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告白のリレー 【Little Rewrite ver】

七月初旬、蝉が不器用に鳴き始めた朝。

高岩は窓際の風にシャツの袖をそっと揺らされながら眠気を払うように背筋を伸ばした。

外はすでに真夏の熱気を予感させる陽射し。

窓の隙間から流れ込む空気は、生温い。


「洋ちゃん、ごはんできたよ。」


京花の声がキッチンから届く。

柔らかくて落ち着きがあって、どこか人を包むような声音。

彼女は手際よく器を並べていく。


「ありがとう。」


高岩は食卓に着きながらそう答える。

テーブルの上には、白米、茗荷の味噌汁、鮎の塩焼き、冬瓜と鶏そぼろの冷やし鉢、胡麻豆腐が並んでいた。


「今日も暑くなりそうね〜。」


「ああ。今日は体育祭だから、予行のときも何人か倒れてたし、油断できないなぁ。」


「なので水筒、二本にしといたよ。ほら、冷凍した麦茶とスポーツドリンク。お弁当は職員室の冷蔵庫にすぐ入れてよ。」


「うっす。」


京花はふっと笑い、椅子に腰をかけた。

茉莉花と花梨が、彼女の足元で丸くなっている。


「そうそう、この間、藤田さんのこと話してたでしょ?」


「うん。藤田の家に駒沢先生と行ってきた。話せるところまでは話したよ。」


「お母様、どうだった?」


「予想通りかな。生活保護なんて、恥ずかしいって。娘の水商売の話も、そんなことするなんてって言葉ばかりでさ...。数日前に申請出させたんだけど、大変だったな。」


「そんなことって何だろうね?」


高岩は、味噌汁をすすりながらゆっくり頷いた。


「だけど……藤田の家庭、かなりギリギリだ。家計も心も...。」


「だったらなおさら、学校が支えになってあげなきゃ。洋ちゃんは、そういう子を守るために先生になったんでしょ?」


「もちろん。申請通るといいんだけどね。」


茉莉花がくぅんと甘えた声を出し、京花が自然に抱き上げる。

花梨はソファの上でくるりと丸まった。


「何かあったら連絡してね。」


「わかってるよ。ありがとう、京花。」


「どういたしまして、洋ちゃん。いってらっしゃい!」


「いってきまっす!」


玄関を開けると、朝の光が正面から差し込んできた。

高岩はゆっくり深呼吸してから階段を下りて行った。


階段を下りながら、6月の出来事がふと脳裏をよぎった。

藤田の家庭訪問、生活保護の申請にこぎつけたあの日のやり取り。

駒沢と一緒に必死で説得し、申請がようやく受理されたことは確かに希望だった。


しかし同時に、掲示板に貼られた【裏切り者 見つけた】の紙。

あれが藤田を指していることは、もう誰もが気づいている。

守ろうとすればするほど、彼女の居場所は狭まっていく。

その矛盾を思い出すたび、高岩の胸には重たいものが沈んだ。


(今日こそは…少しでも風を通してやらなきゃな)


そう自分に言い聞かせるように、足を速めた。


―――


高校の校舎の南側にはグラウンドに接する昇降口がある。

校庭にはすでに白線が引かれ、テントが設営され、熱気が漂い始めていた。


生徒たちは指定された教室に集合しながらクラスごとに着替えを確認をしている。

高岩は教員玄関から入り職員室に荷物を置いて、すぐに体育着に着替えた。

職員室の片隅では、駒沢幸がヘアピンで髪をまとめながら、メモを確認している。


机の端には、生活保護申請の進捗メモがまだ残っていた。

駒沢と一緒に書き込んだ日付や役所との連絡記録が、鉛筆の跡のように生々しい。

それを見るたびに、高岩は「守ると決めた以上、途中で放り出すわけにはいかない」と改めて思わされた。


「高岩先生、飲み物持ってきました? 今日はマジでやばいですよ。」


「冷凍麦茶とスポドリの2本。京花のおかげ。」


「さすが、高岩先生の奥さん。女子力バケモン!」


「やめてくれよ。もうちょっと普通の褒め方でお願い!」


そこに柏木晴翔がやってくる。

シャツの袖をたくし上げ、細身の腕に汗をにじませながら、ホワイトボードに記入していく。


「先生おはようございます。藤田さん来てます?」


「まだ見てないな。」


「体育祭どうするつもりだろう?」


黒崎澪が後ろの席から静かに呟いた。


「競技、出る予定だったんですよね? 800mと、玉入れと、リレー。」


「無理に出すつもりはないよ。そもそも今日来れるかどうかわからないって伝えただろ?」


高岩の声には、淡々とした中に複雑なものがあった。

駒沢が腕を組みながら、窓の外を見た。


「藤田さんのこと、ちゃんと話すのって職員会議じゃ浮きますかね?」


「浮くね。」


柏木は微笑むように言った。


「でも…浮いてるぐらいが、ちょうどいいと思いますよ。今のこの学校では。」


―――


3年2組の集合場所には、すでに大半の生徒が集まっていた。

ユニフォームに着替え、汗を拭きながら、それぞれがテントの下で準備を進めていた。


「ちょっと遥! ゼッケン逆逆!」


「マジ? ありがとう、由紀ー!」


佐藤遥と野口由紀が、笑い合いながらゼッケンの位置を直している。

二人はどんなときも明るく、空気を軽くしてくれる存在だ。


一方で、青木凛と大野琴音は、無言で水筒を手に並んでいた。

凛は目を細めながら空を見上げ、大野はグラウンドの隅をじっと見つめていた。


玲奈、こないのかな?」


久保美優がぽつりと呟いた。周囲の空気が、すっと緊張する。

啓太は、首にかけたタオルを握りしめながら空を見上げた。


「来るよ、きっと。」


「信じてるの?啓太。」


と、声をかけたのは山下久美子。


「うん。だってあいつ、いつもなんだかんだで来るじゃん。遅れても。」


美優は口を結んだまま少しだけ空を見上げた。

そして高岩は、クラス全体を見渡しながら、深く息を吸った。


藤田...来てくれ。

今日だけは、みんなの中にいてくれ。


もし現れなければ【裏切り者】というレッテルが、さらに色濃くクラスに染みついてしまう。

体育祭という晴れ舞台が、藤田にとっては新たな裁きの場に変わりかねない。

高岩は胸の奥でその危うさを感じ取っていた。

そんな思いを胸に、ゆっくりと帽子のつばを深く被った。


「さて。点呼終わったら校庭移動だ。暑いけど倒れるなよ。給水忘れるなー!」


声を張りながらもその視線はまだ来ていないひとりの生徒を探していた。


陽が天頂に近づき、グラウンドはすでに蒸し風呂のようだった。

校舎の影から伸びた日陰には、テントがずらりと並び、うちわをあおぐ生徒、首にタオルを巻いた教員、麦茶のポットを運ぶ係が忙しく動いていた。


高岩は本部テント横に立ち、マイクチェックを終えた放送委員と軽くアイコンタクトを交わした。


「放送、スタートしていいぞ!」


「はい!」


吹奏楽部の録音がスピーカーから流れ出し、体育祭は静かに始まった。


各クラスの生徒たちは、担任に引率されてグラウンドへ出てくる。

高岩は3年2組の先頭に立ちながら、ちらちらと後方を確認した。


いない。

やはり藤田はまだ来ていない。


「よーし、いくぞ!」


遥の声が後方から元気よく響いた。

野口由紀がそれに続き、手を叩いて盛り上げる。


「リレーは絶対勝つ! 絶対ね!」


「はいはい、ノリだけは1等賞〜!」


青木凛が少し遠巻きに言った。

冗談とも本気ともつかない声色だったが、由紀は笑って肩をすくめた。


「ねえ…怜奈、来ると思う?」


美優の一言が、空気をふっと変えた。


「信じて待てよ。」 と答えたのは、啓太。


「絶対来る。俺、信じてるし。」


「信じるのは勝手だけどさ、出る種目とかどうすんの?」


由紀の声にはほんの少しの苛立ちが混じっていた。

凛がそれを感じ取って、言った。


「由紀。言い方きついよ。」


「え? そんなつもりない。」


琴音がふと、静かに呟いた。


「そんなつもりじゃって言ってるから、うちはダメなんだよ。」


その言葉に、一瞬場が凍った。

琴音はただ、前を見たまま言葉を続けた。


「想像してないってことでしょ。玲奈がどんな気持ちで朝を迎えたかとか、来るか来ないか迷ってるかもしれない気持ちとか。」


美優が静かに頷いた。


「私さ、昨日の帰り道、たまたま怜奈とLINEしてたんだよ。いつもどおりにスタンプとか送って。そしたら返信、返ってきたの。」


「なんて?」


「ありがとうって。」


空気が一瞬止まった。

啓太が帽子を深くかぶった。


「やっぱ、来るよ。そういう奴じゃん。」


そのとき。

グラウンドの外れ。

生徒昇降口のそばに小さな影が見えた。

誰かが気づいて小さく指を差した。


「あれ!」


高岩が目を向けた。

校舎とグラウンドの境界。

まぶしい光の向こう、そこに藤田怜奈が立っていた。


制服姿。

白いシャツにスカート。

足元にはスニーカー。

髪をひとつに束ねて。


顔は強張っていた。

けれど、その瞳だけはまっすぐにこちらを見据えていた。


遥が、野口が、そして凛が、全員がその姿を見つめていた。


啓太が呟いた。


「来た...。」


高岩は帽子を取った。

手の中で軽く握り、そして言った。


「よく来たな、藤田!」


―――


体育祭の中盤。

リレー予選が始まる直前、グラウンドの片隅では異様な緊張感が漂っていた。


藤田怜奈は、ようやく着替えを済ませ到着。

その顔には疲労の色がにじみ、目の下にはわずかな隈。


「怜奈、だいじょ…」


久美優が声をかけかけた瞬間


「関係ないでしょ、別に!うざい!」


その一言に、周囲の空気が凍る。

誰もが返す言葉を失った。


「なにあれ?」


由紀の口から漏れた声は、無意識に近かった。

青木凛がこそっと言った。


「さすがキャバ嬢。」


「ほんとそれ。」


「世界観違う人は理解できん。」


「なんで学校来れんの? 普通、停学じゃん?」


そんな声がテントの奥でささやかれる。

藤田の耳にもそれは届いていた。

けれど彼女は何一つ表情を変えない。

ただ無言でスタートラインに立った。


リレーのバトンを受け取る直前。

藤田の視線が隣のコースにいる佐藤遥と交錯する。


(この瞬間だけでも、藤田に普通の生徒として走らせてやりたい)


高岩は祈るように手を握った。

しかし、その願いの裏で、噂や張り紙の記憶が、生徒達の頭をよぎっているのを敏感に感じ取っていた。


遥は戸惑いながら、それでも「がんばって!」と口にした。


その瞬間。

怜奈の中で何かがはじけた。


ふざけんな。


こいつらマジでお気楽人生かよ。

なんで私だけ?

あんたらと私は違う。

抱えてるものが違う。


バトンを受け取った瞬間、藤田は叫ぶように地面を蹴った。


「こんなヤツらに負けてたまるかよ!」


そう、怒鳴った。


応援席からどよめきが起こる。

怜奈の走りは鋭く、速かった。

風を切るような勢いで直線を駆け抜ける。


しかし、コーナーに差し掛かったとき、


足がもつれた。


バランスを崩し、右膝から崩れ落ちる。

砂煙が舞い、観客のどよめきが止まる。


「怜奈っ!!」


「だ、大丈夫!?」


近づこうとした美優と直樹を、怜奈が振り払った。


「近寄んなっ!! 触んな!!」


声が裏返っていた。


「ほっといてよ!! あんたたちに私の何がわかんの!!」


その叫びは、グラウンド全体に響き渡った。


怜奈は膝を抱えたまま、ボロボロと涙をこぼした。


「なんで?なんで私だけこんな思いしなきゃいけないの。生きてるだけで精一杯なのに。なんで、なんで、なんでーーー!!!!」


誰もが言葉を失い、ただ彼女を見つめるしかなかった。


そこへ、駒沢が駆け寄ってきた。


「藤田さん、こっち。保健室、行こう。」


「いや!もう、もういたくない!」


「気持ちはすごくわかる。でも、落ち着いて。保健室、先生もついてくから。」


駒沢はそっと肩を抱き、彼女を連れ出した。

藤田は泣きじゃくりながら、駒沢の腕にしがみつくようにして立ち上がる。


その背を、全校が見送っていた。


―――


翌日。

3年2組の教室。


高岩は、教卓の前に静かに立っていた。


朝のSHRは、通常よりも空気が重かった。

藤田怜奈の姿はそこにはなかった。

生徒達は何も口にせず、ただ机の上の手を見つめていた。


高岩は黒板の前で一呼吸おいてから口を開いた。


「藤田は今日休みだ。理由はわかってるよな?」


誰も返事をしない。


「昨日、藤田が叫んだ言葉。あれをただの感情的なもので済ませないでほしい。」


生活保護の申請を出したことを、まだ誰にも話していない。

しかし、それを知っている高岩と駒沢にとっては、彼女の「なんで私だけ」という叫びが、どれほど切実な意味を持つか痛いほど分かっていた。


「『なんで私だけ?』あの言葉にどれだけの積み重ねがあるか?想像できた人?」


一人が顔を上げた。

美優だった。


「できなかったです。」


「ありがとう。素直な言葉だな。」


高岩は続けた。


「藤田は何も変わってない。変わったのは君達だ。無意識のうちに、自分達は普通だと思っていた。でも、普通って、本当に誰のことなんだろう?」


「……」


「想像力の欠如と無知が、差別を生む。これは社会の話じゃない。君達の話だ。」


高岩は、教室をぐるりと見渡す。


「見えていたはずの隣の人が、ある日突然、違う人に見えたなら、それは、その人が変わったんじゃない。見てる君達の目が変わったんだ。これは啓太の件で皆は学んだはずじゃなかったのか?」


生徒達の中に、静かに何かが染み込んでいく。


「君達は、これから大人になる。見えない差別や、気づかない優越感を抱えたまま進ませるわけにはいかない。」


佐藤遥が顔を伏せた。

野口由紀も、ぎゅっと拳を握っていた。


「だから、学び直さないか?藤田の涙は、君達に何かを訴えていたはずだ。」


高岩はそこで一度言葉を切った。


「明日、藤田は来る予定だ。先生が迎えに行ってくる。そのとき、どう迎えるかは君達次第た。」


そして、黒板にひとつだけ文字を書いた。


『想像力がない優しさは暴力になる』


その言葉を残し、静かに教卓に戻っていった。


―――


次の日。

教室の空気は重く沈んでいた。

藤田怜奈は静かに席に座っていた。

周囲の誰も声をかけなかった。

けれどその視線は、確かに彼女を意識していた。


高岩は教室の中央に立ち、そしてゆっくりと一言だけ言った。


「藤田。話したいことがあれば、無理にじゃなくていい。」


藤田はゆっくりと立ち上がった。


誰もが息を呑む中、彼女は前を向いたまま語り始めた。


「昨日、リレーで、転んで、泣いて、恥ずかしかった。」


教室が静まる。藤田は、息を吸い込んでから続けた。


「でも、あれが今の私。嘘も見栄も張らない本当の私。」


「キャバクラでバイト。昨日みんなが言ってたよね。」


「うちにはお金がないの。苦しいの。母親に高校生でも稼げる場所を探せって言われた。偽造した学生証で、20歳のフリして、週5で夜働いて、ろくに睡眠もとらないで毎日、まーいにち!登校してた!」


数人が動揺したように身を引いた。

しかし、誰も目を逸らさなかった。


「それが、私の日常。誰かに褒めてほしいわけじゃないよ?でも、なんで私だけって何度も思ったの。」


「きつかった。眠れなかった。心も体ももボロボロ。でも誰にも言えなかったの。」


「バイトって何してるの?って聞かれるのが怖かった。キャバクラって答えたら、みんなはきっと顔つきが変わるしね。あー、そういう子なんだって、決めつけられるのがわかってた。」


藤田は、震える声で続けた。


「そうやって、何も言えなくなって、何も言われたくなくなって…気づいたら、誰の言葉も信じられなくなってたの。」


「昨日、遅刻したのも、寝坊したのも、全部そのせい。でも、誰にも言いたくなかった。言ったら全部負けな気がするし。」


藤田は涙を拭かずにまっすぐに前を見た。


「でも、それでも今日ここに来れたのは…高岩先生が来てくれたから。駒沢先生が黙って寄り添ってくれたから。そして...。まぁ、それが今の私の全部。それだけは伝えたかった。」


藤田が静かに座り直したあと教室には沈黙が続いた。


そのとき。


「ごめん」


佐藤遥が立ち上がった。

いつもの明るさとは違い、その声は震えていた。


「私、人気者ぶって明るくしてた。でもほんとは怖かった。怜奈のこと、なんとなく知ってた。でも見ないふりしたの。」


「明るくいれば大丈夫って自分に言い聞かせてた。でも、それって逃げてただけだよね。本当にごめんね。」


続けて、野口由紀が立ち上がった。


「私は玲奈のこと、最初はムカついた。リレー遅刻して空気も壊して…。でも違った。私、ただ怜奈が全部壊したってことにしたかっただけ。」


「ほんとは自分が壊れるのが怖かっただけ。ごめん。ちゃんと向き合ってなかった。」


青木凛が、ゆっくりと立つ。


「私は、ずっと感情を押さえてきた。静かにしてれば波風立たないって思ってた。でもそれって見て見ぬふりと同じだった。」


「冷静な自分に酔ってた。でも今、恥ずかしいと思ってる。ごめんね。」


久保美優も、そっと立ち上がった。


「私は今まで空気を読むのが得意だって言われてた。でもそれって、自分の意見を言わないってことだったのかも。誰かが泣いても、傷ついても、雰囲気を壊したくないって思ってたの。」


「昨日、怜奈が泣いたとき、助けたいって思った。でも、空気に負けたの。」


「ごめん。…でも、ありがとう。話してくれて。」


最後に、啓太が立った。


「俺は来るって信じてた。怜奈が来るって。でも、信じてただけで何もしてなかった。」


「待ってれば来るって、自分に言い訳してた。ほんとは何かできたかもしれないのに。」


「だからごめん。そしてありがとう。戻ってきてくれて。」


教室には涙を拭う音と静かな呼吸の音だけが残っていた。

高岩はその空気を壊さぬよう静かに言った。


「誰も完璧じゃない。間違えることも逃げることもある。でも、それに気づいた君たちは、もう昨日までの君たちじゃない。」


「ありがとうって言えること。ごめんを受け取れること。それが次に誰かを守る力になる。」


それから誰も声を上げなかった。

けれど、心の中で何かが確かに変わっていく空気があった。


―――


放課後の教室。

生徒たちが、それぞれ帰り支度をしていくなか、藤田怜奈は最後まで席を立たずにいた。

窓から差し込む光の中、ぼんやりと空を見つめていた。


高岩が声をかけた。


「藤田、少しだけ話せるか?」


「はい。」


二人は廊下を抜け、相談室へと向かった。

部屋には駒沢も待っていた。

静かに扉が閉まり、三人の空間ができる。


「まず、伝えたいことがある。」


高岩はまっすぐ藤田を見て言った。


「君のお母さんと連絡が取れた。生活保護の申請、正式に通った。」


藤田の目が一瞬だけ見開かれた。


「ほんとに?」


「うん。区のケースワーカーとも連携が取れた。支給開始は来月から。ただし、それまでは猶予付きの生活支援という扱いになる。」


「はい。」


「もう無理して夜の仕事に出る必要はない。今日限りでバイトを辞めて欲しい。」


怜奈はしばらく無言だった。

そして、つぶやいた。


「やめていいんだ...。」


涙がこぼれる。


「話はこれで終わりじゃない。ここからは厳しい話をするよ。」


高岩の声が重く響いた。


「藤田。君は、なぜ今ここ呼ばれているのかを忘れてはいけない。」


怜奈は、手のひらで涙を拭きながら顔を上げた。

次に言われる高岩の言葉が怖かった。


「私、やっぱり停学ってこと?」


「生活を守るためのバイトしてただけです。皆はわかってくれたのに!なのに、まだ何かあるんですか?」


その言葉を遮るように高岩が静かに言った。


「君の真実は、そうだろう。しかし社会は、してしまったことの事実しか見ないんだ。」


「君がどういう気持ちで働いていたか、それを知ろうとしてくれる人は、少ない。ほとんどの人は、君の背景より、結果にしか興味を持たないんだ。」


藤田は顔をこわばらせながら聞いていた。


「だからこそ、その事実に対して君は責任をとらなければならない。わかるね?」


「私がした事は間違ってたってこと?」


「それを間違ってたって言えるようになるのが、大人たちへの責任のとり方なんだ。」


高岩は続ける。


「したことの事実を認めないまま、自分の気持ちだけを通そうとすれば、君はこれからもずっと、誰とも上手くやれないと思う。これが現実なんだ。」


「君が今、学んでいるのは、社会と向き合う力、」


藤田は唇を噛みしめて下を向いた。

駒沢が静かに口を開いた。


「藤田さん。今日、私たちは校長先生と教頭先生にも正直に話をしたの。当然、問題視された。だけどね、これは教育の中で解決すべき問題だって、校長先生が言ってくれたの。。」


高岩が頷く。


「もちろん教頭は厳しかった。正直、処分も考慮に入れるべきだと主張していた。でも、私たちは、処分ではなく責任の機会を与えるべきだって譲らなかった。」


「それでだ。最終的に決まったのは…」


高岩はゆっくりと藤田に向く。


「夏休み中の校内奉仕活動だ。」


「草むしり、掃除、整理。最低でも10日間、学校に来て、それに取り組むことになる。」


「それって...結果、処分じゃん。」


怜奈が言った。

だがその声に感情がこもりすぎていた。

どこか拗ねたような、投げやりな響きがあった。


高岩の声が、一気に鋭くなる。


「違う。処分じゃない。向き合う時間だ。」


「君は、自分の真実ばかりを大事にしすぎて、周りの事実を見てこなかった。」


「君のしたことに罪はない。けれど、責任はある。だからこそ償うんじゃなくて、向き合う時間が必要なんだ。」


怜奈は小さく呟いた。


「それって私にとって意味あることになるの?」


「ある。自分が納得するためじゃない。他人と生きていくために必要な事んだ。」


「社会は、感情で動かない。事実で動く。だからその事実に対して、自分の立場を整えること。それが今、君がやるべきことなんだ。」


「したことを否定せず、受け止める。その上で自分の人生をやり直す。それが再出発。」


藤田はもう何も言えなかった。

ただ、涙が落ち続けた。


駒沢がそっとポケットからハンカチを出し、無言で差し出す。


「ありがとう。」


その一言だけが、ようやく口から出た。


―――


教室に戻った藤田は自分の席の前に立っていた。

誰もいない教室で一人、無言で立ち尽くしていた。


そのとき教室の扉が開いた。


「玲奈?」


振り返ると、久保美優だった。


「あ…ごめん。まだいたんだね。」


「うん。ちょっと、考えてた。 いや...さ、夏休みに校内奉仕やれって言われたの。私のした責任をとるの。」


「あのさ、もし良かったら...。夏休みの掃除とかって一緒にやっていい?」


怜奈は、驚いたように目を見開いた。


「え?」


「責任は怜奈にある。そこは変わらない。だけど、私、何もできなかったからさ。だから、玲奈に何かしたいなって思って..。」


その後ろから、野口由紀と佐藤遥も顔を出す。


「私も〜!雑草抜くくらい、全然やるし〜。」


「だよね〜。暑そうだし、水分とってこー!」


怜奈は泣きそうな顔を必死でこらえながら小さく笑った。


「バっカじゃないの、あんたたち。」


「かーらーのーー?あんたもねー!」


遥があっけらかんと笑った。


「でもさ。なんか今のあんた見てるとさ、話せてよかったって思うんだよね。」


「私、泣いてないからね...。」


「ほーら、来て!」


「えー。私もー!」


そしてみんなで抱き合った。


―――


外の太陽は少しずつ傾いていた。

夕暮れの空はまだ夏本番の色をしていない。

日が沈む前の柔らかな橙色の光が、校舎の窓ガラスに淡く映っている。


高岩は教室のロッカーに荷物をしまい、ゆっくりと扉を閉じる。

静かな放課後の教室には、生徒の残り香がまだ漂っている気がした。


今日の授業も特別なことはしていない。

いつも通り黒板に言葉を書いてただ話しただけ。

けれど、その言葉を受け取る生徒の目がほんの少しだけ変わっていた気がした。

手応えは確かにあった。


―――


家に戻ると、キッチンから味噌と柚子の香りが漂ってくる。


「おかえり、洋ちゃん」


「ただいま。」


二匹の犬がタタッと駆け寄ってくる。


ソファの横に腰を下ろし、靴下を脱いでいると京花が食卓に料理を並べ始めた。


「洋ちゃん。なんか、今日は顔がちょっと柔らかいね。」


「風通しがよくなったんだろうな。」


京花はうなずいた。


「生徒たちのこと?」


「うん、でもまぁ...」


「人間って不器用だよな。言いたいこと言えなくて余計なことは口に出して。後悔しても、人はそれでも繰り返す生き物なんだな。」


「それでも前に進むんでしょ?」


「進まなきゃいけない。」


「洋ちゃんは、ちゃんと止まらない人だよね(笑)」


「止まると死ぬからな。」


「サメみたい。」


「それ、誉めてる?(笑)」


「めっちゃ、誉めてる(笑)」


笑い合いながら、二人は食事を続けた。

茉莉花と花梨がソファの上で丸くなり、家の中には優しい夜の気配が満ちていた。


―――


その頃、校舎はすっかり夜の闇に沈んでいた。

人気のない廊下を、誰かの足音がゆっくりと響いている。

掲示板の前に立ち止まると、手にした黒マジックを走らせる。


【クイズ 次は誰でしょうか?】


殴り書きされたその文字を残し、足音はまた闇に消えていく。


翌朝、3年2組の教室でそれを見つけた生徒達の表情は、一瞬にして凍りついた。

藤田怜奈の涙がまだ乾かないうちに、再び不安が教室を飲み込もうとしていた。

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