未熟と正義 【All Rewrite ver】
職員室の空気は、若葉の季節の明るさと、連休明けに迫る中間考査への緊張が入り混じっている。
教師達の机にはコーヒーの湯気と分厚い進路資料が並び、窓の外からは初夏を告げる風がカーテンを揺らしていた。
高岩は、出席簿を閉じて立ち上がった。
3年2組の担任として迎えた最初の学期は、まだ始まったばかりだ。
壁の時計に目をやり、教室の空気をひと呼吸で整えようとしたとき、隣の教室、3年4組の方角から、少し騒がしい声が響いてきた。
(なにかあったのかな?)
担任は、林康二。
まだ若く真面目で生徒思いだが、まだ感情を制御しきれない危うさを、高岩は感じ取っていた。
彼が職員室で熱く語るときの眼差しは、信念に満ちている半面、「理想と現実のずれ」をそのまま生徒にぶつけてしまいそうな危うさが懸念されていた。
その時、校内放送のチャイムが鳴った直後、廊下を歩いていた副担任の駒沢が慌ただしく駆け込んでくる。
「高岩先生!来て貰えますか?3年4組で大変なことになってます!」
胸の奥でざらりとしたものが広がる。
高岩は足早に廊下を渡った。
―――
3年4組の教室。
黒板の端には「体育祭 係分担」の紙。
そのすぐ横には、誰が貼ったのか分からない1枚のコピー用紙が目立っていた。
【青春バカ発見】
太い黒マジックの殴り書き。
それを見つけた生徒たちは一斉にざわつき、教室は緊張で揺れていた。
「これ、誰が貼ったん?」
「青春バカって、まさかの?」
小声が広がり、不安が増幅していく。
そのざわめきが口論へと変わり、昨日から続いていた火種が再び燃え上がった。
校長と教頭は反省のために、全生徒が規律を命じた。
そして田中学年主任を交え別室にて対応について協議を続けていた。
結論は出ず、校長の入室は結果7分も遅れてしまう。
教室では、生徒達は立たされたまま時間が過ぎていた。
理由を知らされぬ沈黙と、不安を煽る張り紙。
その緊張を断ち切ったのは担任の林。
視線を鋭く光らせ、教壇の前に仁王立ちする。
「テメー、マジでふざけんなよ!クソが!」
林は机を叩き、怒声を響かせた。
「生徒達をなんで立たせっぱなしにしてんだ!理由も言わずに黙らせて、バカか!? 」
声はどんどん荒くなり、口調は完全に崩れていった。
瞳はぎらつき、表情はもはや教師というよりケンカ腰の若者。
「お前、それでも教育者か!?人間扱いすらできねぇのかよ!生徒に謝れ!ここで頭下げろって言ってんだよ!」
その言葉の裏には、林の色んな気持ちが入り混じっていた。
自分にやらせてもらえなかった悔しさ。
めんどうなトラブルにちゃんと向き合えなかった後ろめたさ。
生徒に「先生は味方だ」って思われたい気持ち。
そして、ぶつける相手を見つけてしまった安心。
全部がごちゃ混ぜになって、怒鳴り声になっていた。
傍から見れば、正義でも熱意でもなく、ただの狂気。
その一線を越えた瞬間だった。
普段なら穏やかな声が、今日は強く響く。
教室の空気が一瞬で張り詰めた。
ざわついていた生徒の呼吸が止まる。
教壇の横には、校長が立っていた。
61歳、白髪混じりの短髪、少し猫背の姿勢。
職員や生徒からは、穏和で飄々とした人物と見られていたが、その表情には露骨な苛立ちが浮かんでいる。
「林先生。落ち着きなさい。職員室で話すことではないでしょう?」
「違いまーす! これは生徒の前で起きたことでーす。生徒を待たせて遅れたのは事実だろ。そのことを、きちんと説明していただきたいんです。」
林の声は震えていた。
それは怒りの熱で震えているのか、感情を抑えきれない不器用さのせいなのか、自分でも分からない。
23歳の若手教師の叫びは、教室全体にむき出しのまま突き刺ささる。
後列の女子生徒が小さな声を漏らした。
「先生やめてよ…。」
机に顔を伏せて、肩を揺らす。
涙がこぼれていた。
隣の友人が慌てて背中をさする。
その瞬間、教室全体に重い沈黙が落ちた。
息を潜めるように、誰も声を発さない。
廊下のドアが開き、東海林教頭が入ってきた。
眼鏡を押し上げながら状況を一瞬で見渡し、落ち着いた声で言った。
「林先生、ここは一旦、落ち着きなさい。」
東海林の言葉には、秩序を守ろうとする圧があった。
職員室でもその声は「冷静だが妥協しない」と評判。
林は歯を食いしばったまま、校長に視線を向け続けた。
そこへもう一人、田中直人学年主任が駆けつけてきた。
先生の面倒見が非常に良い、その道の第一人者。
「林先生、やめなさい。」
田中は一言、厳しくそう言った。
しかしその目は、ただ叱るだけのものではない。
若い同僚の「守りたい」という必死さを理解している目だ。
「でも、田中主任…生徒達が…!」
「気持ちはわかる。」
田中は遮るように言った。
「しかし、生徒の前で校長を叱咤し責めることが守るに繋がるのか、冷静に考えなさい。」
林は拳を握りしめ、唇を震わせる。
言葉が出ない。
教室の隅で泣いている生徒の声だけが響く。
高岩はドアに立ち尽くしていた。
状況は一瞬で飲み込めた。
林の激情、校長の面子、教頭の秩序、学年主任の板挟み、そして生徒達の動揺。
すべてが、この小さな四角い教室の中でぶつかり合っていた。
(林先生、君の気持ちは、痛いほどわかるよ。でも、これは違うよ。)
高岩は一歩踏み出す。
今は何を言っても、誰かを敵に回しかねない。
しかし、黙っていれば、生徒達の心はもっと傷つく。
高岩の今できること。
林を否定することでも校長を擁護することでもない。
生徒を、この混乱から救い出す。
それが、教師としての第一の責任だと感じた。
「みんな、いったん目を閉じてください。」
高岩の声が教室を満たす。
思わず生徒達が従う。
ざわつきが静まり、泣いていた生徒も、息を整えるように肩を上下させる。
「ひとつ言わせて欲しい。大人の言い合いは、君達の責任じゃない。ただ、今日は大人の側に間違いがあったんだ。安心して欲しい。それだけは、先生が保証します。」
林がはっと高岩を見る。
校長も、東海林も、田中も、一瞬言葉を失った
高岩が一言だけつぶやいた。
「林先生。何か言うことありますよね?」
短い呼びかけだった。
だが、それで林は自分が何をしていたのかを一瞬で悟った。
校長を怒鳴りつけ、ヤクザのような口調で暴れていた自分の姿。
生徒達の怯えた顔。
肩が震え、力が抜けていく。
林はゆっくりと振り返り、生徒達に向き直った。
「怖がらせて本当にすまなかった。」
その声はさっきまでの怒鳴り声とは別人のように小さく、震えている。
しかし、生徒達の胸に残ったのは、担任が見せた怒りと謝罪、その2つの生々しい姿だった。
重苦しい空気の中、SHRが終わりを告げた。
しかし3年4組の時間は、止まったまま。
誰もが、この出来事が一過性の騒ぎでは終わらないことを、はっきりと感じていた。
―――
1時間目のチャイムが鳴り終えても、3年4組の出来事は廊下を走る噂となって広がっていた。
「校長に食ってかかったらしいぜ!」
「えっ!林が?」
「生徒が泣いてたらしい。」
そんな声が聞こえる職員室。
重い空気の中で、林康二は机に突っ伏すように座っていた。23歳の肩は小刻みに震えている。
田中学年主任が林の隣に腰を下ろし、話した。
「林先生…。君の気持ちは分かるよ。しかしだね、生徒の前で校長を追及するのは、場を間違えていたとしか言いようがないんだ。」
「主任…。7分遅れですよ。生徒は理由も知らされず、その前の30分から立たされていたんです。あの沈黙は苦しかったはずです。誰かが声を上げなきゃだめだったんです!」
林の声は震えていた。
怒りと悔しさ、そして正義感が渦を巻いている。
そこへ、鋭い靴音が響いた。
東海林教頭がやって来る。
眼鏡の奥の目は冷ややかで、声は鋭い。
「林先生。あなたの言動は、学校の秩序を揺るがすものです。」
「秩序…ですか?」
「そうです。校長が遅れた理由は、昨日のトラブルへの対応ですよ。生徒の安全を考えての判断でもあります。あなたはそれを理解せずに、生徒の前で校長を叱責しました。想像力を使えばわかったはずです。それを制御できなかったのはあなたでしょ?結果、生徒は泣き出す事態となったこと、あなたには理解できていますか?」
「でも説明は...」
林は反論しようとする。
「説明は場所を選んで行うものです!あなたは先生でありながら、そんなことも分からないんですか?」
東海林の声が響く。
「大人の責任の確認を、生徒に晒す必要はありませんよ。」
周囲の教師たちが息を呑む。
職員室全体が凍り付いたような空気に包まれた。
その時、高岩が立ち上がった。
静かだが芯の通った声で言う。
「教頭先生。ひとつよろしいでしょうか?」
東海林が目を向ける。
高岩は一歩前に出て続けた。
「林先生のやり方が正しかったとは、僕も到底、思いません。ですが、彼が守ろうとした相手は確かに生徒です。その気持ちまで否定してしまえば、生徒達はもっと混乱するでしょう。」
「また始まりましたね。どうせまた林先生を庇うつもりね?わかってますよ。」
「庇っていません。ただ、あの時間を、生徒と一緒に過ごしたのは林先生です。何も伝えられず待たされた沈黙を、生徒達と共有していたんです。その重さを、私達は想像しなきゃいけないと思います。」
東海林は短く息を吐いた。
「いいでしょう。しかし!事実は報告しますからね。教育委員会にもです!」
そう言い残して教頭は去っていった。
職員室には、再び重苦しい沈黙。
田中が林の肩に手を置いた。
「林先生。正義感は大切かもしれない。しかし、それをどう伝えるかを間違えれば、守りたい相手を逆に傷つける結果になることも覚えておきなさい。」
林は俯き、拳を握りしめたまま答えられなかった。
―――
昼休み。3年4組は沈黙していた。
弁当を広げる生徒の目は落ち着かず、囁き合いはすぐに消える。
泣いてしまった女子生徒は机に突っ伏したまま。
周囲の友人がそっと肩を抱いている。
「林先生、大丈夫かな?」
「先生、私達を守ろうとしてくれたんじゃない?」
「私は怖かった。でも、先生の声で守りたいって思ってるのは伝わったかも。」
揺れる声が、クラスに沈む。
廊下を通りかかった高岩は、その空気を背中で感じ取った。
(林先生……君の声は、生徒に届いている。だが同時に、生徒を傷つけてもいる。俺がやるべきは、ただ良かった、悪かったで裁くことじゃない。どう繋ぐか、だ。)
高岩は拳を握り、静かに3年2組のドアを開けた。
―――
放課後前。
チャイムが鳴り終わると同時に、校内放送が響いた。
『林康二先生、至急校長室へ。学年主任の田中先生も同席をお願いします。』
職員室にいた林は顔を上げ、唇をかすかに噛んだ。
周囲の空気がまたざわめく。
田中直人は無言で椅子から立ち上がり、林の肩を軽く叩いた。
「行こうか。」
二人が廊下を歩き出すのを、高岩は目で追った。
このまま何もせず見送れば、林は潰れる。
そう直感した。高岩は席を立ち、さりげなく後を追った。
―――
校長室。
厚いカーテンが引かれ、机の上には今日の会議資料が積まれている。
校長は椅子に深く腰掛け、腕を組んでいた。
横には東海林教頭。
表情は硬い。
空気そのものが冷え切っている。
「林先生。」
校長の声は低く、ゆっくりとした調子。
「あなたの言動は、極めて遺憾です。」
林は立ったまま頭を下げる。
しかし、その声は震えていた。
「この度は申し訳ありませんでした。ただ、生徒を理由もなく待たせることは、どうしても納得できませんでした。」
「理由はあったんです。」
校長の声が強くなる。
「昨日のトラブルの対応ですよ。生徒の安全を守るための協議だったことは考えればわかりますよね?。」
「ですが、生徒には何も伝わっていません。生徒達は沈黙の中で、不安と疑念にさらされていたんです!」
林の声が再び熱を帯びる。東海林がすかさず遮った。
「その不安を取り除くために、あなたは生徒の前で校長を叱責したというの?結果はどうでしたか?生徒は泣き騒ぎましたよ。そしてクラスは混乱した状態です。それが生徒を守ることになぜ繋がるのです?」
林は言葉を失う。
握りしめた拳が震える。
それを見た田中が間に入った。
「校長先生。林のやり方に問題があったのは、あきらかに間違いありません。ただ彼の根底にあるのは、生徒を守りたいという一心です。それを処分一辺倒で片づけるのは…」
「田中先生。」
校長が田中を睨んだ。
「これは指導で済む話ではありませんよ。教育委員会にも報告せねばならない事案です。」
「懲戒を視野に、ということでしょうか。」
田中の声は重く沈んだ。
「当然です。」
東海林が言った。
「公務員としての服務規律に照らしても、減給は免れません。軽くても文書訓告です。覚悟しておきなさい。」
林の顔から血の気が引いた。
高岩はそれを見て黙っていられなかった。
ドア脇に立っていたが、一歩前に出て口を開く。
「校長先生、教頭先生。失礼を承知で申し上げます。」
教頭の視線が突き刺さる。
「なぜ、あなたがここにいるんです?呼んでいませんよ!」
それでも高岩は怯まなかった。
「林先生の行為は、確かに未熟です。彼を処分することで、果たして生徒に何が残るか考えてください。『声を上げる教師は罰される』という印象だけが残るのではないでしょうか?」
沈黙が落ちる。
校長は目を細め、しばし考え込んだ。
「高岩先生。あなたの言うことも理解できる。しかし、我々には組織を守る責任があるんだよ。」
「組織を守るために、生徒の心を犠牲にしていいんでしょうか?」
高岩は言葉を重ねた。
「生徒達は、林先生の言葉に怯えもしましたが、同時に先生が本気で自分たちを見てくれたとも感じています。その事実を無視しては、教育になりません。」
東海林が苛立ちを隠せず机を叩いた。
「高岩先生!感情論では学校は回りませんよ!」
その瞬間、田中が割って入った。
「感情論ではないと思います。教育の本質ではないでしょうか?」
校長室に再び沈黙。
時計の針の音だけが響く。
やがて校長が深いため息をついた。
「分かりました。すぐに結論は出さないようにしましょう。ただし、教育委員会に報告はしますからね。処分はその上で決まるでしょう。」
林は深々と頭を下げた。
高岩も、田中も同じように頭を垂れる。
しかし、その沈黙の奥で、誰もが感じていた。
これはただの一件の叱責では終わらない。
学校という場の根幹。
教師は何のために声を上げるのかが問われ始めていた。
―――
放課後。
3年4組の教室には、いつもより重たい沈黙が漂っていた。
机を寄せて談笑するグループもなく、弁当箱を片付ける音やプリントをめくる音ばかりが耳に残る。
朝の出来事が、生徒一人ひとりの心に影を落としていた。
「なぁ、林先生、やばくね?」
後ろの席の男子が小声で言う。
「でも、あれでも私達を守ってくれたんじゃない?」
隣の女子がすぐに返す。
「守るっていうか、ただ怒ってただけでしょ。」
別の声が被さる。
意見は割れていた。
泣いてしまった女子生徒は、まだ目を赤くしたまま友人と机に伏している。
その隣で彼女を慰める声が、かすかに響く。
「先生が怒鳴ったとき、怖かった。でも、なんか本気で私達のこと言ってるんだなぁとは思った。」
教室の空気がまた沈む。
誰もが心のどこかで「どちらの林先生を信じていいのか?」で揺れていた。
そんな中、教室の前列に座る女子がすっと立ち上がった。
三澤沙織、副生徒会長。
成績優秀で落ち着いた物腰、普段からクラスでも頼られる存在だ。
「みんな、ちょっと冷静にならない?」
沙織の声はよく通った。
「怖いとか、守られたとか、どっちの気持ちもわかる。でも大事なのは、どうしたら同じことを繰り返さないかを考えることだと思うの。」
生徒達の視線が彼女に集まる。
沙織は続けた。
「校長先生が遅れた理由は、トラブルの対応だったってあとから聞いた。でも私たちには伝えられなかった。だから不安になったし、林先生はあんな感じだけど声は上げた。つまり、私達は説明がなかったことに振り回されたんだよ。」
クラスにざわめきが広がる。
誰も言葉にできなかった部分を、沙織は冷静に指摘した。
「林先生のやり方が正しかったかどうかは別。でも、私達が怖いとか恥ずかしいとか思った気持ちは、本当のことだよね。その両方を認めた上で、次にどうするか考えるのが大事じゃない?」
その言葉に、泣いていた女子が顔を上げた。
赤い目で、かすかにうなずいた。
―――
その頃、高岩は自分のクラスのホームルームを終えると、廊下に立ち止まった。
ガラス窓越しに見える3年4組。
ざわざわとした沈黙の中に、三澤沙織が立ち、生徒達に語りかけている姿が見えた。
(副生徒会長の彼女が、うまく空気をつないでいるな)
高岩は心の中でそう呟き、ゆっくりとドアを開けた。
生徒達の視線が一斉にこちらに向く。
教室に漂っていた重たい空気が、少しだけ緩む。
「少しだけ時間をくれないか?」
黒板の前に立った高岩は、チョークで大きく「林先生」と書いた。
その下に二本の矢印を引く。
「皆は今朝の林先生をどう感じたかな?」
最初に口を開いたのは、泣いていた女子だった。
震える声で言う。
「怖かったです。でも、嫌いじゃないです。」
それを受けて男子が言う。
「俺は恥ずかしかったです。校長にあんな言い方して…。大人げないって思いました。」
別の女子がすぐに返す。
「でも、うちらのこと考えてくれたんだと思う。何も言わないよりマシでしょ。」
意見は割れたまま。
その瞬間、沙織が再び声を上げる。
「あの、さ。先生はかなり間違ったかもしれない。でも先生が自分達のために声を出したことも事実。だから、私達自身がどう思うか、ちゃんと考えなきゃいけないんじゃないかな。」
高岩はチョークで黒板にもう一つ大きく書いた。
「自分」。
そして言った。
「林先生は未熟なところもあった。でも、君達のために声を上げたのも事実。大事なのは君達がどう受け止めるかなんだ。他人の評価じゃなく、自分の心で。」
その言葉に、生徒達の視線が揺れる。
沙織がうなずき、誰かが勇気を得たように顔を上げた。
―――
その夜。
林は自宅の机に突っ伏していた。
その時、スマホに一通のメッセージが届く。
送り主は三澤沙織、副生徒会長だった。
『先生、今回のこと、私はちゃんと考えます。怖い気持ちもあったけど、先生の言葉に救われた生徒もいたと思う。だから、私達に考える時間をください。』
林の目から涙がこぼれた。机に額を押し付け、かすかに笑う。
「俺は、まだやれるのか。」
―――
翌日の5時間目。
教室に張りつめた緊張は、まだ溶けていなかった。
朝のSHR以来、林康二の姿をまともに見られない生徒も多い。
そんな中、林は静かに教壇に立った。
手に持っているのは、いつもの教科書ではなく、一冊のノートだけ。
「今日は、予定していた現代社会の授業をやめます。」
生徒達の視線が揺れる。
林はゆっくりと黒板にチョークで大きく二文字を書いた。
『謝罪』
「今回のことを、もう一度一緒に考えてほしいんだ。」
林の声は強くはなかった。
その静けさが、かえって生徒達の心を掴んだ。
「君達を前にして、先生は校長に謝ってほしいと強く求めた。あのとき、僕は君達を守るためだと信じてた。しかし、結果はどうだったのか?」
前列の女子が息を呑む。
泣いてしまった生徒も、俯いたまま耳を傾けている。
「怖い思いをさせた人がいる。恥ずかしいと思った人もいる。一方で、守られたと感じた人もいた。じゃあ、謝罪とは誰のためにあるんだろう。」
林は問いかけ、教室を見渡した。
沈黙。
やがて手を挙げたのは、副生徒会長の三澤沙織だった。
「謝罪って、相手のためでもあるけど、自分のためでもあると思います。」
「自分のため?」
林が促す。
「はい。だって、謝らないままだと、相手も自分も前に進めない。昨日の校長先生も、林先生も、そして私達も。誰も前に進めなかったでしょ?」
沙織の言葉に、生徒たちの目が一斉に揺れた。
林は深く頷く。
「そうだな。先生は君達を守ると言いながら、結局は自分の正義にしがみついていたのかもしれないな。」
黒板に新しく「相手」「自分」と書き、その間に大きな線を引いた。
「謝罪とは、どちらか一方のためだけにあるんじゃない。お互いが次に進むための橋なんだと思う。」
後列の男子が手を挙げた。
「でも先生、謝るって負けるってことじゃないですか?」
林は首を横に振った。
「謝るのは負けることじゃない。関係を壊さないっていう強さなんだ。」
別の女子が声を重ねる。
「私は怖かった。でも、先生が謝ってくれたら、たぶん信じられると思う。」
教室に小さな頷きが広がっていく。
そして林は素直にこう生徒達に言った。
「本当にすまなかった。」
そして続けた。
「じゃあ、授業に戻ろうか?」
―――
その様子を廊下から見守っていた高岩は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
林先生は未熟だ。
しかし、今は確かに生徒達と同じ場所に立とうとしていた。
謝罪を教えるのではなく、自ら問い直している。
(これこそが教育だよな。俺も、逃げずに生徒達に向き合わなきゃな)
心の中でそうつぶやきながら、高岩は静かに教室のドアを閉めた。
―――
1週間後、職員室の空気は重かった。
教育委員会から正式な通知が届いたのだ。
林康二、減給一か月の懲戒処分。
そして校長には、文書訓告。
通知を読み上げた東海林教頭の声は冷静だった。
だが、聞く者の胸に残るのは冷たさではなく、現実の重み。職員室の隅で林は、静かに頭を垂れていた。
「申し訳ありませんでした。」
その声に、田中学年主任は頷いた。
「林先生、これで終わりじゃないぞ。教師は失敗から学ぶ生き物だしな。」
東海林も表情を崩さずに付け加えた。
「林先生がどう変わるかを、生徒も我々も見ていますよ。」
―――
その日の放課後。
3年4組の教室には、生徒達が残っていた。
副生徒会長の三澤沙織が前に立ち、黒板に「謝罪から学ぶこと」と書く。
林は教壇に立たず、最後列に座って彼らの話を聞いている。
「私は林先生に謝られて、うれしかった。ちゃんと向き合おうとしてくれてる気持ちがわかったから。」
「俺はまだ少し恥ずかしいと思う。でも、それも含めて本気だったんだなってそう思う。」
「謝るって、負けることじゃないんだなって、やっと分かったよ。」
言葉はぎこちなかったが、それぞれが自分の言葉で語っている。
沙織が最後にまとめる。
「先生が間違えたのも事実。でも、私達も、どう受け止めるかを考えることができたよね。だからこれは、クラスみんなで乗り越えたことにしたいな。」
林の胸に熱いものがこみ上げた。
頬に涙が伝うのを止められなかった。
「あ〜れ〜?先生泣いとるん〜?」
「こら、大人をからかうんじゃない。」
「全校のみーなさーん!林先生が泣いていまーーす。」
クラスには暖かい陽だまりに包まれていた。
廊下の窓際で、高岩洋平はその様子を見守っていた。林が涙を拭い、生徒たちが頷いている光景。それは、彼にとっても忘れがたい瞬間だった。
高岩は深く息を吸い、窓から差し込む夕陽を見上げた。
―――
翌朝。
3年4組の教室。
林が教壇に立つと、生徒達は一斉に立ち上がり、声を合わせた。
「おはようございます!」
その声は、昨日までとは違って聞こえる。
林の胸に、静かな決意が芽生える。
(俺はもう一度、生徒達の前に立つ。間違えても、謝っても、教師として立ち上がり続ける。)
その決意を、廊下から見ていた高岩もまた、自分の心に刻んでいた。
「守ること」と「導くこと」。
そのどちらも、教師にしかできない宿命なのだと。
その頃、3年2組の教室。
誰かが声を上げた。
「またかよ。」
掲示板の端に、一枚の紙が貼られてる。
コピー用紙に、太い黒マジックで殴り書きされた文字。
【裏切り者 見つけた】
教室のざわめきが、一瞬にして凍りつく。
誰が貼ったのか、いつ貼られたのか。
誰にも分からない。
(次は誰なの?)
次の標的を探すように、互いの視線が交錯する。
高岩が教室に入ってきた瞬間、その紙に目を留めた。
胸の奥に、冷たいものが走る。
(一体誰が?)
それぞれの生徒の鼓動が高鳴る。
その中で1人の女子生徒が怯えていた。
まだその時は誰も知るよしはなかった。