名前のない噂 ④
午前6時の少し前。
まだ校舎の窓は白く曇り、吐く息が空中でほどける。
正門の掲示板に、紙片が一枚、揺れていた。
《裏切り者はだあれ》
黒マジックの太い線。
癖のある筆圧。
早朝の静けさが、その一行を校内に刻みつける。
同時刻。
薄暗い居間のテレビの隅を、赤い帯が走る。
速報 県立高校教員・原口圭介(45)
留置場で自殺
生徒会長刺傷事件の容疑で逮捕・否認中
昨秋の「香取ななみ殺害」との関連を捜査
画面が切り替わり、校門前のLIVE映像。
アナウンサーが抑えた声で読み上げる。
「警察は昨夜遅く、原口容疑者が自殺を図り死亡したと発表しました。都内高校生(18)刺傷事件との関連に加え、いまだに未解決事件となっている同校女子高生殺害についても行動記録の一部が重なるとして、同一人物の可能性を視野にいれて捜査が行われるようです。」
SNSは一気に黒と赤に染まる。
《#コールドメガネ》《#二つの事件》《#自殺は真実》が瞬く間にトレンドを埋め、匿名の確信で世界に広まっていく。
犯人は原口。
それ以外の可能性は、もう表示されることはなかった。
―――
3年2組の教室。
朝からざわめきが沈まらない。
机が軋み、椅子が鳴る。
「マジかよ。自殺?」
「やっぱアイツなの?」
「だってななみさんの件も繋がるってニュースでやってたし。」
藤田怜奈は、思わず手に力が入る。
血の広がる生徒会室。
腹部を圧迫する原口の手。
「救急車を呼べ」と沙織に伝えた声。
それが犯人のすることなのか?
何度、考えても納得はいかなかった。
鈴木寛人が小声で言う。
「変だよ。何かおかしくないか?」
久保美優は唇に力を込める。
「救急隊も的確だったって言ってたのに、なぜ犯人確定になるの?」
その声を、周囲の視線が鋭く刺す。
空気を壊すな。
言葉にならない圧が、教室の酸素を薄くする。
その時、村上啓太が飛び込んできた。
「おい、昇降口見た?また例のやつ貼られてた。」
スマホ画面に映る張り紙の1行。
《裏切り者はだあれ》
誰かが息を呑む。
「裏切り者って、まさか原口を庇う生徒って意味じゃないよね?」
教室の扉が開き、高岩と駒沢が入って来た。
沈黙の中で、彼は黒板の前に立ち生徒に告げる。
「みんな、おはよう。今回の件、どんな言葉が正しくて、どう説明すればいいのか、先生にも分からない。でも、答えが決まっていない時に、決めつけることだけは、どうかしないでほしい。」
静かに頷く者。
目を逸らす者。
その空気を誰かが裂いた。
「でも、原口先生は自殺したんですよね?答え、出たんじゃないですか?」
「今、言ったろ?それが決めつけだ。変な噂やネットでの誹謗中傷は、絶対にしないでほしい。」
―――
奈良義一は病院のベッドで、薄い毛布を握りしめていた。
また同じ夢。
床に血が広がり、そこに倒れる自分。
布を押さえ続けるのは原口圭介。
呼吸は荒く、無表情のまま血を止めている。
そのすぐ横で、自分の声が反響する。
「刺したのは先生だ!」
声は何度もこだまし、四方の壁にぶつかっては増幅する。
やがて声は喝采に変わり、〈勇気ある告発〉〈会長は正義〉という文字が宙に浮かぶ。
義一は汗でびしょ濡れになり目を覚ます。
吐き気がする。
グラスを取ろうとしたが、手が震えて水がこぼれる。
床に広がった水は、血の記憶をもう一度、連想させた。
(原口先生が刺したという嘘を俺が言ったんだ。刺したのは俺なのに。)
しかし、心の声を言葉に変えれば、すべてが崩れる。
勇敢と讃えられる自分も、学校の象徴も、家族の信頼も。
胸の奥で何度も脈打つ鼓動。
罪は決して消えない。
日を追うごとに悪夢を見る時間が長い。
カーテンを開けた看護師の背後で、テレビが配慮なく字幕を流している。
《担任教師・原口圭介、留置場で自殺》
「え...?」
(まさか...。俺の嘘が原口先生を追い詰めて殺した..?.)
画面の下に原口の文字が流れるたび、義一の胸は針で刺されたように痛む。
ベッド脇の花瓶には、新しい花とカード。
〈早く戻ってきてください〉
〈会長がいてくれてよかった〉
それを見つめれば見つめるほど、吐き気は増した。
(俺が原口先生を殺した。俺はなんてことを...。)
手のひらに爪を立てても、罪悪感は薄れなかった。
―――
原口が自殺した。
その報せは、学校を一瞬で混乱に陥れる。
教頭の東海林は鳴りやまない電話に追われ、校長の根岸は保護者説明会の資料を抱え青ざめている。
昇降口には報道陣が殺到し、生活指導の田中が両腕を広げて必死に出口をふさいでいた。
昇降口の掲示板には、剥がされた紙の跡が残っている。
テープの角が毛羽立ち、そこにかつて何が貼られていたかを告げていた。
《裏切り者はだあれ》
見えない文字が、生徒達の胸の内で繰り返し苦しめた。
―――
病室のテレビは校門前の中継を映していた。
カメラに向かって、アナウンサーが原稿を読む。
〈生徒会長の勇気ある行動が、多くの生徒を救いました。〉
〈学校側は更なる再発防止を求められています。〉
モザイクの奥で泣く生徒、無表情で通り過ぎる生徒。
義一はリモコンを握りしめ、画面を消した。
しかし、言葉の余韻は耳の奥にしつこく残る。
「勇気」「正義」「告発」
すべてが剃刀のように胸を切った。
その夜。
点滴の音に合わせて、思考は暗い渦に沈んでいく。
ノートを開き、震える文字で書きかける。
白紙は雪のように冷たく、指の跡だけが残った。
義一はペンを握り直し、思わず一行を書いてしまう。
《裏切り者はだあれ》
(僕のことだ...。)
瞼を閉じれば、また声が響く。
「刺したのは先生です。」
義一は目を開け、白い天井を見つめる。
朝はまだ来ない。
しかし罪の重さで1日がとても長く感じた。
午前4時。
窓の外はまだ群青色に沈んでいる。
奈良義一はベッドの端に腰をかけ、両手で顔を覆っていた。指の隙間から覗く世界は狭く、光は差し込まない。
点滴の滴る音が止まる。
ナースコールを押すこともできず、ただ背を丸める。
頭の奥では声がまた始まっていた。
「刺したのは先生です。」
「勇敢な証言者。」
「会長のおかげで」
言葉が群衆のように押し寄せ、心臓を圧迫する。
その時、ドアの前に影が見えた。
看護師ではない。
もっと軽く、ためらいのある足取り。
義一は顔を上げた。
そこに立っていたのは弟の翔。
「兄貴…。」
その声で胸は張り裂ける。
翔は椅子を引き、ベッドの隣に腰を下ろす。
「返事くらいしてよ。」
声が出ない。
代わりに震える息が漏れる。
沈黙のあと、翔が控えめに言った。
「ニュース、見た?」
義一は視線を落とす。
「僕のせいなんだ。」
瞬が身を乗り出す。
「何が?」
「先生に刺されたって嘘を…。」
瞬が動揺する。
「やめなよ、そんな冗談いうの。」
「冗談じゃないんだ!」
義一は声を張り、胸を掻きむしる。
「僕自身が刺したんだ!原口先生じゃない!」
瞬は立ち上がり、兄の肩を揺さぶった。
「黙れよ!そんなこと言ったら、兄貴が終わるぞ!」
「もうとっくに終わってる!」
義一は叫んだ。
「正義の会長?勇気ある証言者?そんなもの全部嘘だ!俺は…俺が光るために先生を利用したんだ!」
瞬の手が震えた。
窓の外でフラッシュが瞬く。
病院を囲む報道陣のレンズが、今この瞬間を嗅ぎ取っていた。
義一は両手で頭を抱え、膝に額を押し当てた。
「まさか、先生が死ぬなんて…思わなかった。ちょっと影を背負わせただけのつもりだったのに…。なんで死んだんだよ!」
瞬は拳を握りしめ、唇を噛んだ。
「兄貴…。」
義一は顔を上げる。
瞳は濁り、涙が滲んでいた。
「俺が裏切り者なんだ。」
その声はかすれていたが、瞬の胸には鋭く突き刺さった。
廊下の先で足音が響く。
看護師と警備員が駆け寄ってくる気配。
しかし、兄弟の間に落ちた言葉だけは、誰にも消せなかった。
―――
病院は、異様なざわめきに包まれていた。
正面玄関を報道陣が埋め尽くし、カメラが一斉に上空を狙う。
「おい、屋上だ!男子学生が!」
無数のフラッシュが白く弾け、建物全体が緊張で震えていた。
屋上のフェンスの外、奈良義一は足をかけている。
風が頬を打ち、足元には吸い込まれるような空白が広がる。
包帯に覆われた腹部を手で抑えながら、鉄のワイヤーをかろうじて握りしめていた。
「兄貴!」
瞬の叫びが背中に突き刺さる。
振り返れば、弟の顔。
その向こうには、伸ばされた無数のレンズ。
隠すことは、もうできない。
義一は唇を噛み切るほど強く噛み、喉の奥からちぎれるような声を吐いた。
「僕だ。俺なんだよ!原口先生を犯人にしたのは、この僕なんだよ!!」
屋上を裂く風が一瞬で吹き抜け、言葉ごと空へ吸い込まれる。
瞬は目を見開いたまま声を失い、下から突き上げるシャッター音が嵐のように義一を追い詰める。
無数の光が、逃げ場のない真実を白日の下にさらした。
義一は仰いだ空に声をぶつける。
「あの夜、自分自身を刺した!そして原口先生に刺されたと証言した!そうすれば英雄になれる、光になれる、そう思ったんだよ!そんな事のために原口先生の命を奪ってしまったんだ!」
涙は風に引きちぎられ、頬を伝う前に乾いていく。
それでも言葉は止まらない。
「勇敢な会長だなんて呼ばれるたび、胸の奥で崩れ落ちそうになった。こんな馬鹿みたいなくだらない嘘をここで今!終わらせる!」
瞬は鉄柵に爪が食い込むほど掴み、怒鳴った。
「やめてくれ兄貴!ここで投げ出さないでほしい!兄貴は生きてその事を皆に伝えるべきじゃないの?俺がいつでもそばにいるから!」
義一の指先がフェンスを握り直す。
下の群衆が波のようにざわめき、上空ではフラッシュが朝日よりも鋭く屋上を貫いていた。
義一の指がフェンスの外で震えていた。
風が強く吹き抜け、靴底がわずかに滑る。
翔は必死に手を伸ばした。
「兄貴!生きて伝えるんだ!兄貴の言葉で終わらせようよ? お願いだよ!もう1人で何もかも背負わないで!」
義一の肩が小刻みに揺れる。
「僕はもう、光じゃない。ただの汚れた闇になってしまった。」
かすれた声が漏れ、指先から力が抜けかけた。
瞬は叫んだ。
「汚れてもいいじゃないか!俺はこの手を離さない!兄貴が落ちても、俺はいつでも兄貴の味方だから!」
瞬は鉄柵にしがみつき、必死に腕を伸ばした。
「兄貴!お願いだよ!手をかして!」
義一の指先がその手に触れた。
ほんの一瞬、二人の体温が確かに交わる。
汗で濡れた手が滑った。
義一の瞳が大きく揺れ、恐怖と驚きが入り混じった表情を浮かべる。
「ああっ!」
瞬の叫びは風にかき消される。
義一の身体が、フェンスの外へと吸い込まれるように落ちていく。
屋上も、下に群れる報道陣も、病室の窓から覗く患者も、誰もが息を止めた。
世界から音が消え、ただ風の音だけが残る。
カメラのフラッシュすら止まり、空気全体が凍りつく。
義一の身体は白い布の上で大きく弾んだ。
病院が緊急に設置していた救命マット。
その柔らかな反発が、彼を地面から遠ざけた。
「助かった...?」
誰かの声を皮切りに、ざわめきが一斉に爆発した。
群衆は胸を押さえ、記者達は再びシャッターを切り始める。
看護師が駆け出し、警備員がマットに駆け寄る。
屋上に立ち尽くした翔は、全身の力が抜け、鉄柵に崩れ落ちていた。
安堵の声と混乱のざわめき。
その中で、義一はマットの上に横たわりながらも、微かに目を開けていた。
かすれた唇が震える。
「まだ...生きてる…?」
義一は震える声でつぶやいた。
「俺はもう隠さない。」
フェンスの外に広がる朝の光は、もはや脅威ではなく、2人を照らす冷たい真実の証明のように見えた。
カメラのフラッシュが重なり、世界中が奈良義一の告白を目撃する瞬間となった。
―――
瞬はベッドの傍らに座り、涙でぬらす兄の顔をまっすぐ見ていた。
「死んで終わらせようとするなんて、兄貴は卑怯だよ。」
義一の体が大きく震えた。
言葉を吐けば、世界は一瞬で崩れる。
だが沈黙のままでは、影が増殖するだけ。
瞬は兄の涙を見ても、すぐには声をかけられなかった。
外の廊下からは記者達のざわめきが壁越しに響き続けている。
義一は涙に濡れた顔を上げ、翔を見た。
「わかってる。僕はもう終わりだ。『勇敢な会長』って呼ばれるたびに、胸の奥で死にたくなってたんだ。まずはその嘘を終わらせないとな。」
瞬は平常心を保つ。
「なら、さ。一緒に終わらせようよ。兄貴が逃げずに伝えようとするなら、俺がいつでも隣にいるよ。」
義一は頷いた。
窓の外、記者のフラッシュが朝日よりも鋭く瞬いていた。
―――
2日後。
病院の一角にある講堂が、急ごしらえで会見場に仕立てられていた。
折り畳み机が横一列に並び、その背後には「病院広報」と印字された簡易ボード。
白い蛍光灯が照りつけ、会場全体を冷たく硬直させている。
扉が開く。
奈良義一は白い患者服に身を包み、翔に支えられながら現れた。
背後には、教頭の東海林と担任代理の高岩。
三人が前列に腰を下ろすと、報道陣のシャッター音が一斉に弾けた。
司会役の病院広報が立ち上がり、一礼する。
「この度は、本件に関しまして、地域の皆様、保護者の皆様、そして関係者の皆様に多大なご心配とご迷惑をおかけしておりますことを、心よりお詫び申し上げます。」
東海林がマイクに手を伸ばす。
眼鏡の奥の瞳は沈痛に濡れていた。
「このたびは学校を代表して、改めて深くお詫び申し上げます。担任であった原口教諭は既に命を絶っており、このことは教育現場にとって痛恨の極みです。現在は代理担任の高岩と共に、生徒の安全と真実の解明に全力を尽くしております」
彼の言葉は硬質で、形式的で、それでも一言ごとに重みがある。
会場の空気が一瞬だけ凪ぐ。
その隙をついて、記者の一人が声を張った。
「奈良君自身の言葉を聞かせてください!」
高岩の背筋がピクリと動いた。
「少し待ってください。彼はまだ回復途上です。質問は順を追って...。」
声には教師らしい張りがあり、報道陣の押しを一瞬だけ押し返した。
しかし義一は、その言葉を遮るようにマイクへ顔を上げた。
揺れる視線が、無数のレンズをまっすぐに捕らえる。
「嘘をつきました。原口先生は被害者です。僕が僕自身を刺しました。」
会場が爆ぜた。
どよめきとシャッター音が嵐のように広がる。
東海林の顔色が一気に青ざめ、マイクに手を伸ばしかける。
「奈良君、それ以上は...」
その前に、高岩が強く掌を出して制した。
「彼の声を聞いてください!」
その一言に、場の空気が一瞬切り裂かれる。
義一は震える声で続けた。
「原口先生を犯人にしたら、僕は英雄になれると思ったんです。そのために先生を犠牲にしました。」
東海林は顔を覆い、高岩はじっと義一を見据えていた。
教師として止めたい気持ちと、生徒が真実を語る瞬間を見届けようとする気持ちがせめぎ合い、ただ拳を膝の上で握りしめるしかなかった。
会場には、息を呑む音すら吸い込まれていった。
その中心に、奈良義一の震える声だけが鮮烈に響き続けていた。
「ご着席ください。」
司会の声が震えていた。
マイクの前に腰を落とすと、義一はしばらく何も言えなかった。
報道陣のざわめきが広がり、カメラのレンズが一点に絞り込む。
奈良は椅子に崩れ落ちるように項垂れた。
「僕こそ裏切り者なんです。」
その一言が落ちた瞬間、会場は地響きのようなどよめきに揺れた。
「君が犯人ということでよろしいですか?!」
「真相は?」
記者達の声が次々と飛び交い、照明の熱気と喧騒で息が詰まりそうだった。
義一の肩が大きく揺れる。
そのすぐ脇に座っていた東海林が、慌てて前に身を乗り出した。
「やめてください! これ以上の追及は控えて...。」
声を張るが、報道陣の波に押し流される。
高岩は義一の背に手を添え、落ちそうな身体を支えながら記者席を睨みつけた。
「彼は療養中の身です!ここは人を追い込む場じゃないでしょう!彼は未成年ですよ!」
机を叩くような声に、一瞬だけシャッター音が止む。
だが、前列の記者が身を乗り出した。
「同校の女子高生殺害の件についてお聞かせください!原口教諭が疑われたあの事件。あなたが関与していたのではありませんか?」
会場が凍りつく。
その名が放たれた途端、空気は一気に変わり、沈黙が広がる。
フラッシュだけが無遠慮に弾け、義一の顔を照らし出す。
義一の肩が震えが止まらない。
東海林が手を伸ばしてマイクを遮ろうとしたが、義一は小さく首を振った。
視線を落とし、かすれた声で答える。
「それは僕ではありません。」
声は細く、震えていたが、マイクはその音を会場の隅々まで届けていた。
「確かに原口先生を嘘で追い詰めたのは僕です。でも、女子高生は殺してません。」
高岩が彼の肩を抱き寄せ、東海林は記者席に向かって必死に声を張る。
「本日の会見はここで打ち切ります!これ以上は許されません!」
会場にはざわめきが広がった。
「じゃあ誰が?」
「原口教諭の冤罪は確定?」
「女子高生の事件は別の犯人?」
怒号と質問が飛び交い、制御は完全に失われていく。
病院スタッフが慌てて人垣を作り、奈良達を出口へ誘導する。
扉が閉まる直前まで、フラッシュと怒声は嵐のように響いた。
―――
会見から一夜明けた朝。
校門の外はもう学校じゃなかった。
通学路を埋め尽くすのは制服姿の列ではなく、肩に機材を担いだ大人達。
黒いカメラの群れ、マイクの先端が獲物を狙うように突き出され、三脚の脚が白い吐息の中で蜘蛛みたいに広がっている。
「奈良会長のこと、どう思いますか!」
「原口先生についてお聞かせください!」
突き刺さる声に、生徒達は鞄で横顔を隠し、足を速める。
目が合えば記事にされる。
呼吸をすれば音に切り取られる。
そういう恐怖が、朝の冷気より濃く張りついていた。
昇降口の扉を閉めても、安心にはならない。
校内放送の冷たい声が廊下を這う。
「本日は通常授業を行います。報道関係者への接触や不用意な発言は控えてください。」
金属的な声が消えると同時に、教室はざわめきに溶けた。
「テレビで見た? 会長、自分で刺したって…。」
「ななみのこともそうなんじゃね?」
「違うって言ってたけどな。」
「嘘つきが何言っても信用できなくね?」
ひそひそ声は、嘲笑に変わるのに時間はかからない。
昨日まで「正義の会長」と呼ばれていた名札が、もう「嘘つき」に書き換えられている。
教師が黒板にチョークを走らせても、誰も見ていない。
机の間を漂うのは、生温い不信の空気だった。
休み時間、机の下で光るスマホの画面には、見慣れた名前がもう別の言葉で囲まれていた。
〈#奈良会長最低〉
〈原口先生を殺したのはこの嘘つき〉
〈ななみもやったに決まってる〉
〈学校ぐるみで隠してたんだろ〉
指先でスクロールするたび、悪意は増えていく。
笑い泣きのスタンプ、切り抜かれた会見映像、文字より速く広がる中傷。
教室のざわめきと画面のざわめきが重なって、逃げ場はなかった。
窓の外をのぞけば、まだカメラがこちらを狙っている。
黒いレンズは人間の瞳より冷たく、どこにいても監視されているような錯覚さえ与える。
その視線の下で、学校という場所はもう「避難所」じゃなく「見世物小屋」に変わりつつあった。
―――
3年2組の空気は、曇った窓ガラスよりも重かった。
誰も黒板を見ず、机の間を漂う声は沈んでいた。
鈴木寛人は拳を膝に押しつけ、口を開く。
「やっぱり原口先生は...。」
そこまで言って、言葉を飲み込む。
藤田怜奈は寒さをしのぐみたいに自分の肩を抱いた。
「でも、まだわからないよ。だって、ななみの件は?」
村上啓太は視線を落としたまま、控えめに答える。
「原口先生が完全に白だなんて、誰も言ってないよな。」
教室の隅で、美優が机に手を置き、かすれた声を出した。
「でも、会長が嘘をついてたのは確かなんでしょ?英雄みたいに見せたくて…。」
唇が震え、瞳の奥に涙がにじむ。
吉田はノートの端に細い字を走らせながら呟く。
「会長は、ななみは僕じゃないって言ってたよな。」
怜奈がすぐに顔を上げる。
「じゃあ、誰がやったの?本当の犯人はどこにいるの?」
沈黙が落ちる。
曇り空から漏れる白い光が机の影を濃くしていた。
鈴木が控えめに言う。
「俺達しか動けないんじゃないか?」
美優は震える声で答えた。
「怖い。でも…逃げられないね。」
啓太が深く息を吸い込んだ。
「裏切り者は…まだ、この学校にいるかもな。」
その言葉は重く教室に落ち、誰も顔を上げられなかった。
廊下の掲示板には、新しい紙が貼られていた。
《偽りの裏切り者》
赤いペンの走り書き。
それが、教室の空気をさらに冷たくした。
―――
放課後の図書館。
窓際の机に集まった6人は、ノートやプリントを広げては視線を落とすばかり。
鈴木寛人が机の中央に手を置いた。
「整理しよう。奈良会長が会見で言ったこと。『刺されたのは自分』『原口先生が刺したのは嘘』『自分でやった』」
藤田怜奈はノートを閉じ、短く言った。
「先生は無実。あの時、止血してたじゃん。刺す人の手じゃなかったし。」
村上啓太が答えた。
「でも、ななみの件は否定した。全部自分だって言えば筋は通るのに、そうはしなかった。」
久保美優はノートの端をめくりながら声を落とした。
「救急隊の人に聞いたんだ。原口先生の止血は正確だったって。本当に助けようとした手だったって。」
三澤沙織が小さく息を吐いた。
「私は、最初に会長を見た。倒れてて、叫んで…。あれが全部演技だったなんて、まだ信じられない。」
吉田直樹がノートPCを開き、画面をこちらに向けた。
「掲示板の書き込みを見直した。『廊下で刺された』っていう噂、同じ文が複数のアカウントから流れてる。明らかに作られてる」
怜奈が言葉を飲み込んだあと、絞り出すように問う。
「じゃあ、誰がそんなことを?」
「わからない。でも、会長1人の仕業じゃない。」
吉田は画面を閉じた。
「誰かが裏で原口先生を悪者にする空気を作ろうとしていたのかも。」
寛人はノートを広げ、書いたメモを指で押さえる。
《鍵 → 用務員角田の証言》
《止血 → 救急隊の証言》
《証言の食い違い → 奈良本人》
《偽情報 → ネット》
交わる線が、矛盾を形にしていた。
誰もが沈黙した。
頭の中で線をなぞればなぞるほど、嘘と真実の境目が曖昧になっていく。
「奈良会長は嘘をついた。だけど、彼の言葉すべてが嘘とは限らないんじゃないかな?」
沙織がそう呟くと、机の上の紙が冷たい光を帯びた。
原口の潔白、奈良の偽証、そしてななみの死。
3つの事実が同じ場所に並んだとき、ようやく全員が理解した。
まだ核心は掴めていない。ここからが本当の始まりなのだ、と。
「結論はひとつだ。」
寛人の声が机の木目に落ちた。
「原口先生は刺してない。奈良会長は自分で刺し、嘘を主張した。」
怜奈は机を見つめたまま言った。
「でも、ななみの件は?だとすると、本当の犯人は誰?」
答える者はいなかった。
「まだ終わってないんだ。きっと誰かが続けてる。」
―――
夜の病室。
瞬は椅子で眠っている。
静寂を裂いたのは、義一のスマホの震動音。
画面には「非通知」。
鼓動が激しく響く。
震える指で応答すると、すぐに声が流れ込んできた。
「話が違うじゃーーん。なんで記者会見なんてしたのー?」
血の気が引き、義一は思わずベッドの柵を握りしめた。
喉が焼けるように乾く。
「す、すみません…。僕にはこれ以上、耐えられなかったんです...。」
「バラしちゃおうかなー君の秘密。だって君か悪いんだよ?裏切りは良くないよー。」
義一は思わず息を呑む。
「や、やめてください。お願いします…。本当にごめんなさい。」
「ふふ...。なーんてうっそー。ビビった?」
声はさらに楽しげに続いた。
「あーあ。せっかく原口を自殺に追い込んだのになぁ。責任、とってもらうよー。」
義一の手は震え、声が裏返る。
「これ以上、なにを...。もうこれ以上は...」
その問いかけに、耳を刺すような囁きで遮る。
「てかさー。世の中がおどろくだろうなぁ。君を刺したのって、君じゃないの知ったら。」
義一の顔色が蒼白になり、唇から音がもれた。
「…!」
「ふふ…。バラしたら君、家族の保証出来ないからね。」
声は粘りつき、奈良の胸を締め上げた。
義一は必死に言葉を絞り出す。
「わ、わかってます。。何も言いません。だからどうか…。」
通話はそこで唐突に切れた。
義一はスマホを床に落とし、肩を大きく震わせた。
冷たい汗が額を流れ落ちる。
(僕は知ってる。あの声の主を。けれど名前を口にすれば、すべてが崩れてしまう)
義一は両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。




