた。その男性もそのまま移動するのも不自然と感じたのか、隣に並んだ。
私は暇つぶしもかねて横目でチラリとその男性を観察することにした。グレーのスーツに機能性を重視した地味な鞄。少しだけ汚れが目立つ革靴。これから会社に行って、私のようにパソコンと格闘するのか、はたまた外に出て色んな会社の重役に自社商品を紹介して回るのか。
どちらにせよ、この人も毎日頑張って生きている人なのだろうと思った。ようやく電車が到着して乗り込んだとき、彼の後姿を見てふと思った。あの後姿、どこかで見たことがある。電車内に入るときに少しだけ前かがみになる姿勢で毎日毎日、同じ駅で同じ時刻の電車に乗っている背中のような気がしてきた。
電車内でも何となく私の隣に並ぶような仕草を見せたために、私は人ごみをかき分けて隣の車両へ移った。こういう時、小柄でがりがりの体形なことに感謝してしまう。
会社についてロッカールームでメールチェックをしていると、遅刻常習犯の由美に会った。今日は久しぶりに早起きができたと嬉しそうに話し、こんなに早く起きるのって凄く良いものだよ、と毎日同じ時間に出勤している私に言って聞かせるのだ。
「京は抜けてるところが多いもんね」
「ああ、そうかなぁ」
「うん。だからね、年下の私がちゃんと見ててあげんと、どんなヘマするかわからんやろ?」
生憎、あんたに見てもらわなくても一人で生活できているので問題ありませんと言いたかったが我慢した。所詮、何を言っても聞かない人間だから好きなことだけ言わせておけばいい。それに昨日聞いた話もあったから、何となく彼女を見下していたところもある。
彼女が人事部から呼び出されてミーティングルームへ行ったを聞いたのは、全体朝礼が終了後、すぐのことだった。
今頃、真っ青な表情で契約延長なしと言う話を聞ていることだろう。そして、自分がどうしてこんな目に遭うのかと、昼休みには男友達の前で泣き崩れることだろう。そんな姿を見たくないと思ったから、昼食は休憩室へも行かず一人で建物の外にある公園で食べようと思った。
「京ちゃん、何処にいたの?」
昼食を終えてロッカーに戻ると、敦子が駆け寄ってきた。何事かと思えば、由美のことで彼女は今月いっぱいで退職することになったというのだ。しかも、敦子も人事部から就業態度を見直すようにと注意を受けたというのだった。
「京ちゃんは?何か言われた?」
「別に、何も言われてないけど?」
「え?そうなの?」
彼女は意外そうに首をかしげた。私の勤めている会社は、入社時期により更新月が異なるのだ。私は敦子や由美よりも数ヶ月後に入社しているので、更新月がもう少し先なのだ。そのことを伝えると、敦子は納得したようで考え込んだ。
「私、そんなに就業態度悪いかな?」と聞くので、それは部署が違うので何とも言えないと答えた。
「とにかく、京ちゃんも遅刻とか就業態度には気をつけたほうが良いよ」
「敦子ちゃんや由美と違って、怖がりやから遅刻はせえへんよ」
「たしかに、早めの出勤で毎日凄いとは思うけどね」
何だか納得しない顔をしながら敦子は自分の仕事へ戻っていった。私の隣にはいつからかいたのだろうか、上司の中川が立っていた。
「京ちゃんに限って、遅刻はせえへんやろうし。就業態度が悪いとは思ったこと無いけどなぁ」
「まぁ、類友っていうので忠告したかったんじゃないでしょうか?」
「類友?無理やりつき合わされてるだけやろう?」
中川はそう言うと「まだ戻るには早いやろう?」と休憩室で販売している缶コーヒーを私に渡した。「少しだけ、私の愚痴というか、無駄話に付き合って」と言うのだ。彼女の仕事の愚痴や実家の母の介護の話は、いろいろと参考になることが多いので是非にと付き合うことにした。
部署に戻ると、安藤や松岡たちがすでに戻って仕事を始めていた。仕事と言うよりも、新しい商品についてあれこれ話し合い、実際に操作しているだけで傍から見ると遊んでいるようにしか見えない。
私達の部署は子供向けゲーム開発企業から委託を受けて、ホームページの作成や商品紹介ページの動画作成、発売前の最終チェックなどを行っている。
だから、何処よりもいち早く商品を見ることができて子供のように遊ぶことができる。
その反面、ゲーム内の欠陥や修正箇所を発見しなければいけないことも多くあるため、一概に『遊ぶ』だけでは済まされない重要なポストなのだ。それを全て把握した後に、ようやく商品の概要や売り込みポイントを見出して、ホームページにいかに斬新に掲載していくのかという会議が始まる。
商品開発は月に1本ずつではないので、それぞれの部署でジャンルごとに同様のスケジュールでひとつひとつのゲームを世に送り出す準備をしている。
今回のゲームは、アクションゲームで従来とは操作性も攻略方法もかなり高度な技術や論理的思考が必要だと言われていて、それについて安藤も『かなりのやりこみ要素があってクリア毎の達成感が何ともいえない』と感動していた。
私と中川も早速プレイしてみたものの、2人とも社内では有名なゲーム下手な人間なので、安藤や松岡達が言う『達成感』を味わうことができなかった。
具体的に何が難しいのか、どうして攻略できないのか、どこに躓いたのかを詳しく説明するところから午後の仕事は始まった。
夕方の休憩時間、敦子とトイレでばったり鉢合わせした。
「今日は、残業とかないよね?」
「うん、今のところは無いよ」
「そっか、じゃあ今日は夕飯食べにいけるね」
「毎日毎日、外食は無理やけど。そんな余裕ないし」
「じゃあ、歩きながら話せる?」
「駅までならええよ」
とうとう捕まってしまった、とガッカリしながらさっさとトイレを済ませると早々に自分の席へ戻った。休憩室へ行くと、恐らく敦子が傍に来るだろうから余計に疲れが溜まるだろうと考えた。
「あれ?早くないか?」と、安藤が席についている私を見ていった。
「休憩室にいるのも落ち着かないので」と苦しい言い訳をして、何とかごまかそうとしたが、安藤には通用しなかった。
「あの女ともう一人のことかな?」
「あ、そうです」
「まぁ、自業自得なんだけどね」
それはそうだがという反面、いつか自分もああやって解雇通告されるのではないかと冷や冷やしているのも事実として存在している。中川も安藤も、私達については問題ないと言い切っているが、その言い切りがいつまで続くのかが問題だ。
「そういえば、今度の金曜日にみんなで飲みに行こうって計画しているけど、どうかな?」
「あ、いいですね。いつもの居酒屋でどうですか?」
「あそこは焼き鳥が美味しいからなぁ、そうするか」
と、世間話をしているところへ少しずつみんなが戻って来た。そして、飲み会についての話で、少しだけ休憩時間が伸びたことはこの部署内だけの秘密になった。
「ごめんね、みんなと話してたら遅くなっちゃった」
業務終了後、メールで『休憩室で待ってる』と敦子からのメッセージが届いていたので休憩室に行くと、すでに誰も居なかった。どうしようかと迷っていると、敦子から『トイレで友達と話している』という内容のメールが届いた。
生憎、彼女のほかの友達とは気が合わないので『休憩室で待っている』と返信して自販機の缶コーヒーを飲んで待つことにした。30分後、ようやく休憩室に戻ってきた敦子は、全く悪いという気持ちがないようで、早速この前の言い訳をし始めた。
「あのときさ、ほら。近藤くんとバッタリ会っちゃって。それで、買い物に行こうってなったの」
「そう、よかったね」
「でね、彼女が居ることもしってるから。あんまり2人でいるのは良くないねって話を…」
とまあ、こんな感じの言い訳をしていたのだが、直訳すると『他の人間には言わないでくれ』ということだろう。
面倒なので、全ての話を『うん』、『へぇ、そうなんだ』で交わしきって大阪駅まで何とかたどり着いた。
「そういえば、鈴子ちゃんにも言ったんだけど」
「あっそう」
「あのね。これは、ここだけの話なんだけどね…近藤君、彼女と別れるみたいなんだ」
だから、お互いフリーになった時点で付き合おうとでも約束したのだろうとある程度は話の流れとして想定していた。が、ここまで的中すると預言者にでもなった気分に陥ってしまう。
でも、ほとぼりが冷めるまではお互い付き合っていないことにするから、そのつもりでいてほしいとお願いされた。私はこの『お願い』の意味が理解できなかった。
そもそも人の目を気にするのであれば、他人に話すべきではないのではないだろうかと首をかしげた。
でも、それが敦子なのだ。
世間体としては秘密にしていたいけど、自分に「彼氏がいない=フリー」というレッテルを貼られることが我慢できないから、秘密だけど「彼氏が居る=リア充」ということを強調したいのだ。
「はいはい、わかったから」
「絶対だよ。誰にも言わないでね」
「わかった。お疲れ様」
そう言って、改札口で無理やり彼女と別れた。我ながら何て冷たい人間なんだろうと自分を責めた。嫌いな人間には徹底的に冷たいが、そんな嫌いな相手にも少しだけ恩を感じている間は、嫌々ながらもこうやって付き合う。
私はとてつもなく腹黒い人間なんだと、もう落ち込むしかできなくなってしまった。
私は敦子が嫌いなのだろうか?それとも、実は友人の一人として好きなのだろうか?何のかんのと言い訳を並べて、まだ親友でいたいのだろうか?まだ付き合いの浅いうちに徐々に距離を置いて、妙な噂話から開放されるべきではないだろうか。
私は大阪駅のホームで電車を待ちながら、敦子と由美との出会いを思い返していた。




