無罪の孤独 中編
1月7日。始業式の前日、3年生だけが課外で登校する日。
雪雲はまだ遠い。
吐く息だけが白い。
昇降口。
靴箱の列に、人だかりができていた。
誰かが、雑誌の切り抜きをコピーして貼ったらしい。
マジックで大きく囲み線。
読モの子。
名前は書かれていない。
けれど、指さしと囁きが、名前の輪郭を描く。
「剥がすぞ。」
藤井が無言で近づき、コピー紙をすべて回収した。
生活指導主任が周囲に散って、「戻りなさい」とだけ短く告げる。
人垣が崩れ、残ったのは踏みにじられたテープの跡と、冷たい床の色。
教室。
ざわつく空気。
山口隼人は、何も言わず席に着いた。
窓の外を見ながら、心の中でだけ呟く。
(関わらない方がいいって、そうやって、何もかも誰かに丸投げするの、楽だよな)
知ってる。
自分も、ずっとそうしてきた。
しかし、今日の昇降口の紙を見て、喉の奥に薄い鉄の味がした。
誰かの顔を隠して、誰かの指で線を引くやり方に、身体のどこかが拒否反応を起こした。
―――
HR。
藤井は出席を取り終えると、静かに出欠簿を閉じた。
「伝達の前に、少しだけ話そう。」
声は落ち着いていて、いつもの爽やかさを保ちながらも、わずかに真剣さを帯びていた。
「冬休みの間、色んな噂を見ただろう。噂は速い。真実よりも速い。でも、速いからといって、それが正しいとは限らない。」
少し間を置いて、藤井は続ける。
「イチローが積み重ねしかないって言っていたけどな、俺もそう思うんだ。小さなことを毎日ちゃんとやる。そういう積み重ねの方が、匿名で貼られた紙切れよりずっと力がある。」
教室が静まり返る。
「誰かを面白半分で追い詰めるのは、爽やかじゃない。スポーツで言えば、フェアじゃないんだ。勝負は正々堂々やるもんだろ?」
そして、少し柔らかい声になる。
「人間は転ぶ。俺だって何度も転んできた。セリーナ・ウィリアムズは倒れたあとどう立ち上がるかだって言ってたけど、本当にそうだと思う。転んだ瞬間じゃなく、立ち上がったそのあとで人は決まるんだ。」
藤井は、背筋を伸ばして視線を巡らせる。
「だから群れて一人を押しつぶすようなことはするな。ここは3年3組だ。俺は担任として、君達を守る。」
言葉は穏やかだが、一本の芯が通っていた。
冬の冷たい空気を割るように、その声は教室の隅々まで届いていた。
HR後、野口は迷わず教室を出た。
廊下の角でななみを見つける。
3組の教室から出てきたななみは、マスク越しでも頬が少しこけたのが分かった。
「一緒に寄り道、してこ?」
野口が言う。
「学校で寄り道?」
「校内の寄り道。図書室とか(笑)」
二人は図書室の最奥、窓際の長机に座った。
外の校庭は、冬の光で硬い。
野口は、手提げから小さな紙袋を出した。
中には、小さな駄菓子の袋がいくつか入っていた。
「ほら、これ。小学生のころ、放課後によく一緒に食べてたやつ。まだ売ってたから買っちゃった。ダサかったらごめん。」
ななみは、ほんの一瞬言葉を失った。
甘い匂いが鼻の奥をくすぐった瞬間、幼い頃の商店街の記憶がよみがえる。
夕暮れの帰り道、二人でじゃんけんしてどっちが多くもらえるか決めていた。
その景色が、冬の曇り空と重なって胸の奥に広がった。
「ありがとう。」
指先が少し震えた。
けれど、その震えを隠すように袋を抱きしめた。
「私、さ。ななみの噂が怖いの。正直、巻き込まれたくないって気持ちもゼロじゃない。」
野口は正直に言った。
「でも、それで距離置いて、何も言わないで、見て見ぬふりして、昇降口のコピー紙がどんどん増えていくの見たら、あとで自分を嫌いになる。」
ななみはゆっくりと顔を上げた。
マスクの内側で、呼吸が整う。
「私も、誰かを傷つけるつもりなんてないよ。ただ、私だって怖いの。本当のことを言っても、別の本当で上書きされるのが怖いの!」
野口はうなずいた。
「上書きね。じゃあ、さ。上書きし返そう。私達のふつうで。」
「ふつう?」
「一緒に帰る。一緒に笑う。一緒に宿題をやる。写真を撮られたら、堂々とピースする。『なにも悪いことしてません』って、ね。」
ななみは、ほんの少し笑った。
肩の高さで、固まっていた何かが数ミリ下がる。
図書室を出たところで、二人は山口と鉢合わせた。
山口は、ほんの一瞬だけ目を伏せ、そして言った。
「あの紙、俺も剥がしたから。」
野口が目を見開く。
「あんたが?」
「うるせぇな。見てらんなかっただけ。」
そう言ってから、山口は耳まで赤くなり、足早に去っていった。
廊下に、短く乾いた笑いが落ちる。
二人は、言葉を交わさずに、少しだけ背筋を伸ばした。
―――
放課後の正門の外。
見慣れぬワンボックスカーが停まり、画面を意識した構えで立つ男。
スマホのレンズは、校舎の出入り口に向けられ、無数の生徒の顔と背中を捕えようとしていた。
駒沢はすぐに間合いを詰めた。
「どちら様ですか?」
男はうやうやしく名刺を差し出し、「SPEEDニュース」と名乗った。
「学校としてのコメントはありません。生徒を撮らないでください。」
駒沢が声を強める。公共の場であっても、未成年ではないか。
「放送倫理や未成年保護の原則、耳にしたことはありませんか?」と詰め寄る。
男は狼狽したように目を泳がせたが、「公共の場所だから」という言い訳を繰り返す。
ただの取材のはずが、校外でさえ踏み込んでくるマスコミの横暴さを露呈していた。
その時、スマホのレンズを背後の校舎に向けた数人の顔が、ほんの一瞬だけ映った。本来守られるべき未成年が、カメラ越しに晒される瞬間だった。
「生徒を傷つけるのが報道ですか?」
駒沢の言葉は静かな怒りを帯びて響いた。
押し問答の末、男は舌打ちを飲み込み、車に戻った。
駒沢は、吐く息を長く吐きながら校門を振り返る。
正門を出る生徒の列の中に、ななみの姿を探したが、見つからなかった。
その頃、職員室。
扉が勢いよく開き、一人の女性が飛び込んできた。
白いイヤホンをしていた男性の親族だと名乗る。
目は真っ赤に腫れ、声は震えながらも鋭い。
「香取ななみさんはどこですか?」
職員室の空気が一気に凍りつく。
対応に出たのは藤井だった。
「ここは学校です。まず落ち着いてください。お話は必ず伺います。」
「落ち着けるわけないでしょう!」
女性は机を叩いた。
「うちの甥は亡くなったんです!ニュースでも女子高生と口論していたって!なぜ学校は何もせず、普通に通わせているんですか!」
真奈は必死に言葉を選んだ。
「警察は『参考人』として話を聞いている段階で、容疑が確定したわけではありませんよ。」
「参考人?そんな言葉でごまかさないで!」
女性の声は職員室に響き渡る。
「現場にいたなら責任はあるでしょう!甥はただ帰宅していただけなんです。人を恨むような子じゃない。それがどうして命を落とすことになったのか。学校は何もしないんですか!」
藤井は答えられなかった。
(この怒りをどう受け止めれば?)
女性は涙を拭いもせず、強く踵を返す。
扉が閉まった瞬間、職員室には重苦しい沈黙だけが残った。
―――
その頃、ななみは裏門から帰っていた。
野口と並んで歩く。
「裏から帰るの、初めて。」
「安全な道を増やすだけ。今日から二人帰り運用でいこう。私か、美優か、玲奈。男子でもいいし。」
「うん。」
住宅街の角に差しかかったとき、道の先に人影。
白いイヤホン。
胸が固くなる。
でも本人は、もういない。
それでも白が視界に入るだけで、身体が恐怖をなぞってしまう。
野口がスマホを出し、声を落とす。
「顔は上げたまま、歩幅だけ少し速く。通り過ぎるよ。」
二人は視線を合わせず、その横を抜けた。
すれ違いざまに見えた顎の線、靴の擦り減り方、におい。
違う。
角を二つ曲がり、信号で立ち止まったところで、ようやく息が戻る。
「人違いだったね。」
「うん。街には似た影がいくらでもある。だからルールで守る。」
「ルール?」
「角では一度止まって周囲を見る。足音が増えたら店に入る。家に着いたら着いたを送る。ルートは日替わり。それで、今日は大丈夫。」
ななみは頷いた。
恐怖は消えない。
けれど、歩き方は変えられる。
二人は歩幅を合わせ直し、冬の空気の中へ溶けていった。
―――
ななみの部屋。
夜中。家は静まり返り、両親の寝息が遠くに聞こえる。
外で車のドアが閉まる音がした。
胸がざわつく。
誰かが近くにいる。
スマホが震える。
見知らぬアカウントからのDM。
『君は悪くない。あいつが間違ってた』
既読はつけず、スクショして佐伯に送る。
『変なDM来ました』
返事はすぐに届いた。
『確認した。残しといて。ブロックも忘れないで。』
その言葉に少し安心し、まぶたが落ちかける。
インターホンが一度だけ鳴った。
夢か現実か分からない。
翌朝、スマホに「呼出1件」の履歴。
時刻は深夜二時三分。
録画は残っていなかった。
噂は、雪みたいに降り積もった。
冷たさだけが静かに残っていく。
―――
一月九日。冬休みの終盤。
空は鉛色で、雪雲が押し寄せていた。
ななみは駅前の本屋に立ち寄った。
雑誌コーナーには、
年末号に掲載された自分の写真がまだ並んでいる。
表紙のモデルたちの隙間で、自分の笑顔が切り取られているのを直視できず、視線を逸らした。
背後でスマホのシャッター音。
振り向くと、フードを深くかぶった男が立っていた。
無言でスマホを下ろす。
(まただ)
ななみは動揺を隠して会計に向かう。
外に出ると、歩道に同じ男の影が落ちた。
距離を保ちながら、一定の歩幅。
雪の前触れの風が冷たい。
駅からマンションまでの帰路。
背後の気配が強まる。
振り返ると、白い息を吐くその男の顔が、はっきりとこちらを見ていた。
「やめてください。」
言葉は震えていなかった。
「警察に通報しますよ。」
しかし男は笑みを浮かべ、低く答えた。
「ニュースで見たよ。君があの人と一緒にいたって、みんな言ってるしね。」
ななみの心臓が跳ねた。
男はさらに低い声で続ける。
「本当かどうかなんて関係ない。君はもう、そういう目で見られてるんだから。」
「もう君は容疑者なんだ。守れるのは俺しかいないんだよ?」
男はさらに近づく。
また一歩、そして手が伸びる。
ななみの腕を掴む。
ななみは反射的に後ろへ下がり、かかとが車道の白線にかかった。
横断歩道の青が点滅に変わる。
クラクション。
自転車のベル。
冬の午後は明るいのに、周囲の音だけが遠のいた。
その瞬間、鋭い声が空気を裂いた。
「手を離せ!」
藤井一真だった。
ジャージの上にコート、部活バッグを肩に掛け、一直線に駆けてくる。
落としたバッグが歩道に転がるのと同時に、藤井は体を半歩ねじ込み、男とななみの間に肩を差し入れた。
「下がれ、香取!」
ななみの肩を自分の背中で弾き出し、歩道側へ押し戻す。
男が掴みに来る腕を、藤井は手首の外側から払って外し、肘を畳むように押さえ込む。
相手の重心が浮いたところで、足を絡めて前に崩す。
アスファルトに男の膝がついた。
「誰か!110番お願いします!コンビニの店員さん、目撃者としてここにいてください!」
藤井は視線を切らずに、周囲へ具体的に指示を飛ばす。
声は怒鳴りではない。命令でもない。
逆らいようのない段取りそのものだった。
男が暴れようと腰を捻る。
藤井は一瞬、呼吸を止めて体幹を沈め、相手の肩甲骨ごと腕を固定する。
無理に力でねじ伏せない、柔道の体さばき。
「ここは生徒の生活圏だぞ。今この瞬間も録画されてる。」
指先だけで男の親指を外側へ返し、痛みで動きを止める。
「先生っ…。」
足元の白線まで下がったななみに、藤井は短く頷く。
「大丈夫だ。歩道から出るな。」
野次馬が距離を取って輪を作る。
青いエプロンの店員がスマホを耳に当てて「はい、三丁目の交差点です。男が女子高生に接触しようとして」と状況を告げる。
藤井は片膝を地面につけたまま、男の視界を塞がない位置で押さえ続けた。
「暴れたら傷害で現行だ。やめとけ。」
低い声が、冬の空気を張る。
サイレンの音が近づく。
昼の光に、パトカーの赤色灯がきらりと瞬く。
藤井はそこでようやく、肩越しに一度だけななみを見る。
「香取、よく声を出した。あとは大人の仕事だ。」
男の動きが鈍る。
制服の警察官が二人、走ってきた。
「こちらで引き継ぎます!」
藤井は押さえを崩さず、手短に要点だけ渡す。
「女子生徒への接近、接触未遂。目撃者多数。店のカメラもこっち向きです。」
手錠の音。
男の肩が落ちる。
藤井はようやく体を起こし、落ちていた自分のバッグを拾った。
手の甲には擦り傷、コートの袖口に薄く砂埃。
ななみの前に立つと、藤井は視線を落として確認する。
「怪我は?」
「ないです。」
「なら、よし。」
それだけ言って、藤井は周囲の視線を浴びながらも表情を崩さない。
男が警察官に引き渡されると、周囲の空気が一気に緩んだ。
制服姿の警官が藤井と香取ななみに向き直る。
「ご両親には連絡できますか?」
ななみは言葉を失ったまま小さく頷く。
警官は続けた。
「すぐに署で事情を伺いたいのですが、保護者か学校関係者の付き添いをお願いします。」
藤井は迷わず口を開いた。
「私が担任です。もちろん同行します。」
警官は頷き、メモを取りながら確認する。
「それと被害届についてもご相談になります。署で担当から説明しますので。」
ななみの顔が強張る。
藤井は横でその様子を見取り、穏やかだがはっきりとした声で言った。
「香取、今は全部大人に任せろ。お前が一人で抱えることじゃない。俺も一緒に行く。」
その一言に、ななみの肩がかすかに落ちた。
警察署。
応接用の事情聴取室。
壁は白く、机の上に紙コップの水。
ななみは緊張で唇を結んでいた。
「まずは状況を整理させてください」
刑事が静かに問いかけ、ななみは襲われたときのことを細かく話した。
言葉が途切れそうになるたびに、藤井が横から短く補足する。
「交差点の防犯カメラもあるはずです。彼女は声を上げて抵抗し、私が駆け付けて制止しました。」
刑事はうなずき、メモを続ける。
「被害届を出しますか?」
ななみは少し揺れた視線を落とした。
答えかけた声は細い。
「はい。お願いします。」
藤井は彼女の答えに合わせるように、軽く背中を叩いた。
「それでいい。記録が残る。それが一番の防御だ。」
数十分後、調書の確認を終え、ようやく署を出た。
外の空気はもう夕方に傾いていて、寒さが骨に刺さるようだった。
「送るよ。親御さんにも俺から話す。」
藤井の声は昼間より少し低く、けれど揺らぎはなかった。
ななみは小さく「ありがとうございます」と言った。
冬の光の中で、その言葉は震えながらも確かに響いた。
―――
次の日。
警察署。
ななみは事情聴取室に座っていた。
指先の冷えが戻らない。
刑事は淡々と尋ねる。
刑事は資料を閉じて、低い声で言った。
「亡くなったのは白いイヤホンの男です。あなたを冬休み前からつけ回していたのは彼で間違いない。ただ…昨夜あなたを追ってきた人物は、どうやら別人の可能性が高いですね。」
「別人?」
「はい。現場近くで白いイヤホンに似た特徴の男が複数回目撃されています。彼がひとりで動いていたとは限らない。」
ななみの胸に冷たいものが落ちる。
(じゃあ、あの夜、私を追ってきたのは?もう死んでるはずの人じゃない?それとも仲間?)
「男は自分が守ると主張していました。あなたとどういう関係ですか?」
「関係なんて、ありません。知らない人です。」
「なるほど。」
刑事は頷き、メモを取る。
「そして彼は君が容疑者と口にした、と。」
「はい。」
刑事はしばらく沈黙し、資料を閉じた。
「正直に言いましょう。あなたは今、参考人としてではなく重要参考人になっています。現場近くで目撃された女子高生、証言は一つですが、あなたに重なっている。」
ななみの喉がひりついた。
「でも…私は何もしてません。」
「分かっています。だからこそ、我々は丁寧に裏を取っています。ただ、容疑という言葉はもう独り歩きしているんです。」
沈黙。
背筋を正して座る自分の姿が、窓ガラスに映っている。
その姿が、自分自身ではない誰かに見えた。
疑われた女子高生。
そのラベルが、自分という存在に重ね貼りされていく感覚がした。




