見えない線の向こう
二月下旬の雨上がり。
「ありがとう」の二階、畳の宴会席には冷えた空気と湯気が共存していた。
湯飲みの口へ立ちのぼる白い湯気はすぐに消えるのに、胸に詰まる重さだけが消えない。
最初に沈黙を破ったのは高岩。
「まず、ここまで辿り着いた君達を誇りに思う。よくやった。」
その声に、ざわめきが一瞬だけ収まる。
「けれど、これはもう学生の範囲を超えているんだ。危険すぎる。線引きは教師が決めると言ったと思う。ここから先は大人の責任で進めたいんだ。」
「は?」
川崎が眉を跳ね上げる。
「俺らが汗かいて集めたネタだぞ。全部、任せろの一言で取り上げんのかよ。」
「それはそう。青春、返して?って感じなんだけど。」
Coconaが軽口を叩いた瞬間、Reicoが肘で小突いて黙らせた。
ふざけた言葉の裏で、彼女の目だけが湿っている。
藤田玲奈が前のめりになる。
「先生、私達がどれだけ怖かったか分かりますか?昼休みに教室へ戻るのが怖い日だってありました。貼り紙、噂…。でもそれでも調べたのは、ここで終わらせたかったからです。」
村上啓太がうなずき、拳を握る。
「俺達、もう引き返せないとこまで来てるんだよ。中途半端に任せろとか言われても、正直、納得できません!」
矢口は椅子の背にもたれ、天井を見た。
「会長だって腹くくって喋ったろ。俺らも同じ。ここで先生にストップって言われて止まれんの?」
高岩は正面から受け止めた。声を荒げない。
「分かってる。君達の努力は、先生達大人が簡単に追いつけるものじゃない。だからこそ言うんだ。卒業まで、あとすこし。君達の3年間を、ここで終わらせないために先生が前に出るだけだよ。」
「卒業…。」
沙織が小さく復唱して、視線を落とした。
彼女の手帳には、3月のカレンダーに付箋がいくつも貼られている。
色とりどりの付箋は、予定と願いを同じ色で誤魔化すための小さな嘘みたいだった。
駒沢が耳に髪をかけ、ノートを閉じる。
柔らかな声が宴会席の角にまで染み込む。
「実はね、廃校の話が出てるの。来年度の入学希望者はゼロ。教育委員会は統合という言い方を選んでいるけれど、実質は閉じる準備。だからこそ、ここで止めたい。君達の最後の春を、なくしたくないの。」
早川が不安そうに言う。
「それって、俺らに止められんの?」
「止められるかどうかは、正直わからないけど、希望は薄いかもね。」
駒沢は目を細める。
「君達が見つけた事実は、私たちが行政に、警察に、責任を持ってつなぐ。線引きは私達がやる。約束する。」
玲奈が唇を噛みしめた。
「でも、先生。私達が動いたから見えたものがあるんです。大人には届かないところも、学生だからこそ入れた場所も。それを、置いていくのが怖いんです。」
「置いていかないよ。」
高岩はゆっくり首を振る。
「置いていかない。その代わり任せてほしい。君達が集めたピースは全部、先生達が受け取って、責任を背負う。」
義一が静かに手を挙げ、皆の視線を集めた。
「僕は、嘘をつき続けてきた。瞬に背負わせて、皆にも迷惑をかけた。だから、せめて最後の線は大人に引いてほしい。僕が言える立場じゃないけど、卒業、ちゃんとしたいんだ。逃げじゃなく、胸を張って。」
義一が立ち上がり、高岩の近くに座る。
「これ、預かってください。」
それは布に包まれた問題のナイフ。
「彼らが捕まった時にこれを証拠として提出して欲しいんです。あと、僕が間違った使い方をしない為にも。」
「わかった。ちゃんと大事に保管するよ。」
瞬は兄の肩にそっと触れた。
「それでこそ兄貴だ。俺も。卒業した兄貴と一緒に教室から校門を出たい。みんなもそうだろ?」
川崎は舌打ちしてそっぽを向いた。
「言いてーことは分かんだよ。けどさ、任せた結果、また大人の都合で、なかったことにされんの、マジでムリだぜ?」
その時、階段の方から重たい足音が近づき、暖簾の隙間から南條が顔を出した。
「お前ら、声が硬いな。飯、冷めるぞ。洋ちゃん。さっき役場の客が話すのを聞いたんだけどな。お偉方が視察とか抜かしてたってよ。『安全配慮』ってやつらしい。」
「今、ですか?」
駒沢が目を見開く。
「明日らしいな。昼に校内を軽く見て回るだけ、だとよ。」
南條は肩を竦める。
「廃校に向けて外堀埋めてんだろ。事件続きで危険な学校ってタグを貼るのは簡単だ。だから、余計な火種は出すなよ。お前らのことを言ってんだ。」
矢口が立ち上がりかけたのを、玲奈が袖を引いて止めた。
「火種は、もう十分だよ…。」
場の熱がいったん落ち着く。
高岩は深く頷いた。
「分かった。明日は先生と駒沢先生で対応する。今夜やるべきは、手際よく、確実に橋を架けること。」
「橋?」
啓太が問い返す。
「君達の情報を、私達が使える形に変える橋ってことですよね?」
駒沢が答え、ノートを開き直す。
「みんなが、ちゃんと私達がしてる事か見えるようにするためにSNSでグループを作るね。それなら安心でしょ?」
「あと、写真とか共有できますね。」
鈴木寛人が口を挟む。
「アルバムのデータ、Exifは? 現像所のスタンプはあったのか?」
瞬がうなずく。
「スマホで撮った複写があります。現像所の刻印は中村カラーって小さなハンコが裏にあったはずです。場所は、ここから、そんな遠くないはず。」
「よし。明日、私が確認してくるね。」
駒沢がメモに線を引いた。
「それからミニーさんだね。」
空気がわずかに強ばる。
Coconaが「出た、ディズ...」と言いかけてReicoに口を塞ぐ。
高岩は周囲を確かめてから、声を落とした。
「望月三二一。君達が鍵だと言っていた人。接触経路は?」
瞬がスマホを差し出す。
画面に、駄菓子屋の店主とやり取りしたメモ。
「最初は店で待ち伏せて、ファミレスで1度だけ話をしました。連絡先は、これ。彼女のほうから渡されました。」
玲奈が眉をひそめる。
「なんで、向こうから?」
「ただただ協力したいって。」
瞬は視線を落とした。
南條が鼻を鳴らす。
「で、そのミニーとやらにまた会うのか?」
「会うよ。」
高岩は迷いなく答えた。
「ただし、次は生徒じゃなく、教師が行くけどな。」
たちまち、反発のざわめきが広がる。
矢口が身を乗り出す。
「ちょっと待てよ。俺らが引っ張り出した線なんだぞ。横取り...」
「横取りじゃない!」
高岩は遮らない、ただ重ねた。
「命綱を、より太く丈夫にして持ち替えるだけだ。」
玲奈の視線が、コの字の向こうで小さく揺れた。
「そうだね。SNSで繋がってるし、ちゃんと見届けられるしね。」
駒沢は頷いて、柔らかく微笑んだ。
「見届けてほしい。ここにいる全員が見届け人。ただ、第一列は入れ替えさせてほしいの。大人が前に立つ。それが、卒業までの最短距離だから。」
「卒業、卒業ってさ…」
川崎がつぶやく。
「3年の先輩達の気持ちになれよ。俺らは余裕があるから言えるんだ。」
誰も笑わなかった。
2月の夜は、終わりの匂いがする。
梅の花の甘さと、冷えた鉄の匂いが同じ風に混ざっている。
「具体的な段取りを決める。」
高岩が立ち上がった。
「ミニーさんへの連絡役は...」
そこで、階段をあがる足音。
顔を見合わせる一同。
藤井一真と林康二が姿を見せた。
林はコートの襟を軽く押さえている。
二人とも、夜気を連れてきたみたいに頬が冷たい。
「失礼しまーす。」
林が会釈する。
「職員会議、さっき終わりました。」
藤井が続けた。
「校長から正式に、3年の担任団が情報受付窓口を務めるようにと。高岩、駒沢、俺、それから林で分担。君達のやってきたことは先生達が引き継ぐからな。」
「引き継ぐったって…。」
矢口が低く言う。
藤井はうなずいた。
「分かってる。だから誰から、何を、どの順で受け取るか、今ここで決めたいと思うんだが?」
駒沢が席を示した。
「ちょうど良かった。ミニーさんという女性の次の接触の話をしていたところです。連絡先は瞬くんが持ってます。」
林は即座にうなずいた。
「行きます。場所は向こうの指定です?」
「前回はファミレスで会いました。今回は場所はそちらが決めてと言われてます。」
藤井が腕を組む。
「なら、喫茶店がいいかな。個室じゃない、けど話のテンポが作れる。」
玲奈が顔を上げる。
「みやこは? あそこ、店主が真面目で、常連が多いけど詮索しない。席も離れてるし。」
南條が「お」と指を鳴らした。
「うちの仕入れ先の親父が昼メシで通ってる店だ。悪くない。場所は、みやこで決まりだな。」
高岩が段取りをまとめる。
「よし。明日の午前は役場の視察対応。午後、駒沢先生は現像所『中村カラー』でアルバム検証。藤井先生と林先生はみやこへ行ってください。」
「了解。」
その瞬間、テーブルの端で小さな爆ぜる音がした。
川崎が指先で箸袋を弾いた音だ。
「なあ。本当に、この席から降りんのか、俺ら。」
静かになった宴会席に、2月の冷気が忍び込んでくる。
誰もが分かっている。
降りることは負けじゃない。
けれど、悔しさは嘘をつけない。
鈴木寛人が立ち上がった。
「降りるんじゃない。渡すんだよ。俺達が見つけた細い橋を、先生達に太い橋にしてもらう。それで、3月にちゃんとこの階段を降りようぜ。全員で。」
玲奈は肩を震わせ、目元を拭った。
「3月、か。」
啓太が静かに言葉を足す。
「卒業式で、黒板の前で、普通にみんなでふざけたい。ただそれだけのために、ここに来たんだよ。」
Coconaが鼻をすすりながら笑う。
「やば。泣ける。青春、回収された。」
Reicoが小声で応じる。
「うるさい。でも、分かる」
高岩は頷き、改めて生徒たちを見渡した。
「確かに受け取ったからな。明日からは、先生達が前に立つ。」
視線が集まる。
そこへ、厨房から南條の大声。
「おい、飯、ほんとに冷めるぞ! カツ丼2つ、オムライス1つ、生姜焼き定食にアイス…って、誰だアイス頼んだのは。」
早川が目を逸らした。
「俺っす。」
笑いが小さく起きて、すぐにおさまった。
そのささやかな波紋だけで、張り詰めた空気が一枚薄く剥がれる。
会計を済ませる頃には、外の路地の水たまりに街灯が二重、三重に揺れていた。
階段を降りる途中、駒沢がふと立ち止まって振り返る。
「ねえ、瞬くん。ミニーさんへの連絡、今夜のうちに明日の夕方、喫茶店みやこでって入れておいてもらえる? 『あなたの話を、責任の取れる大人が聞きます』ってね。」
瞬はスマホを取り出し、短く頷いた。
「分かりました。俺から送ります。」
藤井が付け加える。
「俺と林先生で行くからなー。まかせとけ!」
玲奈が小さく笑った。
「先生、かっこつけ。」
「年季が違うからなー。」
藤井は肩をすくめた。
「じゃ、明日、みやこで。」
店を出ると、夜風が頬を撫でた。
2月下旬の匂い。
冬がまだ居座っているのに、路地のどこかで土がほどけ始めている。
その匂いに、卒業の2文字が、現実として近づいてくる。
生徒達は道の真ん中で立ち止まり、それぞれ別の方向へ歩き出した。
高岩は最後に、シャッターの閉まりかけた商店街を見渡してから、小さく息を吐いた。
絶対に解決してみせる。
その決意だけが、夜の冷たさに負けなかった。
―――
2月26日午前。
空気はまだ冬の冷たさを残していた。
校門の前に黒塗りの公用車が停まり、役場と教育委員会の職員が降り立つ。
灰色の雲の隙間から光がのぞき、ぬかるんだ校庭を照らした。
昇降口に並んでいたのは校長の根岸、教頭の東海林、そして三年担任団。
生活指導主任の田中と養護教諭の山田も後ろに控えていた。
教師達はそれぞれの胸に、香取ななみ、原口の死そして奈良の刺傷事件を抱えたまま、この日を迎えていた。
「本日はご足労いただきありがとうございます。」
根岸が深々と頭を下げる。
「来年度からの統合にあたり、最後の確認をとのことですか?」
先頭の教育委員会の職員が応じた。
「はい。安全上の懸念が繰り返し報告されております。事件も続きましたので、地域住民の不安を払拭するためにも視察が必要と判断いたしました。」
その言葉に、駒沢の肩がわずかに揺れる。
「生徒達の春を、これ以上奪わせたくない。」
その思いが喉の奥で渦巻くが、言葉にはならなかった。
一行は廊下を進む。
壁には未だに剥がし跡が残る掲示板。
噂の紙片が貼られていた場所だ。
職員の一人が指でその跡をなぞり、眉を寄せた。
「これが問題の…?」
藤井が前に出る。
「はい。しかしご覧のとおり、すでにすべて撤去し、再発防止の体制を取っています。」
職員達が顔を見合わせる。
そこには責める色だけでなく、苦悩を共有する影があった。
続いて2組の教室。
駒沢がドアを開けると、生徒達は静かに席に着いていた。
緊張で硬くなっている。
「どうぞ。」
駒沢の声も震えていた。
教育委員会の若い職員が、生徒に問いかける。
「皆さん、不安なことはありませんか?」
一瞬、沈黙。
鈴木寛人が小さく手を挙げた。
「僕達は、もう卒業まで少ししかありません。最後の日まで、普通に授業を受けて、普通に笑っていたいんです。」
その言葉に、職員の目が柔らかくなる。
「そうですね。できる限り、皆さんの時間を守れるようにします。」
視察団はさらに進む。
体育館、理科室、校庭。
どこに行っても事件の影が残っていた。
それぞれの現場を思い出し、教師達は黙って拳を握った。
最後に会議室に集まる。
机の上には各クラス担任から提出された資料が並んでいた。
事件記録、再発防止策、そして生徒の声をまとめたアンケート。
東海林教頭が説明する。
「確かに事件は多発しました。しかし、私達は決して隠蔽せず、一つ一つに対応してきました。3年の教諭達もを生徒達を守ろうと最後まで立ち続けました。その事実を、どうかご理解ください。」
職員の一人が深くうなずいた。
「承知しました。統合の決定は変わりませんが、今年度の卒業式は予定通りこの校舎で行われます。廃校の最後の卒業生という言葉が独り歩きしないよう、教育委員会としても最大限配慮します。」
高岩が静かに口を開く。
「ありがとうございます。どうか、彼らの3年間が葬式のように語られることのないように、何卒よろしくお願いします。」
「私達はそう配慮をするつもりでいます。しかし、この問題はまだ解決してないんですよ?犯人も捕まっていない。依然として危機感極まりない状況なんです。それをわかっていますか?私達が以下に配慮したところで...という話にならないようにくれぐれも祈ってますよ。」
会議室に沈黙が落ちる。
窓の外では、冬と春の境を告げる風が、校庭の砂をかすかに舞い上げていた。
教師達はその音を聞きながら、胸の奥で同じ決意を固めていた。
「最後の春を守り抜く」
それが、ここに残された大人の責任。
―――
翌日、午後。
古い商店街に風が吹き抜け、軒のスズラン灯が揺れる。
錆びの浮いたシャッターの隣に、色褪せた「中村カラー」の看板。
ガラス戸の向こうには、七五三の見本と、卒業アルバムのポスター。
駒沢は手袋を外し、戸を引いた。
現像液の匂いが、薄い金属音みたいに鼻の奥に刺さる。
カウンターの中で、白髪まじりの店主が顔を上げた。
「いらっしゃい。」
「あの、少しお時間よろしいでしょうか?」
駒沢は会釈し、アルバムの1枚を差し出す。
裏面に小さく押された中村カラーのスタンプ。
「この写真、こちらで現像されたものですよね?」
店主は眼鏡をかけ直し、うなずいた。
「んん...?たしかに、うちの印ですなぁ。ちょっと待って、受付台帳を見てみるから。」
カウンター脇から分厚い台帳が出てくる。
黄ばんだ紙に、細い字が並んでいる。
「ああ、あったあった。『中川』という名前で。」
駒沢は、喉の奥がひやりとした。
「内容は、覚えておられますか?」
「細かくは…。ただ、家族写真って雰囲気じゃなかったかな?普通は笑顔が画面の真ん中に来るもんですが、これは、なんと言うか...、不自然な感じだったなぁ。」
店主は、ライトボックスとルーペを持ってきた。
薄い光の上に、保存されていたネガの端切れをそっと置く。
「全部は残してないんだけどね。ネガ残ってたよ。」
「拝見しても?」
「店内限定だからね。内緒にしといてよ。」
ルーペを目に当て、駒沢は息を詰めた。
同じ顔が2つ。
肩の高さがわずかに違うが、目元も口の形も同じ。3人ではなく2人。
「2人だけ?」
自分の声が、思ったよりも小さかった。
しかし指先が止まったのは、そこではない。
画面の奥、背景の壁に紙が貼られている。
いくつかの枠には「体育館」「プール」「部室棟」のような文字が見える。
ネガの文字は左右が反転していて読みにくい。
駒沢は眉間に力を入れ、文字を追った。
店主が気づいて言う。
「試し焼きしようか?小さく出せば、文字は読めるからさ。」
「え?いいんですか?お願いします。」
「もちろん。だけど、料金は貰うよ。その方が気が楽だろ?」
店主はミニラボの前に立ち、素早く操作した。
数分ののち、L判より少し大きいテストプリントが吐き出される。
白い縁に囲まれた画面は、ネガの反転を正したぶんだけ、急に現実味を帯びた。
2人の少年が並んでいる。
その背後に、2人の大人。
1人は白っぽい衣服をまとい、正面を見据えている。
もう1人は無表情で腕を組み、2人の肩越しを斜めに見ている。
そして壁の紙。
赤ペンで囲われた敷地図。
角に小さく「施設予定地」の文字。
図中の枠には「校舎A」「校舎B」「体育館」「プール」。
学校の配置図だ。
どこの学校かまでは読めない。
しかし、これは学校の図にしか見えない。
(なぜ、これが?)
駒沢は、テーブルの縁を軽く握った。
「この写真、どなたが撮ったかは?」
「そこまでは。依頼書には中川の名字だけ。」
駒沢は無意識に、テストプリントの余白へ視線を落とす。
プリンタの端に、小さく時刻が印字されている。
(配置図。施設予定地。2人。背後の2人。なんの計画?)
店主が言う。
「お客さん。これは、家のアルバムに入れる類いの写真じゃないよ。資料を写したみたいで、正直、気味が悪かった。だから覚えていたのかもな。」
駒沢は深々と頭を下げる。
「どうか、このプリントを貰えませんか?」
店主は渋い顔をして腕を組む。
「このネガは保管品だよ?持ち出しも禁止。閲覧だけって決まりでしてね。」
「分かっています。ただ、教え子たちの安全に関わるんです。責任は、私が取りますから。」
「教え子?あんた先生なの?」
「はい。近くの高校の。うちの高校のニュースは知ってますよね?」
「あ〜。あれは酷いな...。」
しばしの沈黙ののち、店主はため息をついた。
「分かりました。特別にお渡しします。教育委員会に提出する参考の写真ってことていいかな?」
「はい!ありがとうございます!」
「どうせなら、もう少し大きく現像してあげよう。」
駒沢は震える指で受け取り、目を凝らす。
背後に立つ2人の大人。
どちらも見覚えはない。けれど、2人を囲む立ち位置にいることが不気味だった。
さらに壁。
貼られた紙に赤ペンで囲まれた敷地図。
「施設予定地」と殴り書きされている。
体育館、校舎、部室棟。
間違いなく学校の図面。
駒沢の喉が詰まる。
「まさか...。うちの学校?」
―――
外へ出るとスマホを取り出し、高岩へ短いメッセージを打つ。
〈中村カラーで重要な写真を1枚貰えました。〉
即座の返信で返ってくる。
〈了解。15分後、駅前の横断歩道で。〉
待ち合わせの角で、赤信号が濡れたアスファルトに滲んでいる。
高岩はコートの襟を立て、駒沢の封筒へ視線を落とした。
「見せて。」
駒沢は周囲を一瞥し、封筒の口をわずかに開いた。
高岩は深く息を吸い、短く吐く。
「この2人は?」
「誰かは分かりません。でも、この図面の文字は読めました。施設予定地。校内配置の語彙もあります。『体育館』『プール』。これはあきらかに学校の図面ですね。」
「廃校の噂と関係があるのかな?」
高岩の声が低くなる。
「奈良会長から聞いた中川の線をたどるしかないな。会長の親なら、この写真の背景を知ってるかもしれない。いってみようか?」
「え?奈良家へ?」
「そうだよ。家庭訪問として。名目は瞬君の進路相談でいい。写真は、あくまで確認ってことで。」
頷き合い、足を速める。
―――
奈良家の玄関は、磨かれた金具がくぐもった光を返している。
チャイムを鳴らす。
エプロン姿の美香子が、笑顔で2人を迎えた。
髪はまとめられ、襟元はきちんと整えられている。
リビングへ通され、湯気の立つ味噌汁、角の揃った箸、しわひとつないクロス。
完璧な主婦の所作が、部屋の空気を磨いていた。
「夜分にすみません。瞬君の進路と生活の確認でして。」
高岩が穏やかに切り出す。
「あの事件から、あの子たち、よくやってると思います。」
微笑は揺れない。
駒沢は封筒に触れ、深呼吸した。
「少し、過去のお話も伺えますか。お子さんの安全のために。」
笑みの奥で、瞳がほんの一瞬だけ泳ぐ。
「ええ。もちろんです。」
高岩は、逃げ道を残す声の温度で言った。
「否定も責めもしません。ただ、事実だけが必要です。」
駒沢は封筒を開き、テーブルの中央へそっと1枚を滑らせた。
光沢紙が静かに横たわる。
2人の少年。背後の2人。壁の図面。
美香子の呼吸が、目に見えないほど浅くなった。
「...どうしてこれを?」
「それはお答えできないんです。」
駒沢は静かに言う。
「義一君達に、ご家庭のことを聞きました。虐待があったことも、『中川』という人物がこの家に住んでいた時期があることも。」
美香子の指が、膝の上でわずかに強張った。
笑みは保たれ、声だけが低くなる。
「…事実です。叩いたことも、ご飯を抜いたことも。認めます。」
駒沢は頷き、問いを重ねる。
「中川さんは、ここに住んでいましたね?」
「はい。」
短い音節。隠すことも、装うこともできない硬さがあった。
「しばらく、ここにいた事があります。」
「この写真の背後の2人は誰ですか?」
美香子は写真をじっと見た。
沈黙が室内の温度を下げる。
やがて、乾いた喉を湿らせるように言葉が落ちる。
「片方は、元夫です。もう片方は、教団の教祖。元夫の父です。」
駒沢の背筋を冷たい電流が走る。
高岩は、目だけで頷いた。
「この図面の施設予定地という文字。学校の敷地を、施設に変える計画がある、という理解でいいですか?」
美香子はわずかに顔を上げ、また下げた。
「これは昔の写真ですよ?その逆です。施設予定地だったのに、学校が建てられた。経緯はわかりません。」
「確かにそうですよね...。」
高岩は首をかしげる。
「この写真のヒントとなる何かが欲しかったんですが...。中川君のことを少し教えて貰ってもよろしいですか?」
美香子の肩が、一度だけ小さく震えた。
「わたしは15歳で妊娠したんです。親には当然、おろせと言われました。でも、元夫の親は反対しなかったんです。私は元夫の親の元へ逃げました。その親は、私に産むまで世間体が悪いから沖縄へ行けって言ったんです。旅費も生活費も渡されました。なんて言うか、変な家でした。薄々、宗教の家だって分かってましたけどね。」
言葉は次第に滑らかに、しかし重く続く。
「向こうで検診を受けたら、3つ子だって言われました。その時に、あの家に私の子が染まっていくのを想像したら怖くなって、宮崎に逃げたんです。そこで3人を産みました。」
「暫くは施設にお世話になったかな。3歳になった時、見つかってしまいました。2人と私は連れ戻されて、有一郎はその時に遊びに行っていて施設に残される形になりました。」
「その時に名前をバレないように変えました。有二郎が優、有三郎が仁に。私は決してその秘密を今日まで言わなかった。」
「そこからは、モラハラと洗脳。召使いみたいな生活でした。私は必死の思いで逃げました。2人はさぞ、見捨てた私のことを恨んたんじゃないかと思います。」
指が震え、湯呑の縁を撫でる。
「それから別の男と結婚して義一と瞬を産みました。しばらくは平和でした。夫が浮気して別れてから、違う男に頼る生活になった。ひとりで2人を育てる力なんて、なかったから。」
駒沢は息を飲み、控えめに尋ねた。
「中川さんと義一君達は腹違いの兄弟ということになりますね。」
美香子は小さく頷いた。
「私が荒れてる頃に、あの子は現れた。私を戒めるかのように。」
沈黙が落ちた。
ストーブの消えた部屋に、冷たい風が入り込む。
「それからは、逆でした。」
美香子は続けた。
「義一や瞬に手を上げようとすれば、殴られるのは私。男を連れてくれば、有一郎が男を殴り追い返す。あの子は、弟を守ってた。兄として。あの子が親みたいだったんです。」
駒沢の声がかすかに震える。
「奈良さん、その時に中川さんが息子だって言うことは?」
「最初は気づかなかったの。」
「あの子は、あの頃の救いでもあったんです。だって、あの家で初めて止まる瞬間があったんですからね。ちょっとしてから気づいたの。顔が私と似てるって。あれは、私の子なんだってね。でも、気づかないふりをしたんです。気づいたら、もうどうしようもなくなるから。」
高岩は深く息を吐き、言葉を選ぶ。
「中川という名はどこから来たんです?」
「私の実家の名前です。奈良は2番目の夫の苗字です。その方が私には都合が良かったんです。」
美香子は淡々と告げる。
感情を抑えるほど、言葉が鋭くなる。
「やり方は間違ってたかもしれません。でも、中川君は家の中の父親みたいに振る舞ったんですね。良い意味でも、悪い意味でも」
部屋の湯気が細くなり、湯呑の表面に薄い膜が張る。
「あなた達に忠告します。関わるとろくなことないですよ?」
美香子は吐き捨てるように言った。
「有一郎は、私なんかよりずっと大人でした。弟を守るためなら、母親でも殴れる。そういう子でした。」
「だから、義一も瞬も、強くなれた。あの子がいたから。」
六畳の部屋に沈黙が降りた。
遠くで誰かの笑い声が団地の壁を薄く震わせる。
高岩はようやく言葉を絞り出した。
「ありがとうございます。今のお話、重く受け止めます。」
駒沢は深く頭を下げた。
「もし、何か動きがあれば、お知らせください。」
美香子はうつむき、返事をしなかった。
完璧な笑みは、最後まで崩さない。
それが、この家をかろうじて保ってきた仮面であり、盾でもあったのだろう。
玄関を出たあと、ふたりは何も言わず並んで歩いた。
あの家の中で生まれたねじれた愛情も、痛みも、これからの人生の中で、あの子達自身が意味を変えていく。
誰も救えないかもしれない。
それでも、見てくれていた大人がいたという記憶はきっと、いつかの心の灯火になる。
それが、教師としてできる最後の仕事。




