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沈黙の紙片 ~裏切り者のいる教室〜  作者: マリブン
Season1

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31/33

Season2 1話 白い順番①

高岩は刺されたと理解するまでに、ほんの一拍かかった。


胸ではない。

腹でもない。

左の脇腹の少し上。

熱い、というより、鈍い衝撃。

見知らぬ女の手が、高岩のコートの陰からすっと離れる。

その指先には、夕暮れの光を吸ったみたいに鈍く濡れた刃があった。


女は何も言わない。

顔も歪めない。

ただ、ひどく静かな目で高岩を見ていた。


「ふふ…。あなたはね、顔を上げさせすぎたのよ。」


何の抑揚もない声だった。

祈りにも恨みにも聞こえない。

それが逆に、人間の声ではなく命令書の一行みたいに冷たい。


高岩は一歩下がろうとして、足元の坂に体をもっていかれる。

制服の白の花、卒業証書の筒を抱えて笑っていた生徒たちの顔、さっきまでの拍手の残響。

全部が一瞬で遠のく。

代わりに、冬の終わりの金属みたいな風が脇腹の痛みを撫でた。


「だ…誰だ…?」


絞り出した声に、女は答えない。

答えないまま、刃を持つ手をコートの袖へ滑り込ませる。

その手つきが慣れすぎていた。

一度きりで済ませる手ではない。

誰かに教え込まれた動きだと、高岩は本能で分かった。


女は一歩、後ろへ下がる。

逃げるためではなく、距離を測るように。


「ふふ…。これでわかったよね?終わったことにするのよ?」


そう言って、踵を返した。


高岩は咄嗟に腕を伸ばしたが、指先は空気しか掴めない。

視界の端で、女のコートの裾が住宅街の角へ吸い込まれていく。

追うべきだと頭は叫ぶ。

けれど体が命令に従わない。


膝が折れた。


アスファルトに片手をつく。

ぬるいものが指の間を伝う。

血だ、と遅れて理解した瞬間、世界の音が一気に戻ってきた。

遠くの子どもの声。

犬の吠える声。

どこかの家の玄関が閉まる音。

そして、自分の呼吸だけが、妙に近い。


高岩は震える手でスマホを取り出した。

画面に血がつく。

一番上にあった履歴へ指を滑らせる。


藤井。


発信音は一回で繋がった。


「はい。藤井です。何かありましたか?」


「……藤井先生……。」


「…ん??どうされました?」


「刺され…た…。」


その向こうで、息を呑む音がした。

次の瞬間には、藤井の声が鋼に変わっていた。


「ええ!!今どこにいるんですか!!?」


「学校から下った……二つ目の坂。自販機のある角……。」


「わかりました!絶対に動かないでください。そして電話を切らないで!とりあえず救急を呼びます!待っててください!!」


高岩は「女が」と言いかけたが、咳が先に出た。

肺の奥がひりつく。

血は思ったより多い。

コートの内側で広がる熱だけが、かろうじて自分をここに留めている。


「今向かってます!刺した人の顔は見ましたか?」


「見た…知らない女です。三十前後……いや、もっと若いかもしれない…。」

「意識飛ばさないで!京花さんにも連絡しないと!」


「頼みます…。」


そこで通話が切れた。


高岩は電柱にもたれた。

空がもう青ではない。

卒業式のあと特有の、祝福と喪失が混ざった夕方の色。

その色が、今日はひどく薄い。

ポケットの中で、生徒たちからもらった手紙が折れていた。

その感触だけが妙に鮮明だった。


―――


救急車のサイレンは、卒業の日には似合わない。

それでも、その赤い光は容赦なく住宅街の壁を舐めていった。

近所の窓がいくつも開く。カーテンの隙間に目が灯る。

人は、何かが終わった直後の破綻を愛してしまう。花道のあとに血が流れれば、なおさらだ。


藤井は救急隊より一歩早く現場に着いた。

ネクタイは緩み、卒業式で履いていた革靴にはまだ体育館の砂がついている。


「高岩先生!!」


膝をつく。

コートをめくる。

傷は深いが、即死の位置ではない。だが油断できる量でもない。


「脇腹か…くそっ!」


「すまない…。」


「喋べらないで!」


言いながら、自分のハンカチと高岩のコートの裾で圧迫する。

指先に伝わる温度が、生きていることを証明していた。


「刺した奴の詳しい情報を教えてください!」


高岩は浅く頷いた。


「女性だ。知らない顔。でも…。」


「でも?」


「洗脳されてる顔だった。」


藤井の眉がわずかに動いた。

その表情は、驚きより先に納得を含んでいた。


「光明真理会??」


「かもしれない。」


「かもしれない、じゃなくて、その線で動きます!」


救急隊が到着し、高岩は担架に乗せられた。

近所の人間が遠巻きに見る。誰かがスマホを向ける。

藤井が顔も上げずに怒鳴った。


「撮らないで!」


その一喝だけで、何人かが目を逸らした。

けれど全員ではない。見たい人間は、見たいのだ。

真実ではなく、剥き出しの瞬間を。


担架が救急車へ吸い込まれる。

藤井は当然のように乗り込んだ。

ドアが閉まる寸前、道路の向こうに小さな影が立っているのが見えた。


黒いフード。

細い体。

じっとこちらを見ている。


一瞬だけ、藤井の瞳がそこへ向く。

フードの奥の輪郭はぼやけて見えない。

だが、その立ち方には見覚えがある気がした。

校門の陰、病院の廊下、体育館の端。

いつも視界の隅にいて、決して主役にはならない種類の人間の立ち方。


次の瞬間、その影は歩道橋の影へ消えた。


―――


病院の処置室は、あの日とななみの夜を容赦なく呼び戻した。


蛍光灯の白。

床の光沢。

扉の向こうの怒号。

高岩は半分意識を失いながら、それでも覚えていた。

香取ななみの母が崩れ落ちた角度も、藤井が壁を殴った音も、そして自分が何も言えなかった沈黙も。


「血圧低下!」

「ルート確保!」

「出血量、多いです!」


マスク越しの声が遠くなる。

その遠さの中で、ななみの声だけが近かった。


《私は何もしてない!でも!!》


彼女を追い詰めたのは、刃物だけじゃなかった。

LINEの既読、念のためという言葉、実名のないニュース、誰かが誰かを守るふりをしながら作る距離。

あの子はそれで削られ、最後には血を流した。


高岩の意識が沈みかけた時、処置室の外で駆け足の音がした。


「洋ちゃん!」


京花だった。


その声だけで、高岩は一度、現実へ引き戻された。

視界の端、扉の小窓の向こうに、泣くのを我慢している京花の顔が見える。

強い人ほど、泣く直前の顔が静かになる。

その静けさが、高岩にはいちばん痛かった。


―――


夜十一時。

病院の面会待機室。


藤井、駒沢、林、そして京花がいた。

駒沢は卒業式でもらった花束をまだ抱えたままだった。

白いカスミソウの先に、乾きかけた血が一滴だけついている。

さっき高岩に触れた時のものだろう。

祝いの花は、今日は弔いの前触れみたいだった。


医師が出てくる。

全員が立ち上がる。


「命に別状はありません。」


その一言で、部屋の空気がようやく落ちた。

だが次の言葉が、別の重みを置いた。


「あと数センチ深ければ危なかった。しばらくは安静です。警察の聴取は明日以降にしてください。」


京花は深く頭を下げた。


「ありがとうございます!」


その声だけが少し掠れていた。


医師が去ると、沈黙が落ちた。

最初に口を開いたのは林だった。


「卒業式の直後に、こんなこと…。」


「直後だからだよ。」


藤井が言う。


「終わったと思わせたかったんだろ?あるいは、終わっていないと教師側に教えたかった。」


駒沢が唇を噛む。


「高岩先生は何か見たっていってたの?」


「刺したのは女性。見知らぬ顔。刺した後に『顔を上げさせすぎた』『終わったことにして』と言われたらしいな。」


「それって…。教団の言葉?」


林の声が低く沈む。


「好き嫌いの話じゃない。」


京花は黙って聞いていたが、やがて静かに言った。


「洋ちゃん、前から言ってたの。理屈では匿名は弱いはずなのに、実際は匿名の人たちが何度も勝ってしまってるって。」


誰もすぐには返せなかった。


藤井が椅子に腰を下ろし、両手を組む。


「ななみの時も原口先生の時もそうだ…。」


駒沢が顔を上げる。


「原口先生…。」


「もしかして、コールドメガネって呼び方は、本名を消して、その人をただのキャラにするための呼び方だったんじゃないか?」


藤井は壁を見たまま続けた。


「一人の教師を、人間じゃなく役割にしてから叩く。冷たい、無関心、パワハラ。本人の全体像を消して、一番都合のいい輪郭だけ拡散する。あのやり方と、ななみを追い詰めたやり方は、まるで同じだ。」


林も頷いた。


「切り取り、匿名化、ラベル化…。奈良会長の件も結局そこへ繋がる。有三郎単独犯という発表も、全体像を消して一つの名前に押し込める処理でした。」


駒沢が目を伏せる。


「じゃあ、この学校で起きたこと全部?」


「おそらく同じ手口の上にあるんだろうね。」


藤井が言い切った。


その時、駒沢のスマホが震えた。

画面を見る。

知らない番号からのメッセージ。


《おめでとうございます。卒業式は無事に終わりましたね。次は先生たちの番です。》


駒沢の指が強張る。

藤井が画面を受け取り、目を細めた。


「脅しか?警察に報告して。」


駒沢が言う。


「そうする。」


「その前にスクショを林先生へ。」


藤井が即答する。


「送信元のパターンを見たい。」


林は受け取った画面を見て、眉を寄せた。


「この言い回し…。」


「心当たりあるか?」


「あります。学校宛てに来ていた脅迫文の一部と似ています。句読点の打ち方と、妙に丁寧な祝辞の入れ方が。」


駒沢の背に冷たいものが走る。

卒業式を祝う文体で、血の続きを告げる。

それは祝辞に毒を混ぜるやり方だった。


―――


同じ夜。

統合先の高校に提出予定だった「記録ファイル」を前に、三浦沙織は机に座っていた。


卒業式のあと、みんな泣いて笑って帰った。

それで少しだけ、本当に終わった気がした。

でも、スマホの通知がその錯覚を一秒で壊した。


《高岩先生、刺されたって》

《病院らしい》

《誰に?》

《また中川?》

《え、女性って話もある》


情報はまだ液体で、形を持つ前から流れ出していた。

沙織は深呼吸し、寛人と啓太と義一を呼んだ。


駅前のファミレスの端席。

卒業生の名札の代わりに、全員まだ制服だった。

脱ぐ暇もなかったのだろう。


「先生が刺されたなんて…。」


沙織が言うと、寛人の拳がテーブルの下で鳴った。


「いったい誰が?」


「まだ分からない。」


義一が低く言う。


「分からない、じゃまた終わったことにされる!」


啓太は笑わなかった。

普段なら一番先に空気を軽くする男が、今夜はただ真っ黒な目をしていた。


「兄弟の残りか、教団か、それとも別の誰かか?」


義一は水のグラスに指を置く。


「でも、さ。手口は全て同じだ。ななみ、俺、原口先生の時も、先に物語だけが作られた。本人が喋る前に、ね…。」


沙織が頷く。


「だから、今度は先に記録を出してみない?」


彼女はノートPCを開いた。

ファイル名は《終わらせない記録》。

そこには、ななみ事件の時系列、原口関連の匿名投稿と動画拡散の記録、奈良刺傷の証言、校長教頭の告白メモ、そして卒業式当日の体制まで整理されている。


「高岩先生がやられたなら、教師だけに任せるのはもう無理!」


沙織はまっすぐ言った。


「私たちが腹くくらなきゃ!本気でやろ!」


寛人が顔を上げる。


「公開するのか?」


「まだしない。まずは複製!」


義一がすぐ乗った。


「なるほどね。同じデータを複数に分散させて、誰か一人が潰されても消えないようにってことだろ?」


啓太が小さく息を吐く。


「まるで戦争だな。」


「最初からそうだったよ。」


義一の声は静かだった。


「ただ、制服着てたから見えにくかっただけ。」


その言葉に、誰も反論しなかった。


―――


翌朝。

病院の個室は白く静か。


高岩はまだ顔色が悪いが、意識ははっきりしていた。

窓から見えるのは、よくある都市の朝。

救急車の出入り、コンビニの配送車、何事もない顔の空。

人が刺された翌日でも、世界は平然と朝を迎える。


面会時間になり、藤井が先に到着。

椅子に腰を下ろし、コンビニのブラックコーヒーを机に置く。


「死に損なったなぁ。」


「縁起悪いこと言わないでくださいよ。」


高岩はかすかに笑った。

その笑いはすぐ痛みに変わる。

藤井が眉をひそめる。


「大丈夫ですか?」


「笑うとひびくな…。」


短いやり取りのあと、藤井は声を落とした。


「そうそう、駒沢先生に脅迫文みたいなメッセージが送られてきたんです。」


高岩の目が変わる。


「なに?それ見せて欲しい。」


画面を受け取り、黙読する。


《次は先生たちの番です。》


その文面を見た瞬間、高岩の中で何かが繋がった。


「順番…か…?」


「何か思い当たることでも?」


「教団からの言葉なのかもな…。でも、それだけじゃない気がする…。」


高岩は息を整えた。


「原口先生がコールドメガネと呼ばれた時もそうだった。名前じゃなく役割を与えられる。ななみも、疑いの女子高生って輪郭で扱われた。俺も今、刺された教師になる。そうやって一人ずつ順番が回ってる。」


藤井は黙って聞く。


「犯人は人を個人として扱わない。役割やキャラにして、ターゲットを順番に潰していく。」


扉がノックされる。

入ってきたのは、駒沢。

その後ろに、三浦沙織、奈良義一、鈴木寛人、村上啓太。

卒業したはずの生徒たちが、制服のまま立っていた。


「あぁ先生!!お見舞いに来ました!良かったー!無事で!!」


沙織が言う。

けれど、その目は慰めより先に、戦う前の目をしていた。


藤井が少しだけ呆れた顔をする。


「静かに!病院だぞ!」


「あっ…すみません。」


義一が答える。


「でも、ここって今いちばん安全で、いちばん危ない場所でもあるますね。」


「心配かけたね。ありがとう!それで、今日はどうせ何かを持ってきたんだろ?」


そう聞いたのは高岩だった。


「さすが先生!」


沙織はUSBメモリを机に置く。

小さな銀色の塊。

なのに、その場の全員が息を止めるには十分だった。


「これは記録の複製です。」


「複製?」


「はい。ななみ事件、原口先生の件、会長刺傷、教団との関係、卒業式前後の異常。全部まとめました。消されても残るように、同じものを人数分作ってあります!」


寛人が続ける。


「先生が刺されたって聞いて、俺たち腹を括ったんです!」


啓太が低く笑う。


「卒業翌日にこんな真似したくなかったけどな。」


義一は高岩を見た。


「先生、僕たちを止めないでください!」


高岩は何も返せなかった。

義一が、今度ははっきり言う。


「まだ、今の段階では前に進めてません。なので俺達が道をを切り開きます!」


病室の空気が変わる。

高岩はUSBを見つめた。

香取ななみの血。

原口圭介に貼られた冷たい名札。

奈良の腹を裂いた刃。

そして、自分の脇腹の痛み。

バラバラの事件ではない。

最初からずっと、見えない手が学校という器を外側から叩き、内側から削っていたのだ。


「先生。」


駒沢が静かに言う。


「今度こそ、終わったことにしませんよね?」


高岩はゆっくり顔を上げた。

傷は痛む。

痛むから、生きているのが分かる。


「しないよ。」


短く言う。


「もう、誰の番にもさせない!」


窓の外で、朝の光がビルの縁を少しずつ昇っていた。

それは白い光。

けれど卒業式の白とも、病院の白とも違う。

まだ名前のない白。


状況は静かなまま。

しかし、もうこちらが動かせる場所をつかんでいた。

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