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沈黙の紙片 ~裏切り者のいる教室〜  作者: マリブン
Season1

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Season2 2話 因縁の2人①

閉じられた校門は、夜になるとただの鉄の塊へと還る。

かつては生徒たちを迎え入れ、あるいはその奔放さを押し留める境界線だった場所。

しかし今や、そこには錆びついた沈黙があるだけだ。


もう、卒業生が懐かしんでここを訪れることはない。

もう、拡声器を通した教師の退屈な朝礼もない。

もう、誰もあの心臓を突き上げるような急勾配の坂を、着崩した制服で上ってこない。

 

廃校という名の、巨大な忘れ形見。

それでも、掲示板のガラスの内側にだけは、剥き出しの執念がべっとりと残されていた。

夜気を吸って、黒い文字が闇の中に浮かび上がる。


《因縁の二人》

 

瞬は数歩手前で足を止めた。

網膜に焼き付いたその四文字を見た瞬間、胸の奥で冷えて固まっていた古い苛立ちが、ざらりと音を立てて逆立った。


「趣味わりぃ。マジでセンスの欠片もないわ。」


すぐ横で、矢口の声が落ちる。


「今さら校門にラブレターとか。やってること、うちらの親世代のヤンキーより古くね?」


「それなー。本人に直接、伝える方がはやくね?」


Coconaの声が、耳元で重なる。

瞬は何も反応しない。

耳に差したイヤホンの奥で、微かなノイズが揺れている。


「散ってるのに、うるせぇなぁ。」


瞬が小さく吐き捨てる。

矢口の声が続く。


「南側、動きなし。」


早川。


「裏通り、クリア。」


川崎。


短い報告が、間を空けずに流れる。

全員は南條が動きそうな場所を、それぞれ押さえていた。

校門は、その中継点に過ぎない。


「貼り紙で足止めかけてるつもりか〜?」


瞬が小さく呟く。


「はは。だとしたら雑すぎるっしょ。」


Reicoが被せる。


「Cocona、位置そのまま。早川は一つ奥に寄れ。川崎、通り抜けられた時だけ拾え。」


「了解。」

「はいはい。」

「任せろ」


応答は軽い。


瞬は貼り紙をまじまじと見つめた。

貼り紙は、学校のために貼られたのではない。

ここを通りがかる人間に、「物語はまだ終わっていない。お前たちの因縁は、現在進行形で続いているのだ」と教えるためだけに、呪いのように供えられている。

 

左寄りの位置。

高さは以前よりも数センチ低い。


「貼る時の癖が、前と違うな…。」

 

わざと変えたのか。

あるいは、貼った「人間」そのものが入れ替わっているのか。

いずれにせよ、これを貼った奴は見せたかったのだ。

因縁という安っぽい言葉で、生身の人間を再び物語の駒として押し込め、管理したがっている者の意図。


「南條のおっさん、まだ店の中にもどらないん?」

 

川崎が、光を放つスマートフォンの画面を閉じて呟いた。

瞬は無言で頷く。


「十分前に裏口から出た。本来なら買い出しのために表通りに出るはずだ。なのに、奴はあえて暗い裏道の方へ曲がった。まるで行き先を指定されているみたいにな。」

 

早川が低く、冷徹なトーンで告げる。


「尾行、続行。」

 

Reicoが重い溜息をつき、タイトなジャケットの肩をすくめた。


「廃校してもやってること同じとか、マジで終わってる。うちら、いつになったら普通の人間になれるわけ?」


「うちら、最初から終わってる寄りだし。」

 

Coconaの言葉にだけ、場の張り詰めた空気がわずかに割れる。


商店街の裏手は、表の街灯の明るさが嘘みたいに暗い。

換気扇が回る重低音、濡れた段ボールから漂う饐えた匂い、店じまいを急ぐシャッターの軋む断末魔。

その湿った闇の奥を、南條晃が一人で歩いていた。

 

「みつけた!みんな集合!!」


Coconaが小声でみんなに伝えた。


白い息が短い。

歩幅は一定を保っている。

けれど、肩だけが妙に硬く、拒絶するように強張っている。


「おっさんビビってるな。」

 

1番先に合流した矢口が囁く。


「南條さんがビビるわけないだろ。あれは、腹を決めた顔だ。」

 

2番目に合流した瞬は目を細め、闇の中に溶けそうな南條の背中を追う。

南條は高岩と同じ種類の人間だ。

無駄に騒がない。

どんな重荷でも、黙って一人で抱え込もうとする。

だからこそ、沈黙している時ほど、その行動は危うい。

 

曲がり角の先、使われなくなったコインランドリーの軒下で、南條の足が止まった。


「なんであんなとこで…?」

 

川崎が眉をひそめた次の瞬間、壁の影がひとつ、剥がれるみたいに現れた。

黒いキャップを深く被り、マスクで顔を覆っている。

首元まで引き上げられたフード。

表情はほとんど見えない。

けれど、その立ち方だけで瞬の背筋を冷たい悪寒が走り抜けた。

 

あの夜。

あの雨の路地裏。

逃げる時の、あの独特な肩の沈み方。


「有二郎!」

 

喉の奥で、瞬だけがその名を呟いた。

相手は南條に何かを差し出した。

おそらく封筒。

南條はすぐには受け取らない。

代わりに何かを問いかける。

距離があって声は届かない。

自分の感情を限界まで押し殺した、冷え切った声なのはわかった。

 

影が一歩近づく。

マスクの下で、嘲笑が形作られた気配がした。


「チッ。」

 

矢口が耐えかねて前に出ようとするのを、瞬が力強い腕で止めた。


「まだまて。」


「でもよ、あれ、明らかに脅されてんだろ!」


「今飛び出せば、南條まで巻き込む。向こうがそれを狙っていないとは言い切れないだろ?」

 

瞬の声は鉄のように硬かった。

その時、強い風が路地を抜けた。

その拍子に、影の横顔がほんの一瞬だけ、古びた街灯の光に晒される。

 

瞬は確かに見た。

中川有一郎ではない。

だが、間違いなく同じ顔だった。

瞬の中で、前から感じていたざらつきがひとつに繋がる。

 

有一郎が身を隠しているのなら、ここに出てきたのはもう一人の方だ。

偶然こんな場所で南條と会うはずがない。

南條は強制的にここに来させられた。


「きっと教団に脅されてるんだ。南條のおっさん。」

 

瞬が断定すると、川崎が驚愕して振り向いた。


「南條さんが? マジで?」

「そうじゃなきゃ、おっさんが高岩に黙って、こんな単独行動をとるわけねぇよ。」

 

影が今度はポケットからスマホを出し、画面を南條の目の前に突きつけた。

離れていても、南條の表情が劇的に変わったのがわかった。

顔色が一気に失せる。

その一瞬の動揺で、すべてを察するには十分だった。

 

家、店あるいは、入院中の高岩か。

何を見せられたのかは正確には分からない。

でも、南條が逃れられない窮地に立たされていることだけは、骨の髄まで理解できた。


影は封筒を南條の胸元に無理やり押しつけると、そのまま踵を返した。

その足取りは、まるでダンスを踊るように軽やかで、不気味だった。


「逃がすかよ!」

 

矢口が飛び出すより先に、瞬が地を蹴っていた。

狭い路地をすり抜け、積まれた空のビールケースを蹴散らし、影の背中を追う。

相手は細身の割に、驚くほど速い。

角を二つ曲がり、錆びたフェンスをひらりと飛び越え、駐輪場の深い影へと滑り込む。


「止まれ!」

 

瞬の叫びが夜空に響く。

影は振り向かない。

ただ一度だけ、肩越しに声を放った。


「お前、まだ人の後ろを歩いてるんだな?」

 

その声に、瞬の足が一瞬だけ止まる。

低い。

有一郎のような軽薄さが抜けている。

けれど、耳の奥に残る嫌な冷たさと、心臓を直接撫でられるような不快感は同じだった。

 

次の瞬間、影は完全に暗がりへと消えた。

追いつけない距離ではなかったはずだ。

でも、消え方が上手すぎた。

そこにある逃げ道を、最初から自分の庭のように熟知している人間の消え方だった。

 

瞬が舌打ちをして戻ると、南條はまだ軒下に立ち尽くしていた。

手の中の封筒は、すでに無残に握り潰され、白い紙の端が歪にはみ出している。


「おっさん。」

 

瞬が声をかけると、南條はゆっくりと振り向いた。

そこには驚きよりも先に、すべてを悟られたという深い観念の色があった。


「見ていたのか?」


「まあね。」


「どこまで?」


「おっさんが、一人で全部背負い込もうとしてるって分かる程度には。」

 

南條はしばらく何も言わず、夜の空を見上げていた。

やがて深く、重い息を吐き出し、握り潰した封筒を無造作に差し出した。

 

中には、写真が一枚。

病院の廊下。

病室の前。

高岩の個室の扉。

そこへ今まさに、入っていこうとする京花の後ろ姿だった。

 

矢口がその写真を見て、息を呑む。


「クソ野郎…!」

 

南條の声は、これまで聞いたことがないほど掠れていた。


「昨日、店に電話があった。『お前の親友、退院前にもう一度血を見るかもね』ってな。その後、この写真が送られてきた。」

 

瞬の肩が微かに跳ねる。


「なんで、高岩先生に相談しなかったん?」


「言えるわけないだろ!」

 

南條は初めて、少しだけ声を荒らげた。

それは怒りというより、何もできない自分への激しい嫌悪だった。


「刺された翌日にだぞ。またお前を餌に使うぞって写真を見せられて、平気でいられる奴がいるかよ。俺は、ただの料理人だ。脅しに対して、どう動くのが正しい手順なのかなんて、わかるはずもないだろ。」

 

そのぶっきらぼうな告白が、逆に南條らしかった。

言い訳が下手で、守り方だけは不器用に真っ直ぐだ。

早川が封筒の中を改めて確認する。


「病院名と、手書きのメモがある。」

 

川崎が奪い取るように覗き込む。


《有一郎の居場所を思い出せ。さもなくば因縁の二人を先に終わらせる》


「因縁の二人、ねぇ…。」

 

Reicoが冷たく鼻を鳴らした。


「高岩と駒沢? それとも誰?」

 

瞬は紙をじっと見つめた。

今夜の校門の貼り紙。

病室の写真。

南條への執拗な脅し。

全部が一本の、淀んだ線で繋がっている。


「おっさん。」


「なんだ?」


「今から、店に戻ってくれないか?」


「はあ? 何言ってんだ、お前?」


「何も知らない顔をして、いつも通りに。こっちは病院へ向かう。」

 

南條の目が、鋭く険しくなる。


「一人で動くなって、高岩に叩き込まれなかったのか?」


「仲間見えない?」

 

瞬の後ろで、SLAYの面々が静かに、だが力強く立ち並んでいた。

矢口が不敵に笑う。

川崎が手慣れた手つきでスマホを操作する。

早川は煙草のない指先で、コンクリートの壁を軽く弾く。

Coconaは首を左右に鳴らして肩を回し、Reicoは乱れた髪をひとつにきつく結び直した。


「You SLAYって言うほど気分はアガんないけど。」

 

Coconaが吐き捨てる。


「でも、やらないっていう選択肢はないし。」


「みんな行くよ!せーの!You SLAY!!」


―――


 

その頃、聖マリアンナ記念病院の売店で、ミニーは慎重に花を選んでいた。

春の訪れを予感させる、淡いピンクのチューリップに、甘い香りの紫のスイートピーを混ぜる。

見舞いとしては、わずかに「華やかすぎる」組み合わせ。

だからこそ、ちょうどいい。

相手の印象には強く残るが、不自然な悪目立ちはしない。

フルーツの盛り合わせも、籠に入った既製品をそのまま買わず、中身を一つずつ自分の手で選び、りんごの包み紙だけは自分で一度丁寧に包み直した。

 

鏡に映る自分へ、ミニーは小さく、満足げに笑いかけた。


「ふふ…。あのひと。顔覚えてるかなぁ?」

 

あるわけがない。

しかし、念には念を入れて確かめに行くことにした。

病室の前には、林が立っていた。

最初に彼女に気づき、目を見開いたのは彼だった。


「あれ?ミニーさん?どーしたの?」


「あら。こんにちは、林先生!」

 

すぐ後ろから藤井も姿を現した。

一瞬、彼の表情が石のように固まる。

当然の反応だ。


彼と林、そしてSLAYのメンバーしか、自分の本当の顔と名前は結びつかない。

 

ミニーはそこで怯んだりしない。

むしろ柔らかく、教えを請う生徒のような殊勝さで頭を下げた。


「突然すみません。高岩先生が刺されたと聞いて…いてもたってもいられなくて…。お見舞いだけでも、と思っいまして。」

 

花束を差し出す指先は安定している。

礼儀正しく、それでいて相手の同情を誘う絶妙な痛ましさを装って。

人が無意識に安心したくなる角度を、彼女は知り尽くしていた。

 

藤井は警戒を完全に解いたわけではない。

ただ、表立って拒絶する大義名分も見当たらなかった。


「申し訳ないですが、短時間でお願いしますね。」


「もちろんです。ありがとうございます。」

 

病室に入ると、京花が先に椅子から立ち上がった。

ミニーは深く、しとやかに会釈する。


「初めまして。望月三二一と申します。幼馴染の有一郎が、いつも先生方には本当に大変お世話になっていると聞いておりまして。お花と、もしよろしければフルーツも召し上がってください。」

 

京花は一瞬だけ目を細めたが、穏やかにそれを受け取った。

あまりにもその所作が自然で、毒気がなかったからだ。

高岩はベッドの上で上半身を起こし、静かに彼女を凝視する。

 

ミニーは気づく。

あの目だ。

一昨日、自分の正体を正面から捉えたあの鋭い目。

でも今、その瞳には決定的な「確信」がない。

見知らぬ見舞客を観察する知的な目と、泥沼のような記憶の底を探る目が、交互に入れ替わっている。


「お加減、いかがですか?」


「おかげさまで、命だけは(笑)」


「よかった〜。本当に!有一郎も、きっとどこかで心配しているはずです。」

 

ミニーは椅子に座ろうとはしなかった。

立ったまま、近すぎず遠すぎない、絶妙なパーソナルスペースを保つ。

見舞いに来た善意の第三者として、もっとも信頼される位置。

 他愛もない世間話をいくつか滑らかに挟んだあと、彼女はごく自然に、話題の核心をずらした。


「…そういえば、最近ずっと考えていたんです。有一郎のことを。」

 

病室の空気が、わずかに振動した。

だが、不自然ではない。

有一郎との関係を公言した上での言葉だ。


「彼、まだ見つからないんです。何かに巻き込まれてるんじゃないかって、時々、心配になるんです。」

 

高岩はその言葉を噛みしめながら、ミニーの瞳の奥を覗き込もうとしていた。

親身に寄り添う、潤んだ声。

少しだけ憂いを含ませた口元。

人を安心させる完璧な礼儀。

どれもが整いすぎていて、逆にいびつですらあった。

けれど、決定打が足りない。

一昨日の記憶の中にある女は、常にフードの影と夕暮れの逆光、そして冷たい刃の光に隠れていた。


「有一郎が見つかれば…。」

 

ミニーは言葉を継ぐ。


「全部が少しずつ、本来あるべき場所に整理されるのかもしれませんね。」


「そう簡単でもないでしょうけどね。」

 

京花が低く返した。


「でも、そうね。彼がすべての鍵のひとつであることは、間違いないわ。」


「ですよね。」

 

ミニーは、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。

それ以上は、一歩も踏み込まない。

踏み込めば逆に、違和感として記憶に残ることを知っている。

彼女は引き際というものを熟知していた。

帰り際、フルーツの盛り合わせが入った籠を、机の上に丁寧に置き直す。


「この盛り合わせのプールッの選別、有一郎に教わったんです。特に、りんごは甘いのを選んだつもりですので。食欲がない時でも、少しはお腹に入りやすいと思います。」

 

廊下に出たところで、ミニーは一度だけ立ち止まった。

扉の小窓越しに、高岩がまだこちらを見つめている。

視線が、再び交差した。

ミニーは、見舞客らしい、どこまでも無害で可憐な会釈をした。

高岩も、わずかにそれに答えた。


この人…私の顔を分かっていない。

それで、十分だった。


病室に残ったのは、スイートピーの甘ったるい匂いと、少しだけ整いすぎた静寂だった。


「綺麗な子でしたね。」

 

駒沢が、憧れを込めたような声でぽつりと言った。


「ええ、そうね。」

 

京花は短く答えたが、その視線はいつまでも扉から離れなかった。

何かが胸の奥に引っかかっている。

だが、その正体を言語化できないもどかしさが、彼女の眉根を寄せさせる。

 

しばらくして、藤井と林は担当の刑事と合流するために外へ出た。

京花も、高岩の今後の治療計画を主治医から聞くために呼ばれる。

病室に残ったのは、高岩と駒沢だけになった。

その時、駒沢のお腹が鳴る。


「なんか…急にお腹空いちゃいました〜(笑)」

 

駒沢が苦笑する。


「そー言えば、一昨日から緊張しっぱなしで、まともにご飯を食べてなかったなぁ。」

 

彼女は机の上の盛り合わせから、りんごをひとつ手に取った。


「せっかくだから、ひとつ頂きますね?」

 

ナイフを使う間もなく、彼女はそのまま皮ごとりんごを齧った。

シャリ、と、軽快で無機質な音がした。


「…あれ?」

 

一口咀嚼した直後、駒沢の眉が不自然に跳ねた。


「どうした?」


「…なんか、舌。変です…。」

 

駒沢は喉に手を当てた。

痺れ。

その感覚は、果実の甘みよりも遥かに早く、彼女の神経を侵食し始めた。


「痺れて……る? 急に……。」

 

高岩の顔色が、劇的に変わった。


「食べるな! 今すぐ吐き出せ!」


言い終わる前に、駒沢の手からりんごが滑り落ちた。

床を転がり、赤い皮が白いタイルの上で無情に止まる。


「駒沢先生!」

 

立ち上がろうとして、高岩は自分の傷口に激痛が走り、顔を歪めた。

駒沢はベッドの柵に縋りついたまま、肩を上下させて呼吸を乱した。


「口が……感覚が、ない。手も、やば……。」

 

舌の痺れは一瞬で喉の奥へ降り、胸の奥が急激に、凍りつくように冷たくなる。

脈拍がめちゃくちゃに跳ねた。

速すぎる拍動。

直後の、停止しそうなほどの遅滞。

心臓が、自分の制御を離れて勝手に暴走している。


「ナースコールだ! 誰か、来い!」

 

高岩が狂ったようにボタンを押す。

一度、二度、十度。

駒沢の膝が折れた。

床に崩れ落ちる瞬間、肺から絞り出されるような呼吸がひとつ、引きつった。

唇の色が、みるみるうちにどす黒い紫へと変わっていく。

廊下から京花が駆け戻ってきた時には、駒沢はすでに自分の胸を掻きむしり、悶えていた。


「駒沢先生!?」

 

床に転がるりんご。

痺れを訴える掠れた声。

一瞬で、京花の頭脳が状況を最悪の答えに繋げた。


「それ、飲み込まないで! 吐いて!」

 

だが駒沢は、もはや返事すらできない。

呼吸が浅い。

汗が一気に噴き出し、指先が不規則に震える。

 

看護師たちが雪崩れ込んでくる。

その後ろから、事態に気づいた藤井と林が顔を出す。

病室は一瞬で、処置室さながらの白い混乱へと塗り替えられた。


「口唇の痺れ、呼吸困難! 不整脈の可能性大!」

「果物を摂取した直後です。胃洗浄の用意を!」

「モニターつけて! 酸素、早く!」

 

藤井が駒沢の体を支える。

林が、床に落ちたりんごをハンカチ越しに拾い上げる。

その手は怒りで震えていた。

 

京花は机の上のフルーツ盛り合わせを凝視したまま、顔色ひとつ変えなかった。

だが、その声だけは、氷の楔のように鋭かった。


「やられたわ。さっきの、あの子の仕業ね…。」

 

高岩は息を呑んだ。

脇腹を刺す痛みよりも、さっきまでこの病室にいた少女の、あの美しく完璧な会釈が脳裏をえぐった。


「望月、三二一…。」

 

京花がその名を、呪詛のように静かに吐き出した。

病室の白は、一気に戦慄の色へと反転した。

善意に見えたものが、最初から冷酷な刃の延長線上だったと知った瞬間の、救いようのない絶望の色だ。

 

担架が入り、駒沢が意識を失ったまま運び出されていく。

去り際、彼女はほんの僅かに薄目を開け、高岩の方を弱々しく見た。

何かを言おうとしたが、もはや声にはならない。

扉が閉まり、静寂が再び戻る。

 

高岩は枕に沈み込んだまま、無機質な天井を見つめ続けた。

顔は覚えていたはずだ。

だが、届かなかった。

そして同じ頃。

病院へと続く夜道を、瞬たちは狂ったように走り続けていた。

彼らがこの惨状を知るのは、あともう少しだけ先の事になる。


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N2715KW
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