影に囚われて
2月初旬
病院の正面玄関を出た瞬間、フラッシュが一斉に弾ける。
「原口先生の自殺をどう思いますか!」
「香取ななみ事件との関与は?」
マイクとカメラが押し寄せ、罵声にも似た質問が浴びせられる。
通りには保護者や教師らしき人影も立ち、誰もが噂の「生徒会長」を一目見ようとしていた。
弟の翔が、不安げに兄の腕をつかむ。
その温もりに義一は一瞬だけ息を詰めた。
「行くぞ。」
群衆をかき分けたそのとき、間に割って入った背中。
長身で、少し擦り切れたスーツ。
3年1組の担任代理の高岩だ。
「道を空けてください!」
鋭い声で群衆を押し返し、奈良と翔の前に立つ。
フラッシュが高岩の顔を照らすたび、彼の瞳だけはぶれない。
守るために立ちはだかる教師の背中を、奈良はしばらく無言で見つめていた。
(守られる側だったのは、いつ以来だろうか。)
次の瞬間、脳裏に甦ったのは幼い日の記憶。
暖かい食卓を知らなかった日々。
母の怒鳴り声、翔の腹の虫の音。
あの夜から、すべてが始まっていた。
―――
奈良義一の幼少期に、暖かい記憶はほとんどない。
物心ついた頃には、すでに家は崩れていた。
父はいなくなり、母は別の男を次々と連れ込んだ。
夜ごとに怒鳴り声が飛び交い、食卓は空っぽで、弟の翔の腹の虫が泣くように鳴っていた。
米の匂いを嗅いだのは、近所の団地の炊事場を通り過ぎるときだけ。
家には乾いたパンの耳と、賞味期限の切れたカップ麺しかない。
母は「外で食べてきなさいよ」と突き放す。
けれど子供が外で食えるものなどない。
義一は気づいていた。
弟をこのまま飢えさせたら死ぬ、と。
最初の盗みは、小さな駄菓子屋。
翔の腹が鳴り続け、泣き顔を見ていられなかった。
ポケットに忍ばせたのは、小さなチョコの袋。
義一は、その袋のざらついた表面を指でなぞりながら、「これを渡せば、弟はまだ生きられる」と自分に言い聞かせる。
心臓は破裂しそうに鳴り、指先は氷みたいに冷たい。
それでも家に持ち帰り、翔がかぶりついたとき、あまりにも嬉しそうな顔をした。
「兄ちゃん、甘い!」
その一言で罪悪感は薄れた。
その笑顔は、義一にとって世界で唯一の救いだった。
殴られる痛みも、空腹も、その瞬間だけは霧のように消えた。
自分のしたことは悪じゃない。
弟を生かすための「正義」だと心に言い聞かせた。
それから盗みは習慣になった。
コンビニの菓子パン、スーパーの惣菜。
慣れてくると家庭菜園に忍び込んで野菜を引き抜き、泥を払う。
人の家の軒先で干してあるシャツを盗み、風呂に入れない夜は公園の水道で身体を洗った。
「生きるため。」
そう言い聞かせるたびに、盗みは「勇気ある行為」に変わる。
翔にご飯を食べさせ、眠らせるための正義。
しかし、その「正義」はいつしか癖へと変わっていく。
食えるようになっても、ポケットに物を忍ばせる衝動が消えない。
万引きの瞬間に走る背筋の寒気と、レジを抜ける時の高鳴り。
それは「生きている」と感じる唯一の証拠になっていった。
学校でも同じ。
ノートに小さな字で答えを書き写し、試験でカンニングをする。
カーテンの隙間から差す光、監督の教師の視線をかわす瞬間。
バレるかもしれない緊張と、切り抜けたときの解放感。
成功すれば心臓がドクンと鳴り、「俺はまだ大丈夫だ」と思えた。
やめようと思っても、指先が勝手に棚の商品をなぞってしまう。
抜け出したはずの衝動が、呼吸みたいに戻ってくる。
「またやった」と気づくのは、店を出た後。
義一は夜ごと、胸の奥で自分を責めながらも、次の機会を探してしまう自分に気づいていた。
盗みも、カンニングも、もう生きるためじゃない。
やらなきゃ落ち着かず、やればやるほど力が湧いた。
夜の自室。
机に置かれたコンビニ弁当の空き箱を睨みつけるように見ながら、奈良は心の中で言い聞かせた。
(これは盗んだものじゃない。弟を飢えさせないために必要だったんだ。俺がやってるのは正義だ。)
そう呟いた瞬間、自分の声が薄っぺらく響いた。
誰もいない部屋に漂って、壁に砕けて消えるだけ。
言葉にすがろうとするたび、「ただの盗人だ」という現実だけが残った。
弟の翔はそんな兄を見て、何も言えなかった。
わかっていたのだろう。
兄のしたことがなければ、自分は生きられなかったのだと。
―――
日々は繰り返され、母は男を取り替えるたび、奈良を殴った。
理由はいつも些細なこと。
洗濯物を取り込んでいない、声が気に障る、食卓に何もない。
その全てが暴力の理由に変わる。
平手打ちは日常。
跡が残らないように、腕や背中を何度も叩かれる。
翔を庇えば、その分だけ殴られた。
ある晩、男が酒臭い息で義一を殴ろうとした。
そのとき。
「やめろ!」
背後から鈍い音が響いた。
振り返ると、母を連れてきたはずの男が床に崩れ、母の頬が赤く腫れている。
立っていたのは「影」だった。
影は、母を殴り倒した。
今まで大人に殴られるしかなかった世界で、初めて「子供が大人を殴る」光景を見た。
影は母を見下ろし、冷たく言った。
「子どもに手をあげる奴は許さない。」
義一は、その言葉を胸に焼き付けた。
初めて他人が自分のために怒ってくれた気がして、涙が出そうになった。
その日から、影は家に居座るようになる。
母は風俗に送り出され、昼は働き、夜は影に従った。
奈良達には食べ物が与えられるようになり、殴られることもなくなる。
「影がいれば、大丈夫。」
奈良はそう思った。
父親のように。
だが影は母にだけは冷酷だった。
台所で失敗すれば叩き、遅く帰れば罵倒する。
奈良は見ていた。
影が「支配」する姿を。
―――
影いつの間にか現れなくなった頃。
中学2年の奈良は、いつしか自分も母を殴るようになっていた。
「うるさい!」
「黙れ!」
理由なんてどうでもよかった。
殴られる側から殴る側へ。
立場が逆転したとき、胸の奥に奇妙な解放感が広がる。
その瞬間、奈良の耳の奥に、あの日の影の声がよみがえった。
「子供に手をあげる奴は許さない」
しかし殴っているのは、自分の母だった。
翔は何も言わなかった。
ただ「自業自得」と心の奥で思っていることを、奈良は知っていた。
―――
学校で奈良は「完璧な生徒」を演じる。
人の目を気にして育った彼には、人の欲望を読む力が備わっていた。
誰が何を求め、どう言えば好かれるか。
3歩先まで分かってしまう。
誰が何を言えば慕われるのか。
それさえ読めれば、生徒会長の椅子は勝手に転がってくる。
拍手を浴びるたび、奈良は「これで普通の子に見える」と心の奥で安堵した。
笑顔をつくり、耳障りのいい言葉を並べればいい。
教師もクラスも信じてくれる。
しかしその裏で、奈良は「原口をいじめる遊び」を始める。
気づかれないように言葉を選び、空気を操り、原口を孤立させた。
「冷たい教師」
「相談できない先生」
そんな空気を広げるのは容易。
スリルはまだやめられなかった。
万引きも、カンニングも続けていた。
「生きるため」から始まった正義は、いつしか「生きている実感」に変わっていく。
―――
ある日。
「おっと〜義一くん。ひっさびさ〜。元気してた?」
影が再び姿を現した。
その声は笑みを含んでいたが、奈良には恐怖が走る。
「ふふ...。いけないな〜。君のしてること。ポケットに突っ込んだチョコも、試験の紙の隅に書いた小さな字も。母親に手を挙げた時の音。」
影はゆっくりと近づき、囁いた。
「大丈夫だよ〜。誰にも言わないからね〜。」
奈良の正義も、スリルも、全てが弱みへと変わっていく。
影は、突然消えては、また現れる。
中学の頃からその出入りは予告もなく、影の存在は奈良にとって「恐怖」と「救い」が同時に重なるもの。
家に金がなくなれば、影は母を夜の街へ送り出す。
帰りが遅ければ罵倒し、時には突き飛ばす。
奈良はそれを横目で見ながら、心のどこかで「母が殴られている限り、自分たち兄弟には手が回らない」と安堵していた。
翔も同じように黙っていた。
2人にとって影は「暴力の盾」であり、「生きるためのスポンサー」。
しかし、高校に入り生徒会長となった義一の前に、再び影は立ちはだかった。
放課後の校舎裏。
夕焼けに染まった壁の影が伸びる。
「久しぶりだな〜。元気だった〜?」
見覚えのある低い声。
義一は振り向き、心臓がひときわ強く鳴った。
そこに立っていたのは、あの男...影。
年齢は母より奈良との歳の方が近く、奥の眼は濁っていない。
笑っていないのに、笑っているように見える眼。
「立派になったね〜。生徒会長だって〜?」
「ありがとう。」
声は思ったよりもひややか。
けれど影は気にした様子もなく、ポケットに手を突っ込み、悠然と歩み寄ってくる。
「ふふ...。け〜どな〜。」
その声が一瞬で低くなる。
「君、いろいろやってきたでしょ。万引き、カンニング、母親への暴力。俺は全部みてたよ。」
義一の背中を冷たい汗が伝う。
影の言葉は刃物のように鋭く、逃げ場を与えない。
「やめてください。」
「やめる〜?何を?バラすのを〜?」
影は薄く笑った。
「それって例えば〜?『生徒会長様が過去に万引きをしていた』とか?」
「大丈夫だよ〜。『弟を飢えさせないため』って美談にすることもできるし〜、『スリルがやめられなかった』って病的に依存性のストーリーだってたてられる。」
「か〜ら〜の〜。君は同情されるよ。ふふ...きっとね。」
義一は拳を握った。
殴りたい衝動が喉までこみ上げる。
だが目の前の男は、昔から「殴れば終わり」にはならない存在。
殴れば殴るほど支配を強める。
それを義一は誰よりも知っている。
影は一歩踏み出し、義一の耳元で囁いた。
「君は俺の駒だよ。俺の言うことを聞こうね。そうすりゃ弟も安全だし、評判も守られるからね。」
―――
その日から、義一は「2重の顔」を抱えるようになる。
生徒会長・奈良義一。
学校では笑顔を絶やさず、教師にとっても生徒にとっても「頼れる存在」を演じた。
真っ直ぐな言葉、耳障りの良い正論。
誰もが拍手し、信じた。
だが放課後になると、影の指示に従わなければならなかった。
「こいつを動かせ」「情報を拾え」「教師を揺さぶれ」
その一つ一つが、義一の手を汚す。
影は学校の裏事情を異様なほど知っていた。
どの教師がどんな不満を持っているか。
どの生徒がどんな秘密を抱えているか。
義一は指示を受け取り、それを「会長の提案」として実行する。
「表の顔で信頼を積み、裏で俺に従え。」
影のその言葉が、義一を縛り続けた。
時に影は「スリル癖」をわざと突いてくる。
「今日のコンビニでパンを盗め」
影に言われた夜、奈良は小銭を握りしめてレジに並ぶ。
しかし、次の瞬間にはもうポケットが膨らんでいた。
買うつもりだったはずなのに、指が勝手に動いていた。
「ほ〜ら。君はもう、そ〜ういう人間なんだよ〜。」
影の声は残酷なほど優しい。
突き放すようでいて、縋りつくしかない声。
義一はベッドの上で天井を見つめる夜が増えていく。
「僕は生徒会長、正義の象徴」と言い聞かせる一方で、
「僕はただの嘘つきで、盗人」と心の奥で罵倒していた。
矛盾が奈良義一を削っていく。
学校では拍手を浴び、夜には影に操られる。
どちらが本当の自分なのか、次第にわからなくなっていった。
弟の翔だけが、兄の変化を敏感に感じ取っていた。
翔は兄の机の引き出しに隠された万引きの袋を見つけたことがあったが、何も言わずに元に戻した。
ただ、兄が壊れていく気配だけを恐れていた。
ある夜、翔は兄のポケットからはみ出していた菓子パンをそっと抜き取り、台所のゴミ箱に押し込んだ。
翌朝、奈良が探しても見つからない。
「パン捨てた?」
翔は目を逸らしながら、静かに答えた。
「兄貴、もう買えるだろ。もう盗まなくてもいいんだ。」
奈良は何も言えず、ただ拳を握りしめる。
怒りではない。
自分の弱さを突きつけられたような痛みが胸を刺していた。
夕食の席。
テーブルに置かれたコンビニの弁当を前に、翔がぽつりと尋ねる。
「兄貴、最近…笑ってるときと、全然笑ってないときがあるな。」
義一は箸を止めた。
「気のせいだろ。」
「でも、兄貴の本当の顔、俺は知ってる。」
翔の声は静かだった。
「小さい頃、チョコくれた夜さ。俺、甘いって言ったろ? あの時から、兄貴はずっと誰かになろうとしてる。たぶん正しい誰かに。でも、正しいふりしてるときの兄貴の顔、目の奥が眠ってるんだ。」
「眠ってる?」
「うん。闇の前に立つときだけ、起きる。怖いけど、あれが兄貴の本気の顔なんだと思う。」
箸の先で弁当の白米を崩しながら、翔は続けた。
「それって過去のあいつのせいなんだろ?」
「...。」
「あいつの影から逃げたいなら、俺に言って欲しい。二人で嘘を減らす方法、考えようよ。」
奈良は返事ができなかった。
けれど、心のどこかで「2人で」という言葉だけが、長く残る。
その言葉は、義一の胸を鋭く刺す。
(知ってる?どこまで?影の存在も?)
答えは出なかった。
しかし弟の瞳には、確かな不安と疑念が映っていた。
その頃から、義一は「影からの逃亡」を考え始めていた。
しかし、逃げ場はなかった。
影は過去の罪を握っている。
万引き、カンニング、母への暴力。
それらを公にされれば、生徒会長の地位も、弟との生活も、すべて失われる。
「裏切れば翔がどうなるかわかるな?」
影の声が耳にこびりつく。
義一は答えられなかった。
正義の顔と、犯罪者の影。
その二つを抱えたまま、奈良義一はさらに深い闇へと落ちていく。
―――
正門横の掲示板にまた貼られていた。
紙は少し湿っており、赤いインクがにじんでいる。
紙は校内で使う規格の用箋とわずかに違う。
繊維が粗く、手で剥がすと端から毛羽立つ安い再生紙。
糊は校務員室にあるでんぷんのりではなく、市販のスティック。
剥がすと、甘くて乾いた匂いが残る。
夜の湿気で角が反り、赤インクは線の外側で細く、にじみの輪を作っていた。
書いた直後には出ない輪。
つまり、貼られてからしばらく時間が経っている。
誰かが見ていない時間帯に、必ず届く。
剥がしても、翌朝には戻ってくる。
まるで、校舎そのものが呼吸しているかのように。
「裏切り者見つけた」
その一行が、まるで学校全体の空気を操作するスイッチ。
誰かが怯え、誰かがささやき、誰かが疑う。
紙一枚で、人の心はこれほど簡単に揺さぶられるのかと奈良は思った。
貼り紙が出るたび、奈良は心臓が張りさけそうになる。
それが影の仕業であることを、奈良だけが知っていたからだ。
放課後の階段下、影は笑って言った。
「ね〜、奈良君。難しく考えなくていいよ。君はただ、あの言葉通りに人を動かせばいいんだよ。それで、学校全体は面白いくらいに勝手に動き出すんだからね〜。」
実際、その通りになった。
「裏切り者」と書かれれば、みんな互いに疑心暗鬼になり、教室の空気はねっとりと濁る。
奈良はその中で「会長」として振る舞い、巧みに場を収める。
生徒達からは「頼れる」と称賛の声が寄せられた。
しかし奈良自身は、影の脚本をなぞっているだけ。
その後ろめたさを隠すために、奈良はますます「完璧な会長」を演じ続けるしかなかった。
―――
影の視線は、ある時から一人の教師に向けられていた。
3年2組の担任、高岩洋平。
「え?高岩?潰しがいあるじゃ〜ん。困難を乗り越えて、みんなを巻き込んで、光ろうとする。キモくね〜?」
影の口調は軽い。
しかし、その奥に宿る黒い熱は、奈良の胸を刺した。
高岩は次々と事件やトラブルに対処し、生徒の信頼を勝ち得る先生。
ときに保護者と正面からぶつかり、同僚にも嫌な顔をされながら、それでも生徒の前では堂々と立ち続ける。
「正論は正義じゃない」
「信頼とは、わからないを抱えたまま向き合うこと」
そういう言葉を黒板に刻み、生徒達に伝えていた。
影にとって、それは苛立ち以外の何物でもなかった。
同じ舞台に立つ大人でありながら、影の言葉ではなく自分の言葉で人を動かし、変えていく力。
その存在は影の計画を確実におくらせる。
それが影にとって興奮に変わった。
「次は、別の駒を使おうか〜。」
影はそう言って笑う。
「ここから面白くなるよ〜。」
奈良は眉をひそめた。
いまの言葉は、誰に向けたものなのか。
影は答えない。
語尾だけが曖昧にほどけ、過去の輪郭をわざと曇らせたまま、次の指示だけを置いていった。
―――
電車で向かいに座った生徒の耳に、白いイヤホンが光る。
奈良の視線がそこに触れるだけで、胸の奥にうっすら汗がにじむ。
名前を呼ばなくても、人は印をつければ追いかける。
影に教えられた手順が、街の雑音に紛れて立ち上がる。
そう、影の興味は3年3組の香取ななみへ。
学校の中心で囁かれる存在。
彼女は隠していたが、読者モデルとして小さな知名度を持ち、ファンの生徒や大人も少なくない。
影はその「人気」を逆手に取った。
SNSの匿名アカウントを操り、「白いイヤホンをしている子はあの子の仲間」という暗号をばらまいた。
見つけた人だけが仲間という合言葉が、地図アプリより正確に彼女の動線を描き始める。
白いイヤホンをつけたストーカーまがいのファン達、野次馬が、ななみの帰り道に現れるようになった。
「応援してるよ」
「味方だからね」
そんな甘い言葉を囁きながら、彼女の行動を逐一監視する。
影が流す情報を元に、まるでゲームの参加者のように彼女を囲む。
ななみは次第に精神をすり減らし、夜ごと怯え、教室でも孤立。
やがて、冬の夜。
彼女は帰りの暗い廊下で、誰かに誘われ、凍りついた地面に崩れ落ちた。
その死は未だに未解決。
しかし奈良は知っている。
背後で糸を引いていたのは影。
そして、おそらく刺したのも...。
「白いイヤホン」という条件を仕込んだのも、ななみを孤立させるための仕掛けも、すべて影の遊戯。
―――
そして、あの冬の校舎裏。
夕暮れの赤が壁を染める中、義一は影に呼び出される。
寒風の中で影はナイフを弄び、その刃先に西日の光を反射させていた。
「ふふ...。ななみちゃんの件、あれいいこと思いついたんだよね〜。」
影の声はいつもより軽い。
義一は唇を固く結び、言葉を飲み込む。
「あれさー、君のイジメてる原口のせいにしちゃわない?」
「え...。どうやって?」
「君を刺したってことにすればいいじゃーん。って思ってさ〜。」
刃の光が義一の目にちらつく。
胸の奥に冷たい汗がにじむ。
「そしたらさ〜。原口捕まるだろ?か〜ら〜の〜俺が自殺に導くからOK。」
「…。」
「ななみちゃんを殺した犯人は、君を刺して、のちに命を絶つ...。完璧なシナリオでしょ〜?」
影の笑みは、楽しげな遊戯の続きを語る子供のようだ。
「これで〜。万事解決じゃん。」
「やめてください...。僕にはできません...。」
義一の声は震えていた。
「えー?いいのーーー?そんなこといって(笑)」
「嫌なものは嫌です。もう従えません。」
「ふふ...。奈良君、いいこと教えてあげようか?」
「知りたくありません...。」
「ここでク〜イ〜ズ〜。問題!ななみを刺したのは、いったい誰?」
(え...。まさかそんなわけない...。)
「チックタック、チックタック。はーい!失格ーー。」
「...。」
「残念でした〜。正解は翔君でした〜。」
「ふふ...。あーーーははははは〜。」
奈良は体が凍って動けない。
影は耳元に顔を近づけ、囁いた。
「じゃ、始めるよ。」
「3カウントで刺すね。」
影が指を折る。
「3…」
義一は覚悟を決める。
「2…」
心臓がとまりそうだ。
そして、刃が閃き、義一の脇腹を裂いた。
熱い血が制服を濡らし、膝が崩れる。
「ほらぁ…。これで原口の罪は完成だね。」
影は吐息混じりに囁いた。
「君は被害者であり、証人。舞台は整ったよ。あとは、まかせて〜。」
血に霞む視界の中、義一は壁に手をつきながら影を睨みつけた。
怒りと屈辱が渦を巻き、声にならない呻きが喉漏れる。
「あ...。忘れないでね〜。君を刺したのは君だから。」
そして、この瞬間、奈良義一に「影を消す」という決意を芽生えさせる引き金となる。
―――
留置所に居合わせた原口の前で、影はある行動を取った。
口パクで2回。
「俺が殺した」
そして面会室のガラスに、スケッチブックの端だけが映る角度を作る。
警察には見えない高さ、原口にだけ届く距離。
白紙の中央に、太い一行。
原口の顔色が、灰に落ちるの光景を奈良は影から聞いた。
教師である自分が、生徒会長刺傷事件の犯人に仕立てられただけでなく、生徒殺しの目撃者にされる。
そして、あのスケッチブックの文字。
影の「遊び」に巻き込まれ、真実を知ってしまったことが、原口を追い詰めたゆえの自殺。
―――
原口の自殺、奈良の苛立ち。
やがて流れ込んできた報せ。
〈原口圭介、留置場で自殺〉
テレビの画面にその文字が踊ったとき、奈良の背中を冷たい汗が伝った。
罪悪感で自殺未遂をはかり、記者会見をして、自分の嘘を告白。
それは影から身を守るための行動。
(全部…影のせいだ。)
待ち合わせのたび、影は10円玉を指の甲で弾いて遊んだ。
弾かれた硬貨が落ちる音の数だけ、人が壊れていく。
生徒を操り、教師を壊し、人の命さえも「遊びの駒」にした。
そして、弟の翔までも犯罪者にした。
奈良の胸には、初めてはっきりとした感情が芽生えていた。
恐怖でも、従属でもない。
殺意。
影を消さなければ、この学校も弟も壊され尽くす。
奈良には憎しみの炎で理性を失いつつあった。
―――
退院から数日。
奈良義一の部屋は、冬の冷気と沈黙に満ちていた。
カーテンを引いたままの窓。
机の上に積まれた未開封の郵便物。
弟の翔は何度も「外に出よう」と声をかけたが、義一はうなずくだけで動かなかった。
それでも。
校門に貼られた新しい紙を見た瞬間、体の奥で何かが再び燃えた。
《裏切り者はまだいる》
影がまだ、遊んでいる。
原口が死んでも、ななみが殺されても、終わらない。
「影」の存在を終わらせなければ、何も変わらない。
義一は影の元へ向かう決意をする。
絶対に踏み入れてはならない場所。
それは影との契約の必須条件。
もはや、奈良にとってはどうでもよかった。
―――
奈良は「ありがとう」という定食屋に立っていた。
夕暮れの街に、のれんが揺れ、厨房の奥から油の弾ける音が漏れてくる。
義一は、のれんの前に立ち、誰かを探していた。
待つしかない。
店から出てくるのを。
しばらくして、背後から声がかかった。
「奈良会長?」
振り返ると、そこにいたのは鈴木寛人、藤田玲奈、村上啓太、三澤沙織の4人。
意外すぎる顔ぶれに、義一は言葉を失う。
「会長がなぜここに?」
玲奈が鋭く問いかける。
義一はわずかに間を置き、短く答えた。
「弟を探してるんだよ。」
啓太が眉をひそめる。
「弟さん?ここによく来るの?」
「そうなんだ。ここはうちの学校でも人気の店だからね。こここに来たら弟がいるかもって思ったんだよ。」
互いに深くは踏み込まない。
生徒達もただ「聞き取り調査の一環」として動いていた。
今はそれ以上の意図を隠しておくしかない。
「…じゃあ、弟を探しに行くから、また。」
奈良は視線を逸らし、踵を返した。
沙織は声をかけられなかった。
会長の背中は、あの壇上で見せた誠実さと同じなのに、なんだか違って見える。
玲奈の視線は、白いスニーカーを捕えた。
泥が固まってこびりついている。
この街の舗装された商店街で、あの泥はつかない。
(どこから来たの…?)
その疑問が喉まで出かかったが、玲奈は飲み込んだ。
(私達は聞き取りに来た。なのに、聞くべき相手は誰?)
湯気と出汁の匂いが、躊躇を押し流すように鼻腔を満たした。
のれんをくぐる。
中に入ると、定食屋の空気は拍子抜けするほど和やか。
厨房から顔を出した男、中川有一郎は、頭にバンダナを巻き、笑いながら声を張った。
「いらっしゃいませー!お、毎度〜?。今日はカツ丼か? それともしょうが焼き?あ、オレのおすすめはサービスランチだぞ、味噌汁おかわり自由!」
ホールを駆け回りながら、常連客に冗談を飛ばし、隣の席では南條と世間話をして笑いをとっている。
「出前いってきまーす!」と元気に声を上げ、バイクの鍵を指でくるくる回す姿は、どう見ても愛嬌のある店員だった。
寛人が小声で呟いた。
「明るいだな〜。」
沙織も頷く。
「うん。天然で、おちゃらけてるけど、愛されキャラ。」
定食屋「ありがとう」の空気は、笑い声と湯気に満ちている。
けれどのれんの外を去っていった奈良の胸には、重い影が沈み続けていた。
(手を下すのは僕じゃなくてもいいのかもしれない。)
一瞬の安堵。
しかし次の瞬間、その安堵を抱いた自分が裏切り者なのではないかという疑念が、義一の胸をつらぬく。
安堵さえ、影に操られている錯覚のように思えた。




