生徒会長の弟 ① 【番外編】
最初に覚えているにおいは、湿った畳のにおい。
団地の六畳。
ちゃぶ台の上には惣菜パックの透明なふたが二枚、ベタつく指紋。
テレビはずっとつけっぱなし。
母は画面の笑い声に合わせて煙草をくゆらせ、こちらを見ない。
ここで誰かが誰かを呼ぶときの声は、だいたい短く、強く、痛かった。
俺の隣には兄がいた。
家族の形が人によって違うことを知る前から、俺の中ではもう答えは決まっていた。
親という言葉の枠に母は入らない。
俺の親は兄だ。
食べ物、寝る場所、学校への連絡、殴られたあとに氷を当てるタイミング。
ぜんぶ兄が先に動く。
俺はあとからついていく。
夜、腹が鳴って眠れないとき、兄は小声で「明日、なんとかするからね。」と言った。
明日という言葉が、当てにならないことを俺が1番よく知ってる。
それでも兄が言う明日は、信用できた。
次の日のことを、今でもはっきり覚えている。
兄が駄菓子屋の角から出てきて、銀紙の包みを俺に手渡してきた。
あの生活で、チョコなんて手に入るはずなんてない。
子供の自分には、それがどこから来たのかなんて考えもしなかった。
ただ魔法みたいに、突然目の前に現れたんだと思った。
包み紙は夕暮れの光を反射して、やけにまぶしい。
かじったときに歯にまとわりつく甘さも、全て幸せだった。
今ならわかる。
あれは兄が盗んできたもの。
それから兄は、持ち帰るものを少しずつ増やしていった。
パン、惣菜、牛乳。
成長盛りの俺達にとって、満腹になることはない。
もっと欲しいと兄にねだった時、
それから兄は、持ち帰るものを少しずつ増やしていった。
パン、惣菜、牛乳。
成長期の俺達に、満腹なんてなかった。
もっと欲しいと兄にねだったとき、 兄はこう言った。
「欲しがりすぎると、魔法ってなくなるんだ。」
その言葉は、本当の決まりごとのように聞こえた。
だから俺は黙ってうなずいた。
胸の奥には、不思議な誇らしさが芽生えた。
兄がいなければ、あの頃の俺は生きていけなかったのだから。
母は夜になると、知らない男を連れてくる。
笑い声と足音とドアの音が、心を不安にさせた。
幼い俺には、それが悪魔にしか見えなかった。
影の中で兄の袖を握りながら、 兄の魔法を待った。
けれどわかったんだ。
あの魔法は、大人には通じない。
兄は魔法使いのままだったけど、 悪魔を追い払う力は持っていない。
その時、ヒーローは現れた。
母の連れが腕を振り上げ、兄に殴りかかろうとした瞬間。
俺は怖くて、思わず目をつぶった。
鈍い音。
母のうめき声。
そっと目を開けると、兄の顔がいつもと違っていた。
悪魔が倒れていたからだ。
影の中から声がした。
まっすぐ兄に向かって、
「弟をよく守ったな。偉いぞ」
それは、まさしくヒーローの言葉。
この家で誰かを認める声を初めて聞いた。
兄の肩から力が抜けていく。
俺の胸に広がったのは、怖さじゃない。
ヒーローに出会えたんだ、という高鳴り。
そして俺は知る。
兄の魔法では届かない世界に、大人に効く魔法を持つヒーローがいるのだと。
それから、ときどきヒーローは現れるようになった。
台所に食べ物が増え、冷蔵庫には知らない色のジュースが並ぶ。
はじめて見る缶のきらめきは、俺には宝物みたいに思えた。
母は、声を張り上げる側から、叱られる側へと変わった。
殴られてうずくまるたびに、ゲームのキャラクターみたいに経験値を得て、レベルアップしたように思った。
そして、兄の表情が少しだけ緩むのを確認する。
それで十分だった。
―――
小学校では、俺は「義一の弟」と呼ばれたが、嫌ではなかった。
名前よりも先に兄の肩書で覚えられることに、むしろ安心を感じる。
兄が褒められるたび、胸のあたりがすっと軽くなる。
俺は兄の作った道の上を歩けばいい。
自分から前に出る必要はない。
ある日の帰り道。
外階段の踊り場で、ヒーローが言った。
「強い風は、前に立つ者に吹く」
その意味は当時、理解するには難しい。
でも胸の中に響いて、ずっと離れなかった。
兄は前で声を張る人になっていく。
なら俺は、後ろで兄を支えたい。
そう思うのに、もう迷いはなかった。
兄のおかげで俺は生きていられたから。
―――
母は朝になると外へ出かけていく。
ヒーローの指令で風俗という場所で働かされている。
「2人が帰ってくるまでに戻ること。そのときは完璧な主婦になならないと許さない。」
だから母は夕方には帰ってきて、エプロンをつけて台所に立ち、笑顔を作って食事を並べる。
それが呪文の効き目だと、俺は疑わなかった。
同じ学年のやつらにも事情はいろいろある。
幸せな話、深刻な話を同級生から聞いても心は揺れなかった。
比べたところで、うちの夕飯が増えるわけじゃない。
―――
小学校の帰り、俺は駄菓子屋に寄れるようになった。
母が完璧な主婦を演じるようになってから、お小遣いを渡されることが増えたから。
ポケットの小銭で菓子パンやジュースを買う。
さらに、携帯まで持たされるようになった。
画面の地図に小さな点が光っていて、GPSで繋がっている。
俺には魔法の道具のように見えた。
家に戻れば、台所は片づき、鍋は洗って伏せられ、食卓には湯気の立つ味噌汁。
母は笑顔で食器を並べている。
完璧すぎて、逆に現実味がない。
そのとき、ヒーローが現れた。
俺を優しい目で見つめる。
「ふふ。前に立つ人がいれば、後ろにはゴミが散乱するんだよ。書き込みや噂も残るんだ。それを誰が片づけるのか、決めておかないとね〜。」
問いは俺に向いていた。
兄の顔が頭に浮かんだけど、飲み込んだ。
「俺がやるに決まってるじゃん。」
自然に出た一言。
決意というより、恩返し。
けれど、その言葉に合わせて、これからの俺の動きは形づくられていった。
―――
学校での兄はいつも目立っていた。
行事の司会も、代表のあいさつも、学級の揉め事の仲裁も、だいたい兄の役目。
前に立つときの兄の声には、変な力みがない。
俺の役目は別。
昼休みや帰り道で耳に入った噂を、兄に伝えること。
誰が誰と揉めているか、誰が先生に不満を持っているか、誰が兄を良く言い、誰が陰で悪く言っているか。
それを事前に知らせておけば、兄は自然に立ち回ることができた。
俺がいちいち口を挟む必要はない。
ただ報告するだけで、兄の前から余計なノイズは消えていった。
そうして兄は人の前に立つことが増えていく。
その頃、ヒーローが時々、短い言葉を残してくれた。
「角度」
「間合い」
「受け場」
俺には、兄の影で動くための言葉に思えた。
角度は、立つ場所。
間合いは、声をかけるタイミング。
受け場は、兄に向かう矛先を先に受け止めて流すこと。
短い言葉に名前がつくだけで、自分の役割が少しはっきりした
―――
夏前、クラスで変な噂が立つ。
「奈良んち、夜うるさいんだってよ。」
もちろん、そんな事実はない。
ただ、兄が目立つ分、周りは勝手に裏を作りたがった。
昼間は完璧な主婦を演じる母の姿も、子供達には逆に作り物に見えたのだろう。
俺は噂の出どころを探した。
広めていたやつは、ちょうど忘れ物を繰り返していた。
体操服、課題、カード。
俺は担任の机に短いメモを置いた。
「本人が困っているみたいです。確認をしてください。」
名前も出さず、ただ事実だけを運ぶ。
兄が正面から否定しなくてもいいように。
―――
小学校の最後の学期。
体育館での全体集会で、兄が前に立って話をしていた。
内容はもう覚えていない。
ただ、裏口のドアが開け放たれていて、風がステージの幕を揺らしていた。
兄の声に余計な雑音が混ざるのが嫌だった。
だから俺は裏口を閉め、重りをかけ、幕の端を押さえた。
誰にも気づかれないように。
廊下の端でヒーローがこちらを見て、うなずいた。
その一度のうなずきで分かった。
これも兄の舞台を守るための仕事なんだ、と。
俺の中の基準が、その瞬間に固まった。
卒業式の朝。
兄は鏡の前で制服の襟を直す。
背中は真っすぐで、折れそうには見えなかった。
母の姿は式にはみえない。
完璧な主婦を演じるのは家の中だけ。
学校の行事にまでは、その呪文は届かない。
体育館の風はよく通る。
紙は必ずめくれる。
だから俺は花飾りの余りのリボンを一本もらい、兄の原稿の角をまとめた。
ヒーローとの約束。
兄が前に立つとき、余計なノイズは俺が消す。
そして、それを誰にも言わない。
気づかれないまま終わること。
それは兄への恩返し。
あの頃、兄は魔法を使うヒーローのように俺を守ってくれた。
その温かさがあったから、俺はここにいられる。
「兄ちゃん。卒業おめでとう。そして、ありがとう。」
―――
中学に上がる前の春、外階段で兄と並んで座った。
夕方の風が団地の角を回ってくる。
向かいの棟のベランダから、夕飯の匂いが漂ってきた。
兄は何も言わず、ただ空を見ている。
俺も隣で同じように座っていた。
そのとき、一度だけ心の中で言葉をつけた。
兄は光、俺は影。
声に出すことはしない。
兄に聞かせるものでもない。
胸の奥にしまったままの方が、ずっと強い呪文になる気がした。
春休みの最後、ヒーローがまた現れた。
「ふふ… 間に入るやつはね〜、姿を出さなくていいんだ。大事なのは、あとをきれいにしておくこと。」
俺はうなずいた。
「あとって?」
「音とか、紙とか、場所とか、時間とかさ。そういうのを整えておけばいいんだよ」
「4つ?」
「ふふ… そう、4つに見せればいい。ほんとは3つで足りるんだ。1つはわざと残しておくといいんだよ。か〜ら〜の〜、余白ね〜。」
ヒーローはそう言って、軽く手を振りながら階段を降りていった。
その少しあと、兄が学用品を買いに行った時。
帰り道に商店街の角で、見知らぬ上級生3人に財布を狙われた。
兄は逃げなかった。
言葉を返しながら時間を稼いでいる。
俺は少し離れた場所で携帯を取り出し、交番に電話した。
親に頼る選択肢は、最初からない。
数分後、制服の警官が駆けつけ、上級生達は顔色を変える。
兄の声と、俺の手。
どちらか一方だけでは収まらなかったはず。
そのとき思った。
ヒーローの言った「余白」って、全部を自分ひとりで埋めないことなんだ。
兄が声で時間を作り、俺がその隙に動く。
空いたところを別の力が埋める。
そうやって形になるんだと。
―――
だけど...。
俺はヒーローにはなれない。
器ではなかったのかもしれない。
第1に、選ばれていない。
だから俺は違う居場所をつくった。
団地の空き地や階段下に集まる近所の子供。
学校で浮いて、行き場をなくしたやつ。
そういう連中とつるみ、笑い合い、公園を自分達の城にした。
その中で、俺は兄貴分になった。
「しゅんが言うなら」と誰かが笑いながらついてくる。
それが嬉しかった。
居場所はできた。
だけど、心の奥では知っている。
ここでどれだけ兄貴分を気取っても、俺は本物のヒーローにはなれない。
お山の大将とは俺の事かもしれない。
夏になって、団地のエレベーターでヒーローと鉢合わせた。
そして俺に向けて、いつも通りの短い言葉。
「ふふ… 。前に出るやつの足を引っ張るのはね〜、だいたい身内か味方なんだよ。敵は外にいるように見えるけど、外は目立つからすぐわかる。ほんとに怖いのは中。見えない方を整えておくんだ。」
―――
中学に進むにつれて、外の空気が一気に広がる。
校舎の窓から見える景色は、小学校のときよりも遠くまで抜けていて、見たことのない街の色が、じわじわと俺の胸を刺す。
兄は相変わらず真っすぐ前に立つ人間。
学級委員、生徒会、行事の代表。
声を上げればみんなが静かになり、拍手が集まる。
俺はといえば、教室の隅で机に突っ伏しながら、窓の外の風景をただ眺めている。
魔法はもう消えた。
ヒーローもいない。
残っているのは、熱を持った拳と、「あいつの声」だけ。
だけど夜、布団の中で息を殺すたびに思う。
これで兄を守れるのか?
あのままでは、義一はあいつに食われる。
俺はグレるしかなかった。
地域の不良グループに加わり、すぐにリーダー格になる。
報告、間合い、角度、受け場。
ヒーローから受け取った言葉は、喧嘩や立ち回りに役立つ。
仲間にとって俺の声は、いつの間にか「魔法」になっていた。
それでも胸の奥で繰り返す。
俺は兄貴を裏切らない。
不良になったのも、そのためだ。
あいつに食われるくらいなら、俺が先に悪に染まってでも、兄を守る。
―――
渋谷。
ネオンの光と、信号の赤が人の波を染める。
騒音が耳を突き抜け、心臓の鼓動を加速させる。
そこで出会ったのが、矢口優馬、早川進、川崎裕也。
地元も学校も違う。
けれど同じ匂いをまとっていた。
親から逃げ、教師から逃げ、それでもどこかで「正しさ」を捨てきれないやつら。
さらに、のCoconaとReico。
渋谷の路地裏で、夜を鮮やかに彩るように踊る彼女達。
笑い声は、危ういのに惹きつけられる魔力を持っていた。
「瞬ってさ、なんか他の人と違うよね〜。」
Coconaが煙草の煙の向こうから笑う。
「なんかさ、影みたい。目立たないけど、いつも誰かを動かしてるって感じ?」
Reicoの言葉に、俺は答えなかった。
女の勘ってやつ?
図星を突かれたように熱が広がる。
俺は影だ。
兄の光を守る影。
ヒーローでも魔法使いでもない。
それでも、この世界でやれることはある。
そう信じて、渋谷の夜に足を踏み入れた。
その選択が、やがて取り返しのつかない未来へ繋がっていくとも知らずに。
ネオンが滲む水たまりを踏みながら歩く。
夜風は排気ガスと煙草で重い。
俺達にはそれが普通。
「おい瞬、コンビニ寄んね?俺バイト代すぐ飛んで金ねーわ。」
矢口がポケットをひっくり返して、小銭を数えてる。
軽く笑ってるけど、財布の中はレシートしか入ってない。
「またスロでやったん?学習しろよ。」
早川が鼻で笑う。
小柄なのに声は刺さる。
「俺ん家なんか、母ちゃん寝てばっかで冷蔵庫スッカラカン。だから俺が動かね〜と誰も動かね〜し。けどさ、矢口は自分でスッカラカン作ってんだろ?」
「うっせーな。ギャンブルは男のロマンだろ?」
矢口が笑い飛ばす。
でもその笑い方は、どっか無理してる。
後ろで川崎がペットボトルを片手に、呟いた。
「ロマンとかどうでもいいわ。俺なんか、ロマンごと壊されたし。」
一瞬、空気が止まった。
矢口が咳払いして誤魔化す。
「ほら出たよ、サッカー選手様の闇語り。」
「闇とかじゃねーし。ただ、走る夢は消えたってだけやん。」
川崎はあっさり言うけど、握ったペットボトルが潰れそうなほど歪んでる。
Coconaが近づいてきて、煙を吐きながらニヤッと笑う。
「ねえアンタら、ほんっとポンコツばっか。でも不思議と一緒にいると安心すんの、なんでだろね〜。」
Reicoも肩を揺らして笑う。
「背負ってるもんデカいほど、夜の街じゃ目立たないんだよ。そういう奴らの方が逆に、信用できたりするっしょ。」
俺は何も言わなかった。
ただ、ポケットの奥で震えるスマホを握りながら思った。
そうだ、俺達はみんな何か抱えてる。
だから、この街で一緒に歩ける。
―――
4月。
高校の門をくぐる朝の空気は、まだ春の冷たさをわずかに残している。
俺は兄と同じ制服を着て、同じ敷地に立っていた。
中学までの俺なら考えられないこと。
本来なら学力で届くはずのない進学校。
けれど、これは俺の力じゃない。
あいつからの命令。
「ふふ...。ここに入ってね。君の居場所はそこにあるから。」
試験の内容は、すでにあいつがせしめていた。
俺の手元に渡ったコピー用紙は、ただの解答集みたいなもの。
俺はそれを仲間の矢口優馬、早川進、川崎裕也、CoconaとReicoに回す。
全員で同じ制服を着て、同じ門をくぐる。
「瞬が動けば道ができる。」
仲間はそう信じた。
兄からもらった「魔法の残骸」なんかじゃない。
これはあいつの命令と仕込みでつかんだ席。
それでも俺は、その制服に袖を通した瞬間、ただの高校生じゃない自分を強く意識した。
―――
4月。
新しい教室のドアを開けると、黒板に大きく「1年1組」。
まだ空気が新しい。
机や椅子もピカピカで、まるで新品の牢屋に押し込まれるみたいだ。
中を見回すと、すぐにいつもの顔が目に入る。
矢口が窓際で足を投げ出して、つまらなそうに天井を見ていた。
「お〜!瞬。まさか同じクラスとか、運命じゃね?」
早川はその隣で腕を組んだまま、薄く笑う。
「運命とか言ってんの矢口ぐらいだろ。でもまあ、楽できそうだわ。」
川崎は席に深く腰掛けて、制服の袖をまくりながら肩をすくめる。
「進学校って聞いてたけどさ、俺ら揃ってんの逆に浮いてね?はきだめ感やばいわ。」
そこへCoconaとReicoがひょいと顔を出す。
「ねえ〜、ウチらまで同じとか笑うんだけど〜。」
「影の集会所、完成って感じ?」
俺は笑わない。
けれど、胸の奥ではちょっとだけ安堵していた。
しばらくして教室に担任が入ってきた。
「今日から一年一組を担当します、深瀬菜々子です。」
若い女教師。
だが目は疲れていて、すでに諦めを含んでいた。
噂通り「はきだめクラスの管理役」ってやつ?
自己紹介を軽く終えたあと、俺達はぞろぞろと体育館へ移動。
そして入学式。
俺は壇上に立つ兄を、遠くから見ていた。
拍手と光を浴びる姿は、やはり前に立つのが似合う兄貴ならでは。
俺はその影の席に座りながら思った。
ここで俺が表に出る必要はない。
影で支えることこそ、俺の居場所。
―――
初日の自己紹介。
クラスの空気は冷え切っていた。
遅刻、無言、悪態。
誰もが他人を試すように視線を走らせている。
担任の深瀬菜々子は、震える声で「仲良くしましょう」と繰り返す。
彼女の笑顔はどこか引きつり、黒板に書かれた言葉は白い粉が滲んで形を崩していた。
「無理だ〜な。」
俺は心の中で呟いた。
この担任は、生徒に飲み込まれる支配される側の人間。
ならば、俺が支配する。
そう思った瞬間、胸の奥で火が灯った。
前の席で矢口が椅子をガタガタ鳴らしながら小声で言う。
「おい瞬、あの先生、次の夏まで持たねーだろ。10回に1回は泣くタイプ。」
横で早川が机に頬をつけたまま鼻で笑った。
「10回も持つわけね〜だろ。3回目で詰むっしょ。」
川崎は両腕を組み、わざとらしくため息をつく。
「俺ら入れてこの空気だからなー。どんな名札ぶら下げてても崩れるだろ。」
後ろからCoconaが笑いを噛み殺すように囁く。
「影の支配者タイム、始まるって感じ?」
Reicoもすぐにかぶせる。
「そ。ウチらが黙ってたらこのクラス秒で終わるよ。」
俺は返事をしなかった。
ただ、仲間の声が全部正解に聞こえた。
なら俺がやるしかない。
そう確信した。
―――
翌週。
深瀬は宿題の確認を始めたが、誰ひとり提出しない。
「ちょっと…、皆さん…?」
声は小鳥の羽音みたいにかすれて消える。
誰も反応せず、椅子のきしむ音さえ止まっていた。
俺は立ち上がり、ノートを机に叩きつけるように置いた。
「先生、俺はやったけどな。」
乾いた音に、クラスの視線が一斉に俺へ向く。
矢口がニヤニヤしながら続いた。
「しゅんがやったなら、俺も出すわ。」
川崎も笑いながら机にノートを置き、
早川はため息混じりに投げ出した。
仲間が動けば、周りもつられる。
気まずそうに笑いながら、他の生徒たちも次々とノートを机に重ねた。
深瀬は目を見開いたまま、何もできない。
その場を支配しているのは担任じゃない。
俺だ。
―――
提出物、授業態度、休み時間の空気。
何をやるかは、全部俺が合図を出す。
矢口たちが笑い、川崎が大声でツッコミを入れ、早川が冷めた視線で流す。
俺が指を動かせば、教室はまとまる。
担任も生徒も、もうそれを理解していた。
数日後、放課後の教室。
深瀬は俺たちに呼び止められ、震える手で封筒を差し出した。
「これで、本当にクラスが回るなら…。」
涙で声がにじむ。
封筒の中には三万円。
「みかじめ料」――要するに、このクラスを俺が回すための手数料だ。
矢口が吹き出すように笑った。
「マジで泣いてんじゃん、先生。最高だな。」
川崎が肩を揺らして笑い、
早川は「これでカラオケ代だな」とつぶやいた。
CoconaとReicoも「ありがと〜先生」と軽く手を振り、俺たちは夜の街へ消えた。
深瀬は教室に取り残され、涙を拭うこともできない。
俺は振り返らずに歩く。
支配の形は、もう完全に決まっていた。
しかしこれは、俺にとっては優しさ。
はきだめクラスと教師、どちらも潰さないための法則。
表面から見ればカツアゲかもしれない。
だが「1年1組」を守る方法でもある。
誰ひとり取りこぼさず、お互いに得を取る。
なぜって?
ここは俺の居場所であり俺の城だから。




