悲運な恋文
俺こと星野は、同じ高校に通う一人の少女に惚れている。
名前を荒垣というその少女は、容姿端麗にして成績優秀という、まあ絵に描いたような優等生だった。自然、そんな彼女に魅了され恋い焦がれる男は後を絶たなかった訳なのだが、残念ながら――むしろ俺にとっては嬉しいことではあるが――荒垣という女は自分が気に入った相手以外とはろくに口も利かないタイプの人間だった。
よって、彼女に告白した男は全員が全員こっぴどくフラれている。うるさい、黙れ、喋るな、むしろ近寄るな、口臭がゴミみたい、一昨日来やがれ◯◯野郎、などなど、形のいい唇から次々と飛び出す理不尽極まりない罵詈雑言の嵐。巻き込まれた者は例外なくその日の夜に大盥七つ分もの涙を流したという。
ちなみに俺だが、告白はしていない。いや、フラれるのが怖いとかそういうのもあるにはあるが、理由は他にもある。
先程語った、彼女は気に入った人以外とは会話しないという話だが、幸運なことに俺は彼女にとっては気に入っている側の人間だったらしい。毎日雑談に興じ、昼食を共にし、週に二日あるという荒垣の習い事がない日は肩を並べて下校する。その仲睦まじさといったら(我ながらこの表現もどうかと思わないでもないが)、校内で俺達がカップルであると勝手に勘違いしてハンカチを噛みちぎった野郎を何人も見かけたほどである。
しかし、そんな関係であるが故に、俺はそれ以上を望もうとは思わなかった。有り体に言ってしまえば、すっかり現在の自分の立ち位置に満足してしまっていた。俺ってこんなに欲のない人間だったのか、と自分でもびっくりした。
このままじゃいかん、でも告白してフラれたらどうしよう、とか、そんな思春期真っ盛りな思考に侵さつつ毒されつつ、特に目まぐるしい進展も後退もないまま一年が過ぎた。
「は? 帰る?」
ある日の放課後、夕日に照らされてオレンジ一色に染まった教室で俺はそんな声を上げた。
既に教室内に俺達以外の生徒の姿はない。皆部活やら何やらで忙しいのだろう。
「ええ、帰るわ。だから悪いけど、今日の掃除当番お願いできるかしら」
現代を生きる女子高生にしては些か芝居かかった口調。肩口で切り揃えられた艶やかな黒髪と宝石のように綺麗で大きな瞳、すっと通った目鼻の持ち主の彼女こそ、俺の想い人であるところの荒垣である。
「そりゃまあ構わんが。何だってまた?」
「急な用事よ。書道教室に呼び出しをくらったの」
「書道教室って、習い事の? ありゃ確か月金の二回だけだろ。今日水曜日だぜ?」
「だから、急な用事だと言っているでしょう」
どこか苛立つように眉間に小さくシワを寄せる荒垣。こいつがこんな表情をするのは珍しい。
「なんだよ、担当の先生が危篤にでもなったのか?」
「なに、荒垣くんってばうちの先生に死んでほしかったの? そうならそうと早く言ってくれればいいのに。すぐ本人に伝えてくるわ」
「勝手な邪推で俺を陥れようとしないでくれ!」
何気ない質問の意図を深読みし過ぎだろ!
事実無根だ!
顔も知らない人間の死なんか望むか!!
いやまあ、こいつに彼氏の一人でもできた場合は望むかも分からないけれども!
「陥れるだなんて、人聞きが悪いわね。星野君のためを思っての提案だったのに」
「そんなどす黒い思いやりはいらない!!」
「あら、そうなの? でも星野君、そういうの好きでしょう?」
「そういうのってどんなの」
「ゴミを見るような目で見られるの」
「俺ってばとんだドMだな!」
自分でも知らなかった性癖が暴露された。
やっぱり事実無根だったが。
「それとも、社会的に抹殺される方がよかったかしら」
「よし、まずは落ち着くんだ荒垣。お前が今口にしたのはドMとかそういうレベルじゃない。ただの自殺志願者の発想だということに気づこう。つーか、どっちに転んでも人としては絶望するしかないだろそれ!!」
「どうあがいても、絶望」
「うるさいわ!」
珍しい表情が見れたと思ったら、結局いつもの調子じゃねえかよ。何なんだこいつ。
「まあ、確かに書道教室の呼び出しっていうのは嘘なんだけど」
「嘘なのかよ……」
「でも、急な用事っていうのは本当よ」
「どうだかなぁ……」
「信じて。私、星野君にだけは嘘をつかないって決めてるのよ」
「お前、たった今自分の発言が嘘だったと認めたばかりだよな!?」
「じゃあ訂正。嘘じゃなくて冗談でした。……まったく星野君ってば、細かいところばかりにツッコミを入れて、器の小ささがまる見えね」
「お前に器の大きさをどうこう言われたくない」
「小さいわね」
「股間を凝視しながら言うな!!」
見たことないくせに!
普通だよ!
自己評価だけどな!
荒垣はしばらく俺の股間の辺りをしげしげと観察してから、
「まあ、そういう訳だから、行くわ。それじゃ」
「あ、おい」
教室を出ていこうとした荒垣を、俺は思わず引き止めていた。
「なに?」と端正な顔がこちらを振り向く。
「あ……」
一瞬、言葉が出てこなかった。
何となく、呼び止めたくなったのだ。
彼女の言う急な用事とやらが、俺ではないどこかの男との逢い引きか何かではないかと、不安になって。
そうなったら、俺とはもう会ってくれないんじゃないかって。
そんな、馬鹿馬鹿しい考えが頭をよぎってしまったから。
俺は、自分でも消え入りそうなくらい小さな声量で、言う。
「明日は……一緒に帰れるんだよな?」
「当たり前でしょ」
それなのに、返ってきたのは、即答だった。
一秒の間も置かない、刹那の切り返しだった。
「当たり前田のクラッカー」
「いや、それはちょっと古くないか?」
「当たり前田のタケシさん」
「どちら様!?」
「とある前田のクラッカー」
「作品名みたいになった!!」
「とある前田の炸裂筒砲」
「よりそれっぽく!?」
「ともかく」
彼女は。
荒垣は、小さく、しかし確かな微笑みを浮かべながら、言う。
「あなたが心配するようなことは何もないわ。何もね。それどころか、きっと明日のあなたは、今胸に抱いている心配がいかに馬鹿馬鹿しいものだったのか思い知るくらい、幸福に包まれているでしょう。……それじゃあね、星野君」
そんな、どこか予言じみたことを口にして、今度こそ彼女は教室を去っていった。
「……あー」
残された俺は、バクバクと高鳴る鼓動をどうにか抑えようと必死で、まるで金縛りに遭ったようにその場から動かなかった。多分、夕日の光に当てられるまでもなく顔は真っ赤になっていることだろう。
つーか、なんだな。
反則だよなぁ、あんな顔。
めちゃめちゃ可愛いじゃねえかよ。
我ながら単純なやつだと思う。ただ彼女に微笑んでもらっただけで、さっきまでの不安がどこかに消え失せてしまった。
「……俺、本当にあいつのこと好きなんだなぁ」
口に出してみたら余計に恥ずかしくなって、机にガンガン頭を打ちつけたのはここだけの話。
この時の俺は、彼女が最後に言ったあの言葉の意味について深くは考えていなかった。
その後、せっせと教室掃除を終わらせ、荒垣の他に帰る友人もいないので、素直に昇降口へと向かった俺だったのだが、そこで思わぬものと出くわしてしまった。
「おいおい、マジかよ……」
"それ"は俺の下駄箱の中に入れられていた。見た目は小さな封筒で、口の方はハート型のシールで止めてあった。
「これって、やっぱり、あれだよな?」
所謂、ラブレターというやつでは……?
マジでか!?
俺に!?
生まれてこの方、嫁さんはおろか彼女の一人もできなかった俺に、ついに春のご到来!?
気が動転した俺はこれが夢でないことを確かめるべく頬をつねったり髪を一本抜いてみたり自分の拳で股間を強打したりして危うくオカマになりかけた。痛いじゃないのよ!!
「ち、ちょっと落ち着こう、俺」
ジンジンと焼けるような痛みを発する男の弱点を押さえながら、ひとまず冷静になるべく深呼吸。
そうだ、まだラブレターと決まった訳じゃない。ひょっとしたら俺と荒垣の関係を散々嫉んでいたクラスメイトの山下や田中辺りの悪質なイタズラの可能性も捨てきれないではないか。むしろそっちの方がしっくり来る。何てったって今まで一度も女子からモテた試しのない俺である。そんな俺が、ある日いきなりラブレターを貰うなんて、どう考えたって不自然じゃないか。
もちろん、本物のラブレターである可能性も捨てきれなかったが、散々語ってきたように俺には荒垣という心に決めた人がいる。
俺ごときが彼女と釣り合いが取れるとも思っていないが、だからといって他の女子と付き合うなんてもっとありえない話だ。そんなのは相手にも失礼である。
「まあ、それはそれとして」
一応は中身を見てみないことにはどうにも判断できない。その封筒には差出人の名前も宛名も書いていないが、恐らくは手紙の方に書いてあるのだろう。
「誰かのが間違って入ってた、なんてオチだけは勘弁しろよ」
明かりで透かして中身が空でないことを確認すると、ゆっくりと封を剥がし、中身の手紙を取り出し、恐る恐る読んでみた。
「事情説明を要求するわ」
翌日の早朝、教室に入ってくるなり俺を迎えたのは、眉をいつもより四十五度ほど吊り上げた不機嫌顔の荒垣さんのお言葉だった。
ちなみに、教室内には昨日の放課後と同じく俺達以外には誰もいない。なんたってまだ朝の七時ちょい過ぎだ。俺が早登校というよりは彼女がそうなので俺が合わせているといった感じである。
「事情?」
「とぼけないで」
とぼけたつもりは微塵もなかったのだが。
「昨日、読んだはずでしょう。私があなたに書いたラブレタ……あ、間違えた、恋文を」
「『ー』も言っちゃえよもうそこまで言ったら!」
意味合いとしては一緒だしさ!!
ちなみに荒垣、基本的に横文字が嫌いである。
苦手なのではなく嫌いだというのが、彼女なりのこだわりらしい。
みみっちいこだわりだ。
「っていうか、あれ書いたのやっぱりお前かよ」
「やっぱり? やっぱりって何よ。ちゃんと名前書いてあったはずでしょう」
確かに書いてはあった。差出人の名前も宛名もきっちりと。
しかし、なあ。
「昨日、あなたに告白しようとわざわざ用意したラブレタ……恋文を下駄箱に入れて、体育館裏でずっと待ってたのに、いつまで経っても来ないし。そりゃあ、星野君は星野君なりにその駄目な頭を使って『先に帰るとか言っておきながら後で呼び出すのはおかしいだろう』とか素人推理をしたのかもしれないけど、だからってそれが本物である可能性をまったく考慮しない行動を選択するのはどうかと思うわ。せっかくの私の伏線めいた台詞が台なしじゃない。少しは考えなかったの? 本当に私から恋文を貰う可能性を――」
「いやいやいやいや」
マシンガンのような勢いで紡がれる彼女の言葉に俺は待ったをかけた。
つーか今、駄目な頭って言ったかこの女。
まあ、今それはいい。後で問い詰めるとしよう。
「荒垣。確かに俺、あの手紙を書いたのはお前だっていうのは、昨日のうちに分かったよ? でもさ、ちょっとあれは無理があると思うんだ」
「なに、現代人の星野君からしてみたら古風過ぎる恋文なんか受け取れないってこと?」
「いや、そうではなくて」
彼女の怒り顔に、わずかに困惑の色が混ざる。
それをまっすぐに見つめながら、俺は一つの真実を口にする。
「お前の字――――達筆過ぎて何書いてあるのか全然読めないんだよ」
「…………あ」
納得したような、彼女にしては凄く貴重な、間の抜けた声だった。
まあ、つまりはそういうこと。
書道教室に通っている影響で、荒垣の書く字は、その筋の玄人もびっくりの達筆っぷりだったのである。
せっかく書かれたのに、まったく役に立たないまま終わった、悲運な恋文だった。
その後、二人は無事に交際→結婚しましたとさ。