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見えない鎖を断ち切れ

9月中旬、文化祭まで残り10日。

3年2組の教室には、昨日までとはまるで違う空気が流れていた。

放課後、教室には十数人の生徒たちが残り、本気で文化祭の企画を詰めていた。


ホワイトボードには


『日本という名の外国』

——自分と違うものと共に生きる覚悟——


その下に、いくつもの付箋が貼られていた。


外国人労働者。

土地と水源の買い占め問題。

空気同調圧力。

無意識の差別、孤独、貧困。


生徒たちは自分たちの手で、本当に社会に向き合おうとしていた。

教壇近くでは藤田怜奈が中心になり、村上啓太、吉田直樹、久保美優、坂田瞬、星野圭が資料を広げていた。


そこに、新しく加わった3人。

南 洋子。

前田 りお。

松本 周。


南はスマホの画面を食い入るように見ていた。


「ここ、見て。北海道の水源地が、海外資本にごっそり買われてるって。写真で見ると、ただの森だけど。」


画面には静かな山林地帯に立つ外国語の看板が映っていた。

前田りおは淡々と資料を読みながら、怒りを押し殺すように言った。


「農地も、観光地も、静かに、まるで侵略みたいに外国に売られてるじゃん。」


「なのに誰も気にしてない。この国の土地が、どんどん自分と違うものになってるのに。」


松本周は、悔しそうに拳を握った。


「俺んちの近所にもコンビニで働いてる外国人のお兄さんいるけどさ、この前、酔っぱらいにめちゃくちゃ絡まれてた。助ける人なんて誰もいなかったよ。」


教室がしんと静まり返った。

藤田怜奈は迷いなくホワイトボードに新たなキーワードを書き込んだ。


「見えない侵略」

「使い捨てられる人たち」

「空気を読むことが正義になった社会」


村上啓太が、顔を上げた。


「なあ。俺たちがこれやったら、マジで学校から怒られるどころじゃねえかもな。」


吉田直樹が、静かに笑った。

それは恐怖を打ち消すような笑いだ。


「怒られるくらいじゃなきゃ、鎖は壊せないっしょ。」


久保美優が小さく頷いた。


「でも、伝えたい。私たちは、もう何も知らないフリをしたくない。」


坂田瞬が手を挙げた。


「じゃあ、取材に行こうぜ!地元の農家とか、外国人労働者が働いてる店とか、直接話を聞こう!」


教室が、一瞬にして活気づいた。

熱いエネルギーが、空気中を満たしていく。


そのとき、教室のドアが開き、駒沢幸が顔を出した。


「お、めっちゃ盛り上がってるじゃ〜ん。」


彼女は明るく親しみやすい笑顔で教室に入ってきた。

高岩も後ろからゆっくりついてきた。

駒沢はホワイトボードを見て、ぱちぱちと瞬きをした。


「すっごいテーマだね〜!」


藤田怜奈が胸を張って言った。


「本気モードはいってます!」


駒沢は嬉しそうに笑った。


「いいじゃん。生徒たちがここまで考えてるんだもん、先生たちが止める理由、ないっしょ。」


高岩は微笑んだ。


「ただし...。」


生徒たちが、ピタリと耳を傾ける。


「社会に真正面から向き合うってことは、責任も引き受けるってことだ。甘えた子どもじゃ、このテーマには耐えられないぞ。」


生徒は皆、強く頷いた。

駒沢も、その姿を見て小さく拳を握る。


「わかった。私もちゃんとサポートします!だけど、前に出るのは君たちだからね!」


生徒たちは、それぞれの胸に小さな炎を灯した。


―――


次の日曜日。

生徒達は、班に分かれて本格的な「社会取材」に向かうことを決め、それぞれの目的地に進進む計画を立てた。


テーマは


外国人労働者の現場を取材する班

水源地買収問題を調査する班

空気同調圧力と排除についてインタビューする班

そして、クルド人コミュニティと中国人観光客の実態を掘り下げる班。


本当の現実に踏み込むために。

3年2組の挑戦が、始まった。


3年2組の取材班は学校に集合していた。

それぞれの班に分かれ、事前に決めた取材先に向かう。

高岩と駒沢も見送りに立ち会っていた。


藤田怜奈班は地元で働く外国人労働者の実態を取材。


松本周の班は、地方の水源地が外国資本に買収されている現場を取材。


クルド人コミュニティ取材班には、野口由紀と藤井優奈が加わった。

望月莉奈と上原舞も、最初は傍観していたが、いつの間にか彼らの後ろをついてきていた。


残った生徒達は、街頭で「空気を読むこと」について匿名インタビューを試みる。


出発前、駒沢が冗談めかして言った。


「道に迷ったら、素直に泣いてね〜。すぐ助けにいくよ。」


生徒達は小さく笑った。

しかし、その目は真剣だった。


高岩は静かに言った。


「見るだけじゃ意味がないぞ〜。聞いて、感じて、自分で考えるんだ!」


藤田怜奈達は、大きく頷き、それぞれの取材地へと散っていった。


■ 藤田怜奈班(外国人労働者取材)


向かったのは郊外にある小さな工場街。

日曜にもかかわらず、コンビニや飲食店には外国人労働者達の姿が多い。

取材メンバーは全員そろって歩いていた。


コンビニの裏手。

パート上がりの女性達に声をかけた。

フィリピン出身だという女性は日本語がたどたどしかったが取材に応じてくれた。


「日本、働く、大変。安い、給料、でも、家族、フィリピン、送る。」


藤田怜奈が遠慮がちに聞いた。


「つらいって思うことありますか?」


女性は、寂しそうに微笑んだ。


「友達、できない。日本人、冷たい。店、入ると、見られる。怖い顔、される。」


藤田達は言葉を失った。

何気ない日常の中に、こんなにも深い孤独と差別があった。


久保美優が尋ねた。


「それでも日本にいたいって思いますか?」


女性は迷いなく頷いた。


「家族、フィリピン。ここ、仕事、家族、守る。それ、大事。」


その言葉に藤田達は胸が締めつけられた。

自分達は何も知らなかった。

星野圭が静かに録音を止める。


「これ、絶対に伝えたいよな。」


誰も反対する者はいなかった。


駅までの道、残暑の風がまとわりつく。

コンビニで買ったアイスバーをかじりながら歩く。


「冷たっ!頭キーンする!」と圭が大げさに叫ぶと、怜奈が吹き出した。


重たい取材の余韻は消えない。

それでも、九月の風とアイスの甘さが、心の端をほんの少し軽くした。


■ 松本班(水源地問題取材)


一方、南洋子、前田りお、松本周の3人は、都心から少し離れた山間の村に来ていた。

ここは外国資本が水源地を買い取り、周辺住民の生活が一変した場所だ。

村の古びた集会所で、元村長を務めたという老人が取材に応じてくれた。

老人は、重い口を開く。


「昔は、ここの水を村全体で使ってたんだ。だけど外国企業が買い取ってから使えなくなったんだよ。」


前田りおが鋭く聞き返す。


「買い取った企業は、何か補償してくれたんですか?」


老人は首を横に振った。


「なんにもだ。水は商品になった。タダじゃ使えないんだよ。」


松本周が呟いた。


「人の命、金で売ったんだ。」


南洋子は集会所の外に広がる森を見つめた。

豊かだったはずの自然が、静かに侵されていく。

誰も気づかないままに。


集会所を出ると、刈りたての草の匂いがして、空気は少し冷たかった。

道の駅で買ったコロッケを三人で分ける。


「熱っ…でもうま。」


「水まで値段がつくのに、コロッケは二百円か。」と周。


洋子は笑って頷いた。

重い話と揚げ物の湯気。

九月の村は、やさしくて、苦かった。


■ クルド人・中国人取材班


取材班は、埼玉県の川口市にあるクルド人コミュニティを訪れた。

野口由紀と藤井優奈は、最初はクルド人の迷惑行為や騒音、そして仮放免者による犯罪がどれほどひどいかを暴くつもりでいた。


生徒達はネットやSNSで流れる情報、そしてメディアが報じる一部の事件だけを鵜呑みにしていた。

しかし、彼らが目にした現実は、想像とは全く違っていた。

野口由紀は、あるクルド人男性に話を聞いた。


「彼が言うんだ。『クルド人はルールも守らないし、犯罪者だろ?』って。私は難民申請中だけど、ちゃんと働いているし、税金も払っている。でも、誰にも信じてもらえない。日本のルールを守りたいのに、そもそもルールが、私達には適用されないこともある。これが、日本中が私達に抱いている苛立ちなの?」


藤井優奈は、新宿で中国人観光客に話を聞いた。

メディアが報じる「爆買い」や「マナーの悪さ」の裏側を覗き見ようとしたのだ。

とある年配の女性は、疲れた顔で言った。


「日本に来るまで、本当に大変だった。ビザを取るのも、日本で生活するのも。でも、日本人は、私達をみんな同じだと思ってる。中国は広いのに。たしかにマナーが悪い人もいる。でも、みんながみんなじゃない。私達だって、日本を好きで来ているのに。」


隣で聞いていた望月莉奈と上原舞は、無言でスマホを操作していたが、その表情には戸惑いが浮かんでいた。


生徒達は、社会の持つ「ルールを守れ。違反するなら入ってくるな」という強い主張を目の当たりにした。

そして、その裏に隠された、それぞれの個人の声に触れて、自分達の安易な正義感が揺らぐのを感じた。


■ 街頭インタビュー班(空気同調圧力)


山口隼人班は、駅前で「空気を読むこと」についてのインタビューを行っていた。

質問は単純。


「もし自分が少数派だったら、どうしますか?」


多くの人が曖昧な笑みを浮かべながら答えた。


「まあ、合わせるかな。」

「空気読まないと、浮いちゃうし。」

「正論言ったら面倒くさいでしょ。」


誰も異を唱えなかった。

田中真也が呟く。


「本音を言うことより、嫌われないことが大事なんだな。」


渡辺詩織も苦笑いした。


「これが社会なのね。」


山口隼人が静かに言った。


「空気に勝てない国か...。」


生徒達はリアルな現実を肌で感じていた。


■ 夕方・学校に集合


それぞれの班が傷つき、戸惑い、それでも取材した資料を手に戻ってきた。

教室で再会した瞬間、藤田怜奈が静かに言った。


「私達、本当に何も知らなかったんだね。」


誰も反論しなかった。


皆、少し大人になったような顔をしていた。

先生と駒沢はその姿を静かに見つめた。

まだ答えは出ない。

しかし、ここからだ。


―――


翌日、放課後。

3年2組の教室には、昨日、取材してきた生徒達が集まっていた。

教室中央に大きく広げられたのは、集めた取材メモ、録音データ、写真、感想ノート。

それを囲みながら議論を始めていた。


藤田怜奈が真剣な顔で言った。


「これ、本当にそのまま出していいと思う?」


取材内容はどれも重たく、どれも胸がえぐられるようだ。

外国人労働者の孤独。

水源地が金で売られていく現実。

空気を読まなきゃ生きられない国民性。

そして、メディアやネットの情報だけではわからない、クルド人や中国人の、孤独で、複雑な感情。

どれも笑って楽しむ文化祭には、似つかわしくない現実。


村上啓太が、腕を組んだ。


「ても、さ。隠すのは、違うだろ?」


吉田直樹が静かに言った。


「ただ重いだけじゃ見てもらえないよな。」


久保美優も苦しそうに続けた。


「伝えたいけど、押し付けたくはないよね。」


坂田瞬が壁に頭をつけた。


「難しいなぁ…。」


その時だった。

教室の隅で南洋子が静かに言った。


「どうせ、さ。みんな、本気では聞いてくれないよ?」


前田りおも淡々と言った。


「うん。すぐ忘れるよね。」


松本周が拳を握りしめる。


「でも、それでも伝えなきゃ何も変わんないじゃん?」


空気が重く沈んだ。

江口直也が静かに言った。


「俺達、もしかしたら、何か変えられるかもって思ってたけど、さ。無力だよな。」


田中真也が机をぎゅっと掴みながら言った。


「でもさ、無力でも伝えたいだろ?」


渡辺詩織が涙ぐみながら続けた。


「知らなかった自分が、いちばん怖いから。誰かには必ず伝えたい。」


山口隼人が、静かに言った。


「そうだよ。空気読めって世界に空気を破る展示をやろうぜ!」


その一言で教室の空気が変わった。

藤田怜奈が、深く息を吸い込んだ。


「隼人のそれいいね!空気を壊す展示、作ろうよ!」


彼女はホワイトボードに太いマジックで大きく書いた。


『見えない鎖を断ち切れ』


全員がその言葉に頷いた。


その瞬間、坂田が「おい、マジック出ない!」と叫んだ。

見ると、黒板用の白マーカー。


「空気は破れても、インクは出ないんだな。」と直樹。


教室に笑いが走る。

笑い終えると、みんな自然と手を動かし始めた。

冗談は、前に進む合図だった。


空気を読まない。

本音をぶつける。

現実を伝える。


それが、3年2組の文化祭。


その時。

教室のドアが、コンコン、と控えめにノックされた。


「失礼しまーす!」


明るい声と共に駒沢が顔を出した。

その後ろから、先生もゆっくりと姿を見せた。


「進んでるみたいだね。」


高岩が静かに言った。

藤田怜奈がホワイトボードを指差す。


「私達、このテーマでいきます!」


先生はその文字をじっと見た。


『見えない鎖を断ち切れ』


駒沢は満面の笑みで親指を立てた。


「最高じゃん!」


高岩はゆっくりと頷いた。


「よく…ここまで来たな。」


その声には少しだけ震えがあった。

本気でやろうとする生徒達を心の底から誇りに思っていた。

藤田怜奈は胸を張って言った。


「私達、誰にも媚びません。」


高岩は笑った。


「よーし。その覚悟があるなら、先生達はもう何も言わないから安心しろ。」


駒沢も力強く頷いた。


「全力で皆を守るからね!」


教室にほんの少し、涙ぐんだ空気が漂った。

しかし、誰も泣かなかった。

泣くのはもっと先。

本当に、やり遂げた時。


文化祭まで、残り9日。

3年2組の本当の戦いが始まる。


―――


文化祭本番まで、あと3日。

3年2組の教室は急ピッチで設営準備が進んでいた。


『見えない鎖を断ち切れ』


この挑戦的なテーマを掲げ、彼らは本気で展示づくりに取り組んでいた。

外国人労働者の孤独、水源地買収問題、空気同調圧力。

取材したリアルな声をもとに、映像、写真、体験型のブースを準備。


教室中に貼られたメッセージカード。

壁一面に広がる「普通を疑う質問」ボード。

すべてが誰かの心を少しでも揺さぶるために作られていた。


クルド人少年や中国人女性の言葉は、生徒達によって丁寧にまとめられ、パネルの一部を飾っていた。

「日本で生まれたのに、なぜ嫌われるの?」

「みんながみんなじゃない。」


それは、教室の誰もが、自分のこととして受け止めた言葉。

しかし、トラブルは静かに近づいていた。


―――


朝一番、廊下で南洋子が拾ったもの。

それは、ぐしゃぐしゃにされた3年2組の展示ポスター。

前田りおが冷静に言った。


「やられたね。」


松本周が顔をしかめた。


「誰だよ、こんなことしたの!」


藤田怜奈はポスターを拾い上げ、ごみ箱に静かに押し込んだ。


「気にしちゃだめ。やることは変わんないからね。」


強く言い聞かせるように。

しかし、彼らの覚悟を試すように、さらに追い打ちがかかる。


昼休み。

職員室に呼び出された高岩と駒沢。

教頭・東海林祥子が、冷ややかな視線を向けた。


「保護者から苦情が入りました。」


無記名の意見箱に、こんな声が寄せられていた。


「文化祭で政治的なことを持ち込まないでほしい。」

「差別だの外国だの、子供に重たい問題を押しつけるのはおかしい」


高岩は微動だにしない。

駒沢は拳を握りしめた。

教頭は静かに続けた。


「展示内容に関しては、もう少し配慮を求めます。」


配慮?

それは、本当のことを薄めろという婉曲表現。

高岩は教頭をじっと見つめた後、はっきりと告げる。


「生徒達は自分で考え、取材し、やると決めました。私達はそのプロセスを誇りに思いますし、最後まで守ってあげようと思います。」


教頭の眉がわずかに動いた。

高岩は怯まなかった。


「それに、配慮とは見なかったことにすることではないですよね?配慮とは、相手を信じ、真正面から伝えることではないでしょうか。私は生徒に、そのような大人のずるさを教えたくはありません。」


教頭は無言で書類に視線を落とした。

駒沢が小さく笑った。


「心配しないでください、教頭。うちの生徒達、誰よりも空気読めないんで。ちゃんと問題を乗り越えると思います。」


高岩も静かに笑った。

教頭は息をつき、それ以上は何も言わなかった。


放課後。

3年2組の教室に学校側からの通知が届いた。

「展示内容の一部変更要請」

差別、排除、外国資本など、刺激の強い単語は削除・言い換えを求める、という内容。

生徒達の間に沈黙が広がった。

藤田怜奈が通知を握りしめた。


「どうする?」


村上啓太が歯を食いしばった。


「ふざけんなよ。」


吉田直樹も言った。


「結局、何も見ないで生きろってことかよ。」


久保美優が震える声で言った。


「でも、従わなかったら文化祭に出られないかも…。」


南洋子が静かに言った。


「まぁ、空気読めってことだね。」


前田りおも、静かに。


「大人って、さ。本当に変わる気なんてないんだよ。」


教室の空気が重く沈んだ時。

高岩と駒沢が教室に入ってきた。

高岩は通知書を手に取ると、それを静かに破り捨てた。


ビリッ。


破かれた紙片が教室に舞った。

ひらひら落ちた紙片が、洋子の頭にふんわり乗った。

誰かが吹き出し、つられて笑いが広がる。


そして高岩は教壇に立ったまま言った。


「君達は空気を読まないんじゃなかったのか?(笑)」


その一言が、教室の温度をさらに一段上げた。

緊張は解けない。

でも、笑えるうちは、折れない。


「今できること。正しさじゃない。強さじゃない。空気を読むことでもないぞ?。」


「君達自身が何を信じるかじゃないのかな?」


駒沢も隣で微笑んだ。


「それでも進むんだ。最後まで先生達が後ろから支える。」


藤田怜奈は拳を握りしめた。


「やろうよ。」


全員が力強く頷いた。

文化祭本番まで、あと2日。

3年2組は誰よりも本気だった。


―――


文化祭、前日。

午後の最終確認を終えた3年2組の教室は、静かな達成感に包まれていた。

展示ブース、映像設備、パネル、壁新聞、すべて整った。


『見えない鎖を断ち切れ』


あの文字が、教室正面の壁に大きく掲げられていた。

藤田怜奈は教室をぐるりと見渡して笑った。


「ねえ、みんな!やっとここまで、来たね〜(笑)」


村上啓太が手を伸ばして展示パネルのホコリを払った。


「明日、絶対後悔しないようにしようよ。」


吉田直樹も、頷いた。


「本気でやったからな。どんな反応でも受け止めるよ。」


それぞれの表情に自信があった。

少なくとも、この瞬間までは。


それは誰もが帰り支度をしていたときだ。


ガシャンッ!!


廊下のほうから、何かが倒れる音が響いた。

驚いた生徒達が慌てて教室を飛び出す。


そして廊下の奥、体育館へ続く通路でそれを見た。

3年2組の展示パネルが無残に倒されていた。

パネルは折れ、展示用のメッセージカードは破られ、印刷した外国人労働者の写真には、落書きがされていた。


国に帰れ

お前らいらね


そこには、取材した相手達を侮辱する言葉が書き殴られていた。

教室に残った展示の一部も荒らされていた。

藤田怜奈はその光景を呆然と見つめた。

久保美優が口を押さえてしゃがみこんだ。

坂田瞬が拳を震わせながら立ち尽くした。

星野圭はひとり小さな声で呟いた。


「これが、現実?」


高岩が駆けつけてきた。

そして荒らされた展示を無言で見つめたあと、ゆっくり生徒達に向き直る。


「誰かが君達の本気を怖がったんだな。」


静かに、しかし、はっきりと。


「だから壊しにきたんだろう。」


駒沢幸も駆けつけてきた。

そして、怒りに震えながら言った。


「なにこれ?最低。」


生徒達は、それぞれ顔を伏せた。


怒り。

悔しさ。

悲しみ。


様々な感情が、ぐちゃぐちゃに交じり合った。

藤田怜奈は、力なく、呟いた。


「もう、無理じゃない?」


その言葉に村上啓太が首を振った。


「違う!」


吉田直樹も続けた。


「これでやめたら、負けたことになる!」


久保美優が、涙ぐみながら言った。


「でも、こんなの、あんまりだよ…。」


先生は教壇の脇に立ったまま、静かに告げた。


「壊されたなら、もう一度、作り直せばいい。」


藤田怜奈が、顔を上げた。


「でも…。時間、ないよ…。」


先生は微笑んだ。


「君達ならできる。今まで、誰よりも本気だったんだ。」


駒沢も拳を握った。


「今やらなきゃ、私なら一生後悔するな(笑)」


生徒たちの間に小さな火が灯った。

南洋子が破れたパネルを拾い上げた。


「そうだ、ね。やろう!」


前田りおも破れたメッセージカードを拾った。


「また、作りなおそ!」


松本周も落書きされた写真を拭き取りながら言った。


「負けたくないよな。」


みんなが黙って動き出した。

教室に戻り、手分けして、残った材料をかき集める。

パネルを直し、ポスターを印刷し直し、メッセージをもう一度書き出す。


涙を流しながら。

歯を食いしばりながら。

それでも、誰一人、諦めなかった。


窓を少し開けると九月の風が入ってきた。

ポスターの角がぱたぱた鳴る。

机に置かれたコンビニのおにぎりを、無言で回す。


「梅、当たり」「ツナ、勝ち」


涙の跡が残る顔で、それでも笑う。

貼り直したテープの上に、少しだけ青春の匂いが残った。


文化祭前夜。

教室には、夜遅くまで明かりが灯っていた。

3年2組がひとつになった夜だった。


―――


本番。

9月30日、午前9時半。

文化祭が静かに始まった。

3年2組の教室も予定通りオープンしていた。


入り口の横には

昨日、生徒たちが必死で修復した看板が立っていた。


『見えない鎖を断ち切れ』


しかし、来場者は誰も足を止めなかった。

教室前を通り過ぎる父母達。

立ち寄るでもなく、視線を向けるでもなく、ただ、素通りしていく。

時折、立ち止まったかと思えば、「暗そう」「重い」と小さく呟いて、また歩き去る。

中に入ってきた何人かも、展示を流し見し、表情一つ変えずに出ていった。


藤田怜奈は、受付に立ちながら指先が震えるのを必死で押さえた。

皆、ただ立ち尽くしていた。

心の奥で誰もがわかり始めていた。


見られてない。

伝わってない。

興味すら持たれてない。


昼すぎ。

ようやく数人の保護者が中に入ってきた。

しかし、彼らが展示を見たのは、ほんの数秒。

目だけで追い、何も感じた素振りも見せず、すぐに教室を出て行った。


ある母親グループは廊下でこんな会話をしていた。


「なんていうか、文化祭にしては重すぎないかしら?」

「普通にクレープとか、出店見たいのよね。」

「子供に社会問題とか押し付けるのって、違わない?」


笑い声。

軽蔑混じりの視線。

誰にも届かない叫び。


藤田怜奈はポケットの中で拳を握りしめた。

気づけば、爪が掌に食い込んでいた。

村上啓太は顔を上げることすらできなかった。

吉田直樹も無言で映像機器の前に立ち尽くしていた。

久保美優は貼り紙の端を直し、必死に涙をこらえていた。


これが、現実だ。

誰も本気では聞こうとしない。

伝えるって、そんな簡単なことじゃない。

生徒達の心に、ズシリと、冷たい絶望が降り積もっていった。


放課後。

展示を片付け始めるころ。

教室に高岩と駒沢が入ってきた。


生徒達は、誰一人、顔を上げなかった。

重苦しい沈黙が教室を満たしていた。

そんな中、高岩が静かに言った。


「ほら、顔、上げろ。」


誰も動かなかった。

高岩は、一拍置いてから大きな声で言った。


「君達は、何のためにここまで来たんだ?」


藤田怜奈が、涙を流し震える声で答えた。


「先生、誰にも、誰にも届かなかった...」


先生は優しく言った。


「だからどうした。君達は誰かに褒められるためにやったのか?」


「うけ狙いのため、楽に生きるために、このテーマを選んだのか?」


生徒達は俯いたまま何も言えなかった。

先生は、叩きつけるように言った。


「違うだろ?」


「怖かったんだろう?無関心を突きつけられるのが、怖くてたまらなかったんだろ?」


藤田怜奈は顔を歪めて涙を流した。

先生は言葉を止めなかった。


「だったら、その悔しさを、この胸に刻むことじゃないかな?」


「空気に負けたくないって本気で思ったこの過程を忘れるな。」


駒沢幸も静かに口を開いた。


「今日、誰も見向きしてくれなかったかもしれない。でも、それは本当に無意味だったのかな?」


藤田怜奈は涙でぐしゃぐしゃの顔で首を振った。

南洋子が、かすれた声で、


「私は、私達だけは、変われたって思う…。」


皆、震えながら、頷いた。

そして精一杯、泣いた。

たった一歩かもしれない。

それでも、踏み出した誇り。


展示の片付けが終わったあと。

3年2組の教室に生徒達は自然に集まっていた。

机を円形に並べ、誰からともなく座った。

藤田怜奈が、静かに言った。


「私達、本当に何も変えられなかったのかな?」


村上啓太が笑った。


「わからないけど、さ。自分達のことは、少し変えられたって信じようよ。」


吉田直樹が、


「俺達、初めて、本気で誰かに伝えようとしたもんな。」


皆が静かに頷いた。

生徒達は確かに何かを得た。

それは、どんな称賛よりも、どんな拍手よりも、尊いもの。


片付けが終わると、誰かが言った。


「もう、頭で考えるの疲れたな〜。」


誰かがそう漏らしたとき、別の声が続いた。


「じゃあさ、走ろうぜ。走ってる間くらい、何も考えなくていいから。」


夕焼けのグラウンドに飛び出し、手に残ったペットボトルのサイダーを一気に飲み干す。


「青春って炭酸みたいだな。すぐ抜けるけど、今は弾けてる〜ぅ!」


スニーカーの音、笑い声、九月の風。

世界は変わらなかったかもしれない。

それでも、この速度だけは、本物だった。


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