青春の痛くてまぶしい季節
まだ太陽も顔を出しきらない早朝。
3年2組の生徒達は、バスの前に集まっていた。
肌寒い空気が頬を撫でる。
普段なら響き渡るはずの笑い声に、小さな沈黙が混ざり込んでいた。
誰も不機嫌ではない。
ただ、漠然とした不安を抱えながらも、みんな必死に前を向こうとしていた。
クラスの人気者である石田武尊、鈴木寛人、平井達也、橋本健太は、その重い空気を吹き飛ばすかのように、最初からフルスロットルで騒ぎ始めた。
「おいお〜い!今から沖縄だぜ!騒がないやつは置いてくぞ〜!」
「まずは国際通りでタコス100個チャレンジな!」
「俺、沖縄に骨を埋める覚悟できてるから!」
橋本の大声に、生徒たちは思わず苦笑する。
その笑顔はまだぎこちなかったが、その奥には「また笑いたい」という切実な願いが滲んでいた。
バスが走り出すと、人気者達は後方席を占領した。
「おい、誰かギター持ってないか?」
「即興ソング作っちゃう?」
車内に響く馬鹿騒ぎ。
不思議と誰も怒らなかった。
教師達も「まあ、今日くらいはいいか」と、静かに見守っていた。
高岩は前方席から生徒達を眺めながら、そっと目を細める。
(あいつら、本当はわかってるんだろうな)
(自分達がクラスの空気を背負ってるって)
高岩は微笑みもせず、ただ静かに窓の外を見つめた。
バスの中、女子田の間にも静かな変化が起きていた。
藤田怜奈がふと後ろを振り返り、人気者達の様子を眺める。
馬鹿みたいに騒ぎながらも、必死でクラスを明るくしようとしている姿。
その隣で野口由紀も、じっと彼らを見ていた。
藤田がそっと呟く。
「馬鹿だよね。」
野口がはっと息を飲んで振り返る。
「え?」
藤田は少し照れたように肩をすくめた。
「でもさ、助かるよね。」
その一言に、野口は一拍おいてから、静かに笑った。
「うん。助かる。」
ただそれだけで、二人の間に重く垂れ込めていた靄がすっと消えていった。
謝罪でも説得でもなく、たった一言の共感がすべてを変えた。
―――
羽田空港に到着すると、生徒達は慣れない手つきで荷物を抱え、ぞろぞろと移動を始めた。
「おい、鈴木!スーツケース、逆向き!」
「どれだけ沖縄に行きたいんだよ!もはや天国へ行くみたいじゃないか!」
平井のツッコミに、皆が笑いに包まれる。
その笑いは、もうぎこちなくはなかった。
空港の喧騒は、彼らにとって新しいスタートの合図のように響いていた。
笑い声とアナウンスが混ざり合い、胸の奥がじんわりと熱くなる。
それは自然で、温かく、それぞれを受け入れるような空気だった。
離陸のアナウンスが流れ、生徒達は座席に座る。
シートベルトを締める手つきは、どこか落ち着かない。
窓際に座った鈴木寛人は、じっと空を見上げていた。
青白い朝の空に浮かぶ、雲の海。
心のどこかで鈴木は思っていた。
(ここから先、何かが変わる気がする)
(変わらなきゃいけない気がする)
誰も口には出さないけれど、変わるべきだと心の底で感じているのは自分だけではない。
その確信が、鈴木の胸を高鳴らせた。
エンジン音が高まり、機体が地上を離れる。
窓の外に広がる、どこまでも続く雲海に、生徒達は息を呑んだ。
誰も声を出す者はいなかった。
誰も笑わなかった。
ただ静かに、未来へ飛び立つ翼の音を聞いていた。
飛行機が着陸する時、機内には微かな緊張感が流れた。
窓の外には透き通った青空と、遠くに広がるエメラルドグリーンの海。
生徒達はこれから始まる旅に期待が高まっていた。
―――
那覇空港。
ここから彼らの新しい何かが始まる。
機体が停止し、アナウンスが流れると、生徒達はざわめきながらシートベルトを外した。
「うおーっ、沖縄だー!」
「マジで暑い!半袖持ってきてよかった〜。」
後方席で石田と橋本が早速テンションを爆発させている。
そんな彼らを、平井がスマホで録画していた。
「将来の黒歴史動画だな、これ(笑)」
生徒達は、重いスーツケースを引きずりながら那覇空港の到着ロビーへと歩き出した。
外へ出た瞬間、生徒達は一斉に叫んだ。
「なんだこの湿気!」
「髪の毛が爆発する!」
「空気が水分だ!」
笑い声と歓声。
汗ばむ陽気。
東京とは全く違う空気だった。
高岩と駒沢は、日差しを手で遮りながら生徒達を誘導する。
「荷物をバスに積め!集合は10分後だ!」
高岩の声に、生徒達は慌ただしく動き出す。
そんな中、鈴木寛人はふと立ち止まった。
遠くに広がる白く光る街並み。
海へ続く一本道。
見知らぬ景色なのに、どこか懐かしく、胸がざわついた。
(ここは、俺たちと違う世界だ)
胸の奥が、じわりと熱くなる。
それが何なのかは、まだわからなかった。
バスに乗り込み、最初の観光地、国際通りへと向かう。
人気者達は相変わらず元気だ。
「タコス!ステーキ!ブルーシールアイス!」
「絶対食べるぞ!腹壊すまでな!」
「シーサー買って、家に置く!」
バスの中は笑い声で満ちていた。
他の生徒たちも、少しずつ笑顔を取り戻していく。
誰も「あの時」のわだかまりを口にしなかった。
だが、確かにわかりあっていた。
―――
那覇市内、国際通り。
色とりどりの看板と、観光客の波。
潮風に混じる甘いサーターアンダギーの匂い。
生徒達は班ごとに分かれて自由行動になった。
鈴木寛人は、石田、平井、橋本と一緒に歩いていた。
「とりあえず腹ごしらえだろ!」
「絶対アイス食べる!」
「お前ら何しに来たんだよ!」
わいわい騒ぎながら、屋台が並ぶ小道へと入っていく。
鈴木は何となく皆から少し離れて歩いていた。
(楽しいけど、なんか違う気がする)
周囲の風景。地元の子供達。
観光とは違う、生活の匂い。
鈴木は無意識に足を止めた。
そこで、彼女と出会った。
小さな路地裏の、サーターアンダギーの屋台。
高校の制服を着た少女が買い物をしていた。
白いシャツに紺色のスカート。
肩までのストレートな髪。
あどけないが、どこか凛とした空気をまとっていた。
(あ…)
思わず、目を奪われた。
少女は袋を受け取ると、ふいにこちらを振り返る。
視線がぶつかった。
少女は少し驚いた顔をした後、すぐに微笑んだ。
それは、この旅で初めて見る、
本物の沖縄の笑顔だった。
胸がぎゅっと締め付けられる。
その笑顔は、観光パンフレットにも、SNSの写真にもない、本物の沖縄だった。
鈴木は言葉を探したが、何も出てこなかった。
ただ心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
少女は軽く会釈すると、人混みに消えていった。
鈴木は呆然とその背中を見送ることしかできなかった。
(誰だ、あの子。なんで、こんなに…)
心の中に火が灯ったようだった。
次の瞬間、後ろから橋本の大声が飛んできた。
「鈴木!タコライス行こうぜ!」
振り返ると、石田たちが手を振っていた。
鈴木は、ぐっと深呼吸して無理に笑顔を作った。
(また、会えるかな)
そんなありえない希望を胸の奥で呟きながら、彼は仲間達の輪の中へ戻っていった。
―――
夕方の国際通りは、昼間よりもさらに賑やかだった。
屋台から漂う甘い黒糖の香り。
三線の音色が風に乗って流れてくる。
色とりどりのネオンライト。
潮風に混じる、少し湿った空気。観光客たちの笑い声と、地元の人々のゆったりした会話が入り混じる。
3年2組の生徒達は、それぞれの班で自由時間を楽しんでいた。
鈴木達は、食べ歩きをしながら相変わらず元気に騒いでいた。
「なぁ、誰が一番沖縄に似合ってると思う?俺、絶対現地人っぽいだろ?」
「いや、お前、顔真っ赤で観光客丸出しだから。」
そんなふざけたやり取りに、周りの生徒たちも思わず笑う。久保、野口、渡辺、藤田も、適度な距離を保ちながらついてきている。
その時、鈴木寛人は立ち止まった。
雑踏の向こう、屋台の灯りの下。
まるで偶然を装った必然のように、少女は、こちらへ歩いてくる。
鈴木の心臓がキュンと跳ねた。
「あっ!」
思わず声が漏れる。
同時に隣にいた橋本がニヤニヤと肘で突いてきた。
「おいおいおーい、寛人〜?」
平井もすかさず乗っかる。
「なになに?ナンパ?運命の出会い?」
石田も後ろから茶化してくる。
鈴木の顔は一瞬で真っ赤になった。
「ち、違うし!」
必死に否定したが、声が裏返っていた。
周りの男子達は爆笑。
女子達も「あーあ、バレバレだよ…」という顔で見ていた。
そんな騒ぎをよそに、少女は少し驚いた顔をした後、ふわりと笑った。
「また会いましたね。」
二度目の出会いは、偶然に見えて運命のいたずらみたいだった。
国際通りの雑踏。
赤や黄色のネオンライト。
潮風。
汗ばんだ肌。
耳に響く三線の音。
全部が、遠くに霞んでいく。
沙耶の笑顔だけが、やけに鮮明に見えた。
心臓の鼓動が、うるさい。
体がじんわりと熱くなっていく。
こんな感覚は、生まれて初めてだった。
橋本が、わざとらしく大声で叫ぶ。
「おーい寛人、何してんだよ!」
周りも「行けー!」「がんばれ!」と冷やかす。
鈴木は顔を真っ赤にしながら、意を決して歩み寄った。
「えっと、さ。名前聞いてもいいかな?俺は鈴木寛人。君は?」
「仲宗根沙耶です。」
「それ、お土産?」
沙耶はタコライスの小さな紙袋を見せて笑った。
「そうなの。家へのお土産。弟達がタコライス好きなの。」
「へー。弟がいるんだね。」
「うん。二人。買っていかないとうるさいから。」
沙耶は、からかうように笑った。
その笑顔に、またドキンと胸が跳ねた。
後ろでは、男子たちがニヤニヤしながら小声で盛り上がっていた。
「あれ、絶対落ちたな」
「寛人、顔真っ赤すぎ!」
女子達も微妙な距離感で見守る。
久保美優が小声で言った。
「な〜んか、いいね〜。」
誰も、からかったり、邪魔したりしなかった。
ただ、鈴木寛人と仲宗根沙耶、二人だけの小さな世界が、そこに生まれた。
「あの、さ。」
鈴木は必死に声を絞り出した。
「インスタかLINE、交換しない?」
沙耶は少しだけ目を見開き、そして柔らかく笑った。
「もちろん。」
鈴木寛人は、生まれて初めて本当に好きになりそうな人を見つめていた。
周囲のざわめきも、友達の冷やかしも、何もかもが遠ざかっていく。
ただ心臓の音だけが、鮮明に響いていた。
―――
国際通りの裏手にある、小さな公園。
古びたベンチに座った鈴木と沙耶。
夜の湿った風が、少し冷たく肌を撫でる。
観光客の賑やかな声も、この場所には届かない。
沙耶は遠くを見つめたまま、語り始めた。
「本土の人にね、沖縄ってどんな場所って聞かれるのが一番困るんだ。綺麗な海、青い空、それだけじゃないから。基地があって、戦争があって、いろんな痛みがあって。でも、それを知ってるのは沖縄の人だけなの。」
鈴木は胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
沙耶の声は、強くなったり、震えたり、必死で自分を支えているのが伝わってきた。
「観光に来る人達は、楽しい思い出だけ持って帰る。それは別に悪いことじゃないと思う。でも…。」
沙耶は唇をきゅっと噛みしめた。
「誰も私たちの痛みには気づかないんだよ。」
その声は、強くあろうとするほど切なく、笑顔を見せるほどに痛ましかった。
沈黙が落ちた。鈴木は、どう返せばいいかわからなかった。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
悔しかった。情けなかった。
どうしようもなかった。
(俺、何も知らなかった)
鈴木の手は、膝の上で震えていた。
沙耶は、それでも微笑んだ。
「だからね、もしも本当に私達のこと、見ようとしてくれる人がいるなら、それだけで救われるの。」
鈴木はその言葉を胸に深く刻んだ。
国際通りのネオンが滲んで見えた。
目頭が熱くなる。
沙耶の寂しそうな笑顔。震える声。
どうして、こんなに胸が痛いんだろう。
(もっと知りたい)
(もっと支えたい)
(もっとこの子の力になりたい)
それは、たんなる恋ではなかった。
生まれて初めて、誰かの「未来」そのものを抱きしめたいと思った。
班の集合場所へ戻る道すがら、鈴木は心の中で何度も叫んでいた。
(知らなかったんだ、俺達は)
(楽しいって笑って、でも、その裏にある痛みに一度も目を向けようとしなかった)
握りしめた拳が震える。
後ろを振り返ると、沙耶が小さく手を振っていた。
鈴木は必死に涙をこらえながら小さく頷いた。
(絶対にあの子の痛みを無視しない)
(絶対に)
集合場所には、石田、平井、橋本が集まっていた。
みんな、まだ笑っていた。
しかし、その笑顔が少しだけ空虚に見えた。
このままでいいのか?
鈴木は、もう黙っていられなかった。
だから、声を上げた。
「ちょっと、話があるんだ。」
驚いた顔でこちらを見る仲間達。
しかし、誰も茶化さなかった。
鈴木は震える声を押し殺して言った。
「俺たち、さ。沖縄に来て楽しかった、って思ってたけど…。」
鈴木は拳を握りしめた。
「本当は何も知ろうとしなかった。ここでどれだけの痛みがあったか。今もどれだけ苦しんでる人がいるか。全部、見ようともしなかったんだよ、俺たちは。」
誰も声を出さなかった。ただ息を呑んで聞いていた。
「俺たち、無知だった。想像もしなかった。勝手に楽しいだけを持って帰ろうとしてた。」
潮風が生ぬるく頬を撫でた。
「それって本当に最低なことだと思ったんだ。」
鈴木は涙を堪えながら言った。
「俺達、この旅でちゃんと知ろうよ。この場所の現実を。この島の人達の声を絶対に無視しない。修学旅行って、本来そういうもんじゃないのかな?」
その時、輪の外から静かな声がした。
「よく言ったな、鈴木。」
高岩だった。
穏やかな目で生徒達を見渡す。
「知ることからしか、世界は変わらない。想像力を持たない者は、誰かを踏みつける。無知であることを恥じた君たちは、また前に進めるんだ。」
人気者達が肩を組んだ。石田が言った。
「よっしゃ。なら俺達、本気でこの旅、学ぼうぜ。」
誰も、無知のまま笑いたくなかった。
誰も、傷つけたまま帰りたくなかった。
夜の国際通りに、静かな決意が満ちた。
―――
朝の沖縄。空は高く、どこまでも青い。しかしその美しい空に突然、黒い影が現れた。
「ゴォォォォォォォッ!!」
轟音。
地響きのような重い振動。耳を劈く爆音が地面から突き上げてきた。
「っ…!」
鈴木寛人は思わず耳を塞いだ。
隣の石田、橋本、平井も、全員が同じように体を縮こまらせた。
頭上を米軍の戦闘機がすさまじいスピードで飛び去っていった。
そのたびに空気がねじ曲がるような音が響く。
振動で地面がわずかに揺れる。
米軍嘉手納基地の周辺地区。
沖縄でも最も基地問題が深刻な場所のひとつだ。
高岩と駒沢は、修学旅行の行程を少し変更し、生徒達を基地周辺の住宅地へと連れてきていた。
そこには普通の民家、小さなスーパー、公園、子供田の遊ぶ声。
一見、どこにでもある町並みが広がっていた。
しかし、違った。
頭上を数分おきに戦闘機が飛び交う。
そのたびに会話は遮られる。
赤ん坊の泣き声が、かき消される。
犬が怯え、鳴き続ける。
生活そのものが爆音に侵害されていた。
「ゴォォォォォ!!」
「ゴゴゴゴゴゴッ!!」
もはや会話すら成立しない。
人々は慣れた様子で黙り、爆音が過ぎ去るのを待ってから、また話し出す。
その姿に鈴木は言葉を失った。
(これが日常なのか?)
耳を塞いでも意味がない。
爆音は皮膚を突き抜け、内臓を震わせる。
恐怖と無力感が全身を支配した。
現地ガイドの男性がハンドマイクを使って説明を始めた。
爆音の中でも必死に声を張り上げる。
「この地域では、24時間、こうした騒音被害が続いています。学校では、この爆音で授業を中断しなければなりません。夜中でも眠れません!落下物事故、交通事故、窃盗、暴行事件。米軍関係者による事件は、年に何件も起きています。」
生徒達は真剣な顔で聞き入っていた。
誰も笑っていなかった。
誰もスマホをいじっていなかった。
それだけ、この現実は圧倒的な暴力だった。
「そして」
ガイドは少し声を落とした。
「政府は、日本全体の安全保障という名のもとに、沖縄の犠牲を、必要経費のように扱います。日本国民として、この現実をどう受け止めますか?」
鈴木は無意識に拳を握りしめた。
(ふざけんな)
(人の生活を、人の命を、なんだと思ってるんだ)
その時だった。
基地フェンス沿いの細道。
鈴木の視界に、見覚えのある後ろ姿が映った。
仲宗根沙耶。
彼女は基地フェンスに沿って静かに歩いていた。
手にはコンビニの袋。
何気ない、ただの道。
しかし、その背景には常に爆音があった。
鈴木はたまらず駆け寄った。
「沙耶!」
沙耶は驚いた顔をして振り向いた。
そして、すぐに微笑んだ。
「え?なんでここに?」
鈴木は何も言えなかった。
言葉が出なかった。胸が締め付けられた。
「ここね、私の祖父の家の近くなの。」
沙耶は当たり前のように言った。
「小さい頃から、ずっとこの音の中で生きてきたの。最初は怖かったけど、今は慣れちゃった。」
その言葉に、鈴木は怒りと悲しみで体が震えた。
慣れなければ、生きていけないなんて。
その時、駒沢が歩み寄ってきた。
いつもの明るさを抑えた、静かな声で言った。
「みんな、見たよね。聞いたよね。これが現実だよ。」
生徒達は誰も目をそらさなかった。
真剣な顔で駒沢を見つめる。
「知らなかった、じゃ済まされない。知らなきゃいけなかった現実だよ。」
駒沢の目には、わずかに光るものがあった。
それは悔しさと願いだった。
「見た以上、知った以上、君達はもう無関係じゃない。」
爆音が響く空の下で、鈴木は立ち尽くしていた。
耳鳴りが止まらない。
だが心には、はっきりと刻まれた。
(知らないまま笑うなんて、もう、絶対にしない)
鈴木寛人は心に誓った。
―――
那覇空港。
広々としたガラス張りのロビーに、朝の陽光が差し込んでいた。
生徒達は荷物をまとめ、搭乗手続きに向かう準備をしていた。
石田、平井、橋本も名残惜しそうに土産をリュックに詰めている。
久保、野口、佐藤、福田らも、最後の確認をしながら静かに空港の空気を味わっていた。
沖縄での日々は、彼らの中で確実に何かを変えた。
しかし、それを言葉にする者はいなかった。
それぞれが心の中で整理していた。
鈴木寛人は、周囲のざわめきの中に、ひとりの少女を見つけた。
白いワンピース姿の仲宗根沙耶。
ロビーの柱の陰から、そっとこちらを見て小さく手を振っていた。
鈴木の心臓がドクンと跳ねた。
すぐに石田が気づき、肘で小突いてきた。
「おいおい。来てるじゃねーか、彼女。」
平井も、にやにやしながら言う。
「今度はちゃんと告れよ。」
茶化す声を背中で受けながら、鈴木は無言で歩き出した。
沙耶の前に立った瞬間、胸がいっぱいになった。
言葉にならなかった。
沙耶も微笑みながら、小さな声で言った。
「また会えて嬉しい。」
それだけ。
だがそれだけですべてが伝わった。
鈴木は力を込めて頷いた。
「また、会いに来るから。」
「絶対に。」
沙耶は目を細めた。
「うん。待ってる。」
周囲の雑踏もアナウンスの声も、すべて遠ざかっていった。二人の間だけに、確かな約束が交わされた。
言葉以上の誓い。
少し離れたところで駒沢がそれを見ていた。
そっとスマホをいじりながら、生徒達の成長を噛み締めるように眺めている。
彼女は元ギャルだった過去を持つ教師だ。
世間の偏見や、無知からくる差別を身をもって味わってきた。
だからこそ、鈴木達の成長が誰よりも嬉しかった。
「君達も、変われたね。」
心の中でそっと呟いた。
搭乗ゲート前。
高岩が生徒達の前に静かに立った。
生徒たちは自然と輪になり、彼を見つめる。
高岩は深く息を吸い、そして淡々と語り始めた。
「沖縄で、君達は色々なものを見た。綺麗な海だけじゃない。痛みも、怒りも、孤独も見た。見た以上、もう知らないふりはできない。君たちは、今日から…」
高岩は静かに、しかし力強く言った。
「日本の、そして世界の未来を変える予備軍なんだ。」
その言葉に誰も声を出さなかった。
ただ、それぞれが、胸の奥に、重く、熱く、その言葉を刻み込んでいた。
搭乗アナウンスが流れる。
生徒達は、重いスーツケースを引きずりながら、それぞれ静かに歩き出した。
誰も無駄な声を出さなかった。
誰も泣き叫んだりはしなかった。
それでも、彼らの背中は、どこか誇らしげに見えた。
それぞれの心には、確かな痛みと、確かな希望が、根を張り始めていた。
そして、その中に小さな恋の芽生えもあった。
鈴木寛人は機内へ向かう通路で、最後にもう一度振り返った。
ガラス越しに見えたのは、白いワンピースの沙耶が静かに手を振る姿。
それに小さく手を振り返してから、鈴木は力強く前を向いた。
もう、迷いはなかった。
絶対に、また会う。
絶対に、この島を守る。