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沈黙の紙片 ~裏切り者のいる教室〜  作者: マリブン
Season1

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Season2 1話 白い順番②

次の日の朝。

病院の個室の扉がノックされ、駒沢が姿を現した。


無機質な白に支配された病室の中で、彼女だけが場違いなほど鮮やかな色彩を纏っていた。

卒業式の余韻を思わせる赤みの差した茶髪が朝光を孕み、細いピアスが微かに揺れる。

しかし、その顔にいつもの華やかな余裕はなかった。

徹夜明けの目元には、薄化粧では拭いきれない硬直が張り付いている。


「失礼しまーす…って、何この空気?重すぎ…。」


軽口を叩いたつもりなのだろうが、語尾の消え方には、剥き出しの動揺を覆い隠そうとする無理があった。


室内にはすでに先客がいた。

ベッド脇の丸椅子に腰掛け、冷めたコンビニコーヒーを弄んでいる藤井。

そして、窓際で紙コップを手に振り返る京花。

昨夜から一睡もしていないはずの京花の横顔は、鋼のように研ぎ澄まされていたが、駒沢の姿を認めた瞬間にだけ、わずかな体温を取り戻した。


「あら?駒沢先生。来てくれてありがとう。」


「そりゃ、来るに決まってるよ〜。昨日あんなことがあって、平気で寝てられるほど図太くないしね!」


駒沢は吐き捨てるように言うと、高岩の顔を覗き込んだ。

それは教師としての義務感でも、同僚としての気遣いでもない。

もっと根源的な、隠しようのない案じに満ちた眼差しだった。


「…具合はいかがですか?」


「ん〜。刺された人間にしては、悪くないかな。」


「そういう可愛くない強がりは、退院してからにしてくだない!」


高岩は苦く笑い、枕に背を預け直した。

表情を動かすたびに傷口が引きつるのか、目尻の皺が苦悶に歪む。

それでも意識は昨夜に比べれば鮮明だった。

世界が白く遠のいていく感覚は消え、代わりに残ったのは、鈍い痛みと「まだ終わっていない」という確信だけだ。

藤井が、沈黙の隙間を埋めるように切り出す。


「さっきの話の続きですけど、あのメッセージ…。やはり、単なる嫌がらせの範疇はんちゅうを超えていますよ。」


駒沢がバッグからスマートフォンを取り出した。

画面を伏せていたのは、忌まわしい文面を視界に入れたくなかったからだろう。

彼女は躊躇ためらいながらもロックを解除し、高岩の前に突き出した。


《次は先生たちの番です》


わずか十文字足らず。

だがそこには、平熱のまま人を屠る種類の冷酷さが横たわっていた。

怒号も呪詛もない。

ただ事務的に「順番」を告げる。

それは、人間が壊れていく過程に一片の痛みも感じない、狂った機構の言語だった。

高岩は画面を見つめながら、昨夜聞いた女の声を反芻していた。


『顔を上げすぎた』

『終わったことにするのよ』


表現は違えど、根底にある思想は同じ。

彼らは個人を見ていない。

誰かの人生を、その時々の都合に合わせた「役割」という型に押し込める。

刺された教師、不審な女子高生、冷血な同僚、裏切りの生徒会長。

そうして輪郭だけを記号化し、順序よく処理していく。


「順番…。」


高岩の呟きに、京花が傍らの紙コップを置いた。


「その言葉、昨日も言ってたよね?」


「ああ。おそらく、教団だけの独善的な発想じゃない気がするんだ。」


駒沢が訝しげに眉を寄せる。


「どういうことです?」


「んー。教団は人を役割で見るだろ?だけど、政治も企業も、その本質は似たり寄ったり。票になるか、金になるか、沈黙を守るか。血の通った個人ではなく、単なる『使い道』として人間を値踏みする。」


藤井が手元の空き缶を、硬い音を立てて机に置いた。


「それは高岩先生の直感ですか。それとも、確信ですか?」


「半分ずつ、といったところかな。」


その曖昧な答えこそが高岩らしかった。

断定によって安易な安心感を与えるより、不確かな現実をそのまま引き受ける。

正しさより問いを重んじるその誠実さが、彼の美徳であり、同時に敵を増やす理由でもあった。


その時、廊下を渡る足音が病室の前で途絶えた。

制服警官の低く抑制された声に続き、無駄のないノックが二回。


「失礼します。警視庁のものです。」


室内の空気が一変し、見えない緊張の糸が張り直される。

京花が扉を開くと、男女二人の刑事が足を踏み入れてきた。


男は四十代半ば、痩身に纏ったスーツはくたびれ、ネクタイの緩みに徹夜の隠微な匂いを漂わせている。

女は三十代前半、黒髪をタイトに束ね、書類を保持する指先に迷いがない。

どちらの瞳にも、初対面の相手に対する鋭い観察眼が宿っていた。

その冷徹な視線が、場を浮ついたドラマから現実の地平へと引き戻す。

男が警察手帳を掲げた。


「警視庁捜査一課、崎山です。」


女も短く、事務的な会釈を返す。


「同じく古賀です。高岩先生、体調の優れないところ恐縮ですが、お話をお伺いかせて頂きます。」


「いえいえ。構いません。」


高岩は静かに応じた。

出版社時代に培った、相手に呑まれない処世術。

だが今の彼は、穏やかな物腰の深層に、決して崩さない警戒の陣を敷いていた。

崎山は室内を一瞥し、まず京花に狙いを定めた。


「奥様で、よろしいですね?」


「はい。」


「奥様も同席をお願いできますか?」


「もちろんです。お願い致します。」


続けて、古賀が駒沢に向き直る。


「あなたが駒沢先生ですね?脅迫のメッセージを受信したという。」


「…はい。」


「後ほど端末を確認させていただきます。」


駒沢は頷いたが、その視線は微塵も揺らがなかった。

彼女は昔から、恐怖を感じるほど背筋を伸ばし、凛と振る舞う癖がある。

生徒に不当な理不尽が突きつけられた時と同じ、不屈の横顔だった。

 

事情聴取は、凪のような静けさの中で始まった。

犯人の特徴。凶器の形状。

逃走の軌跡。言葉の抑揚。

高岩は記憶の断片を手繰り寄せ、主観を排して淡々と証言した。

脚色を嫌い、不明な点は「不明」として残す。

その潔い証言に、古賀は何度か感心したように顔を上げた。被害者の供述は通常、感情によって肥大化し、輪郭がぼやけるものだからだ。


「『顔を上げすぎた』そして、『終わったことにするのよ』。この二点、間違いありませんね?」


「はい。」


「宗教団体の関与を疑う理由は?」


高岩は一拍、間を置いた。


「今まで学校で起きた一連の事象です。今のところ、直接的な物証はないです。けれど、語彙の選択、論理の組み立てが、彼らの手法と酷似している気がするんです。」


「酷似、とは具体的に?」


「人を固有の名称で呼ばないんです。あらかじめ用意された物語の『役』に嵌め込んでから、処理する。その手際の良さが、ね。」


崎山が無言で頷いた。

彼もまた、数多の凶行の果てに、人を記号へと貶める連中の、あの独特の悪臭を嗅ぎ取ってきたのだろう。

古賀が次に、駒沢へと矛先を変えた。


「脅迫メッセージは、昨夜のものが最初ではないはずですね?」


「ええ。以前にも何度か。ただ、今回ほど露骨なものは初めてですね。」


「しかし…なぜ、あなたが標的になったと考えますか?」


その問いに、駒沢の唇が固く結ばれた。

視線が一瞬だけ京花へと彷徨い、京花はそれを静かに受け止めた。

高岩には、その沈黙の意味が痛いほど分かった。

教師として守り抜いてきた一線を、ここで踏み越えるべきか否か。

彼女は今、自らの魂と対話している。

沈黙を破ったのは、高岩だった。


「もしかすると、駒沢先生の父親の存在が関係している可能性が?」

 

病室の酸素が希薄になったような錯覚。

駒沢が高岩を見た。

それは拒絶の目ではなかった。

諦念とも違う。ただ、逃げ場を失った者が覚悟を決めた、暗い光を宿す瞳だった。


「…駒沢祐介。」

 

彼女は、自らの口でその名を呪文のように唱えた。


「父はIT系企業の経営者です。たぶん、刑事さんたちの方が詳しいはず…。表舞台に出るのを極端に嫌う男。」

 

崎山は表情を変えずに応じた。


「海外での特許収益、そして多額の政治献金。まぁ、そのような記録は把握しています。」


駒沢は力なく笑った。

その笑みには、いつもの艶やかさがない。


「ですね。そういう家なんです、うちは…。」


京花が目を細め、高岩は駒沢の横顔をじっと見つめた。

派手に振る舞う人間ほど、核心にある悲劇を軽やかに、他人事のように語る。

それは重圧を周囲に波及させまいとする、彼女なりの稚拙で高潔な優しさだった。


「私は実家と縁を切ったつもりでした。職場でも明かす必要はないと。今考えると、父は技術だけで頂点に立った聖人じゃないと思います。勝つためなら手段を選ばず、倫理さえ後回しにする。そうして得た金を政界に流し、見えない椅子を買う男!」

 

古賀が低い声で問う。


「おそらく、献金先は自由主義党ですね?」


「おそらく。それが一番効率的な投資先ですから。」


「幹事長は、高岩宏さん。偶然にも同じ名前の男性がここにいます。」


その名が落とされた瞬間、京花が小さく息を呑んだ。

駒沢の視線が、ゆっくりと高岩へ注がれる。

高岩は逸らさなかった。

ここで目を背けることは、自らの存在を否定することに等しい。


「そうだよ。俺の親父だ。」


その一言が、パズルの最後のピースを埋めた。

駒沢の脳裏で、これまでの違和感が一本の線に繋がっていく。

高岩が権力的な圧力を病的なまでに嫌う理由、出自を隠し通そうとする不自然なまでの禁欲さ。

それらはすべて、同じ根から生えた傷だったのだ。


「そういうことだったのね…。」


駒沢の声に刺はなかった。

ただ、あまりに皮肉な巡り合わせに対する、深いため息のような響きがあった。


「俺はあえてそのことを隠していた。借りたくない名前だったしね。それには親父とは密約があったんだ。俺は父の権力を利用しない。父も俺の仕事に干渉しない。その代わり、俺はこの名前の加護を一切受けないことを父と約束したんだ。」

 

藤井が天を仰ぎ、苦々しく毒づいた。


「とんだ朝ですよ、全く…。」


「本当に主人は悪気はなかったの。ごめんなさい。」


京花の言葉が、場の空気を引き締める。

崎山が手帳を閉じ、指先で表紙を軽く叩いた。


「なるほど。やっと構図が見えてきました。企業からの金、教団からの金。その双流が、同じ政界という海へ流れ込んでいる。学校統合、土地買収、教育行政。それらの利害が重なり合う結節点で、生徒たちの事件が邪魔なノイズとして『処理』されようとした。」


「そして」と古賀が補足する。


「教師側で最も揺さぶり甲斐のある急所が、高岩先生と駒沢先生だったというわけです。」


駒沢は鼻で笑った。


「私が、そんなに脆い女に見える?」


「脆いかどうかは問題ではありません。」


古賀は淡々と言った。


「あなたは『交点』なのです。現場の教師であり、政界にパイプを持つ企業の息女。あなたという駒を動かせば、教育現場と金の流れ、その両方に波紋を広げることができる。」


その冷徹な分析は、残酷なまでに正鵠せいこくを射ていた。

人間をチェスの駒としてしか見ない者たちの論理に、捜査側もまた同調せざるを得ない。

追う者もまた、その暗い闇に染まらなければ真実には届かない。

 

―――


その頃、病院から数駅離れた住宅街には、別の不穏な静寂が沈殿していた。

定食屋『ありがとう』。

半開きのシャッターが、拒絶とも誘いとも取れる曖昧さで口を開けている。

向かいの電柱の陰、一人の若者が佇んでいた。

黒いフードを深く被り、コンビニのアイスティを手に、退屈を絵に描いたような顔でスマートフォンを操作している。

 

その存在はSLAY達だった。


春休みの、長閑のどかすぎる午前。

教師の災難にも病院の事情にも興味はない。

しかし、奈良義一のあの眼差しが、昨夜から意識の隅にこびりついて離れない。

懇願でも命令でもない、不器用で切実な渇望。

自分では動けない者が、それでも誰かを求めようとする時の、あの無防備な瞳。

真正面からあんなものを向けられると、吐き気がするほど面倒だと思いながらも、断ち切ることができない。


瞬は、そうした性質の人間を心の底で蔑み、同時に、どうしても嫌いになりきれなかった。

 

店の裏口が音もなく開いた。

現れたのは南条。

今日の歩幅は妙に狭い。

何かを、あるいは誰かを庇うような、独特の重心移動。

続いて、帽子を目深に被った長身の男が姿を現した。

横顔に陽光が落ちた刹那、瞬の瞳が針のように細められた。


中川有二郎。


確信が走ると同時に、内臓の奥が冷たく乾いた音を立てた。ようやく尻尾を出した。

有二郎は周囲を執拗に警戒し、黒塗りのワゴン車へと滑り込んだ。

運転席の男は、仕立ての良すぎるスーツを纏い、現場の泥臭さを微塵も感じさせない。

秘書か、企業の工作員か、あるいは教団の浄化担当か。

いずれにせよ、下町の定食屋には不釣り合いな高級靴を履いている。

 

瞬はストローを軽く噛み、数秒の沈黙の後に思考を巡らせた。

奈良に報せるか?

いや、今のあいつは感情に焼き切られている。

高岩に繋ぐか?

入院中の教師では足が遅すぎる。ならば。


「直接、拝ませてもらうか…。」


独り言は春風に霧散した。

ワゴン車が静かに発進し、瞬もまた、磁石に吸い寄せられるように歩き出す。

追跡は本業ではないし、趣味でもない。

だが、「誰にも見られない」ということに関してだけは、呪いのような才能を持っていた。

目立たない者が有する、

最も卑俗で、最も強力な武器。

 

―――


病室では、議論がさらに深淵へと沈み込んでいた。

崎山が席を立ちながら、念を押すように告げる。


「高岩先生。これは仮説に過ぎませんが、あなたが狙われた理由は二つです。」


「二つ、ですか?」


「教団にとっての不確定要素であったこと。そして、幹事長の息子という看板を持ちながら、現場で生徒の側に立ち続けていること。その『矛盾』した立ち位置が、彼らにとっては計算を狂わせるバグだったのです。」


高岩は力なく笑った。


「親父の名前で恩恵を受けた覚えはないのに、バグ扱いされるとは心外ですね。」


「権力の家に生まれた者は、たとえそれを使わずとも、存在そのものが政治的意味を持ちます。」


古賀が冷然と付け加える。


「そこから真に逃げ切れる人間など、この国にはほとんどいないでしょう。」


その言葉は、高岩を突き刺し、同時に隣に立つ駒沢をも射抜いていた。

駒沢はスマートフォンを握りしめたまま、窓の外に視線を投げた。

病室のガラスは、春の陽光を透過させるくせに、外界の喧騒だけを頑なに遮断している。

彼女は長い沈黙の末、独白のように零した。


「私と高岩先生…。私たちの因縁でこんな結果になったの?」


京花が、その震える肩を静かに見守る。


「あいつらは最初から、私を教師じゃなくて『駒沢祐介の娘』としてしか見ていなかったのね…。」

 

告白の最後、彼女の声が微かにかすれた。

高岩はベッドの上で身を捩り、傷口の激痛に耐えながら、真っ直ぐに彼女を見据えた。


「それでも、君は立派な教師だよ。」


 駒沢が弾かれたように振り返る。


「それって慰めてるつもりですか?」


「事実を言っているだけ。あいつらが何を基準に人を見ていようが、君が何者であるかを決定する権利は、あいつらにはないよ。」

 

病室に、重厚な沈黙が降りた。

高岩の言葉は、常に綺麗事の境界線を歩く。

しかし、彼自身がその言葉に伴う痛みを血を流しながら引き受けているからこそ、それは虚飾に堕ちない重みを持っていた。

 

京花が、小さく、だが確かな笑みを漏らした。


「そういうところだよ。刺されて入院してるのに、呆れるくらい真っ直ぐ。」


「褒めてる?」


「あきれてんの。」


藤井が溜息とともに肩を竦める。


「夫婦漫才は、退院してからにしてくださいよ!」

 

その刹那、駒沢のスマートフォンが再び、命を宿したかのように震えた。

全員の視線が一点に集中する。

画面には『非通知』。

室内の温度が急激に奪われていく。駒沢は一瞬の躊躇のあと、スピーカーにはせず、震える手で受話口を耳に当てた。


「…はい。」

 

応答はない。

ただ、受話器の向こうから微かな風の音が聞こえる。

数秒の空白を置いて、性別も年齢も判別できない、無機質な合成音声のような声が響いた。


『順番です…。』

 

駒沢の背筋が凍りつく。


「誰なの!!?」


『あなたは知ってるよね?』


その言い草に、京花の表情が険しさを増した。

高岩にも分かった。

昨夜の女と同じ、徹底して感情を排除した、死者のような声。

しかし、駒沢は屈しなかった。

恐怖が臨界点を超え、冷徹な怒りへと変質していく。


「終わらせる側が、勝手にルールを決めないでよ!」

 

向こう側で、僅かに空気が揺れる気配がした。

嘲笑だろうか。


『ふふ…。未だに自分が「選択」できる側にいると錯覚しているのね?』

 

そこで通話は無慈悲に途絶えた。

古賀が即座に踏み出す。


「端末をこちらへ。」

 

駒沢は迷わずスマートフォンを差し出した。

その指先は、驚くほど静止していた。

それは平穏を取り戻したからではない。

獲物を仕留める直前の、獣の静寂だ。

 

崎山が矢継ぎ早に部下へ指示を飛ばし、古賀は通信ログの解析に取り掛かる。

静かだった病室は、一瞬にして臨戦態勢の捜査本部へと変貌を遂げた。

その喧騒の中心で、駒沢だけが異質な静謐を纏っていた。

 

京花が、彼女の肩にそっと掌を添える。


「駒沢先生…。」

 

駒沢は一度だけ深く瞼を閉じ、再び開いた。


「大丈夫です。今ので確信しました。」


「何を?」


「向こうは、私が何も知らない無力な『娘』だと思い込んでいるってこと。」

 

その声は、研ぎ澄まされたナイフのように鋭利だった。


「だったら、思い知らせてあげる。金の流れも、父親の呪縛も、すべてを無傷で通り抜けられると思うなよって。」

 

高岩は彼女の横顔を見つめ、深く、静かに頷いた。

窓の外では、春の陽光が高層ビルの壁面に反射し、残酷なまでに美しい幾何学模様を描いている。

階下では救急車が、平然とした顔で街の雑踏に消えていった。

世界は今日も、何事もなかったかのように朝を更新していく。

誰かが刺されようと、誰かの人生が「順番」に整理されようと、冷淡に回り続ける。

しかし、だからこそ、壊し甲斐があるのだ。

密室で定義された「順番」を、誰かが根底から覆さなければならない。

学校の枠組みから、病室の壁から、政治の深淵から。

あるいは、そのすべての境界線上から。

 

この時、まだ誰も予見していなかった。

南条の裏口を去ったワゴン車が向かった先が、単なる潜伏先などではなく、企業と宗教と政治が、汚れた金を同じ机上で「洗浄」する祭壇であることを。

 

そして、その祭壇の火を最初に吹き消すのが、教師でも警察でもなく、名前を持たない影として生きてきた、一人の若者であることを。

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N2715KW
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