白き爪痕
冷たい雨だった。
季節は冬の終わり。
空も川も街も、全部同じ灰色に見える日だった。
あの頃の私は、もう家を持っていなかった。
両親は死んだ。
理由は借金だったと、あとから聞いた。
詳しいことは思い出さない。
思い出すと、息ができなくなる。
気づいた時には、私の居場所はなくなっていた。
友達の家に泊めてもらったこともある。
先生が心配してくれたこともある。
でも、長くは続かなかった。
人は優しい。
でも、ずっと優しくはできない。
それを知るのに、時間はかからなかった。
気づけば私は、鴨川の河川敷にいた。
橋の下は雨を少し防いでくれる。
段ボールは思ったより暖かい。
コンビニの廃棄は思ったより多い。
知らなくていいことばかり覚えていった。
夜は、怖かった。
風の音。水の音。遠くの車。足音。
世界が、自分を忘れてしまったみたいだった。
「……寒い」
声が出るだけ、まだ大丈夫だった。
その夜、鴨川は異様に静かだった。
風がないのに、水面が揺れていた。
黒いものが、川の上に滲んでいた。
最初は影だと思った。
でも影は形を変えない。
それは形を変えていた。
犬のような形。
人のような形。
輪郭が滲み、ぼやけている。
目だけが浮かんでいた。
空っぽの目。
逃げなきゃと思った。
でも体が動かなかった。
影が近づく。
空気が重くなる。
息ができない。
ああ、死ぬんだ。
怖いより先に思ったことは。
やっと終わる。
その瞬間。
風が裂けた。
何が起きたのか分からなかった。
気づいた時、影は真っ二つに裂けていた。
黒い霧のように崩れていく。
その向こうに、人が立っていた。
白い髪。長いコート。両手に握られた銃。
静かな目。
「……大丈夫?」
優しい声だった。
私は泣き崩れた。
「怖かったね」
その言葉で、止まっていたものが全部溢れた。
「もう大丈夫だよ」
その言葉を、今でも覚えている。
⸻
目が覚めた時、私は布団の上にいた。
天井があった。
壁があった。
屋根があった。
障子が開く。
「あ、起きた」
先程助けてくれた男性だった。
優しげな顔立ちだが、目の奥にしっかりとした光がある。
「ここは神選組の隊舎。安心していい」
「僕はここの隊長で、白瀧という」
私はかすれた声で聞いた。
「どうして、助けたんですか」
「どうして?」
「私、何も持ってません」
お金も家族も家もない。
隊長は少し黙って言った。
「生きてたから」
涙が止まらなかった。
⸻
数日後。
庭に立っていた。
「神選組では、入隊と同時に姓を授ける」
神名授与。
「君が倒れていた場所、覚えている?」
「……鴨川です」
「川の瀬だった」
優しく微笑む。
「だから“瀬”をもらおう」
胸が震える。
「白虎隊の“白”と合わせて」
隊長は静かに言った。
「今日から君は――白瀬かのん」
涙が落ちる。
「川辺で生き延びた君が、ここに流れ着いた」
優しい声だった。
「いい名前だと思う」
私は初めて思った。
ここにいていいのかもしれない、と。




