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沈黙の紙片 ~裏切り者のいる教室〜  作者: マリブン
Season1

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16/33

名前のない噂 ②

放課後の生徒会室。

西日の色が床のタイルに斜めの格子を描いている。

長机には配布資料がきれいに束ねられ、表紙には《追悼週間・生徒自治計画(案)》の文字。

表紙右下には小さく「広報:生徒会」とだけある。


生徒会長・奈良義一は、椅子を引かずにその背もたれに片手をかけ、窓の外を一度だけ確かめてから振り返った。

整った所作。

声は落ち着いていて、温度は低すぎない。


「まず、献花台の常設と、黙祷の時間帯。それから安心して通える校内体制の提案。先生方は慎重になるはずだから、僕らが下案を作って持っていこう。」


副会長の3年生の三澤沙織が頷く。


「職員会議に上げやすい形で、ってことね?」


「そう。形式は生徒の声の集約。匿名アンケートを今夜、流そう。設問は三つ。『校内で不安な場所』『下校時に歩きたくないルート』『日常的に不安を感じる場面』。それと、担任・学年の相談体制への満足度。」


最後だけ、奈良は一拍置いた。

書記の青木凛(3年2組)がペンを止める。


「満足度は、誰が見るんですか?」


教員の顔が頭に浮かぶ。

特に3年1組の担任、コールドメガネと噂される原口先生。


「もちろん学校と生徒会だよ。個人名は出さない。スコアだけね。」


机の端で、広報担当の佐藤遥が慎重に確認する。


「個人名は出ないって言い切って大丈夫?スクショが出回ると?」


奈良は笑んだ。


「大丈夫。集計画面は会長アカウントだけで見られる設定にするから。PDFでまとめて、校内掲示だけにするよ。SNSには流さない。」


そのとき、ドアがそっと開き、保健室の山田(養護教諭)が顔をのぞかせた。


「長くなりそう?ここ、換気だけしておくね。皆、無理はしないで。水、置いておくからね。」


紙コップが置かれ、山田は何も聞かないまま静かに去っていく。

青木は軽く会釈し、再びメモに目を落とした。


奈良は配布資料を二つ持ち上げ、出席者の顔を一人ずつ見た。

保護者会で「教師は神ではない」と言い放った原口の声がよぎった。

あの冷たい響きが、今も生徒の間で犯人像と結びついている。

校内では原口は命を狙われているという荒唐無稽な噂まで広がり、恐怖心が彼の周囲を勝手に色づけていった。


「この満足度は、誰かを責めるためじゃない。後輩たちもいる学校を、安心に近づけるためだ。僕らはね、正しく怒ることが必要なんだよ。」


正面でうなずいたのは鈴木寛人。

彼は少しやつれた目の下に薄い影を落として言う。


「俺は、空気で人を切り捨てたくない。数字が独り歩きしないように、文言は僕も見るよ。」


けれど実際には、原口の名は出ていないのに、いつのまにか殺人犯扱いが生徒達の口端に乗り始めていた。


「ありがとう、鈴木。君の言葉には皆が耳を傾けるだろう。」


その隣で、蒼太(写真部兼放送委員)が手を挙げた。


「フォームの管理、俺で良ければ手伝う。けど設問は誘導的にならないようにしようよ。誰に不満かじゃなく、何が不安かの軸で、さ。」


奈良は頷く。


「賛成。ただ、一番大切なのは、早く出すこと。週末をまたぐと、憶測が憶測を呼ぶと思うんだ。今夜8時に配信で。明日17時に回収にしよう。」


「タイトだね。」と三澤沙織が苦笑する。


ドアがまた開き、広報の久保美優と野口由紀が顔を出した。

美優はおずおずと、由紀は真っ直ぐに。


「呼ばれたって聞いて…。」


「共有だけでいいなら早くして。明日、献花のリボン買い出しに行くから。」


奈良は資料を差し出した。


「頼りにしてる。広報は誰かを責めない言い方。『怖いなら一緒に帰ろう』『心配なら職員室へ』。短く、優しく、強くね。」


「わかった」と由紀。

美優は資料を胸に抱いたまま、ほんの一瞬だけ奈良の目を見た。

奈良は視線を受け止め、軽く頷くだけにとどめる。


会議は散会に向かい、青木と蒼太がPCでフォームの設計に入る。

設問の語尾、スライダーの段階、自由記述欄の注意文。

青木が眉を寄せた。


「ここ、『相談しやすい教員・相談しづらい教員』って対にするの、やめよう。『相談しやすい場面・しづらい場面』で。」


「了解」と蒼太。

指がトラックパッドを滑る。


奈良のタブレットには、校内掲示用の下書き文が表示されていた。

そこにはたった一行。


『一部の担任の発言に対して、生徒から不安の声が寄せられています』


名前は出さない。

だが、その一文を読めば誰もが3年1組の原口を思い浮かべる。

直接は触れず、しかし空気だけを誘導する。

奈良の指先がその文を保存すると同時に、原口を包む冷たい視線の網はさらに細かく編まれていった。


「会長、それ…原口先生のことを遠回しに狙ってませんか?」

蒼太が小声で言いかけた瞬間、奈良のスマホが震えた。


画面に浮かんだのは PTA副会長・川西圭太の名前。

保護者会でも冷静に発言していた人物だ。


《学校に任せるべき部分は任せましょう。生徒会の声明が感情的になれば逆効果です。協力は惜しまないから、冷静に動いてください。》


奈良は一瞥し、指先で短く返した。


《ありがとうございます。必ず冷静にやります。》


表情は穏やかなまま。

しかしその目の奥には、冷えた光が残っていた。


―――


夜8時。

フォームは予定通り配信された。

クラスの一斉連絡、学年LINE、各クラスの掲示板。

拡散は静かに、速かった。


「スライダー方式?」

「自由記述って炎上するんじゃね?」


石田武尊・平井達也・橋本健太は半分お祭り気分でコメントを覗き、吉田直樹はスマホを机に伏せたまま黙っている。


「これ、コールドメガネのこと書けるやつじゃね?」


と笑う声が混ざった。

名前は出されていない。

しかし、全員が同じ人物を思い浮かべていた。


山下久美子は「これ、最後に人の名前は書かないって注意、二回繰り返してる」と淡々と指差し、青木の配慮に気づいていた。


彩と理佐がテンポよく拡散文を整えた。


コールドメガネの話題は避ける。

それが暗黙の了解になっていた。

しかし避ければ避けるほど、その姿は逆にくっきり浮かび上がっていく。


「先生が悪いって責める言い方じゃなくてさ、怖いことがあったら共有しようってトーンにしたほうがいいよね?」


「そうそう。あと、私たちは群れなくてもいい、でも一人にはさせないって書き方にしたらどう?」


そのスレッドに、佐藤遥がラフな書き口で添える。


「寄り添うって、正直すごく難しい。何を言えばいいか分からない時もある。 でも、せめて見て見ぬふりをしないことから始めましょう。」


鈴木は自由記述に、短く打ち込む。


『噂を使って誰かを傷つけることはしない』


それだけ書いて、送信ボタンを押す。

数字よりも、自分の言葉を残したかった。


蒼太は管理画面を食い入るように見つめ、眉間にしわを寄せた。


「相談しやすいかどうかの設問、さっきまで普通にバラけてたのに、ある時間帯だけ一気に低いに偏ってる。中央値がガクッと下がってるんだ。誰かがまとめて低評価を入れたとしか思えない。」


青木が身を乗り出す。


「どのクラス帯?」


「3年1組と、3年生の担任不明投票。IPはばらけてるけど、文体が似てる。『言葉が冷たい』『守る気がない』。」


二人は顔を見合わせた。

青木はすぐ、自由記述の末尾にフィルターをかける。

固有名詞と誹謗表現を弾く簡易フィルター。

しかし、冷たい、無関心、は引っかからない。


奈良は腕を組んだまま、落ち着いた声で言った。


「フィルターはそのままでいいよ。大事なのは、相談しづらいと感じている層が確かにいる、という事実だね。 その傾向を学校に突きつければ、必ず動かざるを得なくなる。」


しかし、匿名の低評価の群れは、まるで原口を狙い撃ちにするためだけに投じられたようで、彼が命を狙われているかのような空気さえ漂わせた。


蒼太は口を噛みしめ、言葉を絞り出した。


「でも、さ。その数字、結局はある担任のことだって、みんな思うよ。実質的に原口先生を指してるのと同じじゃないか。」


奈良は静かに答えた。


奈良は静かに言った。


「僕達は名指しなんかしてない。誰の名前も出してない。でも、数字と空気が揃えば、人は勝手に誰のことか想像してしまう。 それで十分なんだよ。」


名を出さずに済むはずの仕組みは、まるで原口=犯人という一枚の見取り図を、結果的に生徒全員に配ってしまっていた。


―――


同じ頃、定食屋「ありがとう」。

座敷の卓上には、湯気を立てる味噌汁が4人分、湯呑と並んでいた。


「どうぞ。今日は南條さんが味を整えてくれましたよ。」


中川有一郎が笑顔で盆を下ろす。

穏やかな声に、場が少し和らぐ。


暖簾の奥からは包丁の音。

南條晃が顔だけ出し、不器用に言葉を落とした。


「今日は塩分を少し控えてあるんだ。疲れてるだろう?」


その言い方がいかにも南條らしくて、誰かが「ありがとうございます」と答えると、


「味が薄かったら漬物で塩分調整してな。」


とぶっきらぼうに言い残し、再び厨房へ引っ込んだ。


中川は苦笑しながら「あの人なりの気遣いなんですよ」と付け加えた。


沈黙の時間、誰も口にしなかったが、怜奈も美優も心の底で『原口先生、本当にやったんじゃないか』と疑念を振り払えずにいた。


奥のテーブル席に鈴木、村上啓太、久保美優、藤田怜奈が並んで座っていた。

テレビは消してある。

ラジオから流れる演歌が遠くでかすかに聞こえ、時計の針の音がやけに大きく感じられた。

味噌汁の湯気が、黙り込む4人の間に揺れている。


沈黙を破ったのは鈴木。

箸を置き、息を吐くように言う。


「俺、アンケートに噂で人を叩かないって書いたんだ。ああいうのって、さ。見てるだけで気分悪いしな。」


啓太がすぐに頷いた。


「わかるよ。俺は、怖いときは名前じゃなくて、状況とか場所を書こうって書いた。そしたら誰かを直接傷つけなくて済むだろ?」


怜奈は湯気の向こうをじっと見つめ、低く笑うように言った。


「正しいって言葉って、さ。便利じゃない?人を切り捨てるときの一番いい口実になるもんね。だから私は、自分の口からはもう、そういうの使わないって決めたよ。」


美優が俯き、両手で湯呑みをぎゅっと包んだ。


「寄り添うって、ほんと難しいね。声のかけ方ひとつで変わっちゃうから。あの、さ。鈴木って、実際のところ生徒会長のこと、どう思ってんの?」


鈴木は一瞬だけ黙る。


「あいつは、言葉の使い方を知ってる。みんながそうだって思うように話せる。だからこそ、俺らも自分の言葉を持たないと、一気に持ってかれる、って感じかな?」


厨房から顔を出した南條が、鍋をかき回しながら言った。


「正しいかどうかなんて、後になって初めてわかるもんなんだ。 結局、最後に残ったものが正しかったってことにるんじゃないか?」


4人は思わず顔を上げ、視線が重なった。

言葉は出てこなかったが、それぞれの胸に緊張が走り、無意識に背筋が伸びた。



―――


翌朝。

昇降口の掲示板に、A3の集計PDFが貼られた。


《不安な場所=北棟3階・西階段》

《下校時の不安=駅前から商店街の暗がり》


そして、右下に小さく


《相談体制満足度(学年別・平均値)》


掲示板に貼られたグラフを、数人の生徒が取り囲んでいる。

色の帯はただ並んでいるだけ。

けれど、3年生だけが極端に低いことは誰から見てもひと目でわかった。


「なぁ、これ見ろよ。3年、やっぱ低いじゃんな。」

「それな。 あの担任のことだってバレバレやん。」


声を潜めて笑いが走る。

その声の端には「殺したのも、あの先生なんじゃね?」という震える噂まで混じっていた。

否定する声は出ない。

ただ空気だけが濃くなる。


「てかさ、担任の名前なんて出てなくね?」


芽依が口を挟んだが、理佐がすぐにかぶせた。


「出てなくても、さすがにもうみんな知ってるっしょ。」


昼休みの食堂。

カレーの匂いが漂う中、生徒達がスマホでその表を撮っていた。


「コールドメガネの話、ウケるくね?」

「それはそう。藤井先生見習えっての。キモすぎ。」


ガチャガチャ鳴る食器の音に混ざって、笑い声だけが浮いて聞こえた。


その空気を、山口隼人は少し離れた場所から眺めていた。

何も言わず、ため息も吐かない。


掲示の端がめくれているのに気づくと、ポケットからピンを抜き取って留め直す。

紙の端がパチンと音を立て、また静かに壁に戻った。


誰もその仕草に気づかなかったが、隼人の胸の奥には小さな苛立ちと、誰にも言えない責任感がくすぶっていた。


―――


職員室。

柏木晴翔(3年4組担任)が印刷物をめくりながら、高岩に小声で言った。


「この集計、出し方がうまいですよね?名前を姑息に出さずに、責任っていう影だけを落としてますもんね?」


高岩は返事をしない。

机の書類の角を揃えながら、ちらりと山田の様子を見た。

山田は保健室の記録ノートに〈来室:涙・頭痛・不眠(複数)〉とだけ書き込み、静かにペンを置く。


その影は、すでに原口圭介の肩に落ちていた。

殺害予告の封筒も、SNSの匿名投稿も。

中には原口は自分で自作自演をしているという冷たい書き込みまであり、同僚の目すらも彼を信じ切れなくしていた。

それでも彼は、ただ無表情に椅子へ戻るだけ。


生活指導主任の田中が声を張り上げる。


「この掲示板、生徒会が勝手に出したのか? 学校の確認を通してないじゃないか。これについては指導が必要かもな。」


校長の根岸が手を上げて制した。


「だめですよ!数字は事実です。止める理由にはなりませんよ!」


教頭の東海林は渋い顔で、「しかし特定の教員への...」と言いかける。

そこで柏木が、眼鏡を外して静かに割って入った。


「教頭!ここで誰のことだと口にすれば、その瞬間に名指しになるんです!黙ることも、言うことも、両方が刃になることを注意して発言してください!」


室内に短い沈黙。

原口圭介は資料を綴じて席を立ち、黙ったまま水を汲みに行った。

その背中を、同僚達の視線が追う。

心配と、距離を取ろうとする感情が入り交じっていた。


―――


昼休み、中庭のベンチ。

奈良は一年生に囲まれて笑顔を見せながら話していた。


「怖い思いをしたら、すぐに大人に言ってほしい。先生を責めるためじゃなくて、僕らが変わるためにね。」


その様子を眺めていた一年生が囁いた。


「原口先生じゃなきゃいいけど…。」


友人がすぐに「シッ」と口を塞ぐ。

しかし、言葉は風に残る。


少し離れた場所で、鈴木と蒼太がその様子を見ていた。

蒼太が小声でつぶやく。


「会長、言ってること自体は正しいんだけどな〜。でも、この集計の出し方は違和感しかない。」


鈴木は短く頷いた。


「それな。だから俺らは別の言い方を増やすしかないな。空気を変えられる言葉で。」


そこに野口と美優、藤田が通りかかる。

野口が立ち止まり、振り返りざまに短く言った。


「放課後、図書室に集合ね。その言い方の会議やろ。」


三人は視線を交わし、静かにうなずいた。


―――


夕方。

生徒会室にまだ灯りが残っていた。

机の上には《追悼週間》の資料。

その横に、見慣れない1枚の紙。

匿名の文字で、整いすぎた筆跡。


《生徒は担任を選べない》


奈良はその紙を指先で摘み、シュレッダーの投入口に差しかけた。

しかし、数秒見つめたまま引き戻し、机の引き出しに押し込む。


そのときドアが開き、副会長の三澤沙織が顔を出した。


「会長、明日の献花の動線、体育委員からOKもらったよ。」


「ありがとう。それと、広報は誰かを責めない。この方針、絶対に崩さないでね。」


副会長は戸惑いながらも頷く。

奈良は窓の外を見やり、小さくつぶやいた。


「敵の顔は、映さないほうが強いんだ。」


―――


ネット掲示板


その夜。

学年の非公式掲示板に短い書き込みが現れた。


《とあるクラスの担任、保護者会で教師は神じゃない発言》


コメントはすぐに伸びる。

言葉はバラバラなのに、方向は同じ方へ揃っていった。


「コールド メガネ」というフレーズが何度も繰り返され、やがて定義のように定着していく。


蒼太は画面を閉じて天井を仰いだ。

スマホには青木からのメッセージ。


《明日からは質問の出し方を変える。数字だけじゃなく、どんな場面でそう感じたかを書いてもらう形式にする。広報の文言も少し柔らかく調整しよう》


《了解》


とだけ打ち、もう一度掲示板を開く。


新しいレスが目に入った。


《会長が言ってたって聞いた。ならガチじゃね?》

《生徒会が言うならもう確定》

《疑う余地ないっしょ》


胸の奥に、冷たいものが落ちた。


―――


翌朝


翌日。朝の職員室に、PTA副会長の川西圭太が訪れた。

応接スペースに根岸校長、高岩、柏木、山田が並ぶ。


川西は深く頭を下げ、落ち着いた声で言った。


「この集計を、特定の先生のせいだという話にしないために、学校と生徒会と保護者で、一緒に言葉の出し方を決めませんか? たとえば、誰が悪いではなく、どんな場面で生徒達が不安を感じたかという形で伝えるようにする。そうすれば、先生を責めるんじゃなく、改善の材料になりますよね。」


高岩が顔を上げる。

山田はすぐにペンを走らせ、提案をノートに写し取った。

東海林は腕を組んだまま、「そんなの形にするまで時間がかかりますよ」と不満げにつぶやく。


柏木は落ち着いた声で続けた。


「だからこそ拙速に進めるのは危険です。表現を間違えれば、ますます誤解を広げることになります。丁寧に整理してから出すべきです。」


会議室のドアが閉まった。

廊下の先に掲示板の前に数人の生徒が肩を寄せ合っている。

原口が通りかかると、生徒達は一瞬だけ道を空けた。

けれど、彼が背を向けた途端、またひそひそと元の輪に戻る。

足音が遠ざかっても、その背中には無言の視線がまとわりついていた。

原口の影には命を狙われている教師という噂までまとわりつき、否定する言葉がないほどに強固な現実となりつつあった。


―――


放課後の図書室。

隅の机を囲むように、3年2組の1部が集まっていた。

机の上には何も置かない。

誰もが声を落とす。


「じゃあ、始めようか?」


鈴木が小さく切り出す。


「数字を武器にしない。」と言ったとき、誰もが同じ顔を思い浮かべていた。


原口圭介。

口には出さない。

しかし沈黙こそが、最大の名指しになっていた。


琴音が間を置いて口を開いた。


「相手の気持ちを想像しないのが、一番人を傷つけると思う。」


山下が手を挙げる。


「コールドメガネとかラベルで呼ぶの、やめたいよね。相談はどこで困ったかって言えばいいし、評価は、何をされたかでよくね?人そのものに何かを貼らないようにしようよ。」


しかし廊下に出れば、既に『コールドメガネは殺した』という落書きが残されていて、誰もそれを消そうとはしない事実。


青木はスマホのメモに要点を打ち込み、藤田が続いた。


「私は、もう冷たいなんて言わない。痛みの感じ方は人によって違うから、さ。」


美優は両手で湯呑みを包むようにして言う。


「わからないって言葉を、悪いことにしないでほしいよね。」


啓太が横で頷いた。


「怖いときは必ず二人で行く。ルールとして決めようか?」


山口は黙って頷き、吉田は拳を握ったまま何も言わなかった。


最後に鈴木が口を開く。


「生徒会長がどんなに正しいことを言っても、数字を振りかざしたとしても、人を絶対に追い込ませない。俺達が管理して見張ろう!」


短い沈黙のあと、野口がふっと息を吐き、苦笑した。


「空気読めない集団、復活だね。」


くすっと笑い声が漏れる。

大きくは広がらない。

その笑いの裏で、彼らの誰もが原口先生はもう守られないと直感していた。

けれど重かった空気は、ほんの少しだけ和らいでいた。


―――


夜の生徒会室。

蛍光灯の白さが机の上だけを照らし、外の窓は真っ暗だった。


奈良はパソコンに向かい、集計の最終版を整えていく。

件名欄に《追悼週間・安全対策(速報値)》と打ち込み、職員全体、学年代表、生徒会役員、PTA幹部のアドレスを宛先に並べた。


送信ボタンに指をかけたとき、手が止まる。

引き出しの奥から、あの匿名のメモを取り出す。


《生徒は、担任を選べない》


整った文字が、やけに冷たく見えた。

それがただの嫌がらせか、本物の脅迫か。

原口圭介が本当に命を狙われているのだとしたら、もう笑い話では済まない。

だが奈良は一度も、彼を庇う言葉を発しなかった。

奈良はそれを封筒に戻し、画面に向き直る。

本文の最後に一行だけ打ち足した。


『特定の先生を攻撃する意図はありません。記録は場所と出来事に限定します。』


しかし実際には、その但し書きがあるからこそ、やはり原口だと指差す根拠にされるのは奈良が一番よく知っていた。


深呼吸をして、送信ボタンを押す。

画面に「送信完了」と表示され、部屋はまた静けさに沈んだ。


奈良は背もたれに体を預け、しばらく天井を見上げる。

胸の鼓動が早いのか遅いのか、自分でもわからない。

窓の外、グラウンドは闇に沈み、校舎のガラスが夜を映していた。


明日、配られた数字をどう受け取るかは、もう自分の手を離れている。

人を守る道具になるのか、それとも誰かを追い詰める刃になるのか。


奈良は目を閉じ、呼吸を整えた。

机の上の未送信フォルダには、封筒に戻したはずのメモの言葉が、まだ重く残っていた。


―――


叫び声が校舎に反響した。

廊下を駆け上がってきた副会長・三澤沙織が慌てて扉を開ける。


そこには、腹にナイフを突き立てられ、椅子に崩れ落ちる奈良義一の姿があった。

白いシャツの布地を赤黒い染みがじわりと広げていく。


沙織の喉から声にならない悲鳴が漏れる。

しかし室内には、すでに襲撃者の姿はなかった。

窓が開いている。夜風がカーテンを揺らし、机の上の紙束をばらまいていく。


散らばった紙の一枚に、黒々とした字があった。


《君はやりすぎた》


沙織は震える手で奈良の肩を揺さぶった。

奈良の目は虚空を見つめ、何かを言おうとして口を動かす。

しかし言葉になる前に、血の泡が唇を濡らす。


悲鳴を聞きつけ、原口が生徒会室に入ってきた。

奈良の腹から血があふれているのを見ても、表情ひとつ変えない。


近くの布をつかみ取り、無言で傷口を押さえる。


「救急車を呼べ。」


それだけ。

声に抑揚はない。


奈良が呻いても、原口の手の動きは一定のまま。

沙織が必死にスマホを操作する横で、彼はただ静かに圧迫を続けていた。


やがて遠くからサイレンが聞こえる。

原口は濡れた手を離さず、視線を落としたまま短く吐き捨てる。


「死なれると面倒だ。絶対に死ぬなよ。」


サイレンの音が近づく頃、廊下を駆ける足音が重なった。

扉を押し開けて入ってきたのは、高岩と駒沢だった。


「何が起きた!」


血で染まった床と、無表情のまま圧迫を続ける原口を見て、高岩は一瞬息を呑んだ。

駒沢がすぐに沙織へ駆け寄り、肩を抱いて支える。


「大丈夫!怪我はない?心配ないよ。救急車はもう来るからね。」


沙織が震える声で頷く。

高岩は駆け込むなり、原口の手元と奈良の腹を一瞥した。


「いったい、何が?」


沙織が泣き声で「さ...さ...刺されたんです!」と答える。

高岩はすぐ奈良の顔をのぞき込み、低くはっきり呼びかけた。


「おい!奈良!しっかりしろ!眠るんじゃない!もう少しだ!頑張れ!」


奈良のまぶたがわずかに震える。


高岩は沙織と駒沢に向かって言った。


「救急隊が来たら入口まで案内してくれ。ここは俺達で持つ。」


落ち着いた声が、生徒会室に広がっていく。

その間も原口は無言のまま布を押さえ続けていた。


原口には目を向けない。

ただ現場を整えるように、落ち着いた声で言葉を落とした。


原口は顔を上げず、返事もしない。

血に濡れた手で布を押さえ続けるだけ。


駒沢は沙織の肩を支え、短く言った。


「私と一緒に入口で救急隊を迎えましょう。」


沙織は涙を拭い、必死に頷いた。

2人は廊下へ駆け出し、昇降口へ向かった。

生徒会室には、高岩と原口だけが残り、奈良の意識をつなぎ止めていた。

原口は相変わらず、無言のまま圧迫を続けている。


サイレンの赤い光が校舎の窓を揺らし、生徒会室の床を赤黒く染めていた。

奈良は担架に乗せられ、夜の闇へ運び出されていく。


残されたのは、血の匂いと、散らばった紙の一枚。


《君はやりすぎた》


誰が書き、誰が刺したのか。

答えは依然として闇の中にある。


ただひとつ確かなのは、この夜を境に、学校全体の空気がもう後戻りできないほど歪み始めた。

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N2715KW
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