Season2 3話 ミニーという女 ①
病院の非常口を蹴るようにして抜けた。
肺の奥まで刺さる夜の空気は、消毒液の匂いに慣れた鼻にはひどく生々しい。
さっきまで胸の奥に貼りついていた白い静けさが、外気に触れた瞬間、薄い皮みたいにぺりりと剥がれていく気がした。
雨は上がっていたが、アスファルトには濁った水溜まりが残り、非常灯の赤が血のように揺れている。
白い壁、白い床、白いシーツ。
さっきまでいた場所はすべてが「正しさ」を象徴する色をしていたが、その清潔さの中でこそ、人は一番静かに殺されるのだとミニーは知っていた。
白は許しの色じゃない。
痕跡を目立たせる色ですらない。
誰かの痛みを、最初から無かったことみたいに包んでしまう残酷な色だ。
駐輪場の影から、有二郎が無言でバイクを押し出してくる。
ヘルメットを渡す手つきは乱暴だが、その目はひどく冷めている。
怒りの火が燃え尽きたあとの、芯だけが赤い炭のような目。
ああいう目を、ミニーは知っていた。
泣き尽くしたあとの子どもか、怒りを使い切ったあとの大人だけが持つ、帰る場所のない目だ。
「乗れ!」
短い一言。
ミニーは仕掛けた監視カメラを見る。
自動ドアの向こうでは看護師たちが走り、林がハンカチ越しに持ち上げた林檎。
京花の凍りついた横顔。
高岩の痛みとは別の意味で青ざめた目。
数秒前まで「病室」という名前で整えられていた場所が、今は事故現場みたいな顔をしていた。
あれは、高岩が食べるはずだった。
あの男の脇腹に足りなかった「とどめ」を、果肉の甘さに紛れ込ませる。
白い病室に似合う、誰もが一瞬だけ善意と誤認するような、柔らかい毒。
刃物よりも静かで、怒鳴り声よりも上品で、だからこそ卑怯なやり方。
教祖はいつも、そういう「綺麗な壊し方」を好んだ。
なのに、駒沢が先に齧った。
あの女は、次の順番だったはずなのに。
高岩の隣で恐怖と責任感に削られて、じわじわ色を失っていく役目のはずだった。
ここで倒れる予定ではなかった。
予定では、もっと後で壊れるはずだった。
計画は、ほんの一口の咀嚼音とともに、ガラスに入ったヒビのようにずれ始めた。
小さな音だったのに、ミニーの耳にはやけに大きく残っていた。
何かが噛み砕かれたというより、順番そのものが齧られたみたいに聞こえた。
「早くしろ!」
有二郎がエンジンをかける。
低い振動がアスファルトを伝って骨に響く。
ミニーは後ろに跨り、有二郎の細い腰に手を回した。
革ジャン越しの体温は驚くほど低い。
逃げる時の人間はもっと熱いものだと思っていた。
だが有二郎は違った。
熱ではなく、冷えで走る。
追われる恐怖ではなく、追う記憶に突き動かされる生き物の背中だった。
その冷えの中にだけ、消えずに残った執念の熱がある。
触れていると分かる。
冷たい人間じゃない。
冷たくしていないと崩れる人間だ。
バイクが飛び出す。
病院の明かりが一気に後ろへ流れた。
街路樹の影、濡れたガードレール、信号の滲み。
風が頬を切るたび、ミニーの意識の底から、埋めていた古い景色が浮かび上がってくる。
逃げているはずなのに、体だけが前へ進み、記憶だけが後ろへ引きずられていく。
宮崎の施設は、常に海の匂いがした。
けれどミニーが最初に覚えたのは、洗いすぎて繊維の痩せたタオルの感触と、廊下の突き当たりに置かれた鉄の靴箱の冷たさ。
親に引き取られなかった子どもたちは、だいたい二種類に分かれた。
泣く子と、泣くのをやめる子。
泣くことに希望を残している子と、希望そのものを削ってしまう子。
ミニーは後者だった。
そして有一郎は、笑う子だった。
施設の庭で転んだ子がいれば、真っ先に駆け寄る。
職員の機嫌が悪い日でも、わざと変な顔をして笑わせる。
そういうところが、当時のミニーには眩しすぎて腹立たしかった。
自分がもう持っていないものを、平気で差し出せる人間の無邪気さは、ときどき暴力みたいだった。
だが、ミニーは知っていた。
有一郎は、ただ善人だったわけじゃない。
夜、消灯のあとに二人で窓際に座ると、彼はときどき母親の話をした。
「お母さん...迎えに来るかな?」
海風の入る窓を見たまま、有一郎はそう言った。
ミニーは答えなかった。
来ないことを知っているからだ。
迎えに来る親ならとっくに来てるはず。
遅れて来るのは、たいてい謝罪じゃなく、自分勝手な都合。けれど、有一郎の横顔を見ていると、その当たり前を口にすることのほうが残酷に思えた。
それでも、有一郎は分かっていても待っていた。
その待ち方が、世界にまだ「約束」というものが残っている証拠みたいに思えて、ミニーは彼から目を離せなくなった。
誰かを待てる人間の横顔は、ときどき祈りに見える。
叶わないと知っている祈りほど、見ている側の胸を抉るものはない。
夏祭りの夜、施設の職員が一本だけくれた線香花火を二人で地面にしゃがんで見たことがある。
火花が小さく丸まり、落ちる寸前、有一郎が言った。
「俺さ、大きくなったら探しに行くんだ。」
「え?誰を?」
「もちろん母親。それと、兄弟。」
「どうやって探すの?」
「東京にきっといる。」
そんなの勘じゃん、とミニーは笑った。
有一郎も笑った。
笑いながら、火花の最後を見つめていた。
その横顔が妙に真剣で、ミニーはその時、初めて少しだけ怖くなった。
こういう子は、本当に行く。
冗談みたいなことを、本当にやる。
線香花火の火が落ちる一瞬に、もうこの先の別れまで見えてしまった気がした。
高校生になり、彼はボクシングを始めた。
怒りを殴るためだ。
母親に捨てられたこと、待ち続けた時間、施設に取り残されたまま大人になりかけている自分。
その全部を、サンドバッグに叩き込んでいた。
拳は強くなった。
だが心は強くなるどころか、どんどん剥き出しになっていった。
殴れば殴るほど、鈍くなるはずの痛みがむしろ輪郭を持ち始める。
そんな壊れ方だった。
「あっ、これ殴る練習じゃないんだよ。」
汗だくで座り込んだ有一郎が言った。
「え?じゃあ何?」
「守る練習(笑)」
その言葉を聞いたとき、ミニーの胸の奥が痛んだ。
守る、なんて綺麗な言葉なのに、彼の口から出ると刃物みたいだった。
守るために、人を壊す覚悟がすでにそこにあったからだ。
守るという言葉の裏側に、殴る拳の重さまで含めて引き受けている。
そして有一郎は本当に出ていった。
母親を探しに。
戻ってきた時の顔を、ミニーは今でも忘れられない。
有一郎の目は閉じかけていた。
何かを見すぎて、これ以上何も入ってこないように、内側から扉を閉めるみたいに。
人は傷つくと泣くと思っていた。
けれど違った。
ほんとうに深い傷は、まず音を消すのだと、その時知った。
「見つかったよ。」
「で?」
「それが、さ。種違いの弟が二人いたんだ。」
その声は乾いていた。
若い母親。
次々と男を連れ込む部屋。
腹を空かせた小さな兄弟。
怯えた目。
殴られる前に肩をすくめる癖。
守る大人がいない家。
有一郎は、そこで初めて拳を人間に使った。
母親を殴った。
母親の男も殴った。
完璧な主婦を演じさせ、生活費のために風俗に送り込んだ。正義だとは言わなかった。
ただ、「あのままだと弟が腐る」とだけ言った。
その言い方が、かえって本気だった。
誰かを救う時に綺麗な理屈を並べない人間は、本当に戻れない場所まで行く。
その時、ミニーは確信した。
この人は優しいんじゃない。
守ると決めた相手のためなら、自分の手をいくらでも汚せる人間だ。
だから、そばにいたいと思った。
汚れる覚悟のある人間は、綺麗な言葉で生きている連中より、ずっと信用できた。
自分みたいな人間が寄り添ってもいい相手がいるとしたら、たぶんこういう人だけ。
有一郎が再び姿を消したのは、そのしばらく後だ。
ミニーは狂ったように彼を探した。
ボクシングジム、かつての住処、心当たりのある場所をすべて回った。
探しながら、自分がどれほど彼に寄りかかっていたのかを思い知った。
いなくなって初めて、自分の足元にあったはずの地面まで持っていかれた気がした。
ある夜、都内の裏通りのジムから出てくる男の背中を見つけた。
あの幅、あの歩き方。
有一郎に違いない。
ミニーは反射的に駆け寄り、その腕を掴んだ。
「有一郎!」
振り向いた男の目は、有一郎と同じ形をしていたが、宿っている光が決定的に違った。
暗い。
底が見えないほど深い闇。
「すまない。人違いだ。…だけど、その名前をどこで知った?」
それが次男、有二郎との出会いだった。
有二郎の背後から、影のように一人の女が歩み寄ってきた。口角を歪に上げた、蛇のような女。
「あなた、もしかして有一郎くんを探してるの?」
女の声には、薬品のような冷たさがあった。
「それなら、力になれる人がいるのよ。ついてきて。可哀想に...とても疲れた顔してる。」
連れていかれた先で会った教祖は、想像より普通の顔をしていた。
親切な近所の大人に似ていた。
だから厄介だった。
今思えば、普通の顔で人を呑み込むからこそ、あれは底なしの沼。
目の前に差し出されるのが毒だと分かる時には、すでに喉を通っている。
そういう種類の人間。
教祖はミニーの話をよく聞いた。
有一郎のこと、離れ離れになった兄弟のこと。
「つらかったね」と頷くその仕草は救いではなく、ただの鉤だった。
けれど当時のミニーには、その区別がつかなかった。
分かっていたとしても、あの時の自分に背を向ける力があったかどうかは怪しい。
そして教祖は、ふいに別の話を始めた。
「実は、ね...。いや、やっぱりやめとこう...。」
「なんですか?言ってください!」
「いや、ね...。実は君のお母さんのことも知っているんだよ。大変だったねぇ。よく生きた。でもね、君は母親に捨てられただけじゃない。父親にも見捨てられていたんだよ。」
ミニーは視線を上げた。
「君の母親は、父親である原口圭介と別れたあと、身ごもったことを伝えなかった。彼は妊娠を知らなかったのかもしれない。しかし、知らなかったことと、無かったことにしたことは、時には同じ結果を生む。」
教祖の言い方は巧みだった。
事実だけを並べ、その間を憎しみで埋めさせる。
もし彼が迎えに来ていたら?
もし彼が私を認識していたら?
その「もしも」が、ミニーの胸の中で黒い水のように溜まっていく。
幼い頃に欲しかったものは、たいてい遅れて届くことすらない。
届かなかったものは、時間が経つと欲しさではなく恨みに変わる。
「原口圭介なら、今は教師だ。生徒からは、コールドメガネと呼ばれてるよ。」
横にいた有二郎が低く補足した。
冷たい教師。
人を切り捨てる男。
教祖が囁く。
「他人の子どもには厳しく正しさを説きながら、自分の娘には何もしなかった。そういう男だよ。」
その瞬間、ミニーの中で復讐の輪郭がはっきりと形を持った。
有一郎を探す。
そして、自分を無きものにした原口圭介に、この冷たさを返してやる。
返すという言葉では足りない気もした。
もっと古くて醜い感情だった。
胸の底に溜まった澱を、ようやく誰か一人に向けて流し込めるという感覚だった。
そのためには、教団の力が必要だった。
ミニーは自分から、その首を縄に通した。
利用するつもりで近づいて、利用される側に回ると分かっていても、その時はそれしか道がなかった。
教団は兄弟を使い分けていた。
有二郎には役目を与え、刃物のように研いだ。
有三郎からは感情を削り、空洞の命令受領機に変えた。
そして有一郎だけを、その外側に置いた。
血縁という名の見えない糸で、いつでも引き戻せるように。
ミニーは、自分だけは教団を利用している側だと思っていた。
けれど、実際は逆だった。
ミニーの過去、執着、嫉妬、壊れる瞬間の癖。
すべては教団に蓄積されていた。
話せば話すほど理解されるのではなく、分類されていく。
あの場所で優しさは共感ではなかった。
運用のためのデータ取り。
逃げようとした夜、教祖は笑って机に資料を並べた。
不法侵入、窃盗、偽名での活動。
切り取ればいくらでも「怪物」に仕立て上げられる材料。
「役目を果たせば守ってあげられる。」
その言葉が「檻」を意味することに、その時ようやく気づいた。
守るのではなく、逃げ場ごと囲い込む。
優しさは出口ではなく、蓋だった。
高岩を刺した日は、卒業式の拍手がまだ耳に残っていた。
あの男は、生徒に顔を上げさせすぎた。教祖はそう言った。
顔を上げる子どもは、教団にとって厄介な存在だ。
被害者の役を拒み、物語を書き換えてしまうから。
「少しだけ、血を見せなさい。」
命令に従い、坂道で高岩を待った。
高岩は刺される瞬間、恐怖よりも先に、確認するような目でミニーを見た。
最後まで人間を見ようとするその目が、原口と重なって無性に腹立たしかった。
原口が与えなかったものを、なぜこの男が他人の子どもに向けているのか。
その理不尽まで込みで、腹が立った。
刃を引き抜いたあと、ミニーは吐き捨てた。
「顔を上げさせすぎたのよ。」
あれは教祖の言葉だが、半分はミニー自身の嫉妬だった。
冷たい父の代わりに、他人の子どもを真正面から見る目を持っていた高岩。
だからこそ、壊したかった。
見上げるべき相手がいる子どもたちを見ると、胸の奥の腐った場所が疼いた。
そして病院。
高岩にとどめを刺せば、すべては終わるはずだった。
善意の見舞い、果物の皿、ひと口の毒。
けれど駒沢が割り込んだ。
あの女は本来、ゆっくりと削り、次に潰すための標的にするはずだったのに。
なのに、自分から列を横切った。
林檎ひとつで、教祖の描いた「美しい順番」が濁った。
美しかったからこそ、その濁りは目立った。
誰かが机の上に置いた図面へ、汚れた指で一度だけ触れたみたいに。
病院の角をバイクが曲がる。
背後でサイレンが遠ざかっていく。
「どこへ行くの?」
「決まってる。」
「ありがとう?」
「違う。」
有二郎の声はヘルメットの下で低く潰れる。
「店には戻れない。もう誰かに目をつけられてる。」
「じゃあ有一郎は?」
「別の筋で伝える。俺たちが直接動けば、あの人まで引きずられる。」
有一郎。
その名が出た瞬間、ミニーの指に力がこもった。
縋るみたいに、確かめるみたいに。
「居場所は知ってるわけ?」
「知ってる。会いに行くなよ?」
「なんで?」
「俺達が近づくと、あの人まで地獄に引きずり戻すことになる。」
「もう手遅れじゃん。私も、あんた達も、全部。」
ミニーの声が風に震えた。
有二郎は答えなかった。その沈黙が、肯定よりずっと重かった。
順番がずれた。計画が狂った。
けれど、駒沢が倒れた瞬間の京花の目は、恐怖だけではなかった。
あれは「名前」を掴んだ目だ。
もはや、こちらは影の中に隠れ続けることはできない。
見つかった影は、影ではいられない。
輪郭を持った瞬間から、誰かの証言になってしまう。
影でいられないなら、次は何になる?
捨て駒?それとも何?。
有一郎を探すために近づいた教団に、いつの間にか魂まで売っていた。
高岩を刺した感触も、毒を盛った指先も、消えることはない。
指を洗っても落ちないものがあると知ったのは、案外最近だった。
血よりも、記憶のほうがしつこい。
だが、まだ手の中に残っているものがある。
有一郎の記憶だ。
線香花火の最後を見つめていた横顔。
弟を守るために拳を汚し、それでも「守る練習だ」と言い張ったあの背中。
サンドバッグの前で、壊れかけた心の代わりに拳だけを育てていた時間。
あの人がまだ、誰かの兄である前に、一人の捨てられた子どもだった頃の記憶。
バイクがスピードを上げる。
街の明かりが刃物のように流れていく。
ミニーは有二郎の背中にしがみついたまま、目を閉じた。
まぶたの裏には、白い病室と、赤く濡れた林檎と、海の匂いのする施設の窓が重なっている。
白、赤、青。
どの色も綺麗なのに、重なるとひどく汚れて見えた。
駒沢はまだ死んでいないだろう。
高岩も、あの目なら、きっと地獄から這い上がってこちらを追ってくる。
そうなれば、もうそれは計画ではない。
教祖が操る物語は、人間の手からこぼれ始めた。
役割だけでは整理できない感情が、少しずつ順番の間から漏れ出している。
その感覚に、ミニーは震えた。
恐怖か、あるいは期待か。
教祖はまだ自分を使うつもりでいる。
高岩は倒れきっていない。
駒沢は死ぬ順番を狂わせた。
そして有一郎は、まだ世界のどこかで息をしている。
バイクは夜の底へ沈むように疾走する。
ミニーは風の中で、誰にも聞こえない声で呟いた。
「ねえ、有一郎。私、もう戻れなくなっちゃった...。」
有二郎は何も言わない。
沈黙の先にあるのが救いなのか、さらなる地獄なのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。




