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沈黙の紙片 ~裏切り者のいる教室〜  作者: マリブン
Season1

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15/33

名前のない噂 ①

サイレンの赤が北棟の窓に跳ね、廊下の白い床を斜めに裂いた。


「救急車は?」


藤井一真が膝をつき、掌で圧迫する。

血が指の隙間からじわりと滲む。


「いま要請済み!」


高岩洋平が無線を握り、短く指示を飛ばす。


「周囲を空けろ!撮るんじやない!スマホをしまいなさい!」


野口由紀はななみの手を握っていた。

冷たく、軽い。


「ななみ、息して。聞こえる? 聞こえるよね?」


駒沢幸が後ろから野口を抱きとめ、「大丈夫、大丈夫」と繰り返す。

言葉は震え、胸に当たる鼓動が速い。


人だかりの端で、久保美優が泣きながら配膳室のペーパータオルを抱えて走ってくる。

藤田玲奈は階段側に立ち、下から上がってこようとする生徒を手で制した。

ななみの瞳が、一度だけ薄く開いた。

乾いたまぶたが擦れ、焦点は結ばない。


「……ゆ……き……。」


由紀の名を呼ぶ形だけが唇に浮かび、声にならなかった。

救急隊の靴音が廊下を満たし、銀色のストレッチャーが差し込まれる。


「女性、高校生、胸部刺創。意識レベルJCS300。バイタル低下!」


酸素マスクが口元を覆い、包帯が白さを増す。

制服の内ポケットから、折れ目のついた進路希望調査票が血に濡れて滑り落ちた。


校門を抜けるまでの数十秒が永遠に伸びる。

藤井は同乗を希望し、救急車の金属の壁に肩を預ける。

高岩は野口を玄関ホールまで走らせてから戻り、生活指導の田中に周囲封鎖と生徒避難の指示を出した。鐘の音のように、警報が校舎に反響する。


救急車の中。


「血圧70 触診、脈弱い!心電図、徐々に低下!」


「アドレナリン投与、さらに昇圧!」


医療用語の合間に、藤井の声だけが生々しく混ざる。


「香取、聞こえるか。大丈夫だからな。おい、香取!」


ななみの指が一瞬だけぴくりと動き、何かを掴むように空を探した。

藤井はその手を掴み、額に押し当てる。

汗と血のにおい。

心電図の波形が一段浅くなり、電子音が時折ひどく間延びした。


病院の自動扉が開く。

白い光が一斉になだれ込み、ストレッチャーは吸い込まれるように処置室へ。

 

「ご家族の方は?」

 

受付の声が遠くに溶け、藤井は壁の前で止まった。

高岩が息を切らして合流する。


「由紀は?」


「保健室で駒沢がケアしてる。警察へ通報済みです。校内のカメラ提出準備は田中先生が...」


言葉が途中で途切れた。

処置室の扉が閉まり、金属の音が内側で連なる。


時計の針は、動き方を忘れたみたいだった。

廊下の長椅子に腰掛けた保護者らしき影が、祈るように手を組んでいる。

自販機の前で立ち尽くす男子生徒。

通り過ぎる白衣の裾。

高岩は壁に額を当て、目を閉じた。


(守るって、言ったばかりなのに。言葉はいつも、結果に追いつかない)


扉の向こうから、短い怒号が重なる。


「止血まだ!」

「心マ、もう一度!」


ガラス越しのライトが微かに揺れ、影が横切る。

高岩の視界に、廊下の先で立ち尽くす小柄な女の人影が映った。

ななみの母だった。

誰かに支えられ、唇だけが何度も同じ言葉を繰り返す。


ごめんね。

どうかお願いします。

神様、あの子を助けてください!


時間の輪郭が崩れ、唐突に静寂が落ちた。

機械音が薄くなる。

扉が開き、マスクを外した医師が出てきた。

顔は汗で濡れているのに、目だけが乾いていた。


「ご家族の方はこちらへ。本日は誠に申し訳ございません。オペは最大限に努力しましたが、ななみさんは亡くなりました。残念です。」


音が消えた。

藤井は壁を拳で一度だけ叩き、肩を落とした。


「くそーーー!!!」


高岩は息を吸って、吐く場所をなくしたみたいに口を閉ざす。

喉の奥に鉄の味が広がる。


看護師に伴われ、ななみの母が小部屋へ消えていく。

母の背中は背丈よりずっと小さく見えた。

廊下の角に、制服の群れが密やかに集まり始める。

噂は足音より速く、現実より先に形を持つ。


「誰かが刺したの?」

「校舎のカメラって?」


高岩は振り向き、「戻りなさい」と短く言った。

その声に力はなかったが、命令よりも遠くまで届いた。


スマホが震え、学年のグループにメッセージが重なる。


《救急搬送って本当?》

《ななみ?》

《ニュースになる?》


文字列の向こうで、人間が揺れている。

 

(今はまだ、何も言えない。だが何も言わなければ、嘘が育つ)

 

高岩は携帯を握り締め、指が汗ばむのを感じた。


処置室から、静かに覆いをかけられたストレッチャーが出てきた。

白は軽く、世界の重さだけが増した。

藤井は目を閉じて一礼する。


「高岩先生、学校に戻りましょう。警察が来る前に、動線と記録を固めましょう。」


「わかりました。」


声は短く、硬い。

二人の靴音が廊下に浅く刻まれ、すぐに消えた。


自動扉の外は夕方の色で、風が冷たかった。

校舎に向かう車の窓に、街路樹の枝が流れていく。

高岩は一瞬だけ空を見た。

雲は低く、季節は春の手前で止まっている。


病院の駐車場の端で、制服の男子がひとり、ポケットに両手を突っ込んで空を見上げていた。

すれ違いざまに軽く会釈をする。

整った横顔、整えられた所作。


奈良義一。


学年で知らない者のいない優等生。

成績も競技も常に上位、笑えば空気が明るくなる。

その視線は、ほんの短い間だけ病院の扉に向き、すぐ春先の空へ戻った。


―――


病院で死亡が確認された直後、警察は校内へ捜査員を派遣した。

昇降口や廊下は立入禁止のテープで封鎖され、鑑識が床や手すりを次々と撮影していく。

生徒達は体育館に集められ、名前を呼ばれた者から順番に小会議室へと案内された。


「最後に香取さんを見たのはいつですか?」

「廊下で不審な人物を見かけませんでしたか?」


警察官の声は抑えていたが、質問のひとつひとつが鋭く胸に刺さる。

野口由紀は泣き腫らした目で、「忘れ物を取りに戻ると言って…」と震え声で答えた。

山口隼人は「俺は……何も見てません」とだけ短く言い、靴のつま先を見つめ続けた。


職員室でも同じように事情聴取が行われた。

教師たちは机を一列ずつ回られ、当日の所在を問われる。


「放課後、どこにいましたか」

「生徒の動きを把握していましたか」


刑事の声に、誰もが強張った表情で答えていた。


藤井一真は血のついた手を洗ったばかりで、椅子に座ると拳を握りしめた。


「私は、香取を守ると言った矢先でした。見落としたのは事実です。だからこそ、真犯人を必ず突き止めてください。」


刑事はメモを取りながら淡々と頷くだけだった。

沈黙の中に、職員室の時計の音だけが重く刻まれていた。


―――


翌日。校門の前には、テレビ局の中継車と報道陣が列をなし、カメラのライトが朝の光に混ざっていた。

画面越しに流れたのは、学校名のテロップと、モザイク処理された制服姿の生徒の背中。


『東京都内の私立高校で、女子生徒が校舎内で刺され死亡しました。警視庁は殺人事件として捜査本部を設置し、当時校舎にいた生徒や教職員から事情を聴いています』


レポーターは校門前から緊張した表情で伝える。


「こちらが事件のあった高校です。現在も報道陣が集まり、保護者の出入りに動揺が広がっています。生徒の名前などは公表されていませんが、SNSでは一部で実名や写真が拡散されており、警察も対応を呼びかけています。」


画面が切り替わり、スタジオには元刑事と教育評論家が並んでいた。


「学校側の安全管理に問題はなかったのか」

「SNSでの憶測が二次被害を広げています」


そうした解説が続き、視聴者への注意喚起が繰り返された。


一方で、テロップには


「生徒間のトラブルか」

「内部犯行の可能性も」


といった文字が大きく躍る。

名前こそ出されていないが、画面に流れる映像とワードの一つ一つが、在校生達を直接的に追い詰めていった。


昇降口のガラス越しにそれを見ていた野口由紀は、思わず唇を噛みしめた。


「ななみの名前は出てない。でも、これじゃ誰のことか、すぐにわかっちゃう。」


隣で久保美優が震える声で答えた。


「テレビが言ってないのに、SNSで勝手に広がって…。どうしたら止まるの。」


校内は、張り詰めた沈黙に覆われていた。

昇降口を抜け、靴を履き替える生徒達の所作はぎこちなく、誰もが声を潜めていた。

廊下に並ぶ掲示物や窓の光さえ、どこか薄暗く感じられる。


「全校生徒は体育館に集合」


そんな放送が流れると、重い靴音が一斉に同じ方向へ進んだ。

体育館の中は静寂に包まれていた。

普段ならざわめきや笑い声が響くはずなのに、今日は誰も口を開かない。

壇上には校長、教頭、学年主任。

そして最後に、生徒会長の奈良義一が立った。


「香取ななみさんは、僕たち3年生の仲間であり、大切な友人でした。」


よく通る声が体育館に響いた。

背筋はまっすぐ、マイクを握る手も微動だにしない。


「彼女は常に努力を惜しまない人で、周囲に優しさを分け与えてくれる存在でした。僕達は彼女の笑顔や夢を、決して忘れてはいけないと思います。これからの日々を、彼女が誇れるような学校生活にしたい。そのために、強く、まっすぐ歩んでいきましょう。」


その言葉は、硬く冷え切っていた空気を少しずつ解かしていった。

体育館に沈黙が落ち、やがてどこからともなく拍手が広がった。

泣きながら手を叩く生徒もいる。

教師達も皆、目を赤くしていた。


野口由紀は、真っ赤な目でハンカチを握りしめながら言った。


「奈良君ってやっぱりすごい。ななみの気持ちを全部、代わりに言ってくれたみたいだった。」


隣の美優が頷き、玲奈も涙を拭いながら「ほんとそれ」とつぶやく。


野口には、ななみが奈良に淡い恋心を抱いていたことを知っていた。

 

「奈良くん、かっこいいよね。」


休み時間にぽつりと打ち明けられたことがあった。

真剣な瞳で語るその表情を、野口は鮮明に覚えていた。

だからこそ、今の弔辞が胸を締め付ける。

奈良が語った一言一言が、ななみの心そのものを代弁しているように響いてならなかった。


体育館を出たあとも、生徒達の間では奈良への称賛が止まらなかった。

 

「さすが生徒会長だよな」

「奈良くんがいるだけで安心する」

「ななみも、絶対に喜んでるよね」


その声は、悲しみに沈んでいた心をわずかに支える光のようだった。


一方で、別の噂も強く広まりつつあった。

3年1組の担任、原口圭介。


教室で「教師が葬儀で祈っても無意味だ」と言い放った冷酷な態度は、多くの他クラス生徒達が耳にしていた。


「原口先生って冷たいよな」

「事件に関わってるんじゃないか」


生徒の間でそんな声が囁かれ、保護者たちの中でも不安や疑惑が膨らんでいた。


職員室では、実際に保護者からの抗議が寄せられ始めていた。


「子どもを預けているのに、担任があんな態度でいいのか」

「責任を果たしていない」

 

怒りに満ちた言葉が並ぶたびに、原口はただ淡々と返すだけだった。


「教師は神ではありません。守るなんてことはできない。幻想を押し付けないでください。」


その冷ややかな答えは、火に油を注いだ。

高岩はその光景を横目に見ながら、胸の奥でざらつきを覚えていた。

 

(原口の疑いは、これからもっと濃くなっていくだろう)


奈良の言葉が光をもたらすほど、原口の影は濃く見えていた。


―――


香取ななみの葬儀は、都内のセレモニーホールで営まれた。

白木の祭壇の上、写真のななみは制服姿で微笑んでいる。

参列した生徒達の多くは、その笑顔に耐えきれず、目を伏せた。


読経の声が流れ、次々に生徒や教員が焼香の列に並ぶ。

高岩洋平は香を手に取り、深く頭を垂れた。

線香の煙が揺れるたびに、胸の奥に押し込めた思いが突き上げてくる。

隣の藤井一真は唇を噛みしめ、肩を震わせていた。


野口由紀は棺の前に立ったとき、こらえていた涙が決壊した。


「ななみ…どうして...。」


美優がそっと支え、玲奈が背中に手を当てる。

だが由紀の視線は、遺影の笑顔から離れなかった。


(ななみ…あのとき、言ってたよね。奈良くん、かっこいいよねって…。生徒会長のこと、好きだったんだよね…)

 

あの日の囁きを思い出すと、心がひりついた。


やがて、司会進行の声が落ち着きを取り戻す。

 

「それでは、生徒代表として、生徒会長の奈良義一君、お願いします。」


奈良は黒い礼服に身を包み、真っ直ぐ前へ進み出た。

堂々とした姿勢は、誰よりも立派に見えた。

棺に一礼したあと、遺影に向かって言葉を紡ぐ。


「香取ななみさんは、僕たちに夢と努力の大切さを教えてくれました。彼女が見せてくれた真剣さを、僕達はこれからも胸に抱き続けます。ななみさん、安心してください。僕達は必ず、あなたが誇れる仲間であり続けます。」


震える声ではあったが、言葉の一つひとつは澄み渡り、会場全体を静かに包み込んだ。

すすり泣きが広がり、誰もがその場に立つ彼を「頼もしい」と感じていた。

教師たちも保護者も、「奈良生徒会長がいてくれてよかった」と口々に言った。


野口は涙に濡れた頬を押さえながら、胸の奥で思った。


(ななみ…あなたの好きだった人が、こんなふうに言ってくれたよ…きっと、届いてるよね)


―――


葬儀が終わり、生徒や保護者が会場の門前へと出ていく。

冷たい石畳の上に、まだ春を遠ざける風が吹いていた。

制服姿の生徒達は互いに支え合いながら帰路につくが、その間から、ひそひそとした声が漏れ始める。


「やっぱり3年1組の担任、原口先生でしょ?」

「祈っても無意味だ、なんて言うなんて…普通じゃないよ。」

「私の子も言ってたわ。あの先生は生徒に全然関心がないってね。」


噂は、まるで風に乗った灰のように広がっていった。

それを耳にした教師の一人が慌てて制するが、不信の種は消えない。


その一方で、奈良は出口で一人ひとりに「気をつけて帰って」と声をかけていた。

泣き崩れた後輩にはハンカチを差し出し、肩に手を置いて


「無理しなくていい」と囁く。


その姿に、多くの保護者や教師が目を細めた。

「やっぱりあの子は立派だ」

「ああいう子がいてくれるのは救いだ」


高岩は門の外からその光景を見ていた。

病院で感じた小さな違和感は、もう完全に胸から消えていた。

 

(疑うなんて間違ってた。彼は…生徒の希望そのものだ)


光を帯びる奈良と、濃くなる原口への影。

そのコントラストが、静かに校内の空気を二分し始めていた。


―――


葬儀から数日後、三年生の保護者を集めた臨時保護者会が開かれた。

会場となった視聴覚室には、沈んだ空気が充満していた。

壁際には記者が待機し、学校側は緊張した面持ちで壇上に並んでいる。


根岸校長が開会の挨拶をしたが、その声はいつもよりかすれていた。

 

「この度は…大切なお子さんを守ることができず、誠に申し訳ございません。」


深く頭を下げる。

その背に「誠意は伝わるが、答えになっていない」という重い空気が漂った。


最初に口火を切ったのは、女子生徒の母親だった。


「うちの子は、毎日怯えて登校しています。誰が犯人かもわからないまま、どうやって安心しろというんですか!」


続いて別の父親が立ち上がる。


「私は事件そのもの以上に、教師の姿勢に問題があると思う。三年一組の担任、原口先生。あなたです。」


室内がざわめいた。

指名された原口圭介は、椅子から立ち上がり、ゆっくりと壇上へ歩み出た。


「私は、生徒に過剰に干渉しない方針で指導しています。いまの時代、教師が一歩踏み込めばすぐハラスメントと糾弾される。だから、私は必要以上のことは致しません。」


その冷淡な言葉に、保護者たちの怒りは一気に膨らんだ。


「子供を守らないと言っているのと同じだ!」

「生徒の命より、自分の立場が大事なんですか!」


声が重なり、室内は騒然となった。

藤井一真が思わず前に出ようとするが、東海林教頭が腕を伸ばして制した。

壇上に立つ原口の顔は無表情のままだった。


「教師は神ではありません。できることには限界があります。それを理解いただきたいと思っております。」


その冷たい響きは、怒りの炎に油を注ぐだけだった。


「理解なんてできるか!」

「責任を取れ!」


罵声が飛び交い、場の空気は制御不能になりかけていた。

音楽科の教師・三谷が必死にマイクを握った。


「どうか冷静に!いまは責任のなすりつけ合いではなく、生徒の安全を第一に...」


しかし声は怒号にかき消された。


会場の後方で控えていた広報担当の教師は、記者のフラッシュが光るたびに顔を青ざめさせていた。


「記事にされるぞ...。」


囁き合う声が、さらに教師たちを追い詰めた。


壇上の原口は眉一つ動かさず、ただ静かに立っていた。

その無表情が逆に「冷酷」という烙印を押していった。


―――


その日の放課後。

騒然とした保護者会の余波を知ってか知らずか、奈良義一は校庭で後輩たちに囲まれていた。


「みんな、不安なのはわかる。でも僕らがしっかりしていれば、きっと大丈夫だよ。」


奈良の穏やかな声は、張り詰めた心を和らげる。

泣きはらした顔の一年生女子が「奈良会長、ありがとうございます」と頭を下げる。

男子達も「やっぱ奈良さんがいてくれてよかった」と肩を叩き合った。


教員の目にさえ、奈良の姿はまぶしく映った。

 

「彼は本当に立派だ。教師以上に、生徒を支えている。」

 

そう囁く声が職員室でも漏れる。

高岩はその光景を職員室の窓から眺めながら、深く息を吐いた。


(あの子がいてくれることは、救いだ。教師より、生徒達は彼の言葉を信じてる)


一方で、原口への不信は日に日に濃くなっていった。

保護者たちの怒号は収まらず、SNSでも「原口担任のクラスは危険だ」という書き込みが拡散している。

教師達の中にも、「彼がもう少し関心を持っていれば」と口にする者まで出始めていた。


光を増す奈良。

影を深める原口。

 

校内は、二人の存在を対照的に語る空気で満たされていた。


保護者会の怒号が収まらないまま一夜が明けた。

朝の職員室は異様に静かで、コピー機の作動音さえ耳に刺さる。

原口圭介の机の上には抗議文を印刷した封筒が重ねられ、誰もそこに近づこうとしなかった。


「おはようございます。」


高岩が声をかけても、原口は短くうなずいただけで目を合わせない。

周囲の教員の視線は冷たく、明らかに距離を取っていた。


昼休み、生徒会室の前に立ち止まった高岩は、扉の隙間から中を覗いた。

奈良義一が数人の下級生に囲まれている。

 

「ななみさんがいなくなって、不安になるのは当たり前だよ。でも僕らは仲間だから。大丈夫、ここで一緒に頑張ろう。」

 

その言葉に後輩達の表情が少し和らぎ、涙を拭った。


高岩は足を止めたまま、短く吐息をもらす。

 

(やっぱり生徒は、奈良を拠り所にしてる。教師よりも)

 

そう思うと、胸の奥に鈍い痛みが走った。


放課後。

原口は黙々と書類を束ねていた。保護者からの要求事項をまとめた報告書だ。

 

「随分と仕事が早いですね。」


高岩が隣に腰を下ろすと、原口は顔を上げないまま答えた。


「俺は感情で動くのが嫌いなんですよ。数字と記録にしておけば、後で責任を問われても反論できるしね。」


高岩はしばらく黙って彼を見つめ、低く言った。


「しかし…記録だけじゃ、生徒は守れないと思います。守ろうとした痕跡が必要なのでは?」


原口の手が止まる。

 

「痕跡?」

 

「そうです。どんなに不器用でも、生徒の名前を呼んだとか、話を聞いたとか。そういう小さな記録が生き残るんです。少なくとも私はそれを残したいと思ってます。」


原口は無言のまま視線を落とした。

その横顔には、諦めと怒りとが同居しているように見えた。


―――


校門近くで帰宅する生徒たちの間に奈良の姿があった。

泣き崩れる野口由紀に寄り添い、彼は一言だけかけた。


「由紀、ななみさんはきっと君に『ありがとう』って言ってるよ」


その言葉に、由紀は顔を覆って泣きじゃくった。

周囲の生徒たちも声を詰まらせ、奈良を見上げる瞳には揺るぎない信頼が宿っていた。


職員室の窓からその光景を見た高岩は、額に手を当てた。

 

(教師は無力だと原口は言う。しかし、無力を恐れて何もしないのは違う。俺は…俺はどうする)


夕暮れの風がカーテンを揺らし、静かな葛藤だけが胸に残った。

夕方の職員室。

重苦しい空気のなか、突然、藤井一真が椅子を強く引いて立ち上がった。

 

「原口先生!あの発言はあまりに冷たすぎませんか!」


鋭い声に周囲の教員が顔を上げた。

原口圭介は手を止め、淡々とした口調で応じる。

 

「事実を申し上げただけです。教師が祈っても、生徒は戻りません。幻想にすがって何になるのでしょうか?」


藤井は唇を震わせ、言葉を絞り出す。

 

「確かに救えなかった事実は変わりません。でも、あの子のために必死に声をかけ、手を握った私達の気持ちまで無意味と切り捨てるのは違うでしょう!」


原口の目は冷ややかだった。

 

「私は感情で職務を語るつもりはありません。教師は神ではないですよ?生徒の命を背負えるなどと思う方が、傲慢ではありませんか?」


「傲慢?」


藤井の声が大きくなった。

 

「教師は、最後まで生徒を信じて寄り添う存在のはずです。それを放棄してしまったら、残るのは無関心だけです!」


そこで、駒沢幸が慌てて二人の間に立った。


「お2人とも、どうか落ち着いてください!」

 

彼女は藤井の袖を軽く押さえ、そして原口に向き直った。

 

「原口先生。おっしゃることの筋は理解できます。でも、言葉があまりに冷たく響いてしまうんです。それでは、生徒も保護者も、心の支えを失ってしまうんです。」


原口は視線を落とし、机上の資料を押さえた。

 

「寄り添えば満足するのでしょうか?その寄り添いが、やがて教師を追い詰めることになるのです。」


駒沢の声は震えていた。

 

「それでも、寄り添わなければ子どもたちは孤独になります」


高岩洋平はゆっくり立ち上がり、3人の間に割って入った。


「先生達。もう十分です!」


その声は低く、しかし強く響いた。


「藤井先生の言葉も、原口先生の言葉も、どちらも一理あります。私達は生徒を守りたい。けれど、時代はそれを縛っています。踏み込めばハラスメントと糾弾され、何もしていないのに責められることもあるでしょう。」


沈黙が訪れた。

藤井は拳をゆるめ、原口は視線を逸らす。

高岩は二人を見渡しながら続けた。

 

「だからこそ、私達は模索し続けるしかありません。守れたかどうかだけでなく、守ろうとした痕跡を残すこと。それが、教師にできる最低限の責任だと思います。」


駒沢が小さく頷き、藤井は肩を落とした。

原口はしばらく黙っていたが、深く息を吐き、静かに椅子へ腰を下ろした。


職員室には、時計の針の音だけが響いていた。

その沈黙を破ったのは、英語科の柏木晴翔だった。


「原口先生、少なくとも言い方は考えていただきたい。君の冷たさが誤解を生むんだ。」


柔らかな口調だが、瞳には憤りが滲む。

保健室の山田は「生徒の心を守るのも仕事でしょう」と声を重ねた。


「生徒は数字じゃない。心をなくしたら、残るのはただの成績表でしょ。」


理科の白石は腕を組み、


「俺は原口の言い分も分かる。しかし教師が逃げ腰だと、生徒は敏感に感じ取るぞ」


と低く付け加えた。


職員室の空気は凍り、原口の机の周りだけが異様な静けさを放っていた。


―――


その翌日、職員室に置かれた原口の机の上に、一通の茶封筒が置かれていた。

表には達筆で「原口圭介殿」とだけ記され、中身は白い紙一枚。

 

《次はあなたです》

 

黒々としたマジックの文字が血のように滲んでいた。

職員室の空気が一瞬で凍りついた。

 

「なんだこれ?」

 

封筒を見つめた藤井が息を呑む。

しかし周囲の視線は、心配よりも猜疑に傾いていた。


「まさか…自作自演じゃないでしょうね?」

 

若い女性教師のひそひそ声が、静まり返った室内に不自然に響いた。

別の教員が苦い顔で続ける。

 

「殺害予告なんて、そう都合よく届くものなのか?」


原口はただ机に封筒を置き直し、淡々と口を開いた。

 

「私は脅される理由などありません。これを警察に提出します。」

 

けれど、その無表情な態度が逆に反感を買った。

 

「本当に脅されているなら、もっと取り乱すはずじゃない?」

 

「同情を買いたいんじゃないのか?」


視線は冷え切り、疑念は炎のように膨らんでいった。

原口の周囲には、孤立を示す空白だけが広がっていた。


その場にいた保健室の山田が、思わず声を上げた。


「先生…。これは、ただの悪戯じゃありませんよ。もし本物なら、学校全体の安全に関わります!」


しかし、他の教師たちは冷ややかだった。

山田の声は、むしろ空気を引き裂き、疑いを濃くしただけだった。

コピー機の前で立ち止まっていた沢村(社会科教師)は、首を振ってつぶやいた。


「もう誰も信じられなくなってる。こんな学校じゃ、生徒を守れるはずがない。」


言葉は小さかったが、職員室全体に鉛のように沈んでいった。


その夜遅く、SNSに匿名アカウントから投稿が流れた。


《正義は一つじゃない。裏切者は裁かれる》


投稿には、なぜか職員室の一角を思わせる写真が添えられていた。

ブラインドの隙間、コピー機の青いランプ。

内部の者でなければ撮れない角度。


封筒と投稿。

それは偶然の一致なのか、計画的な脅迫なのか。

職員室に残った教師たちは、誰一人として口を開けなかった。


―――


その日の夕方、校門前にはテレビ局の中継車が数台停まっていた。

中継カメラ越しに、アナウンサーが冷たい声で伝える。


「都内の私立高校で、女子生徒死亡事件に関連し、校内の教員に脅迫文が届いたことが関係者への取材でわかりました。学校側は警察に通報し、対応を協議しているとしています。」


画面には、顔を伏せたまま足早に校舎へ戻る男性教員の後ろ姿や、出入りする警察車両が映る。

テロップには《都内高校で脅迫文》《警察が捜査》とだけ大きく表示され、学校名や氏名は伏せられていた。


スタジオのキャスターが補足する。


「現在のところ、学校側は脅迫文が届いた事実は確認しているが、生徒の安全に直ちに影響はないとコメントしています。警視庁は悪質なものとみて詳しい経緯を調べています。」


その映像を教室で見ていた生徒達は、互いに顔を見合わせ、スマホを取り出す。

LINEにはすぐにスクショが貼られ、スタンプや短い言葉が飛び交った。


《これウチの学校だろ》

《脅迫って誰に?》

《ヤバくね》


匿名のテレビ報道と、具体的な内部の噂が繋がっていく感覚が、教室全体をざわつかせていた。

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N2715KW
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