影の指紋
奈良と遭遇する数日前のこと。
濡れたコンクリートが細かく凍り、靴底がきしむ校舎。
校内の掲示板にまた一枚、紙片が貼られていた。
《裏切り者はまだ見つからないの?》
黒マジックの太い線。
前に出回った《裏切り者はだあれ》と同じ、筆圧の荒い癖。
久保美優が息を呑み、三澤沙織が紙の端をそっと指で押さえた。
「のり、いつものじゃないね。でんぷんの匂いじゃなくて、スティック。甘い樹脂っぽいにおい。」
「昨夜から今朝にかけて、だよな?」
鈴木寛人が腕時計を見て言う。
「角、もう反ってる。湿気を吸ってから時間が経ってるってことだな。」
村上啓太はスマホを掲示板にかざし、斜めから撮る。
「繊維が粗い。校内の紙じゃないな。薄い再生紙を使ってる。」
藤田玲奈は、貼り紙の一行を見つめたまま言い切る。
「挑発だよ。私達が動くのをまってる。」
―――
一時間目の前、3年2組。
新担任になった駒沢幸が黒板に大きく三文字を書いた。
『調べる』
「これは命令じゃないよ。やりたい人だけでいいからね。」
自由は放任じゃない。
枠を先に見せておくことで、生徒は一線を越えずに遠くまで歩ける。
駒沢の授業はいつも、その順番を守っていた。
駒沢はマーカーを置き、生徒を見渡す。
「皆、色んなことあって混乱してるよね。張り紙もSNSも、真実とは限らない。だからお願い。分からないまま動かないで。あなた達には、考える時間と選ぶ自由があるんだからね。」
机の間にさざ波のようにざわめきが広がる。
駒沢は続けた。
「危ないことは禁止。大人にしか触れられない領域は、私が出ます。情報は必ず教室で共有。役割は...と。」
黒板に箇条書きが刻まれる。
- 現場/掲示物フォレンジック班 三澤、村上
- 校内聞き込み班 藤田、久保
- SNS/ログ解析班 吉田、鈴木
- 保護者/地域ヒアリング班 石田、平井、野口
- 教員側/連絡窓口 駒沢
「3年1組の高岩先生には、私から話しておく。あの人は事実は見に行け、真実は急ぐなって言う人だから。」
鈴木寛人が手を上げる。
「先生、本当にやっていいんですか?」
「やっていい範囲で、やろうよ。ラインは私が引くから。越えそうになったら、私が止めます。」
駒沢の目は優しさを湛えながらも、一歩も譲らない強さを秘めていた。
その視線に、誰かが思わず息を呑む。
その瞬間、教室全体の空気がピリついた。
―――
昼休み、廊下の角。
三澤沙織が貼り紙の断片を封筒に入れ、駒沢に手渡す。
「この紙、繊維が粗くて、表面のざらつきも強いんです。インクのにじみ方を見てください。すぐに書いて貼ったんじゃない。時間が経ってるので湿気を吸ってるんです。たぶん、夜に貼られてるのかも。」
啓太は手帳をめくり、書き込まれた観察メモを指さした。
「昇降口と正門脇の掲示板、両方とも同じテープ跡が残ってた。使われてるのは毎回、上から二段目の左側。縦位置もほとんどブレがない。」
彼は少し間を置き、周囲を見渡す。
「貼った人間は背が高いか、あるいは台を使ってる。無意識で貼ってるにしては精度が高すぎる。」
その場にいた誰かが、わずかに息を呑んだ。
「台?」玲奈が首をかしげた。
「うん。掃除用の踏み台なら、夜は用務員室の中。勝手に使うなら、鍵が必要だろ?」
「鍵…。」
全員の脳裏に、一瞬だけ紙片の影がよぎる。
「でも...。」
玲奈が口を開いた。
「背が高い人なら、台は使わないよね?」
啓太がうなずいた。
「その場合、どのくらいの身長が必要か、掲示板で測れるだろ?」
寛人が短く言った。
「だな。両方押さえよう。鍵の動きと、身長の可能性。用務員室に行ってみよう。」
玲奈も立ち上がる。
「ついでに掲示板、もう一度見てみよ。」
教室の空気が、静かに動き出した。
―――
放課後、用務員室。
蛍光灯の冷たい光が、微かにシンナーのような溶剤の匂いに混じって漂っている。
角田は新聞を半分に折ったまま、わずかに視線だけこちらに寄越した。
「また貼られてたのか。剥がしても剥がしてもキリがない。」
現場班の三澤沙織が、控えめに一歩前に出た。
「ここ数日、貼られてる数が増えたように感じるんですが…心当たりってあります?」
角田は少しだけ顔を上げる。
「まぁ、そうだな...。今月に入ってから、頻度は上がってるよ。ここ1週間は、ほぼ2日に1度のペースだ。」
村上がメモを取りながら言った。
「貼られているのに気づくのは、いつですか?」
「朝だよ。俺らが出勤する前には、もう貼ってあるんだ。夜の巡回中に見かけることは、今のところないな。」
沙織が、室内の隅に置かれた踏み台を指差した。
「この台、最近どこかに動かされたり、勝手に使われた痕跡ってあります?」
角田は鼻で笑った。
「そんなのいちいち見てないよ。俺が最後に鍵閉めるのは夜9時。夜中のことまでは知らないな。」
そこで村上が、一歩前に出る。
「すみません、変な音とか気配とか、夜中に何か異常を感じたことってありますか?」
角田の目がわずかに細くなる。
「ああ、2、3度だけあったかな。巡回表を書いてた夜中の2時半くらいにな。外の通用口のほうから、何かが硬い床に当たった音がしたんだ。コインか、金属の部品か…。そんな感じだの音だったな。」
村上が声を落とす。
「通用口の鍵を持ってるのは?」
「管理職、警備、俺ら用務員…それと、納品業者だな。たまに夜の搬入があるときだけ、業者に鍵を一時的に渡すことがあるんだ。」
沙織が口を開く。
「どんな業者が入ってきます?」
「コピー用紙、清掃用品、パン、牛乳、弁当とか?の関係業者だな。時間もバラバラで入ってきて、朝方の4時過ぎに来ることもあるんだ。」
沙織が紙片を取り出し、そっと差し出す。
「この貼り紙に使われたのりなんですが、少し甘い匂いがします。市販のスティックのりのようで…。用務員室の備品は、でんぷんのりですよね?」
角田はその紙片を受け取り、鼻を近づけて軽く匂いを嗅ぐと、すぐに肩をすくめた。
「たしかに、うちの糊じゃないなぁ。昔ながらの...、ほら、刷毛で塗るやつだ。」
三澤と村上が目を合わせる。
貼られた時間、使われた道具、音、のりの種類。
まだ点と点ではあるが、それらは確実に、ひとつの線を描こうとしていた。
「ありがとうございました。」
角田は手を振った。
「夜にうろつくなよ。怪我するぞ〜。」
―――
同時刻、保健室。
消毒液の匂い。
ベッドは整ったままで、使われた形跡はない。
机の向こうに座る山田養護教諭の前で、久保美優と藤田玲奈がメモを取りながら話を聞いている。
鈴木寛人は後ろで立っていた。
「この一週間、保健室に来た生徒はいます?」
「私のいる時間帯にはいないわね。でも…。」
山田は1度机の上の書類に目をやってから続ける。
「警備の人が言ってたの。夜中に医務室の前を誰かが通ったって。早足だったらしいんだけどね。靴はゴム底の軽い音だったって聞いたのよねー。」
「時間は?」
「たしか、午前2時くらいだったっていってたけど?」
寛人がうなずく。
角田の証言と重なる。
通用口の金属音と同じ時間帯。
玲奈が確認するように言った。
「その時間、保健室の灯りは?」
「消えてるはずよ。警備の人も誰もいないと思ったって言ってたからね。」
音、靴、誰にも見られていない時間帯。
空白の通路に、誰かがいた。
―――
図書室の奥、窓際の長机。
吉田直樹がノートPCを前に座り、凝った画面を開いている。
「《裏切り者はだあれ》《楽しみだね》句読点の全角・半角の組み合わせ、改行位置、タイポの癖まで揃ってる。これはスタイロメトリ的に同一オペレーターと判断できるレベルかな。」
啓太がしばし沈黙し、言葉を選ぶように訊いた。
「スタイロ...メトリ?」
吉田は笑わずに続けた。
「文章の指紋。似たクセを統計的に判断する技術だよ。で、この人物…Proton VPNのSecure Coreルーティングを使って投稿してる。」
美優が眉をひそめる。
「それって?」
吉田は画面を切り替えた。
「要するに、投稿回線はスイスやアイスランドのSecure Coreサーバーを経由してる。出口ノードは毎回変換されてる。キルスイッチも入ってるし、DNSリークも一切なし。だから場所を特定できない。」
玲奈が言葉を探すように問いかける。
「それでも、癖を見抜くって…どうやって?」
吉田はさらに別タブを表示した。
「ゼロ幅スペースを単語と単語の間に埋めて、機械の類似度判定をかく乱してる。それに句点の種類を意図的に混ぜるとか、全角と半角カナのミックスも。これは逆スタイロの典型手法なんだ。」
寛人が短くつぶやいた。
「読まれるためじゃなく、読まれないために作ってるってこと?」
吉田は画面から目をそらさず、「さらに」と付け加える。
「画像投下もある。スクショ投稿でテキスト化を避け、EXIFは除去、解像度と圧縮率は毎回微調整。検索とファイルの類似検出を避けてる。」
啓太が問いかける。
「なんでそこまで?」
吉田は淡々と答える。
「これは偶然でも気まぐれでもない。徹底的に設計された仕掛けだよ。ネットに存在をデザインする方法で、投稿の中身じゃなく、拡散のリズムやアカウントの配置そのものを設計している。噂が自然発生したように見えるのも、その仕組みの一部。」
美優が息をのむ。
「計算で空気を作ってるってこと?」
「正解。しかも足跡は全部、あえて残してるんだ。消すんじゃなくてね。別人に見えるように調整した偽の指紋を置いていく。追う者が必ず辿る道を、最初から作ってある。」
玲奈の表情が強張る。
「じゃあ、私達が見てるのは…。」
「そう、犯人が見せたい景色。」
直樹の指が画面をなぞる。
「VPNも、誤字の癖も、拡散の波形も、どれも完全に消すことはできない。だから逆に、残すべき痕跡を選んでいる。痕跡すら利用して、自分の存在を広げてる。」
寛人がゆっくりと言った。
「足跡は囮。だけど、歩き方までは偽装できない。その歩き方を押さえるしかないな。それが俺達に残された唯一の突破口。」
―――
夕暮れの職員室。
窓の外は群青に沈み、蛍光灯の白が机に冷たく落ちていた。
駒沢は生活指導主任・田中の机に置かれた報告書を手に取る。
『三年生・学級運営に関する報告』。
紙の端に、強い筆圧が食い込んでいた。
夜間、掲示物 多数
保護者・匿名電話:男性、低声、早口
「危機感を持て」
「彼は危険」
「匿名の電話ですね。」
駒沢が呟くと、高岩が横から覗き込んだ。
「番号は?」
「非通知ですね。」
藤井が腕を組み、眉をひそめる。
「夜間の掲示物と時期が重なりますね。偶然にしちゃ気味が悪すぎる。」
「偶然じゃないかもしれませんよ。」
駒沢は視線を落としたまま答える。
高岩が机を軽く叩いた。
「内部の人間か、校内に詳しい誰かってことか...。」
「可能性は否定できません。ただ、断定するには材料が足りなすぎます。」
駒沢は冷静に返す。
***
三人は資料室に移った。
古い蛍光灯がうなる音の中、駒沢が伝票をめくり、指を止めた。
「これ、見てください。」
隅に小さなスタンプ。
《出前・配達》
店名は擦れて判別できない。
ただ、時刻だけは鮮明に 4:10。
高岩が声を落とす。「夜明け前か…。巡回が一番薄い時間だな。」
藤井は身を乗り出す。
「通用口か。配達なら警備も通すでしょうね。」
駒沢は短くうなずいた。
「そうですね。意図的に利用された可能性は高いです」
高岩が吐き捨てる。
「出前を隠れ蓑にしたってことじゃないかな?」
「真相は確かめる必要がありますね。」
駒沢は伝票をコピーして封筒にしまう。
「生徒には踏み込ませられません。ここからは私達が責任を持ちましょう。」
―――
翌朝、校門前。
雪雲が低く垂れこめ、3人の吐息が白く揺れた。
石田が広げた地図には赤い線が幾つも囲われている。
「やっぱり変だよ。」
石田が指を止める。
「パン屋、牛乳屋、新聞。みんな時間も方向もバラバラなのに、必ずこの裏道を通ってる。」
平井が眉をしかめる。
「偶然だろ。配達の人って近道好きだし。」
「でも、さ。ここ近道じゃないっしょ。狭いし遠回りじゃね?」
石田は首を振った。
野口が口を開く。
「昨日、パン屋のおじさんが言ってたの。学校から電話で、裏口に回ってくださいって言われたって。」
平井が顔を上げた。
「え? 正門じゃなくて?」
「牛乳屋も同じこと言ってた。新聞配達の人も。」
石田の声が強くなる。
「でも学校はそんな依頼してないとしたら...。つまり?」
野口の目が大きくなる。
「誰かが勝手に業者に連絡して、裏口に通らせてたってことになるね。」
石田が赤い丸を裏道に書き込む。
「そうだ。犯人は毎回、業者達に裏口へ行けと伝えて、配達の流れ自体を作り替えてたんじゃかいかな。だから俺達が見たときには、もう裏道が普通になってたんだよ。」
平井は唾を飲み込む。
「日常を仕組んでたってことかよ。」
野口の声が震える。
犯人は道を作らない。
正しい道だと誰もが思い込む角度で、ただ標識だけをすり替える。
「天才。疑われないどころか、むしろ自然に見えるようにしたんだね。」
3人は凍りついたように沈黙した。
ただの裏道が、一瞬にして 犯人が設計した舞台に変わっていく。
―――
小会議室。
駒沢は教頭・東海林と向き合っていた。
校長と、3年4組担任の林も同席している。
「夜間搬入の監督記録を閲覧させてください。」
駒沢の声ははっきりしていた。
「通用口の入退場記録、押印簿、異常通知のログ。生徒の不安を鎮めるために、どうしても必要なんです。」
東海林が眉を寄せる。
「それは個人情報の塊じゃないの。あなた一人で処理できる問題じゃないのよ?」
「わかってます。必要な部分だけ確認させてください。生徒には校内のことしか話さないと約束しますので。」
林が身を乗り出した。
「先生の言う通りです。3年4組でも噂が広がって、落ち着かない子が多いんです。このままじゃ危険です。」
校長が腕を組んだまま口を開く。
「記録を出したところで何が変わるというんだ。真実は時に不安を増幅させるだけだ。」
「隠せば安心すると?」
駒沢は一歩踏み出した。
「噂は事実の空白に入り込みます。確認しなければ、誰も止められません。」
一瞬、校長と東海林の視線が交わった。
そのわずかな間に、林の背中を冷たいものが走る。
やがて東海林が言った。
「明日、15分だけ。警備員立会いで閲覧してよろしい。」
駒沢は頭を下げる。
「ありがとうございます。」
林も資料を抱えて駒沢に続き、二人並んで部屋を後にした。
扉が閉まる。
残った校長と東海林。
校長が腕を組んだまま、呟く。
「境界線を越えられると厄介だ。」
東海林は机の書類に目を落としたまま頷いた。
それ以上、言葉はなかった。
―――
教室。
窓際の机に、集めた断片が並ぶ。
・スティック糊の甘い匂い
・粗い再生紙とにじみの輪
・通用口で聞かれた「カチン」
・早朝の配達ルート
・納品伝票の端に押された《出前/配達》の判子
・白いイヤホンが初めて投下されたアカウント
寛人が黒板に三語を書いた。
《電話》《ルート》《匂い》
「業者は学校から裏口へって電話を受けた。でも学校は否定してる。」
直樹が頷く。
「電話は本物じゃないね。学校の番号を装ってかけることはいくらでもできるしね。しかも夜中なら、確認も取られない。」
野口が地図を指差す。
「配達車が同じ角で減速してた。別の日、別の会社なのにね。これって偶然じゃないよ。裏道が正解って刷り込まれてたのは明確。」
沙織が伝票を光に透かす。
「これみて。出前の配達。先生が夜に頼んだように見せかけてるけど、店名も金額もないの。ただ時間だけが残ってる。」
美優の声が震える。
「じゃあ、犯人が出前を装った記録をわざと残したっていうの?」
寛人は黒板に線を引いた。
「電話で指示を偽装する。ルートを普通に見せかける。匂いで痕跡を上書きする。全部、日常に混ぜるための仕掛けってことだな。」
静まり返った空気の中で、誰も反論できなかった。
無理やりこじ開けるんじゃない。
不自然さを当たり前に変える設計。
そこに犯人の頭脳が潜んでいた。
―――
風が鋭く冷たい朝。
校舎の窓ガラスは白く曇り、旧校舎の隅にある文芸部室も、薄暗い吐息を閉じ込めていた。
壁には色あせた文化祭のポスター、棚には背表紙の剥がれた文集。
その真ん中に、3年1組の文芸部長・長谷川理央がいた。
怜奈が一歩進み出る。
「長谷川君、筆跡を調べたいの。協力してくれない?」
理央は眼鏡の奥で目を細め、口の端をわずかに上げた。
「やっぱり君達も気づいたか。面白いよね、この文字。」
彼は引き出しから一冊の古い部誌を取り出し、机の上に広げる。
数年前の卒業生が残した短編小説。
欄外に、赤インクで走り書きが残っていた。
「ここを見て。」
理央の指が紙面をなぞる。
「に を小さく丸める癖。はらいを引きずる癖。句読点をやたらと行頭に置く癖。」
寛人が身を乗り出す。
「誰の字なん?」
理央は首を横に振る。
「そこが面白いんだ。1人だけじゃないんだよ。複数の癖を混ぜてあるのがミソ。」
一瞬、全員が息を詰めた。
「混ぜる?」美優が囁く。
「そう。AとBの字を足してるんだけど、でもどっちでもないんだ。だから読む人によって、あいつに似てるって印象がバラける。完全一致じゃなく、錯覚を作るための模倣ってことだね。」
沙織が青ざめた顔で紙を見下ろした。
「じゃあ、最初から誰かに疑いが向くように?」
理央は静かに眼鏡を押し上げる。
「そう。見る人の先入観に寄生して、勝手に名前を浮かばせる。犯人はそこまで計算してるんだ」
部室の空気が凍りついた。
ただの落書きに見えた文字が、一気に仕掛けられた罠へと姿を変える。
怜奈の喉が震えた。
「そんなこと、誰ができるの?」
―――
次に向かったのはPC教室。
モニターの青白い光に照られて立っていたのは、3年3組の篠宮快斗だ。
「掲示板のログ、見つけたよ。」
その声は、いつもよりずっと冷たく聴こえた。
画面には赤くマーキングされた書き込みが映っている。
『楽しみだね』
『裏切り者はだあれ』
句読点など一切なく、リズムは機械的。「楽しみだね」という言葉にも、温度が感じられない。
「この書き込みは、校内Wi-Fiからに見えるようになってたんだよ。」
快斗が指を動かすと、IP欄には確かに校内のアドレスが表示されていた。
しかし、それをすぐ否定する。
「これはトリック。逆を仕込んでるんだ。つまりVPNとARPスプーフィングを同時に使って、校内端末から送られたように見せかけてる。」
玲奈は眉を上げた。
「それって、警察は気づかないものなの?」
快斗が頷く。
「ARPスプーフィングで、あたかもあのPCから通信したかのように偽装してる。さらにリバースプロキシ経由なら、通信の出どころを分断できちゃう。」
美優が声を震わせて言う。
「つまり、犯人はここにいるって印象を作るための演出ってことになるね。」
寛人はモニターを見つめたまま言った。
「これは、ただの書き込みじゃない。」
皆が息を呑む。
「犯人は、ここにいるっていう存在感そのものを、演出してたんだ。」
―――
用務員室。
蛍光灯の唸りが、静まり返った廊下ににじんでいる。
吉岡は古い椅子に腰をかけ、点検簿を閉じてこちらを見上げた。
「夜に校舎に入る人を、見たことはありますか?」
寛人が口を開いた。
長い沈黙のあと、吉岡は低く答える。
「22時すぎ、昇降口に人影があったかな。灰色のコートを着てて...顔は見えなかったな。」
玲奈が身を乗り出す。
「その人は何をしていたんです?」
「壁に手を当てていたんだ。何も貼ってないのに。ただ、2回コツンと枠を叩いたんだよ。」
沙織の眉がひそむ。
「貼る位置を決めていたのかな?」
吉岡は小さく首を振る。
「あれは違うな。まるで貼るふりだけを見せてるみたいだった。誰かが遠くから見て、ああ、掲示してるんだと納得すさせるかのように。」
美優の背筋が冷たくなる。
「証拠を残さず、影だけを演出した?」
寛人は息を呑んだ。
「見せたいものと、消したいもの。両方が計算されてる。」
帰り道。
吹きつける風の中、寛人がポケットに手を突っ込みながら言った。
「一歩ずつでいい。拾った断片を、絶対に繋げてよう。」
その背中を、怜奈、啓太、沙織が黙って追う。
足音だけが雪のように冷たい廊下に響く。
真実はまだ遠い。
しかし確かに、そこへ近づいていた。
―――
数日後。
玲奈が机の奥から、古い学級文集を引き出した。
紙は黄ばんでいるはずなのに、手触りだけ妙に新しい。
ページを開くと、短い詩が目に飛び込む。
《裏切り者は、隣に座っている》
傾いた文字。払いの粘り。句読点の省き方。
貼り紙の字と酷似している。
「2年前の文集に…?」玲奈の声が震えた。
啓太が奥付を確認し、眉をひそめる。
「2年前、って印字はある。けど、このインク、濃すぎないか?」
指でなぞった瞬間、美優が小さく叫んだ。
「まだ乾いてないね。」
沈黙が落ちる。
2年前のはずのページ。
だがインクは今も湿り気を帯び、かすかに甘い匂いを放っていた。
玲奈の胸に冷たい理解が落ちた。
「犯人は、過去そのものを作ってる。」
生徒達は言葉を失った。
証拠を見つけたはずが、逆に証拠そのものが罠だったと知った。
文集の紙面は、古さと新しさが同居する異物になっていた。
犯人の影は、時間さえも演出している。
―――
夕方の資料室。
古い紙の匂いの中、駒沢と高岩、藤井、林の4人は出納簿を覗き込んでいた。
ページの欄外に浮かんだ鉛筆の文字。
《南條》
一瞬で空気が凍る。
藤井が信じられない顔をする。
「よりによって南條さんか...。」
林がじっくりと台帳をみる。
「鉛筆の跡。消そうと思えば消せますよね。記録というより、わざと残した痕跡じゃないですかね?」
駒沢は押し殺すように言った。
「それでも、名前があった事実は消えませんよね。」
事実は点だ。
線にしてしまうのは、たいてい人の焦り。
駒沢は自分に向けて手綱を引いた。
高岩が短くまとめる。
「それなら、生徒に伝えるしかないな。」
―――
翌日。
机を並べた3年2組全員の前に、教師4人が立つ。
駒沢がコピーを掲げて告げる。
「出納簿に南條さんという名前がありました。これは外部の人間として夜遅くまで校舎にいた、たしかな記録です。」
ざわめき。
久保美優が声を震わせる。
「でもありがとうは、私達も通ってた店ですよね。南條さんがそんなことするはずないですよ!」
藤井が腕を組んで言った。
「信じるか疑うかは、君達次第だ。ただ、調べるなら中途半端にしないで欲しい。」
林が続ける。
「証拠か罠か、見極めるには現場を踏むしかない。その責任は背負わないといけないよ。」
高岩は生徒達を見渡し、静かに言葉を落とした。
「君達に任せる。ただし先生達も目を離さない。線は越え超えないで欲しい。」
その瞬間、教室の空気が変わる。
疑念と恐怖を抱えたままでも、生徒達はもう決めていた。
自分たちで確かめに行く、と。
―――
サッカー部の後輩が語った。
「夜、昇降口で見たんです。作業着みたいな人影。」
「南條さん、いつも厨房着でエプロンかけてるよな。」
啓太が呟くと、皆の表情が固まる。
「じゃあやっぱり……」
玲奈が言葉を飲み込み、寛人が畳みかける。
「しかも、張り紙の紙は校内備品じゃなかった。外から持ち込んでる。店をやってる人なら、紙も糊も簡単に用意できる。」
理屈がひとつ、またひとつ積み重なり、
生徒達の中で“南條=犯人”の像が少しずつ輪郭を持ち始めていた。
―――
同じ頃、奈良義一は自室の机に腰をかけ、窓の外を見つめていた。
退院してまだ日も浅い。
表では報道や中傷が渦巻き、外に出ることさえままならない。
奈良は家を抜け出し、学校裏庭の土を掘り返す。
冷えた土の中から現れたのは、自分を刺したナイフ。
乾いた泥と、自分の血の痕跡がまだ柄に残っていた。
(これで終わらせる。)
泥が片足のスニーカーにこびりつき、その痕はまだ落ちていない。
君も分かってるだろ。
犯人は弟。
誤解させておけ。面白いからね。
心の奥で響く影の声。
(俺は俺のやり方で決着をつける。)
拳を握りしめ、胸の奥にだけ言葉を沈めた。
「この刃で、幕を下ろす。」
―――
学校では南條を問い詰める準備が着々と進む。
一方、奈良は胸の奥で、まったく別の決着を描いていた。
生徒達が「ありがとう」へ足を運ぶ時、
奈良もまた、自分の泥のついたスニーカーで別の答えを探しに行く。
その行き先が同じだと、まだ誰も知らなかった。
時刻だけが、2つの物語をゆっくり同時刻へ寄せていく。




