悪役令嬢は触手の化け物になりたくないので、ヒロインと逃げることにしました
「政治的な理由により婚約を解消させてほしい。ブルゴニア公国の継承権を持つアン公女との婚姻が、帝国の利益に適う」
淡々とした声だった。
大広間は静まり返っていた。蝋燭の灯りが揺れ、数百人の視線がマリー・ド・マリーヌに集まっている。3年間の学院生活を終えた卒業パーティーの夜に、13年間の婚約が終わった。
マリーは泣かなかった。
「承知いたしました」
会場がざわめく。かわいそうに、という囁きが聞こえた。3歳で帝国に来た娘への言葉とは思えない、という声も。
泣かなかったのは、強いからではない。
一年前から、知っていた。この夜が来ることを。そして——この夜を、どう生き延びるかを。
あの春の午後に記憶が戻ってから、マリーはずっとこの夜のために生きてきた。
一年前のことを思い出す。
ーーー
春の終わりの午後だった。
マリー・ド・マリーヌは自室の窓辺に座り、翌日の講義の予習をしていた。帝国皇室院の2年生になって、一ヶ月が経つ。
窓の外では庭師が花壇の手入れをしていて、風に乗って土と花の匂いが漂ってくる。平和な午後だ。何も変わったことのない、いつもの午後のはずだった。
突然、頭の中に何かが流れ込んできた。
「……っ」
思わず本を取り落とす。頭を押さえて、マリーは椅子に深く沈み込んだ。
これは——記憶だ。
自分のものではない、別の誰かの記憶。いや、違う。これは確かに自分の記憶だ。この身体に生まれる前に生きていた、前の世界での記憶。
「マリー様!?」
侍女のソフィーが駆け寄ってくる。
「大丈夫よ、ソフィー。少しめまいがしただけ」
「お顔が真っ青ですよ! お医者様を——」
「いらないわ。少し一人にして」
ソフィーが不安そうな顔をしたが、マリーの声に有無を言わせない響きがあったのか、一礼して部屋を出て行った。
扉が閉まる音を確認してから、マリーは目を閉じた。
流れ込んでくる記憶を、一つ一つ確かめる。
前世の自分はゲームが好きだった。乙女ゲームと呼ばれる、女性が主人公となって美しい男性たちと恋をするゲームを。そしてある日、少し背伸びをして購入した一本のゲームがあった。
タイトルは——
「……刻印の檻」
声に出して、マリーはぞっとした。
刻印の檻。よくある乙女ゲームで、前世の自分はパッケージの絵柄に惹かれて購入したもの。内容はヒロインとさまざまな男性とあんなことやこんなことを繰り広げながら仲良くなり、それを嫌悪した悪役令嬢がヒロインをいじめなき、最後に婚約破棄をされる。ヒロインは攻略対象と仲良くエンディグを迎えるというありきたりなもの。
ただし——この世界に生まれてから、知ったことがあった。
このゲームの刻印は、魔法の紋章などではない。
宇宙の外縁に、何かがいる。言葉も、理性も、時間の感覚も持たない巨大な存在。それが現実の薄い膜を通してある人間に触れた時、その接触の痕跡として皮膚に刻まれるのが刻印だった。刻印者はその接触点として機能し、意図せず外なる存在の力の一端を行使できる。
力には種類がある。
対象の思考に言葉を滑り込ませ、自分の考えのように錯覚させる「囁き」。相手の感情や精神状態を色や歪みとして感知する「眼」。相手の動きを一時的に縛る力。それがレベル1の刻印者に与えられるものだ。
そしてレベル2になると、話が変わる。下位の刻印者を強制的に呼び出す力。記憶を部分的に書き換える力。長期間かけて人格を侵食する、従属の刻印。距離も、意志も、関係がなくなる。
だが力には代償がある。
使うたびに、声が近づく。
声は命令ではない。観察の圧力、とでも言うべきものだ。外なる存在が、宿主を通して何かを観察している。何を観察しているのかは誰にも分からない。分かろうとした者は、大抵おかしくなった。
その圧力に長く晒されるほど、宿主と外なる存在の境界が薄くなる。感情が乱れると、境界は一気に崩れる。そうなれば——身体が、その存在の形に近づいていく。
ゲームのプロローグで悪役令嬢が触手の化け物になったのは、そういうことだった。
そのゲームの悪役令嬢が——
「……わたくし、だったのね」
マリー・ド・マリーヌ。隣国マリーヌ公国の大公女にして、帝国第二王子ハルメアスの婚約者。そしてゲームの中では、卒業パーティーの夜に印が暴走し、触手の化け物となってハルメアスとジュリアノスに討伐される悪役令嬢。
窓の外は変わらず穏やかであった。しかし、マリーは呆然と部屋の中央に立ち尽くしていた。
前世の記憶が、これまでの十三年間の謎を、次々と埋めていく。
なぜ婚約破棄が起きるのか。
理由は一つではなかった。
まず、ブルゴニアの問題があった。
ブルゴニア公国は帝国内で唯一、皇帝に従わない強力な独立性を保っていた。広大な領土と豊かな資源を持ちながら、歴代の皇帝に対して独自の路線を取り続けてきた、帝国にとって長年の懸案だった。ここを抑えなければ真の帝国統一は完成しない——それは皇室にとって悲願だった。
さらに、背後からの脅威もあった。ブルゴニアはイングリアと海を隔てて近く、歴史的に同盟を結んで帝国を挟み撃ちにする動きを繰り返してきた。もしブルゴニアが敵対勢力に押さえられれば、それは「背中に刃を突きつけられている」のと同じ状態になる。
そこへ、決定的な動きが加わった。
マリーの父、マクシリアン1世の介入だ。
(父上が……)
マリーは額に手を当てた。
前世の記憶によれば、マクシリアン1世はブルゴニアの女公アンと代理結婚を画策していた。帝国の後継者問題とブルゴニアの継承権を組み合わせることで、帝国を外側から包囲しようとする、大胆な政治的策謀だった。
これに危機感を抱いた帝国皇室は、動いた。武力でアンを追い詰め、強引にハルメアスと結婚させることでブルゴニアを帝国に取り込み、同時にマリーヌ公国の介入を阻止する。一石二鳥の策だった。
そのためにはマリーとの婚約を、破棄しなければならなかった。
(つまり——父上の動きが、引き金だったのね)
マリーは静かに目を閉じた。
自分ではどうにもならない、国家と国家のぶつかり合い。三歳の自分が帝国に送られた時から、この結末は地政学的に決まっていたのかもしれなかった。
---
だが、問題は婚約破棄だけではなかった。
ゲームの記憶が、もう一つの真実を告げていた。
なぜハルメアス殿下は、十三年間ずっとマリーを避けていたのか。
「……そういうことだったのね」
マリーは壁に手をついた。膝が震えている。
ゲームの中でハルメアスは、兄であるジュリアノス第一王子に印の力で支配されていた。
印には階位がある。上位の刻印者は下位の刻印者を強制的に呼び出すことができる。拒絶はできない。ジュリアノスはレベル2の上位刻印者であり、ハルメアスはレベル1だった。力の差は埋めようがなかった。
そしてジュリアノスは、ハルメアスが他の誰かと親しくなることを極端に嫌った。
マリーとハルメアスが親密になるたびに、ジュリアノスは「お仕置き」と称してハルメアスを呼び出した。前世の自分はプロローグしか読めなかったから、その「お仕置き」の詳細は画面を閉じて見なかった。だが今は分かる。あの言葉が何を意味していたか。
「……殿下が避けていたのは、わたくしのせいだったのね」
無関心だから避けていたのではなかった。近づけば、ハルメアスが傷つく。だからハルメアスはマリーを遠ざけていた。十三年間、ずっと。
---
ではもし、婚約破棄を回避できたとしたら。
マリーは冷静に考えようとした。落ち着いて、感情を排して、論理的に。
答えは、すぐに出た。
(回避できても、何も変わらない)
婚約が続く限り、ジュリアノスの支配も続く。ハルメアスは印で縛られたまま、「お仕置き」を受け続ける。マリーが帝国に留まれば、それはハルメアスを傷つけ続けることと同義だった。
そして——自分自身も。
ジュリアノスはレベル2の刻印者だ。自分はレベル1。対峙すること自体が、土台無理な話だった。印の力で強制的に呼び出されれば、抵抗する手段がない。ジュリアノスの嫉妬の矛先がマリーに向いた時、どうなるかは考えるまでもなかった。
つまり婚約破棄を避けたとしても、マリーにできることは何もない。ハルメアスを救う力もなく、ジュリアノスに対抗する力もなく、ただ帝国の政治に翻弄されるだけだ。
(ならばせめて、自分だけは生き延びなければ)
そしてもう一つ、大切なことを思い出す。
自分も刻印者だ。レベル1の。
印を持つ者は、感情が乱れると印の声に飲み込まれる。暴走すれば、身体が異形化する。ゲームのプロローグで悪役令嬢マリーが触手の化け物になったのは、婚約破棄の屈辱と絶望で印が暴走したからだ。
卒業パーティーは一年後だ。
(泣いてはいけない。取り乱してはいけない)
一年ある。何かできることがあるはずだ。
マリーは深呼吸をして、ゆっくりと背筋を伸ばした。まず状況を整理しよう。感情的になっている場合ではない。
ゲームのヒロインは誰だったか。
エミリア。平民出身の聖女。印持ちではなく、印の声を和らげる特別な力を持つ少女。ゲームではハルメアスの印の進行を遅らせる存在として、物語の中心に立つ。
前世の自分はプロローグしか読めなかったので、エミリアがゲームの中でどんな活躍をするのか詳しくは知らない。でも聖女の力が、印の声に対して有効であることは分かっている。
(その力が、今のわたくしには必要だ)
印の声は既に聞こえ始めている。今はまだ遠い。だが使うたびに近くなる。一年後の卒業パーティーで感情を制御するためにも、聖女の力を借りられるなら借りたい。
そしてもう一つの理由。
ゲームのエミリアはハルメアスを選ぶ。でも——マリーが先に友人になれば、どうなるだろうか。
(使える手は全て使う。生き延びるために)
マリーは窓の外を見た。庭師はまだ口笛を吹いている。
一年後、触手の化け物になって討伐されるつもりは、毛頭ない。
エミリア・ルーナが皇室院に編入してきたのは、その翌月のことだった。
平民出身の聖女の特例入学——それだけで院内は騒然となった。講義の合間には必ずその話題が出て、令息令嬢たちが好奇の視線を廊下に向けている。
マリーは図書室の窓から中庭を見下ろし、騒ぎの中心にいる少女を静かに観察した。
質素な制服。帝国貴族の子女に囲まれても物怖じしない、真っ直ぐな立ち方。誰かに話しかけられるたびに屈託なく笑う、明るい顔。
(あれが、エミリアね)
前世のゲームで見た顔よりずっと生き生きとしていた。当然か、ゲームの絵と現実は違う。
「マリー様、また眺めていらっしゃるんですか」
隣でソフィーが呆れた顔をした。
「眺めているわけじゃないわ。彼女を観察しているの」
「どう違うのですか」
「目的があるかないかよ」
ソフィーは納得していない様子だったが、何も言わなかった。
問題は、どう近づくかだ。
マリーは大公女で、エミリアは平民の編入生。普通に考えれば接点はほとんどない。だが同じ刻印の講義を受けているという点だけは、共通していた。
刻印の講義は週に二度、刻印者と聖女が同じ教室で受ける。聖女の力が刻印者に与える影響を実習を通じて学ぶ、帝国独自のカリキュラムだ。
(次の実習で話しかけよう)
計画は立てた。あとは実行するだけだ。
実習の日、マリーは少し早めに教室に入った。
エミリアはすでに来ていて、席に座って教科書を読んでいた。周りの席は軒並み空いている。貴族の子女たちが平民の聖女の隣を避けているのが、一目で分かった。
マリーはエミリアの隣の席に座った。
エミリアが顔を上げる。目が合った。
「……あの、マリー様?」
「隣、いいかしら」
「え、は、はい! もちろんです!」
エミリアが慌てて教科書を端に寄せた。その動作が少し焦りすぎていて、本が机から滑り落ちそうになる。マリーはさりげなく手を伸ばして止めた。
「あ、すみません! ありがとうございます!」
「どういたしまして」
マリーは教科書を返しながら、エミリアの顔をまじまじと見た。
近くで見ると、想像よりずっと若く見える。あどけない顔だ。これがゲームのヒロインか、と思うと少し不思議な気持ちになる。
「マリー様が直接話しかけてくださるなんて、びっくりしました」
「そんなに珍しいかしら」
「だって、マリー様って……その、いつもお一人でいらっしゃるから」
エミリアが少し言い淀む。マリーは苦笑した。
「近づきにくいということ?」
「そ、そういうわけじゃ!」
「正直に言ってくれていいわよ。事実だから」
エミリアが困ったように眉を寄せる。
「……ちょっと、近づきにくいかな、とは思ってました」
「そんなに怖いかしら?」
「あ、ち、違います。マリー様の刻印が他の人と違うって思ってたんです」
「続けて」
「他の人のはコントロールされてる気がするけど、マリー様のは今にも壊れちゃいそうな、危ない感じがします」
エミリアが真剣な顔でマリーを見ている。
打算で隣に座ったはずだった。近づく理由を作ろうとしていた。
なのに今、胸の奥が妙な感じがした。
「……そんなことが分かるの」
「全部分かるわけじゃないんですけど。でもふわっとした感じなら分かります」
「それが、聖女の力なのかしらね」
「そうなのかな。よく分からないですけど」
エミリアが首を傾けた。
「マリー様、刻印は怖くないですか」
「怖いわ」
即答したら、エミリアが少し驚いた顔をした。
「怖いんですね」
「当然じゃない。使うたびに近づいてくるのよ。いつか飲み込まれるかもしれないと思いながら使い続けるのは、怖いわ」
「そっか……」
エミリアが少し考えてから言った。
「わたし、聖女の力ってまだよく分かってないんですけど、刻印の声を和らげられるって言われてて。もしマリー様が怖い時は、そばにいますよ」
「……どうして」
「え?」
「平民の編入生が、大公女の隣にいることの面倒さは分かるでしょう。なぜそんなことを言うの」
エミリアがきょとんとしてから、小さく笑った。
「面倒かどうかより、怖いって言った人のそばにいたい気持ちの方が大きかったので」
なんの計算もない顔だった。
マリーは少しの間、エミリアの顔を見つめた。それから静かに言った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
エミリアが明るく笑う。
打算で近づいたはずだった。それは今も変わらない。でも、この笑顔を見ていると、打算がどこか遠くへ行ってしまう気がした。
それからの一年間を、マリーは後から振り返ると、うまく言葉にできなかった。
最初は計算だった。
エミリアの聖女の力が、刻印の力を遠ざける。それが分かってから、マリーはエミリアと過ごす時間を意識的に増やした。実習の後に声をかけ、図書室で隣に座り、昼食を一緒に取るようになった。
エミリアはいつでも、マリーが近づくとぱっと顔を輝かせた。
「マリー様、今日も来てくれたんですか!」
「偶然よ」
「また偶然ですね。もう六回連続で偶然ですよ」
「そういう日もあるわ」
「ふふ。マリー様って正直じゃないですね」
正直じゃないのはその通りだった。計算で近づいているのだから。
だがエミリアはそれを知っていても知らなくても、同じように笑った。マリーの事情を詮索しなかった。ただ隣にいて、一緒に笑った。
ある日の実習で、マリーが刻印の制御に少し失敗した。声が近づく感覚があって、手が震えた。その瞬間、隣のエミリアがそっとマリーの手に触れた。
「大丈夫ですか」
声が、遠のいた。
「……ええ」
「顔が青かったので。無理しないでくださいね」
エミリアの力は確かだった。聖女がそばにいると、刻印の声が静かになる。マリーはその感覚に、少しずつ慣れていった。
いや、慣れていったのは、声が静かになることだけではなかった。
エミリアの笑い声が聞こえると、安心した。エミリアが図書室にいると、座る席が自然と決まった。エミリアが何かに一生懸命になっている顔を見るのが、好きだった。
ある秋の日、二人で中庭のベンチに座っていた時のことだった。
「マリー様って、本当は何が好きなんですか」
突然エミリアが訊いてきた。
「何が好き?」
「うん。好きな食べ物とか、好きな場所とか。わたし、マリー様のこといろいろ知りたくて」
マリーは少し考えた。
「紅茶が好きよ。特にマリーヌ公国から取り寄せたもの。帝国のものとは少し味が違うから」
「どんな違いがあるんですか」
「少し甘い。花の香りがする」
「飲んでみたいな」
「今度持ってくるわ」
「本当ですか!」
エミリアが嬉しそうに身を乗り出した。その弾みで髪が揺れて、秋の日差しに光った。
「マリー様は、マリーヌ公国に帰りたいですか」
突然の問いだった。
マリーは少し間を置いた。
「……三歳で来たから、公国のことはほとんど覚えていないの」
「そうなんですね」
「帰りたいかどうかも、正直分からないわ。帝国しか知らないから」
「じゃあ、帝国は好きですか」
「好きかどうかは……」
マリーは空を見上げた。
「好きよ。でも、自分の居場所だとは思っていない」
「自分の場所じゃない……」
「ここは、ハルメアス殿下の妃になるために用意された場所だから。わたしのためではなく、帝国のために作られた居場所」
しばらく沈黙が続いた。
「……それって、寂しくないですか」
エミリアの声は静かだった。
マリーは空を見たまま答えた。
「寂しいという感情は、ずっと前に蓋をしたわ」
「どうして」
「感情を乱すと、刻印が暴走するから」
「……マリー様」
「蓋をすることに慣れれば、寂しくなくなる。それが答えよ」
また沈黙。今度はエミリアが空を見上げた。
「寂しくならないわけないです。その気持ちに気づかなくなっちゃっただけです。そんなの、とっても悲しい」
「……そうかもしれないわね」
「寂しいのに気づいたら怖くなったりしませんか」
「怖くなるから気づかないようにするの」
エミリアがマリーを見た。マリーは視線に気づいていたが、空を見続けた。
「わたしがいる時は、気づいてもいいですよ」
「え?」
「刻印が暴走しそうになったら止めます。だから、気づいてもいい時は、気づいていいと思って」
マリーはゆっくりエミリアを見た。
真剣な顔だった。軽い慰めではなく、本気でそう思っている顔だった。
「……あなたって」
「なんですか」
「変わっているわね」
「よく言われます」
エミリアがにっこり笑った。
マリーは思わず笑い返した。笑い返してから、少し驚いた。
感情に蓋をしていたはずなのに、この一年でずいぶん笑うようになっていた。
冬になり、春になった。
二人の関係は、院内でも知られるようになっていた。大公女と聖女の組み合わせは目立つ。最初は戸惑いの目で見る者も多かったが、やがてそれが当たり前の光景として受け入れられた。
エミリアはマリーのそばにいることを、一度も嫌がらなかった。貴族に囲まれた場で居心地が悪そうにする時もあったが、マリーの隣にいる時だけはいつも自然だった。
春の終わり、図書室で二人並んで本を読んでいた時のことだった。
「ねえ、エミリア」
「なんですか」
「最初にわたしに声をかけようとしたでしょう。刻印の実習の前に」
「え、声をかけようとしたって分かってましたか」
「分かってたわよ」
「……見てたんですね」
「観察していたの」
「な、なぜ……」
「あなたのことが気になっていたから」
エミリアが真っ赤になった。
「マリー様から気になってたってことですか」
「ええ」
「そ、そんな。わたしなんかをどうして」
「どうしてかは、うまく説明できないわ」
マリーは本に視線を戻した。
「でも今は分かる。あなたのそばにいると、刻印の声が遠くなる。それだけじゃなくて……」
少し間が空いた。
「……楽になるの」
エミリアが静かに言った。
「わたしも、マリー様のそばが好きです」
「そう」
「マリー様が笑うと、すごく嬉しくて。なんか……マリー様の笑顔、見るのが好きなんです」
マリーは本から目を上げなかった。
「そんなことを言う人、初めてよ」
「え、本当ですか。マリー様ってすごく綺麗に笑うのに」
「褒めているの?」
「褒めてます!」
マリーはくすりと笑った。
「じゃあ受け取っておくわ」
「受け取ってください!」
エミリアが嬉しそうに笑う。
マリーはもう一度本に目を落とした。刻印の声は今日も、遠かった。
一年前、計算で近づいた。生き延びるために聖女の力が必要だったから。
それは今も変わらない。でも今のマリーには、もう一つの理由があった。
この笑顔を守りたいと、いつの間にか思うようになっていた。
思い出が、そこで途切れた。
ーーー
大広間の喧騒が、戻ってくる。
蝋燭の灯りが揺れていた。貴族たちのざわめきが耳に届く。ハルメアスがまだ正面に立っている。何も変わっていない。マリーが一年分の記憶を辿っていた間も、この夜は続いていた。
隣でエミリアがそっとマリーの手に触れた。
泣かなかった理由は、これだ。一年間、この夜のために感情の制御を続けてきた。取り乱さない。刻印を暴走させない。そしてこの手を、離さない。
ハルメアスが続ける。「ただし、帝国内に留まっていただきたい。ヴァルター侯爵家との縁談を用意している」
マリーは穏やかに微笑んだ。
「殿下、一つよろしいでしょうか」
「何だ」
「殿下がジュリアノス殿下から受けてきたことを、私は存じております」
ハルメアスの顔色が変わった。わずかな変化だったが、マリーには分かった。
「刻印の構造上、殿下が私に近づけなかった理由も。十三年間避けられていた理由も、今夜初めて理解いたしました」
静寂。
周囲の会話が止まっている。
「殿下を責める気はございません。ですが——帝国内に留まることは、お断りいたします」
「マリー嬢」
「わたくしは十三年間、帝国のために生きてきました。もうこれ以上、帝国の都合に従う義理はないと存じます」
ハルメアスが何かを言いかけた、その時だった。
「ハルメアス殿下」
エミリアが前に出た。栗色の髪が蝋燭の灯りを受けて揺れている。普段の明るさはどこにもない。真っ直ぐな目で、ハルメアスを見据えていた。
「マリー様は十三年間、何も知らされないまま宮廷で育てられました。三歳で連れてこられて、言葉も礼儀も全部この国のために覚えて——それを政治的な理由で一方的に破棄して、今度は別の形で縛り付けるのですか」
「これは国家の——」
「待てよ」
金髪に緑の目、日に焼けた肌。レオンが割り込んできた。エミリアとハルメアスの間に、肩幅の広い身体を滑り込ませる。
「お前の力はハルメアスに必要なんだ。それくらい分かるだろう」
「分かっています」
「分かってるなら——」
「事実だろう、レオン」
レオンが口を閉じた。
壁際で腕を組んでいた小柄な少年、セシルが口を開いた。黒髪に細い目、感情の読めない顔をしていた。
「……論理的に考えれば」
「セシル、今は——」とアルフレッドが言いかける。
「エミリアに聞いている」
セシルはアルフレッドを無視してエミリアを見た。
「この一年、お前はレオンだけでなく、俺とも、アルフレッドとも、それぞれ親しくしていた。俺との時間も、全部同じだったのか」
会場がざわりとした。
エミリアは少し間を置いた。
「……同じではなかったです」
「だったら——」
「セシル様といる時間は、好きでした。でも」
エミリアはセシルを真っ直ぐに見た。
「セシル様はわたしの話を聞いてくれていましたか。それとも、わたしの力の話をしていましたか」
セシルが黙った。
「わたしのことを見ていてくれた時間と、聖女として見られていた時間と、両方ありました。セシル様なら分かるはずです、どちらが多かったか」
セシルの顔から、徐々に言葉が失われていった。
「わたしはマリー様についていきます」
エミリアがハルメアスに向き直った。
「聖女の力が必要なのでしょう。でも、わたしが誰のそばにいるかは、わたしが決めます」
場が静まった。
その沈黙を破ったのは、レオンだった。
さっきとは違う歩き方だった。怒りではなく、何か別のものを抱えた顔で、一歩前に出る。
「エミリア」
声が、少し掠れていた。
「俺との間にあったものは、全部嘘だったのか」
エミリアはレオンを見た。少しの間、黙っていた。
「……嘘じゃなかったです」
「だったら——」
「でも」
エミリアの声は静かだった。
「レオン様といる時、わたしはいつも少し緊張していました。次に何をされるか、どこまで踏み込まれるか、どう断ればいいか。それをずっと考えていた」
レオンが息を呑む。
「レオン様のことが嫌いだったわけじゃないです。でも、安心したことはあまりなかった」
「……それは」
「マリー様のそばにいる時と、レオン様のそばにいる時は、違いました。それだけです」
レオンは何も言えなかった。アルフレッドがその肩にそっと手を置く。レオンは振り払いもせず、ただ俯いた。
セシルが静かに言った。
「……俺は、エミリアのことを聖女としか見ていなかったのかもしれない」
独り言のような声だった。誰への言葉でもなく、自分自身へ向けたような。
「エミリアの言う通りだ」
静かな声が、レオンを遮った。
亜麻色の髪に、物腰の柔らかい立ち姿。アルフレッドだった。その穏やかな顔が、今夜は少し違って見えた。
「今夜この場で、マリー嬢の話を誰もしていなかった。俺たちは全員、自分の都合と、エミリアの力の話しかしていない」
その言葉に皆が黙った。
しかし、ヴィクトルは動いた。
細身の長身に、常に影を帯びた目。伯爵家の養子と聞いていたが、その動き方だけはどこか貴族らしくなかった。滑らかで、速く、迷いがない。
ヴィクトルはエミリアを見ていなかった。最初から、ずっとハルメアスだけを見ていた。その目に宿っているものが、マリーには最後まで分からなかった。
外套の内側に手が入った。
刃が、灯りを反射した。
「ヴィクトル——!」
アルフレッドが動いた。レオンも同時に動いた。二人がヴィクトルの腕を押さえる。短剣が床に落ちて、乾いた音を立てた。
会場が凍りついた。
ヴィクトルは抵抗しなかった。ただハルメアスを見たまま、静かに笑った。
「……エミリアがいなくなれば、君の刻印は加速する」
押さえられたまま、ヴィクトルの声は穏やかだった。
「君がいなくなれば、エミリアは自由だ」
「やめろ」とアルフレッドが低く言った。
「論理的だろう」
「黙れ、ヴィクトル」
レオンの声に、珍しく怒りではない何かが混じっていた。
エミリアはヴィクトルを見ていた。怖がっている様子はなかった。ただ、静かに、真剣に見ていた。
「ヴィクトル様」
ヴィクトルがエミリアを見た。
「わたしは誰かが誰かを傷つけることで守られたくないです。それは前にも言いました」
「……覚えている」
「今もそう思っています」
ヴィクトルは少しの間、エミリアを見た。それから目を閉じた。
アルフレッドとレオンが、ゆっくりと手を離した。
エミリアはハルメアスに向き直った。
「殿下」
ハルメアスは答えない。
「マリー様はこの一年間、一度も刻印を暴走させませんでした。怖くても、悲しくても、全部抑えてきた。それを見てきたのはわたしだけです」
マリーは目を伏せた。
「そのマリー様が、帝国に縛りつけられたまま生きることを、わたしは見たくない」
長い沈黙。
ハルメアスの顔に浮かんでいるものが、マリーには初めて分かった気がした。苦しんでいる。刻印の声と、ジュリアノスの支配と、自分の感情と。全部が混ざって、どうすることもできないでいる。
(殿下も、ずっと一人で抱えてきたのね)
責める気持ちはなかった。ただ、もうここに留まる理由もなかった。
「殿下」
マリーが口を開く。
「十三年間、ありがとうございました」
ハルメアスが顔を上げた。マリーは穏やかに微笑んだ。
「どうかご自身を大切に」
それだけ言って、マリーはエミリアの手を取った。
「行きましょう、エミリア」
「……はい」
扉に手をかけたその瞬間、会場の奥から足音が響いた。
静かな足音だった。急いでいない。それなのに、その音が聞こえた瞬間に、大広間全体が息を呑んだ。
人混みがさあっと割れる。
現れた老人は、特別に華美な礼服を着ているわけではなかった。だが、その歩き方が、立ち方が、視線の重さが、周囲の全員に同じことを伝えていた。
この人物の前では、誰も口を開いてはいけない。
「……陛下」
誰かの呟きが合図のように、会場全員が一斉に頭を下げた。マリーとエミリアも礼をとる。マリーはエミリアの手をそっと握ったまま、頭を下げた。
足音が止まった。
「面白いことになっているな」
感情のない声だった。からかいでも怒りでもなく、ただ事実を述べるような声。
老いてなお威厳を保つ皇帝は、マリーとエミリアを交互に見てから、ゆっくりと口を開いた。
「刻印の力は、精神的な繋がりを糧とする。聖女の力もまた同じだ」
皇帝の視線が、エミリアに止まった。
「無理に引き離せば、双方が弱体化する。それは刻印学の基礎だ。なぜそれを考慮しなかった、ハルメアス」
ハルメアスが「陛下、それは——」と口を開きかけた。
皇帝は手を上げてそれを制した。一つの動作だけで、ハルメアスは黙った。
「聖女が帝国外に出るのは異例のことだ」
皇帝はエミリアを見たまま続けた。
「だが——お前の力の源がどこにあるか、私には見える」
エミリアが息を呑んだのが、手を通じて伝わった。マリーはその手をもう少し強く握る。
皇帝の視線が、繋がれた二人の手に落ちた。
それからゆっくりと、皇帝は顔を上げた。
「マリーヌ公国への同行を、許可しよう」
会場がざわりとした。
「陛下!」
ハルメアスが声を上げた。初めて感情が滲んだ声だった。
「帝国の聖女が国外に——それは前例がなく、安全保障上も——」
「前例がないことは知っている」
皇帝はハルメアスを見た。
「だからこそ、私が許可する」
ハルメアスが黙った。
「お前の判断は帝国の利益を優先したものだ」
皇帝の声は、批難ではなかった。ただ、静かに事実を並べる声だった。
「それは正しい。帝国の皇子として、当然の選択だ」
一拍の間。
「だが聖女を失った代償は、お前自身が払え」
ハルメアスは何も言わなかった。
言えなかったのか、言う言葉がなかったのか、マリーには分からなかった。ただ、その顔がひどく疲れているように見えた。
皇帝がマリーを見た。
「大公女マリー」
「はい」
「帝国があなたに与えた十三年間の礼を、私から申し上げる」
マリーは目を瞬いた。
「……陛下」
「不十分だったことは分かっている。言葉だけだとも分かっている」
皇帝は静かに続けた。
「それでも、礼を言う」
マリーはしばらく黙っていた。
胸の奥で、何かが静かにほどけていく感覚がした。怒りでも悲しみでも、もっと言葉にならない何かが、長い時間をかけてようやく緩んでいく、そういう感覚。
「……ありがとうございます、陛下」
マリーは深く礼をとった。
皇帝はそれ以上何も言わなかった。踵を返し、また静かな足音で、人混みの奥へと戻っていく。
人々がまた頭を下げる。足音が遠ざかる。
残されたのは、ハルメアスと、四人の学友と、ざわめき始めた会場と。
「……ハルメアス」
最初に口を開いたのはレオンだった。
いつもの俺様な声とは、少し違った。
「お前のせいだろ、これ」
ハルメアスは答えない。
「エミリアが出ていくじゃないか。帝国の聖女が! お前が判断を間違えたから——」
「レオン」
セシルの声が遮った。
「今お前が怒鳴っても、何も変わらない」
「変わらなくても怒鳴りたいんだよ!」
「……それは感情論だ」
「感情論で何が悪い!」
レオンが声を荒げた。その顔は赤く、目が少し光っていた。
セシルは黙った。不機嫌な顔が、珍しく迷っているように見えた。
「……俺は、間違っていたのか」
呟きは小さかった。ほとんど独り言だった。
「エミリアに言われるまで、マリー嬢の話を誰もしていなかった。俺も含めて」
ヴィクトルがするりと前に出た。
「ハルメアス」
その声だけ、温度がおかしかった。
「エミリアが、行ってしまった」
「……ああ」
「君のせいで」
「ヴィクトル」とアルフレッドが静かに制した。
「事実だろう」
「事実だとしても、今それを言うべき場面じゃない」
「じゃあいつ言うんだ」
ヴィクトルはハルメアスを見たまま、静かに笑った。整った顔の笑みが、少しだけ歪んでいた。
「エミリアが幸せになれるなら、それでいい。でもハルメアス、君は——」
「やめろ、ヴィクトル」
アルフレッドの声が、珍しく強かった。
ヴィクトルが口を閉じる。
アルフレッドはハルメアスに向き直った。穏やかな王子様の顔が、今夜は少し違って見えた。仮面の下の何かが、透けて見えるような顔だった。
「ハルメアス。友として言う」
「……なんだ」
「エミリアの言葉を、ちゃんと聞いたか」
ハルメアスは答えなかった。
「彼女は、マリー嬢の十三年間のことを言っていた。俺たちの誰も、それを言わなかった。俺も言わなかった」
アルフレッドの声は穏やかだったが、自分自身に言い聞かせるような響きがあった。
「今夜の俺たちは、全員、自分の都合しか話していなかった。それに気づかせてくれたのがエミリアだった」
静かな沈黙。
「お前だけじゃない。俺も含めて、今夜は負けだ」
ハルメアスはまだ何も言わなかった。
大広間の喧騒が、遠くなっていた。蝋燭の灯りが揺れ、天井画の影が動く。
マリーはその光景を、もう見ていなかった。
エミリアと手を繋いだまま、扉の外に出ていた。
夜の空気は冷たかった。
帝国宮廷の廊下は、パーティーの音が遠くなると、ひどく静かだった。マリーとエミリアの足音だけが、石畳に響いた。
「マリー様」
「なに」
「刻印は?」
「……何も聞こえないわ」
「よかった」
エミリアが、繋いだ手に少し力を込めた。
マリーは廊下の窓から夜空を見た。帝国の宮廷から見る星は、いつも遠かった。三歳からずっとそうだった。
「エミリア、本当によかったの?」
「何がですか」
「帝国を出ること。あなたにとって、ここは生まれた場所でしょう。聖女として認められた場所でしょう」
「そうですね」
エミリアは少し考えてから言った。
「でも、生まれた場所が自分の居場所かどうかは、別の話じゃないですか」
「……そうね」
「マリー様が言ってたじゃないですか。帝国は自分の場所じゃない、って」
「覚えてたの」
「全部覚えてます」
エミリアがこちらを見て、にっこりと笑った。
「わたしにとって、マリー様のそばが一番、自分の場所っていう気がするんです。うまく言えないですけど」
マリーは少しの間、エミリアの顔を見た。
一年前、計算で近づいた少女だった。聖女の力が必要だから、生き延びるために近づいた。
それは嘘じゃなかった。今も必要としている。
ただそれだけじゃなくなっていたことも、今夜はっきりと分かった。
「……ありがとう、エミリア」
「どういたしまして」
「何に対してのお礼か、分かって言ってる?」
「全部に対してでしょう?」
マリーは思わず笑った。
「正解よ」
廊下の先に、ソフィーが待っていた。荷物の手配は、一ヶ月前から密かに進めていた。ゲームの記憶があった分、マリーは準備が早かった。
「マリー様、馬車の用意ができております」
「ありがとう、ソフィー」
「……本当に、よろしいのですか」
「ええ」
ソフィーが目を赤くしながら頷いた。
「では、参りましょう」
三人は廊下を歩いた。
帝国の夜が、静かに過ぎていく。
ーーー
マリーヌ公国の春は、帝国とは香りが違った。
花が甘く、土が柔らかく、風が遠くの山から降りてくる。三歳で帝国に連れてこられたマリーには、故郷の記憶はほとんどなかった。
だがこの香りだけは、どこかで知っている気がした。
「わあ」
窓から外を見ていたエミリアが声を上げた。
「緑がすごい。帝国より緑が多いですね」
「小さな国だから、都市が少ないのよ」
「素敵だと思います」
エミリアが振り返ってにこにこと笑う。その顔が春の光の中にあって、マリーは少しだけ目を細めた。
「馴染めそう?」
「もう馴染んでます」
「早すぎるわ」
「適応が早いのが取り柄なので」
エミリアが胸を張った。マリーはくすりと笑った。
公国に戻ってから、三ヶ月が経っていた。
大公女の帰還は、公国に小さな波紋を起こした。帝国の皇子妃になるはずだった娘が、婚約を破棄されて聖女を連れて帰国した。複雑な顔をする者もいたが、マリーの父である大公は、娘を黙って迎え入れた。
「帝国のことは帝国に任せればいい」
それだけ言って、父はエミリアにも同じように部屋を用意した。
マリーは最初、その静けさが信じられなかった。もっと政治的な話になると思っていた。婚約破棄の経緯、帝国との関係、聖女を連れ帰ったことの意味——全部、複雑な問題になるはずだった。
ならなかった。
「父上は、何も訊かないのですね」
「お前が戻ってきた。それだけで十分だ」
その一言が、十三年分の何かを崩した。マリーはその夜、自室で、ソフィーにも聞こえないくらい静かに泣いた。
翌朝、エミリアがいつも通りの顔でやってきた。
「マリー様、目が少し赤いです」
「……花粉よ」
「公国の春は花粉が多いんですね」
「そうなの」
「そうなんですね」
エミリアはそれ以上何も言わなかった。ただ隣に座って、一緒に朝食を食べた。
刻印の声は、相変わらず遠かった。
帝国からの報せは、断片的に届いた。
ハルメアスとブルゴニア公国のアン公女との婚姻は、予定通り成立した。だが聖女を失った刻印持ちの皇子という評判は、静かに、しかし確実に広まっていった。
刻印の声は抑えられるが、聖女なしでは進行が加速する。それは刻印学の常識だった。
さらに、領土を拡大した帝国を警戒してアルフォンス王国が軍備を整えていることも小耳に挟んだ。マリーのこともあり、マリーヌ公国は帝国を援助をしないだろう。帝国内が穏やかではないことは、情報の端々から伝わってくる。
マリーはその報せを聞くたびに、少しの間だけ目を閉じた。
「……殿下は、自分で選んだ道を歩むわね」
「うん」
エミリアが静かに答えた。二人は公国の庭で、並んでベンチに座っていた。春の花が咲いている。
「後悔していますか」とエミリアが訊いた。
「何を?」
「帝国を出たこと」
マリーは少し考えた。
「していないわ」
「本当に?」
「ええ。ただ……」
言葉を探した。
「殿下が苦しんでいることは、分かるから。それは気にかかる」
「優しいですね、マリー様は」
「そうかしら」
「そうです」
エミリアがマリーの手に自分の手を重ねた。
「殿下のことを恨んでいないんですよね、マリー様は」
「……恨んでもしかたないもの。殿下も、あの状況の中で精一杯だったのでしょう」
「マリー様は本当に、誰かを恨む力を感情の制御に使ってきたんですね」
「変な言い方ね」
「でも本当にそう見えます」
マリーは空を見た。
帝国の宮廷で見た空とは、少し色が違う気がした。同じ空のはずなのに、こちらの方が近い気がした。
「エミリア」
「なんですか」
「愛しているわ」
「わたしもです」
「ふふ。よかった」
エミリアが笑う。マリーも笑った。
二人の手が、春の日差しの中で重なっていた。
刻印の声は遠かった。
触手の化け物になって討伐されるはずだった悪役令嬢は、今、隣の少女の手の温もりの中で、静かに春を見ていた。
それで十分だと、マリーは思った。
十分どころか——これ以上を望んでいなかったことが、今となっては少し不思議なくらいだと、思った。
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