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青い瓦礫 【Special Rewrite Ver】

10月初旬。

文化祭から数日が経った朝。

3年2組の教室には、重たい空気が漂っている。


扉には、一枚の張り紙が貼られていた。

紙はいつもと同じ。

コピー用紙の切れ端で、黒マジックの文字は妙に荒々しい。

一見すると誰でも書けそうな走り書きなのに、どこか癖が強い筆跡。

生徒達は無意識に、教室の誰かの字と重ね合わせていた。


誰も口に出さなかったが、その沈黙こそが何より雄弁だった。

「これ…あの子の字に似てない?」

心の中でそう思い浮かべた瞬間、目を合わせることができなくなる。

隣の席の筆圧の強さ、ノートに走らせる癖字、黒板に書いたときの独特な止め。

どれもが重なりそうで、でも決定打にはならない。


だからこそ恐ろしかった。

教室の誰かが書いたのではないかという「疑念」だけが、じわじわと広がっていく。

「もしかして…身内?」

そう思った瞬間、胸の奥がぞっと冷たくなる。


「黒歴史にしたの誰?」


その文字は、ただそこにあるだけで教室の空気を冷たく支配していた。


廊下から漏れ聞こえる他のクラスの笑い声が、やけに遠くて、やけに近い。

誰かの視線に見られている気がして、机に座っているだけで心が痛む。

靴音ひとつすら辛く響く朝。


文化祭でのあの展示は、ただスルーされたわけではなかった。

他のクラスの生徒達からは冷ややかな視線を浴び、「意識高い系の自己満だろ」と陰口を叩かれる。

保護者からは「うちの子に変なことを刷り込むな」と苦情が寄せられ、一部の教師からも「問題提起ごっこ」と揶揄された。

誰かの笑い声や投稿の一行一行が、生徒達の心を針のように刺し続けている。


『文化祭で社会問題(笑)』

『真面目系クズの集まりだろ』

『将来ブラック企業で一番最初に潰れるタイプ』


スマホの画面に流れる短い文が、顔も知らない誰かから浴びせられる石のように心を打つ。

「いいね」の数が増えるたびに、嘲笑の輪が広がっていくのが目に見えるようだった。

笑われているのは展示ではなく、自分自身の存在だと錯覚するほどに。


視線の端に、あの張り紙が映る。

外の冷笑と内側の張り紙が呼応しているようで、逃げ場がない。


机に頬杖をつく者、窓の外をぼんやり眺める者。

誰もが口数が少なかった。

本当は叫びたいことが山ほどあった。


「ふざけんな」

「俺たちは間違ってない」


そう言いたかった。

けれど言葉にした瞬間、その反論すらもSNSに切り取られて笑い者にされる気がして、喉が凍りつく。

声を失った教室は、ただ冷たい呼吸音だけが重なり合う水槽のようだった。


スマホを握りしめ、匿名掲示板を更新し続ける者もいた。

そこには「3年2組、また炎上」とスレッドが立ち、見覚えのある展示写真が拡散されている。

ページをスクロールするたびに、心臓が締めつけられる。


「バカにされてるのに、なんで俺らだけ黙ってんだよ!」


そんな声が、教室の空気をさらに重くした。

張り紙はまだ剥がされていない。

誰も触れようとせず、ただ沈黙と一緒にそこにあった。


チャイムが鳴り、高岩が教室に入ってくる。

彼は生徒達をぐるりと見渡すと、黒板に一言だけチョークで書いた。


「立ち止まるな 問い続けろ」


黒板の言葉と、扉の張り紙。

2つの問いが教室に重くのしかかる。


あとは何も言わずに高岩は席に着いた。

誰もが、その言葉の意味を胸の中で静かにはんすうしていた。


昼休みになっても教室は重苦しい沈黙に包まれていた。

購買で買ったパンを前に、手をつけられない者。

机に突っ伏し、ノートの隅に意味のない落書きをする者。

スマホをいじるふりをしながら、ただ時が過ぎるのを待つ者。


そんな中、野口由紀がふと、ため息まじりに言った。


「てか、さ。何もしないよりは、良かったんじゃないの?」


教室の空気が、一瞬だけ震えた。

誰もが、野口の意外な言葉に顔を上げた。

野口は、自分でも驚いたように肩をすくめた。


「なになに?あんたたちが必死だったの、マジで私、見てたしさ。正直、あんたらのことムカつく時もあったよ。でもさ、本気で何かに挑んでる姿って、笑えなかった。むしろ羨ましかったんだよ。怖いくらいにね。」


乾いた笑いを浮かべながらも、その目は確かに揺れていた。


校内放送が流れた。


『三年生の皆さんへ、修学旅行のご連絡です。』

『11月に、沖縄への修学旅行を実施します。』


ざわつきも、歓声も起きない。

誰もそんな気分ではなかった。


教室の入口には、相変わらず張り紙が揺れている。

沖縄の空よりも、その存在の方が生徒の心を支配していた。


「今さら、旅行気分とかありえないんだけど?」


誰かが小さくつぶやいた。

そんな中で、いつもなら無関心を装っているような生徒が呟いた。


「でも、見ないふりするよりマシでしょ?」


その言葉に、高岩が配布資料を置きながら、静かに告げた。


「沖縄には行ってもらうからな〜。」


ざわめく教室。高岩は続けた。


「社会に出る前に、本当の意味で目を開かせる経験をして欲しいんだ。テストの点数じゃ測れない、そういう何かを。」


誰かが、ため息交じりに言った。


「現実見たって何も変わらないっしょ?」


高岩は微動だにしなかった。


「かもな。変わらないかもしれないな。だけどそれでもだ。知ってしまった君達は、もう知らないふりはできない。それが、このクラスに課せられたテーマであり、救いだと先生は思う。」


教室に重い沈黙が落ちた。


放課後。夕陽に染まる教室。

帰り支度をする藤田怜奈に、野口由紀が肩越しに言った。


「あんたさ、あの時めっちゃ頑張ってたじゃん?」


藤田は息を呑んだ。

野口は乾いた笑みを浮かべながら続けた。


「正直、めっちゃ羨ましかった。ああいうの、眩しすぎて。ずっと見ててさ、マジ尊敬したよ。」


「こんな言葉、私が口にするなんてダサすぎるけど、さ。でも、言わなきゃ後悔する気がしたの。だから今、ちゃんと伝えたからね。」


言い捨てるようにして、野口は教室を出て行った。

夕暮れの光の中、藤田は胸の奥に小さな火が灯るのを感じた。

まだ、終わってない。


―――


翌朝、職員室。高岩は、教頭・東海林祥子に呼び出された。

小さな応接スペース。

机の上には、文化祭の展示に関する保護者や来場者からのクレームの紙束が並べられていた。


「高岩先生、ご説明をお願いします。」


彼女の声には、責任を問う冷たい響きがあった。

高岩は資料に目を通しながら静かに答えた。


「生徒達自身が選んだテーマです。社会に出る前に、無関心や差別の現実を知ってほしいと、彼らは自ら取材し、考え、作り上げたものです。」


東海林は眉を寄せた。


「ですが、関係者の全ての皆さんに不快感を与えたのは確かでしょ。学校は地域との信頼関係を守る責任があります。保護者からはうちの子に何を見せたんだと責められました。地域の方からも、あんな展示を許す学校に子供を通わせられないと。学校は教育の場であると同時に、地域との信頼の上に成り立っています。それを壊したとなれば、責任は重いんです。」


高岩の脳裏に、あの張り紙が浮かぶ。

紙一枚の問いが、クラスも大人も追い詰めている。


高岩は言葉を選びながら言った。


「お言葉ですが、生徒達は現実を知っただけです。都合の悪いことをなかったことにする方が、よほど彼らにとって不幸ではないですか?」


東海林は、ため息をついた。


「校長とも相談しますからね。今後の対応については、後日改めて。」


高岩は、黙って頭を下げた。

そして教室へ戻った。


生徒達は何かに怯えるような表情で座っていた。

噂は、すぐに広がっていた。


文化祭の展示が問題になったらしい。

PTAから苦情が来ているらしい。


沈黙。

誰も目を合わせない。

ついに、ひとりが口を開いた。


「これって、藤田のせいじゃね?」


吐き捨てるような声だった。

藤田怜奈が、ピクリと肩を震わせた。

その瞬間、堰を切ったように声が重なった。


「そうだよな〜。」

「最初に言い出したの、藤田じゃんな。」

「マジで巻き込まれたわ、俺ら。あーやだやだ。」


誰かが無意識に扉へ視線を向ける。

その仕草で、藤田の胸は突き刺されたように痛んだ。

そして唇を噛み締めた。


その時、野口由紀がすぐに立ち上がった。


「はぁ?何言ってんの?全員で決めたんじゃん!私だって怖かったよ。でも、藤田が先に声出したから動けたんでしょ?。みんなだって、あの時ちょっとは胸が熱くなったんじゃないの?」


しかし、教室の空気はもう野口ひとりでは押し返せなかった。

誰もが誰かを責めたかった。


自分の無力感。

悔しさ。

恥ずかしさ。

怒り。


全部、誰かのせいにしたかった。


「お前ら、いい子ぶってたくせに!」

「やりたくなかったなら、最初から言えよ!」


怒鳴り声。


「そんな空気、出せなかっただろ!」

「だって言ったら、意識高い系って笑われるだろ?」

「SNSに晒されて、またネタにされんのとかマジでダルいし。」

「俺だって怖かったよ。笑われんのも、無視されんのも!」


机を叩く音。

椅子を蹴飛ばす音。

泣き声。

嗚咽。

罵声。


涙でにじんだ顔を歪めながら、誰もが「自分だけは悪くない」と言い張ろうと必死だった。

机の間を飛び交うのは理屈ではなく、ただの感情のぶつけ合い。

泣きながら責め、責めながら泣く。

その光景は、仲間だったはずのクラスが一夜にして敵同士に変わったかのように残酷だった。


まるで、瓦解していく建物の中にいるように。


そんな時、渡辺詩織が珍しく大声で言い放つ。


「てかさ、誰かのせいにするのって楽だよね。誰かを責めてる間だけ、自分がクソだって気づかなくて済むもんね。」


その言葉はナイフのように教室中に突き刺さる。


「私さ、昨日まで自分は悪くないって何回も言い訳してた。でも、気づいたの。あれって、ただの逃げだったんだって。」


「だけど、本当は楽なんかじゃなかった。夜ベッドで泣いて、スマホ見て心えぐられて。それでも明日が来るなら、誰かと笑いたいって、何度も思ったの。」


ガタリ、と。後ろのドアが開いた。

高岩が無言で教室に入ってくる。


だが、何も止めなかった。

ただ静かに生徒達を見下ろした。

そして、凍りつくような声で言った。


「もっとやったほうがいいぞ。」


本当は止めたい気持ちがあった。

泣き叫ぶ彼らを抱きしめてやりたいとも思った。

だが、それでは意味がない。

教師が与える「正解」ではなく、彼ら自身の泥臭い言葉でぶつかり合わなければ、また同じことを繰り返すだけ。

高岩は拳を握り、胸の奥でそう自分に言い聞かせていた。


「これが青春なんて、キレイごとをいってるんじゃない。ぐちゃぐちゃで、涙と怒鳴り声だらけで、それでようやく見えてくるもんがある。君達は今、それをやってるんだ。」


生徒達は息を呑んだ。


「逃げずに全部、吐き出すんだ。恨みでも、憎しみでも、情けなさでも、汚い感情でも。ここで吐き出さなきゃ、君達は一生、誰かのせいにして生き続けることになるぞ。」


教室に再び、嗚咽と怒声が響いた。

泣きながら、叫びながら、罵りながら。

それでも必死に感情をぶつけ合った。


気づけば全員が座り込み、泣き疲れていた。

誰も何も言えなかった。

ただ、青春という瓦礫の中で、たったひとつの火種だけがそこにあった。


「このままで終わりたくない」


そんな、どうしようもなく青く、脆い願いだけが胸の奥に残っていた。


―――


生徒達が帰ったあと高岩は、ぼんやりと教卓に肘をつき、動かないまま座っていた。

机の上には文化祭展示に関するクレームの紙束。


『あんな展示を見せるなんて信じられない』

『子どもの心に傷を残したらどう責任を取るんですか?』

『教育の名を借りた政治活動だ!』


文字の羅列は、ただの活字なのに、ナイフのように突き刺さる。

そこに記されているのは「大人達の正論」。

無表情でそれを眺めながら、高岩はゆっくり目を閉じた。


「俺は、間違ってたのか。」


静かな自問自答。

逃げたくなるような後悔。

喉の奥にせり上がる吐き気。


そこへ、駒沢幸がそっとドアを開けた。


「高岩先生。」


高岩はゆっくり顔を上げた。

駒沢は無言のまま隣の席に腰を下ろすと、膝の上で両手をぎゅっと握った。

沈黙が流れる。

やがて駒沢が呟いた。


「あの子達、壊れちゃったんですかね?」


「壊れたんです。でも、壊れなきゃ見えないものもあるんですよ。」


「本音、言ってもいいですか?」


高岩は黙って頷いた。


「私、逃げたかったです。」


膝の上で握った拳が震えていた。


「見ていられなかったんです。泣きながら、叫びながら、傷つけ合ってるあの子達の姿を。」


声がかすれた。


「怖くなりました。自分が何もできないんだって思い知らされることが何よりも。」


高岩は、ゆっくりと視線を下げた。

わかる。痛いほど、わかる。

教師という肩書きで、何かを守れると思っていた。

何かを変えられると思っていた。

でも現実は違った。

無力感だけが胸を満たしていく。

しばらくして、高岩が静かに口を開いた。


「逃げたいなら、逃げてもいいんじゃないのかな?」


駒沢が顔を上げた。


「無理に戦う必要はないと思います。守りたい誰かを守れなくて、自分まで壊れるくらいなら逃げた方がよっぽどマシだと私は思います。」


静かな、でも残酷な本音。

駒沢は言葉を失ったまま高岩を見つめた。

高岩も自分自身を見つめるように続けた。


「でも、俺は…まだ生徒達の可能性を信じていますし、諦めたくないんです。」


震える声だった。


「たとえ、今すぐには立ち上がれなくても、何も変わらないかもしれなくても、俺は生徒達がもう一度、自分を信じる瞬間を、この目で見たいんです。」


駒沢はその言葉を聞いて、ポロポロと涙を流した。

沈黙の中、駒沢がそっと呟いた。


「そうですよね。じゃあ、もうちょっとだけ、高岩先生と一緒に踏ん張らせてください。」


高岩は何も言わなかった。

ただ、小さく頷いた。

夜の職員室に、小さな、小さな誓いだけがそっと灯った。


―――


あの教室の崩壊から、まだ24時間も経っていない。

けれど生徒達は、それぞれの場所で、それぞれの夜を迎えていた。


藤田怜奈は自分の部屋で、電気もつけずにベッドに倒れ込んでいた。スマホの通知がいくつも光っている。

でも、見ない。


誰が責めているのか。

誰が慰めているのか。

誰が無関心なのか。

全部、知りたくなかった。


藤田は、ただ真っ暗な天井を見上げながら心の中で呟いた。それでも、私は間違ってない。

間違ってたとしても、あの時、本気だったことだけは嘘じゃない。

震える指で、そっと胸元を掴んだ。

涙はもう枯れていた。


野口由紀はコンビニの帰り道、自転車を押しながら夜道を歩いていた。

イヤホンから流れる音楽も今日は耳に入らなかった。

頭の中では、あの教室での罵声が何度も何度もリフレインしていた。


「結局、あなたも逃げたかったんじゃないの?」


心の中で誰かの言葉が囁く。

野口は思わず空を仰いだ。

そこには、やけに澄んだ星空が広がっていた。


「くっそ!」


その声は、泣き笑いみたいに空へ溶けた。

青春って、うまくいかないことばかりだ。

でも、心を掴んで離さない何かが確かにそこにある。

野口はそれを感じていた。


渡辺詩織は机に向かい、ノートにびっしりと何かを書き殴っていた。

怒り、悲しみ、怖さ、無力感。

言葉にならない感情を、ただただ文字に変えて書き続けた。

ぐしゃぐしゃに破ったページ。

でも、それでもやめられなかった。

書いて、書いて、書いて。

ようやくひとつだけ、はっきり見えた言葉があった。


「私は、まだ終わってない。」


その一文を両手でぐしゃりと握り締めた。


吉田直樹は自分の部屋でスケッチブックを広げていた。

真っ白なページ。

鉛筆を握る手は震えていた。

描くの怖かった。

また誰にも届かないことが。

また笑われることが。

でも、吉田は震える手で線を引いた。

荒れた、歪んだ、でも、どこか生々しい線。

震えながら吉田は一筆、一筆、線を重ねていく。

壊れても描くしかなかった。


別の場所で、無関心を装っていた加藤れんは布団の中でひとり天井を睨んでいた。


「どうせ笑われんのなんか当たり前だろ。」


口ではそう言い聞かせても、胸の奥では悔しさが暴れて眠れない。

「俺は関係ない」と突き放すことでしか、自分を守れなかった。

けれど、その逃げ道の先にも結局、孤独しか残らないことを薄々感じていた。


誰も答えは見つけられなかった夜。

誰も救われなかった。

それでも、それぞれの夜の中で確かに青い火花が胸の奥で燃え続けていた。

それは未熟で、頼りなくて、すぐに消えてしまいそうな火花。

けれど、彼らの青春はまだ終わっていない。

むしろ、この夜こそが始まりだった。


―――


曇り空の朝。

3年2組の教室は、冷えきったまま。

机と机の間には目に見えない壁があった。

誰も目を合わせない。

誰も話しかけない。

ただ、静かに時間だけが過ぎていった。


そんな中、高岩がゆっくりと教室に入った。

手には一枚の紙。

その顔に笑みはなかった。


「修学旅行の件だが...。」


高岩は教壇の前に立ち、生徒高岩を見渡した。

そして淡々と告げた。


「このままなら、中止にしようと思う。」


教室中がシーンと静まり返った。

ざわつきも怒鳴り声もなく、ただ胸の奥がギュッと締めつけられる。

みんなと行きたかった。

その気持ちを誰も口に出せないまま、心臓の音だけが響いていた。


教室の後ろで、張り紙が微かに揺れた。

言葉よりも、その存在が胸を締めつけた。


沈黙を破ったのは、副担任の駒沢。


「私はこのクラス、大好きです。正直に言うと、大好きでした。」


誰も動かない。


「バラバラで、わがままで、喧嘩ばっかりでね。」


駒沢は笑った。


「でも、皆が誰かを守ろうとする時だけは、誰よりも優しかったと私は思います。」


彼女の声は震えていた。


「私はそれをずっと信じてたんです。だから、今でもあなた達を信じています。」


教室の隅で誰かが嗚咽を飲み込んだ。

高岩はじっと生徒達を見つめていた。

言葉は何も投げない。

応えるのは生徒達自身。

すると、静かに小さな動きが生まれた。

佐藤遥が膝の上で拳を握った。

渡辺詩織が机の端をぎゅっと掴んだ。

西村弘樹が小さく深呼吸をした。

やがて、ひとりが口を開いた。


「ごめん。」


それは西村弘樹だった。

顔を伏せたまま、小さく呟いた。


「俺…マジで怖かっただけだわ。」


渡辺詩織は、ぽろぽろと涙をこぼした。


「私も。怒ったり、責めたりして、本当は、自分が責められるのが怖かっただけ。」


藤田怜奈は、その場に崩れるように座り込み、顔を覆った。


「みんなに嫌われてもいい。叩かれてもいい。でも、あの文化祭が本気だったってことだけは信じてほしい。その上で、もう一度みんなと同じ景色を見たいの。」


そして震える声で言った。


「みんなと、私は沖縄に行きたい。」


教室に小さなざわめきが広がった。

誰かが無言でうなずいた。

誰かが机の上で手を握った。


笑顔なんかじゃない。

抱き合うわけでもない。

でも、確かに、同じ方向を向こうとする熱が、教室中に滲み始めた。


それはまだぎこちなく、壊れかけの絆。

けれど、沖縄の空をみんなで見たい。

その思いだけが、不思議なほど教室をひとつにしていった。

誰もが不器用で、まだバラバラのまま。

けれど、同じ空を見たいという願いだけは重なった。

それだけで、足を前に出す理由には十分だった。


ぎこちなく、不器用で、よろめきながら。

それでも、再び歩き始めた。


高岩は黒板に背を向けたまま、小さく頷いた。


「いいか、仲良しグループになれとは言わない。でも、お互いを見捨てないで欲しい。それだけは言わせてくれ。」


その言葉に誰も声を上げなかった。

でも全員が確かに心で頷いた。


―――


3年2組は、無事、修学旅行へ出発することになった。

完全にひとつになったわけじゃない。

それでも、ぎこちなくつながりながら。

まだ壊れかけのまま、それでも、一歩前へと進む。

青すぎるほどの空に飛び込むように。

誰も答えを持たないまま、それでも笑い合える未来を信じて、彼らは旅に出る。


―――


夜の校舎。

窓から差す街灯に照らされ、廊下の奥に人影が立っている。

生徒か教師か判別できない。

逆光に隠れて顔も分からない。

ただその声だけは、はっきりと響いく。


「あーあ。つまんな。高岩が全部解決しちゃう。」


その口調は退屈そうで、けれどどこか愉快そうだ。

他人の混乱を見物して笑う観客のような声音。


足音がゆっくりと廊下を踏み鳴らす。

やがて影は、吐き捨てるように言葉を重ねた。


「高岩…か。マジで邪魔。ふふ...。絶対に許さない!カウントダウンが始まる音…お前にはまだ聞こえないよね〜。」


沈黙が校舎を包む。

最後に、影は小さく笑った。


「次は何にしようかなぁ…。3年生の皆さん、お楽しみに。」


「ふふ...。今は修学旅行をお楽しみあれ。」


声が遠ざかるたびに、廊下の蛍光灯がひとつずつ消えていくような闇。

残されたのは、夜の校舎の静けさと、不気味な予告の余韻。


誰が口にしたのか?

なぜ3年生なのか?


足音は、生徒用のローファーにも教師用の革靴にも似ている。

だからこそ、余計に響く不気味さ。


「内側の誰か」なのか?

「外から忍び込んだ何者」なのか?


正体の見えない影は、ただ確実に、次の混乱を運んでくる気配だけを残して去っていく。

そして、その後の教室に影を落とすことになることをまだ誰も知らない。

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