無罪の孤独 後編
翌日、学校に緊急のメールが回った。
『校内での写真撮影・SNS拡散を控えること。詮索や誹謗中傷をしないこと』
しかし、生徒達の間では噂が止まらなかった。
《マジで逮捕されるんじゃない?》
《藤井先生に助けられたってやばくね》
久保美優は画面を閉じ、机に突っ伏した。
「ねぇ、由紀?ほんとに、ななみが?」
野口由紀は答えられなかった。
疑いたくない。でも、火のないところに煙は立たないという言葉が頭をよぎる。
野口は強く首を振った。
「違う。絶対に」
「でも…。」
「でもじゃないよ。本人が一番傷ついてるんだから!」
教室の隅、山口隼人はそのやり取りを聞いていた。
(結局、信じるか信じないかは気分次第。俺だってどうでもいいって思ってた)
それでも、藤井が本気で体を張った光景が脳裏から離れない。
教師が、あんなに迷いなく守った。
なら。
山口は、スマホを取り出し、短く打った。
《俺は信じるよ。あんなクソ紙、また貼られてたら剥がすからな》
送信。
既読がいくつもつく。
返信はなかった。
けれど、静かな波紋が広がる気配だけは残った。
―――
夜。
ななみは自室で、深呼吸を繰り返していた。
窓の外には雪が舞い始めている。
机の引き出しには、羽根のキーホルダー、メモ、記事の切り抜き。
すべてが重なり合って、自分の存在を塗りつぶしていく。
(私は何をしたの?何をしてないの?わからなくなった)
問いは夜に吸い込まれ、答えは返ってこない。
深夜二時。再びインターホンが鳴った。
モニターには、フードを深くかぶった影。
声はない。
呼び出しだけが続く。
ななみは震える指で受話器を取り、押し返すように言った。
「やめてください。警察に連絡します」
その言葉は、再び録画され、記録に残った。
そして、翌朝のニュースで、事件は「殺人事件として本格捜査」に切り替わったと報じられた。
容疑者不詳。
しかし、SNSの片隅では、すでに一つの名前が囁かれていた。
『女子高生読モ・K.N.』
一月十日。テレビの朝のワイドショーが、冷たい声で読み上げた。
『世田谷区の河川敷で男性死亡 殺人事件として捜査本部を設置。現場付近で女子高生らしき人物が口論していたとの証言が』
画面には、黄色いテープと凍りついた地面。
ぼやけたシルエットの防犯カメラ映像が流れた。
小柄な女子高生が、背後の人物に向き合っている。
顔は潰されているが、シルエットだけで「誰か」を連想させるには十分だった。
SNSはすぐに反応した。
《読モのK.N.じゃね?》
《昨日の本屋で見たってツイートある》
《学校特定されてるぞ》
火は一気に広がる。まとめサイト、動画投稿サイト、匿名掲示板。
どこも彼女の名前を連想させるイニシャルで埋まっていく。
「容疑者」という言葉は使われていないのに、空気は既に「犯人探し」へ向かっていた。
―――
学校のLINEグループ。
《マジで香取?》
《でもさ、証拠出てんじゃん》
《関わったらヤバいだろ》
すぐに反論が飛ぶ。
《デマ信じんな。あの子がそんなことするわけない》
《一緒に帰ってるの見たけど普通だったよ》
既読の数は膨れ上がり、沈黙のユーザーが増えていく。
信じるか。
距離を置くか。
教室に入る前から、その2択は生徒達の胸に突き刺さっていた。
―――
始業式の日。
3組の教室は、普段のざわめきがなく、空気が張り詰めていた。
ななみは席に着いたが、声を掛ける者は少ない。
教室を覗いた野口由紀が真っ先に駆け寄り「一緒にはなそ」と声をかける。
その自然さに、久保美優も続いた。
だが、後方の数人は机を寄せて別の話題で盛り上がる。
笑い声は大きすぎて、不自然だ。
「なぁ…。マジで関わらない方が良くね?」
山本が小声で言ったのを、山口隼人は聞いていた。
(楽だよな アホどもには)
でも、藤井が体を張った出来事が頭から離れない。
教師が命がけで守った相手を、同じクラスが切り捨てるのか。
その矛盾が、喉の奥を焼いた。
―――
放課後。
体育館に、3年生全員が集められた。
ステージ上には藤井一真が立ち、その横に高岩と数人の担任が並んでいた。
ざわめきが収まらない空気を切るように、藤井は黒板にチョークで三文字を書いた。
『噂 ≠ 真実』
「いいか。ニュースやネットで色々と見ただろう。動揺しているのも分かる。でも——噂は事実じゃない。事実を決めるのは警察であって、君達じゃない。」
藤井の声は落ち着いていたが、体育館の隅々まで届く力を持っていた。
「関わらないほうが安全だっていう正論もあるだろう。でもな、正論は正義じゃない。その正論が誰かを孤立させ、追い込むなら、それはもう正義じゃなくなる。」
前列で座っていた野口由紀が涙目で頷いた。
久保美優と藤田玲奈も手を強く握り合う。
一方で後方から冷めた声が漏れた。
「でもさ〜、もし本当に犯人だったらどーすんだよ?そしたら俺らも巻き込まれるじゃんそれって責任もてんの?。」
体育館が一瞬ざわめく。
藤井は黒板に再びチョークを叩きつけるように書いた。
『信頼とは わからないを抱えたまま向き合うこと』
「真実が何かなんて、誰にもまだ分からない。先生にも分からない。だが、わからないからといって切り捨てるのは簡単すぎる。俺は教師として、絶対にそれを認めないぞ。」
その瞬間、高岩が横から補足するように言葉を添えた。
「そうだね。先生達、大人は君達が見捨てないと決めたなら、その背中を支える。だから怖がらずに向き合ってほしい。」
静寂が落ちた。
誰もが自分の胸に問いかけるように下を向く。
窓際に座っていた山口隼人は、拳を握りしめていた。
(切り捨てない、か)
その時、体育館の背面扉が、金属を殴ったような音を立てて開いた。
冷気が床を這い、ざわめきが一斉にそちらへ向かう。
入ってきたのは、先日職員室に現れた白いイヤホンの男の母親だった。
やつれた頬、歩みはためらいなく、真っ直ぐステージへ向かう。
「香取ななみさんはどこですか!ここにいるんでしょう!」
体育館の空気が凍り、いくつかのスマホが無意識に持ち上がる。
その前に、駒沢が素早く前へ出て、短く鋭く通る声を飛ばした。
「撮影、禁止!しまいなさい!あなた達の一枚が、誰かの一生を変えます!!」
スマホが次々と膝の上に降りる。
藤井はステージから跳ねるように降り、母親と生徒達の間に立った。
「ここは未成年の学びの場です。名指しでの呼び出しや詮索は許可できません。この場で特定の生徒に怒りを向けることは、あなたも、誰も救いませんよ。」
母親は封筒を開き、週刊誌の切り抜きとプリントアウトを突き出した。
震える指が紙を鳴らす。
「救わない?女子高生が口論していたって、ここに書いてあるでしょ!ぼかしても、誰だかこっちは分かるのよ!息子は死んだのに、彼女は守られて学校にいる。これが公平ですか!」
藤井は一歩も退かない。
背後で高岩が学年担任に目で合図し、通路を確保、最前列の生徒を座らせ直す。
駒沢は側方に回り、母親の動線と生徒の距離を保った。
「それを公平にするために、手続きがあり、線引きがあります。警察の捜査、学校の保護、そして、人としての境界線です。いま、ここで誰かを晒すことは境界線を越えます。ご要望とお話は、別室で私が責任を持って伺います。」
母親の目が潤み、怒りと悲しみがせめぎ合う。
声は掠れていた。
「先生?あなたは、本当に生徒を守っているんですか?学校の評判じゃなくて?」
藤井は短く首を振った。
その声は低く、しかし揺れなかった。
「守るのは、命と場所です。あなたの息子さんの命も、いま目の前にいる生徒の命も。ここを怒りをぶつける場所にはさせません。どうか、別室へ。」
数秒の沈黙。
体育館の空気がきしむ。
やがて母親は唇を噛みしめ、駒沢に支えられて踵を返した。
扉が閉まる音が、冬の冷気をもう一度連れてくる。
藤井は生徒達へ向き直る。
言葉を選び、短く落とす。
「さっき俺が書いたわからないを抱えたまま向き合う。いま、この瞬間のための言葉だ。」
体育館を出た後の廊下。
生徒達が口々に感想を言い合いながら散っていく中、香取ななみは足を止め、壁にもたれていた。
マスクの奥に隠れているはずの表情からも、疲れ切った影がにじみ出ている。
「大丈夫?」
声をかけたのは、駒沢。
ななみは小さく頷いたものの、言葉が続かない。
「私がいるだけで、みんなに迷惑かけてる気がします。」
駒沢は首を振った。
「迷惑なんかじゃないよ。あなたがそう思い込んでいるだけ。」
一歩近づき、声を落とす。
「藤井先生の言葉も、高岩先生の言葉も、本気なの。でもね、私は女だから分かる。女子生徒が噂の渦の中でどんな気持ちになるか。あなただけが特別に強くならなくていい。弱くてもいいの。」
ななみの目が揺れる。
駒沢は優しく笑んで続けた。
「人はね、悪意の声よりも、傍にいてくれる人のほうを長く覚えているものなの。だから大丈夫だよ。あなたには、ちゃんと味方がいるでしょ。」
ななみはその場で涙をこらえきれず、俯いた。
駒沢はそっとハンカチを差し出し、静かに言った。
「困ったら職員室に来なさい。噂に負けないために私達、教師がいるんだよ。」
小さな頷きとともに、ななみはハンカチを受け取った。
廊下のざわめきの中、駒沢の言葉だけが真っ直ぐ胸に届いていた。
―――
夜。
ななみのスマホに、再びDMが届いた。
『君は守られる 真実がどうであれ、俺が味方だ』
震える手でブロックする。
しかし、すぐに別アカウントから同じ文面。
目の前で信じる派と距離を置く派に割れていくクラスの姿と重なり、吐き気が込み上げた。
布団の中で、ななみは涙をこぼしながら思った。
(私はここにいて、いいの?)
その問いの答えは、まだ誰も出せなかった。
しかし、翌日。
事態はさらに大きな局面を迎える。
テレビニュースのテロップがこう告げたからだ。
『殺人事件 女子高生に任意同行要請』
1月11日。午前10時。
教室の空気は重く張り詰めていた。
チャイム直前、廊下の足音が近づく。
ドアが開き、スーツ姿の刑事二人が現れた。
「香取ななみさん。署までご同行願えますか。」
教室の時間が止まった。
ななみはゆっくり立ち上がり、マスクを外した。
顔色は青白いが、瞳はまっすぐ。
その時、野口由紀が勢いよく開けた。
「待って!彼女は!」
追ってきた高岩が野口の肩を押さえた。
小さく首を振る。
「大丈夫だよ。行ってきなさい。」
ななみは小さく頷き、教室を出た。
背中に、無数の視線が刺さっていた。
―――
取調室。
刑事が差し出したのは、例の防犯カメラ映像だった。
「これなんだけどね、君だと言われているんだ。どう思う?」
ななみは震える声で答えた。
「服装が似てるだけです。私、その時間は駅の小物店にいました。」
「証拠はあるの?」
「これ、レジのポイント履歴です。店員さんも覚えてると思います。」
刑事はしばらく沈黙し、資料を繰った。
「確認が取れた。確かに17時23分に購入履歴がある。現場の防犯カメラは17時50分。徒歩では到底間に合わないな。」
別の刑事がファイルを差し出す。
「さらに、現場近くで不審な車が映っていたんだ。被害者の携帯履歴から、ストーカー仲間と思しき人物が浮上しています。」
ななみの視界が滲んだ。
喉の奥から絞り出すように声が漏れる。
「私じゃ、ありません!信じて!」
「分かってるよ。もう疑いは晴れるだろう。しかし、時間はかかるんだよ。覚悟はしておいてほしい。」
―――
その日の夕方、速報が流れた。
『殺人事件 被害者の別の知人男性を重要参考人として聴取』
『女子高生の関与は薄いと判明』
SNSは手のひらを返すようにざわめいた。
《あれ違ったの?》
《やっぱデマかよ》
《可哀想に》
しかし、一度ついた傷跡は簡単には消えない。
クラスの空気も、すぐには戻らなかった。
―――
数日後。
2組の教室。昼休み。
ななみが扉を開ける。
待ち構えていたように由紀、美優、玲奈がななみの机を確保し囲む。
弁当箱を広げながら、当たり前のように隣に座る。
「はい、卵焼き。元気出すやつ〜。」
「昨日のドラマ見た? 超つまんなかったよね〜。」
「次の小テスト、やばくない?」
取り繕った明るさ。
でも、それでよかった。
ななみは初めて、小さく笑った。
その光景を窓際から見ていた山口隼人は、心の中で呟いた。
(結局、卒業したら関係は薄れる。けど、今だけは本物でいられるのかもな)
彼は立ち上がり、ななみの机の横にプリントを置いた。
「これ、先生に頼まれた配布物。」
「ありがとう。」
「別に。」
ぶっきらぼうな一言。
しかし、その短さには確かな重みがあった。
―――
生徒達はそれぞれ帰り支度を始め、教室の空気にはようやく安堵が広がっていた。
まるで、冬休みの事件もようやく過去になりつつあるかのように。
しかし、その平和は長くは続かなかった。
昇降口に置かれた集合ポスト。
そこに差し込まれていた一通の茶色い封筒が、翌朝、事務室の教員によって発見された。
宛名はなかった。
ただ、白い紙に殴り書きされた文字。
『裏切者は制裁に値する』
震えるような赤インクの走り書き。
同封されていたのは、校舎裏の古びた防犯カメラから切り取られた不鮮明な写真。
そこには、教室から帰宅する途中の香取ななみの背中が映っていた。
発見からすぐ、封筒は警察に届けられた。
生活安全課の刑事が職員室に現れ、厳しい表情で言う。
「これは明確な殺害予告です。軽視できません。対象となっている生徒、香取ななみさんは、しばらく外出を控えさせ、保護者と共に過ごさせてください。」
藤井は即座に問いただした。
「警察の警備は?本当に守れるんですか?」
刑事は僅かに目を伏せ、事務的な口調で返した。
「常駐は難しいです。巡回とパトロールの強化が限界です。ただし、もし再び何かあればすぐに通報を...」
「それじゃ間に合わいませんよ!」
藤井の声が職員室に響いた。
駒沢が静かに横に立ち、声を落とす。
「だからこそ、学校でもルールを徹底するしかありません。ななみさんを一人にさせない。必ず教師か友人と行動させましょう。」
高岩は腕を組んだまま、窓の外の雪を見つめていた。
「犯人は、俺達の中の誰かを知ってますね。写真を手に入れる方法を考えれば分かります。」
一瞬、空気が重く沈む。
様子を伺っていた野口由紀が教員室の扉を開け、意を決して言った。
「私が一緒にいます。ななみを絶対に一人にしません。だから先生達も、本気で守ってください。」
沈黙のあと、藤井は強く頷いた。
「分かった。しかし、これでハッキリした。犯人はまだ、この校舎のどこかにいる。」
その言葉が職員室に残り、誰も軽口を叩く者はいなかった。
職員室は一気に緊張に包まれる。
駒沢が封筒を握り締め、眉をひそめる。
「これは、悪質な悪戯じゃ済まされないですよね。」
高岩は黙って腕を組み、藤井はすぐに立ち上がった。
「俺が直接確認します。ななみを一人にさせないでください。すぐに動きましょう。」
一件落着に見えた教室の安堵は、音を立てて崩れ去った。
そして、それが最後の脅しではないことを、このあと誰もが思い知ることになる。
―――
集会を終えた夕暮れの昇降口。
生徒達は雪の舞う外へと列をなし、正門前では警察官が見張りについていた。
教師達もそれぞれ出口に立ち、生徒を見送っている。
「今日は全員、必ずグループで帰るように!」
藤井は3年3組の面々を送り出しながら念を押した。
だが、その穴は思いがけないところにあった。
「ごめん、忘れ物した。すぐ行くから待ってて。」
ななみは野口にそう囁き、列から外れて校舎内へ戻ったのだ。
野口は呼び止めたが、騒がしい昇降口にかき消されてしまった。
廊下はひっそりと静まり返り、夕方の光が窓から差し込んで床を長く照らしていた。
電球の切れた倉庫の前を通り過ぎたとき、背後から声がした。
「大丈夫。送っていくよ。」
聞き覚えのある、安心させるような声。
担任や仲の良い友人に似たその声に、ななみは一瞬ためらい、振り返ってしまった。
次の瞬間、鋭い衝撃が胸を貫いた。
制服が赤く染まり、息が喉の奥で途切れる。
倒れ込む音が廊下に乾いた反響を残した。
外部犯ではない。
警察の目をかいくぐり、自然に近づける内側の人間だった。
数分後、異変に気づいた野口が駆け戻ってきたとき、血の中でななみはかすかに目を開けた。
「ななみっ!」
絶叫が廊下に響く。
駆けつけた藤井が止血を試み、高岩が無線で救急を要請。
駒沢は泣き叫ぶ野口を抱き寄せ、震える声で繰り返した。
「大丈夫、大丈夫だから…!」
だが、その祈りもむなしく、ななみの手は力を失い、冷たい床に落ちた。
藤井は血に濡れた自分の手を見つめ、歯を食いしばった。
「守るって!守るって言ったのに!!」
窓から吹き込む雪が、赤と白を交互に散らす。
冬の事件は、終わっていなかった。
真犯人は、この学校の内部にいる。




