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沈黙の紙片 ~裏切り者のいる教室〜  作者: マリブン
Season1

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18/33

コールドメガネと呼ばれた教師 【番外篇】

鉄格子の冷たさが背に伝わる。

視界の端が暗く沈み、世界が遠ざかっていく。


原口圭介の胸に、次々と光景が甦る。

黒板にチョークを走らせる音、廊下に響いた「先生!」の声。


笑い声と罵声が渦を巻き、幻のように交錯する。

最後に浮かんだのは、教壇に立つ若き日の自分。

眼鏡の奥の瞳は迷いなく、声は張り、確かに生徒達と向き合っていた。


教室で「先生!」と呼ぶ声が聞こえた。


それは幻か、記憶か。

判別できなくても構わなかった。


掠れた言葉が漏れた瞬間、原口の視界は闇に包まれる。

走馬灯の光は途絶え、静かな暗闇だけが残る。


サイレンがなる。

警察の叫び声。


「おい誰か!13番が自殺を測ったぞ!」


「おい!しっかりしろ!」


それも虚しく原口圭介は、最後に思い出と共に息を引き取った。


―――


数日前。

鉄格子の向こうに広がる廊下は、昼と夜の区別を失う。

白い蛍光灯の明かりが常に点り、影というものを奪い取

る。

コンクリートの壁はひんやりとして、どれだけ息を吐いても曇ることはない。


原口圭介は、硬いベッドの上に身を横たえていた。

膝を立て、両手を額にあてる。

指の隙間から見える世界は狭く、まるで彼自身の心を映しているように思えた。


留置場に来てから、まだ数日しか経っていない。

すでに、時間の感覚は鈍り、数分前と数時間前の出来事の境界が曖昧になっている。

外からは新聞やネットニュースの切れ端が断片的に入ってくる。

「冷酷な担任」「コールドメガネ」「生徒から嫌われた男」。

そんな見出しが、彼の存在を一枚のラベルに変えていた。


 (俺は、いつからこんなふうに呼ばれるようになった?)


目を閉じた。

まぶたの裏には、かつての自分の姿が浮かんでくる。

その姿は、今の「冷酷」などという言葉とは無縁だった。


「時代が変わったんだ。」


その呟きは、自分自身への言い訳。

今の時代、教師が子供に大きな期待を寄せれば寄せるほど、裏切られる。

期待を押しつければ「ハラスメント」だと糾弾される。

優しさですら「下心」や「差別」として切り取られる。


かつて大人達は、子供の未来を信じ、期待してきた。

しかし今や、社会全体が子供に「過度な期待をかけることのリスク」を恐れている。

経済的不安、SNSによる拡散、保護者の過敏な反応…。

そうした時代の変化に、原口はついていけなかった。


彼の中では、正攻法こそが唯一の武器だった。

だからこそ、正攻法が「古い」とされる時代に入ってからも、頑なにそれを続けた。

結果、生徒達から「冷たい」「無関心」「コールドメガネ」と呼ばれるようになったのだ。


(俺は本当に冷たい人間か?)


胸の奥底で、昔の生徒の声が甦る。

「先生、ありがとう。あの時、叱られてよかった。」

「先生の言葉、ずっと覚えてます。」

卒業式の日に泣きながら抱きついてきた生徒の温もりは、確かに残っている。

しかし、あの温もりも今や過去の幻。


現代の大人は子供に期待することを恐れ、子供も大人に期待されることを拒む。

信じた分だけ裏切られる世界で、原口はただ「期待しない」という防御を選んだ。


それは、かつての彼を知る者にとって、あまりにも寂しい変化だった。


鉄格子の向こうから看守の足音が響く。

食事の時間を告げる合図だ。

原口は立ち上がり、トレイを受け取った。

冷めたご飯と味噌汁。

しかし今の彼にとって、温度など意味はなかった。


再びベッドに腰を下ろし、冷めた味噌汁を口に運ぶ。

鉄の匂いと塩気が混ざり、喉を通るたびに過去が胸にこみ上げる。


なぜ、自分はこうなってしまったのか。

問いは尽きない。

しかし、答えはまだ見つからなかった。


ただひとつ確かなのは、彼の心のどこかにまだ「明るかった頃の原口圭介」が生きているということ。

その声はか細く、届かないほど遠いが、確かにあった。


―――

―――


思い出は、光と影の両方を帯びて蘇る。

笑い声と汗の匂い、拍手のざわめき。

けれど、その背後にはいつも、誰かの視線や沈黙が潜んでいた。

教壇に立つ原口圭介は、まだ20代。

黒板にチョークを走らせる手は迷いがなく、声には張りがあった。


「おーい、そこ!寝てる場合じゃないぞ。ほら、一緒に解いてみろ。」

 

突然名を呼ばれた男子生徒があわてて立ち上がる。

教室中に笑いが起こるが、その笑いはからかいではなく、安心と親しみを含んだもの。


原口は、生徒と真正面から向き合う教師だった。

テストの点が悪ければ「ここから伸びるぞ」と励まし、失敗すれば「やり直せばいい」と背中を叩いた。

放課後の部活動にも顔を出し、野球部のランニングについていくことさえあった。

汗をかきながら声を張り上げる姿は、生徒から見ても「自分たちの仲間」のように見えた。


廊下を歩けば、生徒達が次々に声をかける。


「おはようございます!」

「先生、この前のプリント忘れました!」

「原口先生、バスケ部も見に来てくださいよ!」

 

どの声にも笑顔で応え、必要なら冗談を交えて返す。

その頃、原口は確かに慕われていた。


文化祭の準備のとき、クラスは模擬店で焼きそばをやることになった。

調理担当の生徒が火力の扱いに戸惑っていると、原口は腕まくりをして鉄板の前に立った。


「いいか、こうやってリズムをつけるんだ。ヘラは太鼓のバチだと思え!」


カンカンと鉄板を鳴らしながら麺を炒め、派手にソースを回しかける。

香ばしい匂いが立ち上がり、生徒達は歓声を上げた。


「先生、屋台のプロかよ!」

「うわ、見た目ヤバいけど味は最高!」


そのときの笑顔は、教師と生徒の垣根を越えていた。


体育祭では、応援団の法被を着て校庭を走り回った。

 

「声が小さい!もっと出せ!」

 

応援団長顔負けの激を飛ばし、生徒達は笑いながら全力で声を張り上げた。

表彰式ではクラスが優勝し、トロフィーを掲げる瞬間、生徒達は「原口先生のおかげだ!」と肩を叩いた。


あの頃、原口は信じていた。

生徒を信じ、期待をかければ必ず応えてくれる。

その信念は揺るがなかった。


しかし、最初の「裏切り」は突然訪れた。


3年生の男子学生。

普段は明るく、仲間とふざけてばかりいるが、授業を抜け出してゲームセンターに入り浸る癖があった。

原口は何度も呼び出し、真正面から向き合った。

 

「お前は頭がいいんだ。だからこそ、今逃げるな。3年の夏に努力できるかどうかで人生は大きく変わるぞ。」

 

その言葉に、男子は涙ぐみながらうなずいた。

 

「先生、俺やります。信じてください。」


しかし、その数日後。

保護者から学校に電話が入った。


「うちの子が原口先生に、長時間叱責されて精神的苦痛を受けたとききましたよ。進路指導の名を借りたパワハラじゃないんですか?」


原口は耳を疑った。

校長に呼び出され、事情を説明した。

 

「叱ったのは事実です。でも、それは彼を信じていたからで...」

 

「君の気持ちはわかる。しかし時代が変わったんだ。今は、生徒の自主性を尊重するのが原則だ。過度に踏み込むと、逆に学校が責められることになるんだ。」

 

冷たい言葉が胸に突き刺さった。


その男子生徒はその後、教室では原口に笑顔を向けた。

しかしSNSには匿名でこう書き込んでいた。

 

《担任に毎日説教されて地獄。マジでムリ。》

《信じてるとか言いながら、こっちの気持ち無視じゃん。》


画面を見たとき、原口は指先が震えた。

信じたはずの生徒が、裏で自分を「加害者」として描いている。

信じること、期待することが、こんなにも簡単に裏切られるのか?


そこから少しずつ、原口の笑顔は減った。

叱る代わりに、淡々と「記録」を残すようになった。

 

「○月○日、指導を行った。生徒は無言。」

「○月○日、授業を抜け出したため報告。」

 

文章は冷たく、簡潔で、感情を排除。

生徒からすれば、それは「無関心」に見えた。

しかし、原口にとっては「防御」。

もう二度と、裏切られたくなかった。

もう二度と、期待が刃に変わるのを見たくなかった。


放課後の職員室。

隣の席の若い教師が笑いながら話しかけてきた。

 

「原口先生、昔はもっと熱血って聞きましたよ。今とは全く違ったなんて意外です。」

 

原口は返事をせず、ただ書類に目を落とした。

胸の奥で、明るく慕われた頃の自分が静かに消えていくのを感じた。

生徒の笑顔も、祭りのような文化祭も、叱咤激励に応えたあの日々も。

すべてが遠ざかり、記録と数字だけが机の上に残った。


留置所のベッドに仰向けになり、原口は深く息を吐いた。

 

(あの頃の俺を、今の生徒達に見せることができたら、少しは違ったのだろうか。)

 

しかし答えは出ない。

時代は変わった。

期待は裏切られるものになり、教師は「期待しない」ことを選ぶようになった。


そして今、彼は「コールドメガネ」と呼ばれて、ここにいる。


―――


スマートフォンが教室にも家庭にも広がり始めた頃、原口の教壇の風景もまた変わり始めていた。

生徒はノートの代わりに小さな画面を覗き込み、黒板の文字よりも指先の通知を優先する。

「授業中はしまえ」と注意すれば、「今の時代に遅れてる」と笑いが起きた。

注意を重ねても、逆に「先生は理解がない」と陰口が広がっていく。


ある日の授業。

原口は質問を投げかけ、返事を待たずに一人の女子を指名した。

 

「どうだ、答えてみろ。」

 

彼女は驚き、顔を赤らめた。結局答えられず、涙を浮かべて席に戻った。

原口は「次はできる、信じてるぞ」と声をかけた。


しかし、その日の夜。

SNSには匿名の書き込みが並んだ。

 

《授業で恥かかされた。みんなの前で笑われた。》

《あの担任、無理。威圧感しかない。》

《コールドメガネって呼ぼうぜ》


翌日にはクラス中がその言葉を知っていた。

笑い混じりの呼び名は、皮肉にもすぐに定着した。


職員室で、同僚が苦笑交じりに耳打ちする。

 

「原口先生、いいんですか?コールドメガネって呼ばれてますよ。」

 

「そうか。」

 

そのとき、原口は笑おうとしたが、頬が引きつっただけだった。


あの女子生徒に謝るべきか。

いや、謝れば誤解を認めることになる。

思考は堂々巡りを繰り返し、夜遅くまで机に座り込んだ。


数日後、さらに追い打ちがかかる。

別の男子生徒が授業を抜け出し、原口に叱られた。

 

「なぜ逃げる。お前ならできるはずだ。」

 

そのやり取りが一部だけ切り取られて動画として拡散。

原口の低い声と、うつむく男子の姿だけが強調され、画面の下には「パワハラ教師」と字幕がつけられていた。


保護者会で質問が飛ぶ。

 

「なぜ、うちの子を追い詰めるような真似を?」

「子供達の自主性を尊重できないのですか?」

 

原口は必死に弁明した。

 

「叱ったのは信じて期待していたからです。」

 

しかし、その言葉は逆に反感を買った。

 

「先生の期待が子供を苦しめているのでは?」


教室でも、空気は変わっていった。

以前なら冗談交じりに返ってきた言葉も、今は沈黙に変わる。

 

「次、答えられるか?」

 

視線を向ければ、生徒達はスマホを握りしめる。

また録られているのでは?

そんな恐怖が背中を走り、声はますます硬くなった。


夜の帰り道。

コンビニの明かりに照らされたガラスに、自分の姿が映る。

眼鏡の奥の目は疲れ、口元は固く結ばれていた。

かつて笑顔で「先生!」と呼ばれた日々を思い出そうとするが、今は「コールドメガネ」という冷たい響きしか耳に残らない。


それでも翌朝、原口は時間通りに教壇に立つ。

チョークを握り、黒板に文字を書く。

その背中に投げかけられるのは、感謝でも信頼でもなく、囁きと視線。


「コールドメガネ」


小さな声がまた一つ、教室の隅で生まれた。

原口は振り返らない。

ただ、淡々と文字を書き続けた。


―――


保護者会の会場は、視聴覚室の蛍光灯に照らされ、蒸し暑い空気が充満していた。

前方には校長と教頭が並び、教員達は壁際に配置されている。

原口は指定された席に座り、前に置かれた資料を何度も指先で揃え直していた。


司会が進行の言葉を述べた後、沈黙を破ったのはある母親。

 

「うちの子は、授業で恥をかかされたと言っています。先生の一方的な期待の押し付けじゃないんですか?」

 

次に父親が立ち上がる。

 

「できるはずだなんて言葉は、ただのプレッシャーです。うちの子はそれで学校に行きたくないと言ってるんですよ。」


矢継ぎ早の声が飛ぶ。

 

「教師は子供を追い詰めてはいけない!」

「叱責よりも寄り添いを!」

「時代錯誤な指導はやめてほしい!」


原口は立ち上がり、マイクを握った。


「私は、生徒を信じているからこそ言葉を投げかけてきました。叱るのは、彼らの可能性を信じているからです。」

 

その声は少し震えていた。


しかし、保護者の表情は冷ややかだった。

 

「先生の信じているは、ただの押し付けです。」


 「結果として子供が苦しんでいるんです。なぜそれを理解しようとしないんですか?」


空気は一気に険しくなり、教頭が慌てて間に入る。


「ご意見は確かに承りました。学校としても改善に努めます。」

 

原口の言葉は遮られ、強引に次の議題へ進められた。


会議後。

職員室に戻ると、校長の根岸が呼び止めた。

 

「原口先生。生徒に少し控えめに発言してくれませんか?あなたの正義感は理解していますが、今は学校全体が世間の目に晒されている。火に油を注いではいけません。」


教頭の東海林も言葉を重ねる。 


「記録は残してくださいね。しかし感情を出すのはやめてください。期待や信念などという言葉は誤解を招きます。数字と報告書、それだけで十分です。」


原口は納得しない態度で、うなずいた。


(信じると言うことすら、禁止なのか……。)


それ以来、原口はさらに無口になる。

生徒が廊下を騒ぎ走っても、ただ記録に残す。

 

「○月○日、廊下を走行。注意。」

 

ノートには無機質な文字が積み重なり、感情の痕跡は消えていった。

生徒からすれば、それは「冷たい教師」の象徴。

廊下で会っても目を合わせず、授業でも笑みを見せない。

やがて彼らは囁き始めた。

 

「やっぱコールドメガネだよな。」

「先生って人間味ゼロ。」


その言葉は笑い半分でありながら、確実に原口を追い詰めていった。


放課後の空き教室。

窓から差し込む夕日の中で、原口は一人、机に突っ伏していた。

脳裏に浮かぶのは、かつて笑顔で駆け寄ってきた生徒達の姿。

文化祭で肩を組んで笑った日々。

体育祭で声を枯らした瞬間。


そのすべてが、今となっては遠い記憶。


放課後

学校の掲示板に貼られた落書きを見つける。

 

《コールドメガネ もういらなね》

 

油性マジックの文字は荒く、それでいて妙に力強い。

原口は立ち止まり、しばらくそれを見つめる。

誰が書いたのか?

しかし確かに、この学校のどこかに「自分を排除したい」と願う生徒がいる。


冷たい風が頬を撫でた。

その夜、原口は布団に入っても眠れなかった。


―――


面会室。

アクリル板の向こうに現れたのは、数年前に卒業した教え子達だった。

まだ若い社会人の顔は少し大人びていたが、目の奥には高校時代の面影が残っている。


野球部出身の小林が真っ直ぐに言った。


「先生!俺達の知っている先生が、ここで犯人扱いされているなんて信じられません。あの頃の先生と、記事の先生が同じ人だなんてとうてい思えないんです。」


原口は目を伏せ、答える。


「俺自身だってそうだ。鏡を見ても、別人を見ている気がするよ。」


田島が言葉を重ねた。


「でも、どうしても確かめたかったんです。あの時、できると何度も言ってくれた先生は、どこへ行ってしまったのか?本当に消えてしまってはいないでしょ?」


原口はゆっくりと背を椅子に預け、ため息をつく。


「消えたんじゃない…削られたんだよ。時代に、世間に、そして俺自身にな。気づいたら、何もなくなっていたんだ。」


佐伯が口を開いた。


「でも先生!文化祭の前日、私達が曲を変えたいって言ったとき、大丈夫だ、責任は俺が被るって笑った顔。あの笑顔を今でも忘れていませんよ。」


小林が頷く。


「雨の日の朝、俺の定期を一緒に探してくれましたよね。遅刻の言い訳にするな、走れば間に合うって叱ってくれた。俺、あの一言で自分を甘やかすのをやめられたんです。」


田島が最後に静かに結ぶ。


「先生。変えられたって言うなら、私達も先生に変えられた生徒です。今の先生がどう過去を否定しても俺達の思い出は消えることはありません。」


原口の目が潤む。


アクリル板に額を当て、かすかな声が届く。


「そうか。俺は、お前達にとって、まだ先生だったのか。」


三人は同時に頷いた。

ブザーが鳴り、面会終了を告げる。

立ち上がった三人が深く一礼し、去っていく背中を見送りながら、原口は初めてわずかに口元を緩めた。


「来てくれて、本当にありがとう。先生頑張るからな。」


その呟きは警察官の耳に届く前に消えたが、胸の奥には温かさが確かに残っていた。


―――


原口圭介が「コールドメガネ」と呼ばれるようになっていた頃、校内で圧倒的な人気を誇る人物がいた。

生徒会長・奈良。

 

学業成績は常に学年トップ、部活動でも存在感を示し、人前に立てば言葉は流れるように整い、聞く者を納得させる。

教師でさえ彼を「頼もしい」と評し、保護者からも絶大な信頼を得ていた。


しかし、その輝きは同時に影を生む。

原口にとっては、とりわけ重苦しい影。


ある日の全校集会。

奈良は壇上に立ち、マイクを握る。

体育館に響く声はよく通り、温かく、生徒達の心を掴む。

拍手が沸き起こり、涙ぐむ者さえいた。

教師陣も「素晴らしい」と口々に称える。


しかし、後方で腕を組んでいた原口には、その言葉が別の色を帯びて聞こえていた。

 

(俺だって同じことを言ってきた。なぜ、俺の言葉はパワハラで、奈良の言葉は希望になるのか?)


原口に対する陰湿な空気作りは、奈良の巧妙な仕掛け。

ある放課後、昇降口で数人の生徒が集まって笑っていた。

 

「先生に相談できる?無理無理。あの冷たさじゃ逆に病むっしょ。」

 

その中心に、さりげなく奈良が混ざっていた。

 

「まあね。先生にも良いところはあるんだけどな。」


一見フォローするようなその言葉が上手い。

その後、生徒達は「やっぱコールドメガネじゃん」と囁き合い、笑い声を響かせた。


別の日。

奈良は学級委員を集めた会議でこう言った。

 

「相談できる先生と、できない先生の違いって大きいよね。僕らの3学年は特に不安が多いからね。まぁ、名前は出さないけど。」

 

言葉の矢印は明らかに原口に向けられている。

それでも名指しはしない。

だからこそ反論もできない。

その巧妙さが、原口の胸を圧迫していった。


放課後

原口は奈良を呼び止めた。

 

「奈良。君の言葉が誰かにどう響くか分かっているのか?」


奈良は振り返り、穏やかな笑みを浮かべる。

 

「僕は事実を言っているだけです。誰かを責める意図はありませんよ。」


「しかし、結果的に私のことを標的にしてるのはみえみえだ。」


「それは原口先生が選んできた立場の代償ですよね?」

 

奈良の瞳は笑っていない。

胸に刺さる言葉。

そして奈良が小声で遮った。


「残念ですけど、原口先生は変われない生き物なんです。だからもう、邪魔なんですよ。」


その言葉は、部活帰りの薄暗い廊下で聞かされた。

部室から響く笑い声とシューズの音が、やけに遠くに感じる。

青春の舞台裏で、奈良の声だけが冷たく響き、原口の背筋を凍らせる。


穏やかな顔の裏に、奈良の確かな敵意を感じ取った。


モラハラは表には出ない。

しかし奈良はその達人だった。


ホームルームで「安心できる場所をみんなで作ろう」と言ったとき、必ず視線を原口に向けた。


学年集会で「冷たい対応は不安を生む」と発言するとき、その言葉に「先生」という主語を添えなくても、誰もが原口を思い浮かべた。


アンケートの設問にも「相談しやすい先生/しづらい先生」という項目が紛れ込み、結果として3年生の低評価が突出した。

奈良は「これは生徒の声です」と言うだけでよかった。


原口は次第に職員室でも孤立した。

同僚からの視線は冷ややかで、「問題の担任」というレッテルが静かに貼られていく。



---


夜、自宅の書斎で原口はうつ伏せになる。

奈良の笑顔、保護者の怒声、SNSでのあざけり。

すべてが頭の中で渦を巻き、眠れぬ夜を増やしていった。


窓の外、街灯の明かりがにじんで見えた。

彼の胸には「正しいことをしてきた」という確信と、「すべて間違っていたのかもしれない」という疑念が交互にせめぎ合っていた。


翌朝。

職員室に入った原口の机には、一枚の紙が置かれていた。

 

《生徒は担任を選べない》

 

整った筆跡で、あまりに冷たい文面。

原口には「排除の予告」に見えた。

奈良の声が遠くで響く。


―――


鉄格子。

原口圭介の胸の奥は暗闇が濃く沈んでいた。


奈良義一。


あの瞬間、殺してやりたいと思った。


血が逆流するように頭に上り、視界が赤く染まった。

もしその手に刃があったなら、ためらいなく突き立てていただろう。

殺意は幻ではない。

確かに胸の奥で燃え上がった。


留置所のベッドの上で、原口は拳を握りしめる。

骨が軋む音が耳に届く。


(あいつが俺を追い詰めた。生徒の前で、同僚の前で、俺を冷たい教師にしたのはあいつだ)


かつての自分は笑っていた。

奈良は、その過去を「時代遅れ」と切り捨て、生徒の前で空気を操り、数字を盾に原口を孤立させた。


すべてを奪った。

俺の言葉も、俺の誇りも。


その憎しみが夜ごとに膨らみ、殺意は影のように原口の中で形を成した。


「もしあの夜、布を押さえずに手を離していたら…。」


奈良が刺され、生徒会室の床に倒れたときの光景が、まぶたの裏に焼きついて離れない。

掌に伝わった血の温度。

声にならない呻き。

そのとき脳裏に浮かんだのは、布を押さえるのではなく、手を離す自分の姿。


終わらせるなら今だ。


心臓の鼓動が、耳の奥で爆発するほど響いた。

殺せ。今ここで。

誰にも気づかれず。

そんな声が確かに胸の内で囁いた。


しかし、同時に別の声もあった。

 

「殺したら、本当に戻れなくなる。」


布を押さえた。

押さえながら、歯を食いしばって震えた。

憎しみと殺意と、生きろと叫ぶ矛盾が、掌の中で混ざり合った。


―――


面会室。

アクリル板を挟んで座ったのは、3年2組の鈴木寛人、藤田怜奈、野口由紀。

3人の表情には迷いがない。

横には警察官が立ち、無言で腕時計を見ている。


鈴木が口を開く。


「単刀直入に聞きます。先生、本当に奈良会長を刺したんですか?」


原口は視線を逸らした。


「その質問が来ると思っていたよ。俺がやったと言えば筋書き通りだし、やってないと言えば言い訳だと笑われる。結局、どっちにしても俺は犯人に仕立てられる。」


藤田が強い声で言った。


「私達は答え合わせに来たんです。会長の証言を鵜呑みにするためじゃありません。先生が本物か偽物かを、この目で確かめに来ました。」


原口の表情がわずかに揺れた。

野口が畳みかける。


「先生。私達は近くで見てきて、大体のことはわかってるつもりです。。会長は数字や空気を操って、先生を影にしましたよね? 相談できない先生、不安を作る先生。でもそれは、会長の言葉のフレームに嵌められただけじゃないんですか?先生、あの人にいったい何をされたんです?」


原口は拳を握り、低く吐き出す。


「あいつは何もしちゃいない。名指しはしなかった。でも皆が俺を思い浮かべる。それだけで十分俺を落とせるだろうな。」


沈黙。

アクリル板越しに三人の視線が突き刺さる。

揺るがない目だった。


鈴木が静かに言った。


「俺は知ってます。救急隊から聞きましたよ。先生は奈良会長の傷を必死に押さえて、声をかけ続けていたって。あれが本物か芝居かなんて関係ない。俺は、それを先生らしい姿として信じたい。」


藤田もうなずいた。


「先生がもし全部を否定したとしても、私達はその先生を忘れません。」


野口が最後に言葉を置く。


「これは確認です。先生がどう答えても、私たちの意見はぶれませんよ。」


原口はしばらく黙り込んだ。

そしてアクリル板に映る三人の顔を見て、わずかに声を落とした。


「本当に見極めに来たって顔だな。なるほど。やっぱりお前達は、高岩のの生徒だな。よく育ってる。感心したよ。」


その瞬間だけ、原口の口元にかすかな笑みが浮かんだ。

面会終了のブザーが鳴る。

三人は一礼し、振り返らずに部屋を後にした。


残された原口は、揺れる胸の奥を押さえるように呟いた。


「本物か偽物か。俺自身ですら分からない答えを、お前達に問われるとはな。」


―――


留置所に戻った原口は考えを整理する。


(1つだけ、どうしても腑に落ちないこと)


なぜ奈良は、あそこまで露骨に俺を犯人のように仕立て上げたのか?

数字を並べ、空気を操り、名指しせずに名指す。

あれは単なる正義感ではない。


俺を排除したい理由があったのか?

生徒会の力を強めるために、教師という敵役が必要だったのか?

それとも、自分の光を際立たせるために、俺の影を濃くしたかったのか?

あるいは、生徒達にとって守るべき象徴を作るために、犠牲を探していたのか?


理由は分からない。

しかし、確かに奈良は俺を指した。

笑顔の裏で、確信をもって。

その瞬間から、「原口=犯人」という図式が完成した。


 (なぜだ…なぜ、俺だった?)


胸の奥で渦巻く疑問は、答えが見つからぬまま、殺意の影と絡み合い、夜ごと肥大していった。


留置所の静寂の中で、原口は呟いた。


「俺は…殺したいと思った。間違いなくな。」


気づけば手のひらに生温い液体が広がっていた。

それが夢なのか現実なのか、判断できない。

教室の喧騒と悲鳴が交じり合い、誰かが「先生!」と叫んだ声まで幻のように思える。

本当に刺したのか、刺していないのか。

記憶は曖昧になり、現実と幻が溶け合う。


ただ確かなのは、自分の中に「殺したい」という欲望が芽生え、それを必死に押し殺そうとした事実。


奈良義一。

あの光は生徒に希望を与えた。

しかし、原口にとっては、憎悪の炎を絶えず燃やし続ける火種でしかなかった。


鉄格子の隙間から冷たい風が吹き込む。

原口は額を膝に押し当て、目を閉じる。

その暗闇の中で、再び奈良の笑顔が浮かぶ。


もし次に会うことがあれば、そのときは。


原口の胸に残る殺意は、消えることなく、ただ静かに膨らみ続ける。


そして同時に、グラウンドで響いた歓声や、教室の笑い声もまた消えずに残っている。

その記憶が救いなのか?

それとも呪いなのか?

原口自身にも分からなかった。

笑い声は幻のように蘇り、原口を抱きしめ、同時に突き放す。

サイレンよりも残酷に。


―――


面会室。

アクリル板の向こうに座ったのは、原口にとって馴染みのない顔。


(誰?)


校舎の廊下をすれ違ったような...。

部活動の帰りに見かけたことがあるような...。

そんな曖昧な記憶の片隅にだけ残る存在。


目を凝らすと、相手の口がゆっくりと動いた。


オレがやった


声はない。

ただ唇が、確かにその形を刻んでいる。


原口は思わず前のめりになった。


「ふふ...。」


もう一度。

唇が繰り返す。


オレがやった。


その瞬間、相手の口元が歪んだ。

笑みとも痙攣ともつかぬ表情。

瞳の奥は、底の見えない暗闇のように揺れていた。


ブザーが鳴り、面会は終了。

警察官が促すと、相手は何事もなかったかのように立ち上がり、軽い足取りで去っていった。


(なぜあいつが? いや、知っている。でも、何のために?)


原口の胸に重く沈む疑問だけが残った。


翌朝。


「緊急だ!自殺だ!」


怒声と足音が留置場を駆け抜けた。

担架が過ぎる。

その上には、昨日の面会者の顔が青白く横たわっていた。

生気のない唇は、もう動かない。


鉄格子の隙間からそれを見つめながら、原口は額を押し当てる。


「あれは幻だったのか? いや、確かに見た。」


しかし証拠はどこにもない。

あの「俺がやった」という言葉は、原口一人の記憶にしか残っていない。


真実は再び、暗闇に呑まれていった。

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