とろける
「蕩けるような、ご気分でございましょ」
この湯屋の女将は、それこそ蕩けるような艶やかな声を出した。
私が堪能するこの白濁の湯を、そのまま固めたかのような白い肌の女だ。
湯治で訪れたこの湯屋。しなびた母屋に、古びた湯船。
風情があると言えば聞こえがいいが、ただ廃業間際の温泉宿のようにも見えた。
「ここは湯が自慢でしてね」
全てが古ぼけたこの湯屋で、その女の周りだけは馥郁たるような色気が漂っている。
女はこの湯に私を案内すると、出ていくこともなく湯船のヘリに腰をかけた。
実に自然な腰の降ろし方だった。
私は湯につかる為に裸になっていたが、まるでそんなことは気にしていないようだ。
「肌に吸いつくような。優しくまとわりつくような」
女はうっとりと頬を染めてそっと湯を掻いた。
白酒に桜を浮かべたような、それはもう、淡いというしか言いようのない頬を見せる。
私は女の言葉に、湯船に浸かったままうっとりと耳を澄ます。
思えばこの湯屋の暖簾をくぐった時にから、私は夢現のような気分だった。
「羽毛の布団を被っているような。幼き日に母に抱かれたような」
女は三つ指をついて私を迎えた。和装だった。
微笑めばその瞳に目を奪われ、口を開けばその唇に心を奪われる。
前を歩めばそのうなじに気をとられ、軽く振り返ればその胸元に魂すらとられそうになった。
今私は言葉を失っている。蕩けるように惚けている。
「いつまでもこの湯に浸かっていたい。皆様そうおっしゃいますわ」
ああ。その通りだ。
私が蕩けているのは、この湯にだろうか。それともこの女にだろうか。
湯の化身のような白い肌の女は、ずっとその湯を己の手で掻いていた。
むしろ湯から立ち上がる湯気が、あたかも女の姿をとっているかのようにも見える。
「湯加減、よろしゅうございましょ」
そう、この湯は私にとても気持ちがいい。
初めは少々ぬるいかと思った湯。それは女が湯を掻く度に、少しずつ温度が上がっていくようだった。
いい湯加減だった。いつまでも浸かっていたいと思わせる湯加減だ。
それでいて最初からこの湯加減なら、熱過ぎて入るのに躊躇していたかもしれない。
「皆様、湯治でいらっしゃいますのよ」
湯治などただのおまじないの類いでしかない。私も初めはそう思っていた。
だが全ての治療が無駄に終わり、私はせめてこの身を休めたいと思い切ってこの湯にきた。
しかしきた甲斐はあったようだ。もはや私の病気が治るとは思えない。
それでもこの湯に浸かっていると、全ての苦痛が蕩けるように消えていく。
「蕩けるような、ご気分でございましょ」
女は同じ言葉を繰り返した。全くもってその通りだ。私はそう思う。
このままではダメだと思いながら、不健康な生活をした日々。私は湯に浸かりながらそれを思い出す。
それが致命的に私の体を破壊していたと気づいたのは、医師に余命を告げられた時だった。
徐々に私の体は病魔に蝕まれていっていたらしい。そのゆっくりとした病気の進行は、それ故に私に医者にかかる判断を遅らせた。
「湯加減、少々上げますね」
女は少しだけ深く湯を掻いた。
思えば私は茹でガエルだったのだ。
熱湯に入れられれば飛び出すカエルも、水から茹でられればその逃げ出す機会を失うというあれだ。
今となっては、私は茹でガエルでありたいとすら思う。茹でガエルの末路を考えてみても、私には尚それが魅力的に思えてしまう。
「とろ、ける……」
女の声が途切れ途切れに聞こえた。
そう、私はできれば茹でガエルでありたかった。熱湯の中に居るのだということすら気づかず、何も知らずに死んでいきたかった。
だがそれはもう叶わぬ夢だ。私を待っているのは過酷で望みのない延命治療か、静かに死を受け入れるかのどちらかだ。
この湯治が終われば、医師に己の意思を伝えなくてはならない。
「とろ……」
女の声が蕩ける。
いや、私の意識が蕩ける。
ああそうか。
意識が蕩ける。私という器の境界が蕩けていく。死への不安や恐怖が蕩けていく。
「……」
蕩けるような、ご気分でございましょ――
耳ではなく蕩けた意識そのもので私はその声を聞いた。
身も心も蕩けた私。だがそれは私が望んだ末路。慈悲深い苦痛も不安も何もない最後。
白濁の湯の化身のような女は、蕩けるような声で私を最後まで掻いてくれた。