名前のない噂 ③
午前六時の前。
まだ校舎の窓ガラスは白く曇り、吐く息がすぐに消えていく時間。
正面玄関の掲示板に、1枚の紙が貼られていた。
《君はやりすぎた》
コピー用紙に黒マジック。
文字は走り書きに見えて、どこか癖が強い。
沈黙が、その紙の存在をより濃くしている。
ざわめくことなく、ただ冷たい空気の中で紙は揺れていた。
そして、午前六時。
薄暗いテレビ画面の隅に赤い帯が走った。
速報 県立高校で三年男子生徒刺され重傷。
校内での犯行か?
被害生徒は生徒会長。
ストレッチャーに乗せられた制服姿。
夜の校舎。
画面の右下には「命に別状なし」と繰り返されるテロップ。
実況アナウンサーの声が続いた。
「被害生徒は意識があり、搬送される際、教師に刺されたと口にしたとみられています。」
その一文が、朝の教室をざわめかせた。
「教師って…誰?」
「やばくね、これ」
スマホを握った指先に震えが走る。
SNSにはすでに名前が流れていた。
《奈良義一》生徒会長。
そしてもうひとつ。
《刺したのは原口先生》
―――
午前8時。職員室。
校長・根岸が戻ってきて、声を絞り出した。
「奈良くんの件だが、本人がはっきり言ったそうだ。原口先生に刺されたとね。」
室内の空気が凍る。
生活指導主任の田中が椅子を蹴って立ち上がった。
「本人がそう言っているのなら...。もう、言い逃れできんだろ!」
「落ち着きなさい。まだ証拠は…。」
教頭の東海林が遮ろうとしたが、誰も聞いていなかった。
机に座る原口圭介は、ただ一言。
「私はやってません。」
無表情。
声は冷たく、抑揚がない。
その否定がかえって「やはり」という空気を強めていった。
午後、警察が校内に入り、原口は車に乗せられた。
生徒達は窓越しにその姿を見つめる。
「やっぱり原口先生なん?」
「奈良会長が言ってるんだしな」
「冷たい目してたもんなー。」
誰も疑わなかった。
ただ、3年2組だけは違った。
―――
放課後の教室。
窓から差し込む冬の光が斜めに床を切っていた。
鈴木寛人は机の縁に肘をつき、視線を落とした。
胸の奥で、どうしても消えない映像があった。
血まみれの生徒会室。
倒れる奈良の腹に、布を押し当てていたのは原口先生。
無言で、一定のリズムで圧迫を続ける手。
「救急車を呼べ」ただ一言だけ。
犯人が止血する。
そんなことがあるのか?
「なぁ...。」
鈴木は声を落とした。
机を囲むのは藤田怜奈、久保美優、村上啓太。
「刺した本人が、止血なんてするか?」
美優が顔を青ざめさせ、慌てて首を振る。
「やめてよ。そんなこと言ったら、奈良会長を疑ってるって思われるじゃん。」
怜奈は湯呑を包んだまま、小さく呟いた。
「それ、さ。私も思ったんだよね。普通なら逃げるでしょ。助けるなんてある?」
啓太が付け足す。
「しかも応急処置がちゃんとしてたってさ。救急隊の人が、おかげで助かったって言ってたの聞いた。それって、さ。犯人のすることかね?」
沈黙。
時計の針がやけに大きく響く。
誰も口に出せないが、心の奥では同じ疑問を繰り返していた。
もし原口が刺していないなら?
じゃあ、誰が?
あるいは、本当に刺されたのか?
矛盾は確かあった。
しかし声にした瞬間、空気に飲まれる。
だから彼らはただ黙って、互いの顔を見合った。
―――
翌朝のワイドショー。
キャスターは声を落として言った。
県立高校の生徒会長が刺され重傷。
本人は「担任に刺された」と証言。
警察は教員の原口圭介容疑者(45)を逮捕し、詳しく事情を聴いています。
名前が画面に出た瞬間、空気が固まる。
原口容疑者。
昨日まで職員室にいた先生が、そう呼ばれている。
解説者が言う。
「本人の証言がある以上、警察は動かざるを得ない。動機はまだ不明ですが…。」
不明、という言葉が逆に想像を煽る。
SNSのタイムラインには、断片的な記憶や悪口が並ぶ。
《無表情で怖かった》
《冷たい》
《神じゃないって言った》
それらが積み重なって「やっぱり」と確信に変わっていく。
しかし、3年2組は違っていた。
彼らだけが、あの場面を思い出せた。
―――
午後、警察署。
原口は無表情のまま椅子に座っていた。
刑事が机を挟んで問いかける。
「奈良君は、あなたが刺したと証言しています。」
「私は刺していません。何度言えばわかってもらえるんですか?」
淡々とした返答。
抑揚がなく、感情も見えない。
刑事は苛立ちを隠さず、机を指で叩く。
「ではなぜ、あなたの手は血で染まっていたんです? 生徒を止血したとでも?」
「それ以外ないでしょう!救急車が来るまでの応急処置をしていましたよ。」
「自分で刺しておいて止血ですか? 馬鹿げてますね。」
「私はやっていないんだよ。」
同じ言葉だけを繰り返す。
その無機質さが、逆に「やった」と思わせる。
だが矛盾もそこに潜んでいた。
―――
放課後、3年2組。
鈴木は周囲を確認してから口を開いた。
「さっき高岩先生からきいた。救急隊の人が応急処置が的確だったって話。」
「原口先生のことだよね?」
久保美優が息をのむ。
「そう。もし本当に刺した犯人なら、そこまでするか?」
啓太がうなずく。
「それに、凶器がまだ見つかってないって聞いた。刺したなら刃物を持ってたはずだよな?」
怜奈が机に頬杖をつき、声を潜めて言う。
「つまり、刺したって証言以外に証拠がないってこと?」
誰も答えない。
しかしその沈黙こそが答えだった。
―――
翌日、臨時の学年集会。
壇上で校長が言う。
「この件について、憶測を広めないように。報道やSNSの情報に惑わされず、落ち着いて生活してください。」
その声を遮るように、ざわめきが広がる。
「でも奈良会長が言ってんだよな。」
「原口先生が刺したのに決まってんじゃん。」
「なのに救ったって? そんなわけねぇだろ。」
声がぶつかり合う。
真実は一つのはずなのに、解釈は二つに割れていた。
3年2組の片隅で、鈴木は拳を握った。
(このままじゃ、誰も真相に辿り着けない)
怜奈が小声で囁く。
「刺されたこと自体、演出だったら?」
その言葉に、美優は顔を覆った。
「やめて…。それ以上は、怖すぎる。」
啓太は黙ったまま、床を見つめていた。
胸の奥で、同じ疑念が膨らんでいた。
―――
週が明けてもニュースは連日トップを飾った。
県立高校、生徒会長刺傷事件。
教師を逮捕。
画面には原口の顔写真。
職員証から切り取られた古い画像。
キャスターが言う。
「本人は一貫して容疑を否認していますが、被害生徒の証言は明確。刺したのは担任の原口先生だと主張しています。」
しかし別の時間帯の番組では、テロップが揺らいでいた。
《凶器まだ見つからず》
《現場に他者の足跡》
言うことはどこも同じではない。
そのぶれを、3年2組の生徒は敏感に感じ取っていた。
―――
放課後の図書室。
窓の外は冬の早い夕暮れ、藍色に沈んでいく。
鈴木、怜奈、美優、啓太が机を囲む。
啓太が声を潜める。
「今日のニュース見た?凶器がまだ見つかってないってやつ、あれ本当なのかね?」
「本当だろ。」
鈴木が即答した。
「もし原口先生が刺したなら、ナイフを持ってたはず。でも現場検証で出てないんだからな。」
怜奈が眉をひそめる。
「じゃあ奈良会長は、何を見たの?」
沈黙。
本棚の影で、誰かが咳払いをした。
皆、びくりと肩を揺らす。
美優が小さな声で言った。
「あの、さ。刺されたって言うけど、私、血の量が気になってたの。床に広がってなくない?制服の腹は赤かったけど、布で押さえられてすぐ止まってたしね。」
啓太が腕を組む。
「なぁ。刺されたってのは、もしかして?」
「待てよ。」
鈴木が遮る。
「今それを言葉にしたら、もう後戻りできなくなる。今はまだ、心にしまっとけよ。」
全員がうつむく。
机の上の影が深く重なっていた。
―――
その頃、警察署。
原口は再び取り調べ室に座っていた。
刑事が書類を叩く。
「あなたは、やっていないと言っていますがね。奈良君は、あなたに刺されたと、ずっと同じ証言をしているんですよ。」
「私は止血をした。それだけです。」
「なら、なぜ奈良君が嘘をつくんです?」
原口は目を伏せたまま答えない。
沈黙。
刑事が椅子を引き、苛立ちを滲ませる。
「黙っていれば黙っているほど、余計に疑われるんですがね〜。」
「私はやっていません。」
その無表情は、3年2組の生徒達が授業中に何度も目にしてきた原口そのもの。
だからこそ、「やはり犯人」とも「いつもの先生」とも、解釈は別れてしまうのだった。
―――
校内の廊下。
掲示板には臨時の張り紙。
《憶測や噂を広げないこと》
《報道関係者に答えないこと》
だが、生徒たちの間では止まらなかった。
「やっぱり原口だろ」
「でも刺したあと助けたって変じゃね?」
「そういう二面性あるやつなんだよ。」
「いや、刺されたふりなんじゃないか?」
声が錯綜し、意味を失う。
だが確かに、疑念は膨らんでいた。
昼休み。
3年2組の教室はざわつき、弁当の匂いが重く漂っていた。
吉田直樹が声を落とす。
「なぁ…俺、もう何が本当かわかんねぇよ。」
山口隼人が黙って頷いた。
彼もまた、心の奥で同じ疑問を繰り返していた。
もし原口が刺したなら、なぜ止血した?
もし奈良が嘘をついているなら、何のために?
その問いは声にならず、空気だけを濁らせていた。
―――
その夜、美優は布団の中でスマホを握りしめていた。
SNSには《被害者は勇敢に告発した》《教師の闇》という言葉が並んでいる。
しかし、彼女の頭に残っているのは、別の映像。
応急処置をする原口。
ただの冷たい教師ではない姿。
もし犯人なら、なぜ?
その矛盾だけが、心に棘のように刺さって抜けなかった。
―――
翌日、下校途中。
鈴木と怜奈が並んで歩いていた。
冬の夕暮れ、商店街の灯りがぽつりぽつりと点く。
「なぁ、怜奈」鈴木が口を開く。
「もし奈良会長が嘘をついてたら、どうする?」
怜奈は足を止めた。
「嘘?そんなわけ...。」
言い切れなかった。
自分の胸の奥でも、同じ疑念が膨らんでいた。
「考えすぎかもな。」
鈴木は苦く笑った。
しかし2人とも、その笑顔に力がないことを知っていた。
―――
1月の冷たい風が、校舎の窓を叩く。
職員室では教師達が顔を見合わせ、誰も真実を口にできない。
警察署では原口が「やっていない」を繰り返している。
そして3年2組では、生徒達が矛盾に気づきながら、声に出せずに沈黙していた。
刺されたのは本当か?
原口は本当に犯人か?
それとも、奈良の言葉こそが作られたものなのか?
答えの出ない疑念だけが、ゆっくりと積み重なっていく。
図書室の窓は曇りガラス越しに冬の光を落としていた。
冷たい空気と紙の匂いだけが支配する放課後。
窓際の机を囲むのは鈴木寛人、藤田怜奈、久保美優、村上啓太、吉田直樹そして3年4組の三澤沙織。
机の中央には一冊のノート。
その表紙には黒々と「疑問点」と書かれている。
寛人がペンを握りしめ、声を落とした。
「整理しよう。俺達が引っかかってるのは1つ。刺した犯人が止血なんてするのか?」
怜奈が頬杖をつき、髪を指に絡める。
「見たでしょ。原口先生。あんなの、犯人の行動じゃないでしょ。」
「俺なら逃げる。」
啓太が鼻で笑った。
「血まみれで残るとか、馬鹿だろ。」
美優はマフラーを抱きしめ、首を振った。
「でも…奈良会長が刺されたって言ったのは本当だよ。嘘をつく人じゃない。」
沙織が唇を噛む。
「私、最初に見たの。奈良君が倒れてて、叫んだ。その声で原口先生が来たのよ。それは絶対に間違いない。」
寛人はノートに線を引く。
《第一発見者=沙織 → 原口到着(止血)》
「でも会長は原口に刺されたって言ってる。完全に食い違ってる。」
重たい沈黙が落ちる。
そして寛人が口を開いた。
「証言が食い違ってる以上、確かめるしかない。俺達にできる方法でな。」
怜奈が不安を口にする。
「でも、警察がもう調べてるんでしょ?私たちが首突っ込んだら危ないよ。」
「危ないのは分かってる。」
啓太が割り込む。
「でも今のままじゃ原口先生は犯人扱いのまま潰される。」
美優は不安そうに机に手を置く。
「何から始めればいいの?」
寛人はノートを開き、黒ペンで三つの矢印を引いた。
《鍵の管理 → 用務員の角田》
《止血の真偽 → 救急隊》
《証言の食い違い → 奈良本人》
「まず、この三つ。」
寛人は言い切った。
「鍵を管理してる角田さんに、生徒会室や機械室の出入りを確認する。救急隊に止血の話を聞く。そして奈良会長。本人にもう一度、確かめる。」
怜奈が息を呑む。
「直接? 無理だよ。病院は警察とマスコミだらけ。」
「無理でも、方法は探そう。」
隼人が静かに言う。
「大事なのは、何を確かめたいかをはっきりさせることじゃね?」
啓太が机を叩いた。
「よし、役割分担だ。俺は角田さんを当たる。用務員なら生徒に甘いときもあるし、うまく聞き出せるはずだ。」
「私は救急隊。」美優が小さな声で言った。
「父が知り合いにいるから、お願いしてみるね。」
怜奈は腕を組み、真剣な顔をした。
「じゃあ私と鈴木で奈良会長。弟の翔くんに頼めば、会える口実くらい作れるかもしれない。」
吉田直樹は黙ってパソコンを開く。
「俺は沙織とネットと掲示板を追う。昨日も廊下で刺されたなんて嘘情報が流れてた。書き込んだやつを割れば、裏で動いてる人間が見えるかもしれない。」
図書室の外では、吹奏楽部の音が遠くに響いてる。
その音に背中を押されるように、5人は顔を見合わせ、静かに頷いた。
彼らの青春はもう、ただの放課後ではなくなっていた。
―――
翌日の放課後。
他の仲間がそれぞれの役割に散っていく中、村上啓太は一人で校舎裏に回り込んだ。
冬の冷気が刺さるように頬を打つ。
廊下の外れで、角田用務員が脚立に登り、電球を取り替えている。
低い鼻歌が、人気のない空間に響いている。
「角田さん。」
啓太は声をかけた。胸の鼓動がやけに大きい。
「おう、なんか用か?」
角田は振り返り、作業着の胸ポケットから軍手を外す。
「聞きたいことがありまして。」
啓太はためらわず切り込んだ。
「生徒会室の鍵のことです。事件の日に、誰か借りに来ませんでしたか?」
角田の目が細くなる。
「へぇ……お前ら、噂を追いかけてるってわけか。だが貸し出し記録は先生以外に見せない決まりなんだよ。」
「でも、俺は知りたいんです。原口先生が刺したなんて、どうしても信じられない。鍵の動きが分かれば、何か証明できるかもしれない。」
しばしの沈黙。
角田は脚立を降り、啓太の目をまっすぐに見た。
「いい目をしてる。そこまで言うなら、1つだけ教えてやるかな。」
啓太が息をのむ。
「事件の晩、俺が機械室に入ろうとしたら、もう点検済みになってたんだ。鍵は返されてたんだけどね、記録は残ってなかったんだ。」
「え?いったい誰が?」
啓太の声が震える。
角田は鼻で笑った。
「それがね、暗くて顔は見えなかったんだよ。ただメガネが光ってたのは見たんだよ。」
その言葉に啓太の背筋が凍りつく。
角田は脚立を肩に担ぎ、背を向けた。
「これ以上は大人の領分だからね。帰りなさい。」
啓太は、吐く息の白さを見つめながら拳を握りしめた。
(みんなに伝えなきゃ。)
その足取りは、冷たい校舎の影を重く踏みしめていた。
―――
同じころ、久保美優は父の知り合いに紹介された救急隊員を訪ねていた。
駅近くの消防署の一室。
冬の夕暮れが窓を赤く染め、机の上には分厚い救急記録ファイルが置かれていた。
「お父さんから話は聞いたよ。」
30代前半くらいの救急隊員・佐伯は、書類を閉じて顔を上げた。
「事件の現場にいた隊員のことを知りたいんだって?」
美優は緊張で声を震わせながらもうなずく。
「はい。どうしても。もし迷惑じゃなければ。」
佐伯はしばらく考え込み、それから小さく笑った。
「君のお父さんには世話になってるからな。言える範囲だけだぞ。」
美優は息をのむ。
佐伯は声を潜めて続けた。
「処置に入ったとき、すでに止血はされていたらしい。布で圧迫されてて、血の流れはかなり抑えられてた。もしあれがなかったら、出血で命は危なかったかもしれないな。」
「やっぱり、原口先生が?」
佐伯は驚いたように眉を上げた。
「先生がやったの?そこまでは俺らには分からないけど...。ただ、技術は的確だった。あれは素人の思いつきじゃない。落ち着いて血管の位置を押さえてたからね。」
美優は手帳に震える文字で書き込む。
佐伯は静かに言葉を添えた。
「俺の感覚で言えば、助けるつもりがなければできない処置だと思うけどね。」
その言葉に、美優は胸が締めつけられた。
涙がにじみそうになり、慌ててふく。
「本当にありがとうございます。」
署を出ると、冬の夜風が頬を刺した。
けれど心の奥では、ほんの少し温かさを感じていた。
(原口先生は、きっと犯人じゃない。)
小さくつぶやき、美優は学校へ向かう足を早めた。
―――
夕方の病院。
白い廊下は消毒液の匂いに満ち、面会受付の前には制服姿の警察官が立っていた。
鈴木と怜奈は寄せ書きを抱えて並び、緊張で手の汗を拭った。
「生徒代表です。会長にお見舞いを渡したいんです。」
寛人が差し出した紙を、警官が受け取って中身を確かめる。
ちょうどその時、弟の翔が廊下の奥から現れた。
「弟の瞬です。それ、俺が渡しておきますね。」
怜奈が勇気を振り絞って声をかける。
「翔くん…ほんの少しでいいから、会長と話せないかな?私達、どうしても確かめたいことがあるの。」
瞬は深いため息をつき、面倒くさそうに頭をかいた。
「わかりました。5分だけですよ。ただし、俺も付き添います。」
警官に一礼し、3人は病室へ入る。
白いカーテンに包まれた部屋。
ベッドの上で奈良義一は上体を起こしていた。頬は青白いが、目にはいつもの整った光を宿している。
「来てくれたのか。」
奈良は薄く笑った。
「わざわざありがとう。」
怜奈が寄せ書きを差し出す。
「これ、クラスのみんなから。」
奈良は一瞥し、机に置いた。
「わぁ、嬉しいな。今日はこれを渡しに来てくれたの?」
寛人が前に出る。
「会長、ひとつ聞かせてほしい。原口先生に刺されたって、本当に間違いないの?」
奈良の目が鋭くなる。
「俺自身が刺されたんだよ?間違いようがないじゃないか。」
怜奈が言葉を重ねる。
「でも、私達が見たのは止血してる原口先生だった。刺した人には、とうてい見えなかったけど。」
奈良は小さく首を振る。
「それこそが原口先生の狙いじゃないの?」
寛人は食い下がる。
「その場に駆けつけたのは、俺も含めて何人もいた。第一発見者の沙織だって、原口先生が後から来たと言ってる。」
奈良の視線が揺れる。
「意識もうろうとして記憶が曖昧になっているのかもしれない。」
瞬が低くつぶやいた。
「兄貴は昔からそうだよな。どーんな時でも答えを用意してる。嘘でも本当でも、同じ顔で。」
「瞬、黙れ。」奈良の声は鋭かった。
「黙らない!」
瞬の声は震えていた。
「本当に刺されたなら、どうしてそんなに冷静に喋れるんだよ。俺には全部猿芝居に見えるんだよ!」
病室に重苦しい沈黙が落ちる。
寛人は奈良をまっすぐ見据えた。
「俺達は必ず真実を確かめる。会長の言葉だけじゃ納得できないからね。」
奈良は口を閉ざしたまま、初めて笑みを崩す。
その表情に、鈴木と怜奈は胸の奥に寒気を覚えた。
やがて看護師がドアを開け、面会終了を告げた。
二人が病室を出ると、廊下の冷たい空気が一気に押し寄せてくる。
怜奈が唇を噛む。
「やっぱり何か隠してる。」
鈴木はうなずき、拳を握った。
―――
図書室。
窓の外には、冬の風に押し流される雲。
街灯の光が曇りガラスに揺れて、壁に不規則な影を落としていた。
机の上で光るスマホ画面に、無数の書き込みが並ぶ。
《廊下で刺されたのを見た》
《現場は三階》
《教師が血を拭いてた》
どれも断片的で、そして妙に似通っている。
違う人間が書いたはずなのに、言葉の調子がどこか同じ。
「作為的だな。」
直樹が低く言った。
「誰かが、あえて同じ調子で書き散らしてる。」
沙織は唇を噛み、画面から目を逸らす。
「じゃあ…。見たっていうのは嘘?」
「嘘か、本当か。それすら分からない。」
直樹はノートを開き、ペン先で強く線を引いた。
「ただ一つ確かなのは、俺達を惑わせたい奴がいるってことだ。」
図書室の奥から、カーテンがふっと揺れた。
風か、それとも。
二人は思わず視線を向けるが、そこには何もない。
再び机に目を戻すと、掲示板には新しい書き込みが一つ追加されていた。
《次は誰なの?》
黒い太文字が、画面の隅でじわりと浮かんでいた。
沙織の指先が震える。
「誰か、見てる。」
そう呟いた声は、図書室の静けさに吸い込まれ、消えていった。
しかし、何かが近くで笑った気配だけは、確かに残っていた。
―――
夜の校舎。
街灯の光に照らされた廊下の奥に、黒い影が立っている。
生徒か、教師か、それとも外の誰かなのか。
判別はできない。
掲示板の前に足を止めると、その紙を指でなぞる。
《裏切り者はだあれ》
影は、かすかに笑った。
「ふふ...。どんどん面白くなってくるね。」
その影はゆっくりと背を向け、闇の中に溶けていく。
残された紙だけが、かすかな音を立てて揺れていた。




