無罪の孤独 前編
12月22日、終業式の前日。
吐く息が白く弾けるたび、まるでソーダの泡みたいに空気に溶けていく。
3年2組の教室は、冬休み前の浮ついた空気でふくらんでいた。
バイトの話、親戚づきあい、お年玉の行方、推しの配信。
誰かが笑えば、別の誰かがそれを受け取って、泡が次々と立ちのぼるように笑いが広がる。
「もうすぐ自由だ〜!」
「制服ともおさらば!」
机の間を飛び交う言葉は、炭酸の粒みたいに弾けては消えていく。
その輪の、少し外側に視線が止まることがある。
窓の外、廊下を横切っていく、髪をひとつに結んだ女子。
3年3組の香取ななみ。
校内では「静かな子」として扱われてきたが、雑誌好きな生徒には名前が知られている。
月に1、2度、ティーン誌に小さく載る読者モデル。
あの読モの子。
「香取さん、だよね?この前のトートのページ、見たよ〜。」
休み時間、久保美優が声を掛けた。
言い方はフラットだ。
相手を持ち上げず、茶化さず、ただ事実だけを手渡す。
「え?ありがとう。変じゃなかった?」
「全然〜。ナチュラルすぎて気づかない人もいるかも。」
ななみは小さく笑った。
笑顔は柔らかいが、瞳の奥に硬い色があるのを、藤田玲奈は見逃さなかった。
礼儀正しい、距離感を間違えない、けれど一歩も入ってこない感じ。
人に慣れているのに、人からの何かに怯えているような。
校門の前に立っていたのは、体育教師であり3年3組の担任、藤井一真。
32歳。学生時代は陸上の選手として名を知られ、今もスーツの上から分かる体躯の爽やかさで女子生徒から密かに人気がある。
「寄り道はほどほどにな。事故に巻き込まれるのが一番もったいないぞ。」
低い声は穏やかで、強制ではなく促す響きがあった。
誰も反発しないのは、彼の言葉に誠実さがにじむからだった。
ぞろぞろと門を出ていく生徒達の列のなかで、ななみは足を止めなかった。
ただ一瞬、門脇の銀杏の根本に立つ男の影を視界の端で捉え、呼吸だけを浅くした。
白いイヤホン、うつむきがち、なんでもない他人の形。
視線は合わせない。
合わせないまま、足を速めた。
最寄り駅までの商店街。
青果店の段ボール、焼き鳥屋の煙、立ち読みの人の背中。
ガラスに映る自分の後ろに、同じ歩幅、同じ信号のタイミングで動く気配が寄り添う。
振り向かない。
振り向かないことに慣れている。
慣れていないふりも、しない。
その夜。
ななみのマンションのポストには薄い封筒が入っていた。
宛名なし。
開けると、小さなキーホルダー。
銀色の羽根と、名刺サイズのカードが一枚。
『がんばってるの知ってるよ。だれよりも見てるから』
手が冷える。
心臓は、冷えきった夕方のアスファルトみたいに平坦だ。
驚かない。
ありがたがらない。
捨てない。
ただ封筒を折って、机の引き出しの奥に滑り込ませる。
(鍵、ちゃんとかけなきゃ)
玄関のダブルロック。
ベランダのクレセント。
チェーン。
やりすぎかもしれない。
それでも、しないよりましだ。
メッセージアプリに通知が跳ねた。
マネージャーの佐伯の表示。
『お疲れ様。年末の小物ページのロケ日確定。SNSの位置情報は引き続きOFFにしといてね』
『了解です。今日きたDMがちょっと変すぎて怖いです。家の前が写ってました』
『スクショ送って。こちらで記録残しておくね。 怖かったと思うけど、まずは大丈夫。学校では普通の生徒でいて。写真やサインは断っていい。線引きはこちらで必ず守るから』
『ありがとうございます』
短い返事でも、それが支えになった。
自分は一人じゃない”と繰り返し確かめて、ようやくまぶたが重くなる。
―――
終業式の朝。
体育館へ向かう列の前で、冷たい風が制服の裾を揺らしていた。
マイクの音がきしむ。
ざわつきが静まり、やがてピアノの前奏が響きはじめる。
体育館に入る前、高岩が2組の教室で最後の注意を話す。
「冬休みはSNSを使うだろう。でも気をつけてくれ。写真や投稿で、知らないうちに場所や時間をさらしてしまうことがある。もし不安なことがあったら、すぐに知らせてほしい。正しいことを言う大人が、必ずしも正義とは限らない。だからこそ、自分の身を守るために距離を取る勇気を忘れるなよ。」
山口隼人は窓際からぼんやり外を眺めていた。
話の意味は分かる。
けど、こんな注意はどの季節にもある。
ただ、ガラスの向こうの渡り廊下を、3組の香取ななみが静かに横切り、手すりの向こう側の校庭に白い息がちぎれていくのを見たとき、彼はふと眉を寄せた。
歩き方が少し硬い。
まっすぐで、どこか急いでいる。
山口は、ななみが渡り廊下を横切る姿を見るたび、胸の奥に小さな泡が弾けるのを感じていた。
それが恋なのかどうか、自分でも分からない。
ただ、目で追ってしまう。
その理由がまだ掴めない。
式が終わって、通知表を受け取り、教室の空気が一気に軽くなる。
昇降口でななみを見つけたのは野口由紀だった。
「な〜なみ〜。」
幼いころから同じ町内に住み、小学校では毎日一緒に帰っていた幼なじみ。
クラスは別れても、由紀にとってただの知人には戻れない存在。
「帰り、駅まで一緒に行こ〜。」
「え?いいの?」
「冬至だからね〜。早く暗くなるし、さ。」
「ずる〜い!私達も入れてよー!」
と玲奈と美優。
言い訳みたいな冗談を添えて、四人は並んだ。
雑談はごく普通のものだ。
年末のテレビ、こたつの誘惑、宿題をいつやるか。
ななみの声は良く通るのに、話題の中心には決して立たない。
コンビニで買ったソーダを、四人で同時に開けた。
プシュッ、と白い息と混ざって弾ける音が夜の空気に散る。
炭酸が喉を突き抜けるだけで、冬休みが本当に始まる気がした。
歩幅を合わせ、笑う回数を合わせ、別れ際の手の振り方まで合わせる。
皆とななみは商店街の角で別れた。
三人の背中が遠ざかる。
信号待ち。
横断歩道の白。
斜め後ろにまた白いイヤホンがいる。
耳の奥がきゅうと詰まった。
深呼吸を一度だけして、振り向いた。
視線は合わない。
白いイヤホンはうつむき、指でコードを巻き直す仕草を繰り返す。
「あ、あの!つきまとい、やめてください!」
声は小さかった。
けれど、はっきりと正面に届いた。
男が驚いたように顔を上げる。
その目元に、SNSで見たアイコンの影が重なった気がした。
信号機の上の防犯カメラが、冷たくこちらを見下ろしている。
青が点滅に変わる。
息を止めたまま、言葉を繰り返した。
「こんなこと、やめてください!通報しますよ!」
彼女は青信号を渡り、角を曲がって、一気にマンションのエントランスへ駆け込んだ。
オートロックの扉が閉まる、その最後の瞬間、視界の端に白いイヤホンの影がちらつく。
カチリ、と鍵がかかる音が響いた。
それは守られる音であるはずなのに、胸の奥を冷たく締めつけた。
夜十時過ぎ。
窓の外からサイレンの音が急に近づき、やがて遠ざかっていった。
ななみは息を殺し、耳を澄ませる。
外で何が起きているのかは分からない。
ただ、冷めきったカップの紅茶だけが机に残っていた。
翌朝。
集合ポスト前には警察官が立っていた。
マンションから少し離れた河川沿いの遊歩道には黄色いテープ。
人だかり、スマホを掲げる腕。
低い冬の陽が、白く反射していた。
ニュースサイトの速報がスマホに届く。
『世田谷区の遊歩道で男性死亡 事故・事件の両面で捜査』
写真は、昨日、彼女が小走りで渡った横断歩道の先の暗がり。
ぼんやりとした照明の下。
白いものが地面に落ちている。
拡大すると、片方だけのイヤホンに見える。
胸が、音もなく沈んだ。
(あの人?)
指が震え、スクロールの動きがぎこちなくなる。記事の最後の一行が、冬の空気より冷たく突き刺さった。
『近隣住民によると、現場近くで帰宅途中らしき男女が言い争う声を聞いたという情報も』
ななみはゆっくり顔を上げた。
横断歩道の脇に立つ防犯カメラが、昨夜の自分を見ていたはずだ。
自分は確かに言った。正面から、短く、はっきりと。
こんなことやめてください。通報しますよ。
それは、正しい言葉だったはずだ。
それでも、胸の奥で別の言葉が芽吹く。
(口論していた男女)
チャイムが鳴った。
インターホンのモニターに、黒いコートの人影が映る。
手に開かれた警察手帳の銀色の徽章が、蛍光灯の光を一瞬きらりと返した。
「少し、お話を伺ってもよろしいですか?」
彼女は深く息を吸い、吐いた。
扉のチェーンを外す、
その小さな音がやけに大きく響いた。
玄関に出ると制服姿の若い警官と、年配の刑事が立っていた。
ななみの母に案内され、二人は応接間に通された。
冬の光が白い壁を反射し、部屋全体を冷たく照らす。
差し出された名刺には「生活安全課」と記されていた。
低い卓を挟んで、制服姿の警察官二人が並んで座っている。
ななみの母が湯飲みを差し出したが、彼らは軽く頭を下げただけで手をつけようとはしなかった。
名刺を卓に置いた年配の警察官が、慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「昨夜の10時ごろなんですがね。多摩川の河川敷を通行していた方が、道端に男性が倒れているのを発見しました。通報を受けて救急が向かい、我々も現場に駆けつけました。」
そこまで言うと、一拍置いてから表情を引き締める。
「残念ながら、その男性はすでに息を引き取っていました。」
静まり返った部屋に、時計の秒針の音だけが響いた。
ななみは、自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。
(やっぱり、あの人?)
ことばを切って、刑事は手元の資料をめくった。
「その時間帯、あなたが帰宅する姿が自宅エントランスの防犯カメラに映っていました。」
「……」
「直前に現場付近で男女の言い争う声があった、と近隣の方が証言しています。少し確認させてもらえますか?」
ことばは「確認」だったが、響きは「尋問」だった。
質問は細かかった。
帰宅は何時か。
途中、誰かと会話したか。
白いイヤホンの男性を知っているか。
声を荒げていなかったか。
一つ答えるごとに、記録用紙にペンが走る。短い返事が、自分をますます追い詰めていくように感じた。
「顔見知りでは、ないです。ただ…つきまといのようなことはありました。」
「つきまとい、とは?」
「駅から家までずっと後ろにいて。信号のところで、こんなことやめてください、通報しますよって言いました。」
刑事の視線が動かない。メモの字が太くなったように見えた。
「通報は?」
「してません。家に走って帰りました。」
短い沈黙。
時計の音がやけに大きい。
「分かりました。必要があればまたご連絡します。事件性の有無を含めて、現在捜査中ですので。」
刑事は立ち上がり、形式的に頭を下げた。
玄関が閉まると、空気が一気に重くなる。
母が心配そうに寄ってきた。
「ななみ、大丈夫?」
「平気。大丈夫だから。」
口ではそう言ったが、胸の奥に渦が広がる。
女子高生が口論していたという言葉がニュースで流れれば、自分だと気づく人は必ずいる。
実際、その日の夜の速報で、そのような一文はあった。
―――
年末の街は賑わっていたが、ネットの片隅では不穏な火種が燃え始めていた。
まとめサイトの見出しに、「女子高生読モが事件現場近くで目撃か?」という書き込み。
根拠は薄い。
しかし、ななみが雑誌に出ていることを知っている匿名の誰かが、彼女の名前をにおわせた。
DMには「逃げても無駄」「真実は必ず出る」といった短文が混じり始める。
年明けを待たずに、その噂は学校にも届いた。
冬休み中のLINEグループに、誰かがリンクを貼った。
《これ、やばくない?》
《香取ってあの香取?》
《え、マジで?うちの学校?》
スタンプの笑顔が並ぶ。
その裏にあるざわつきが、ななみにも伝わってきた。
―――
1月2日。新年の静けさの中で、藤井一真のスマホに学校からの連絡が入った。
「香取ななみについて、報道が一部出ています。校内での対応を相談したい」
体育教師であり3年3組の担任、そして学年団の中でも生徒対応に厳しい藤井は、胸の奥に冷たいものを覚えた。
正月明けには必ず噂が一気に広がる。
火種をどう抑えるか、それとも正面から受け止めるか、判断を迫られるのは時間の問題だった。
―――
1月4日、警察から再度の呼び出しがあった。
「事件の目撃者として」
しかし、言い回しの温度は低い。
調書に記される自分の言葉の一つ一つが、どこかななみから切り離されていく感覚がある。
「あなた以外にも、同じ時間帯に現場付近で見られた人がいます。」
「……」
「ただ、口論していた女子高生という証言は一件だけです。」
机の上で手を握りしめる。
指先が冷たい。
刑事の視線が突き刺さる。
(容疑者ではない。参考人。それでも、いつ一線を越えるか分からない)
―――
冬休みの半ば。
3組のLINEには、こんな言葉が躍った。
《ねね、香取って?》
《本当にあの事件の?》
《マジかよ、信じられない》
返信に迷うスタンプ。
既読が増えるだけで返事のないメッセージ。
普通の子として隣にいた存在が、急に「疑い」の輪郭で見られ始める。
雪の降り始めた夜、ななみは布団の中でスマホを閉じた。
画面の光を消しても、言葉は消えなかった。
(私は、何もしてない。でも)
胸の奥で、でもだけが重く膨らんでいく。
冬休みは、まだ半分残っていた。
―――
1月5日。
年明けの空気は澄んでいるのに、胸の内側は濁っていた。
3組のLINEには、まだ年始のスタンプが飛び交っていたが、会話の途中に小さな棘のような言葉が紛れ込む。
《ねぇ、これほんと?》
《現場の近くってさ、あのマンションの方だよね》
《女子高生って誰のことなん》
《まあ、関わらん方がいいよね、念のため》
返信はない。既読だけが増える。
念のためという言葉が、ななみの胸のどこかを、静かに、確実に削った。
昼下がり、職員室の明かりだけが静かに灯っていた。
生徒主任の田中が机に資料を並べ、沈黙を破った。
「報道、見ましたよね?香取ななみの件。正月早々、新聞とネットで取り上げられています。」
高岩は腕を組んだまま、深いため息をついた。
「まさか、ここまで早く外に出るとは驚きです。正月明けには確実に噂が広がります。対応を間違えたら、クラスだけじゃなく学校全体に影響が出かねませんね。」
藤井が椅子に浅く腰かけ、やや強い口調で言う。
「しかし、ただ守りに入るだけじゃ逆効果だと思います。『何も言わない=隠してる』と見られるのが一番まずいです。どうしますか、高岩先生?」
横でメモを取っていた駒沢が、小さく口を開いた。
「正直、クラスの子達はすぐに匂いを嗅ぎつけます。ななみさんのSNSを見ている子も多い。下手に伏せるより、事実とそうでないことを整理して、ちゃんと伝えたほうがいいのではないかと思います。」
田中は少しうなずきながら、抑えた声で続けた。
「ただし、内容の線引きは慎重に。警察の捜査が進んでいる最中です。私達が勝手に言えることには限りがある。」
沈黙が落ちた。
そこに保健の山田が、湯気の立つ紙コップを手に入ってきた。
「みんな顔色が硬いよ〜。事件のことは確かに重いけど、生徒達の心が先に壊れてしまっては意味がないでしょ?学校に来たら、まず安心できる場所を作る。それが私達にできることじゃないかな?」
高岩は山田の言葉に、ほんの一瞬だが表情を和らげた。
「そうですね。田中先生、情報の整理はそちらでお願いします。駒沢先生、俺と一緒に生徒への説明のシナリオを考えましょう。藤井先生、体育館を使えるように段取りを頼めますか?最悪、全校集会で正面から向き合うしょう。」
藤井は眉を上げて笑った。
「正月から動かされるんですね...。でも、そうですよね。やるしかない。」
駒沢が静かにうなずいた。
「生徒を信じるしかありません。彼らは、大人が思っているよりずっと真剣に物事を受け止めますから。」
藤井は視線を窓に向けた。
曇った冬の光の向こうに、まだ何も知らずに笑う生徒達の姿が浮かんでくる気がした。
「よし、やるしかない。逃げたら、この学校は終わる。」
―――
職員会議がようやく終わるころ、ななみのスマホが震えた。
画面に浮かんだのは、マネージャー・佐伯の名前。
『警察より追加の確認があります。明日午前、署へ向かってください。併せて、当面の掲載・撮影は保留にします。あなたを守るための判断です。』
守るため。
そう書かれているのに、ななみの胸の奥はすうっと冷えていく。
自分をつないでいた細い糸が、パチンと切れた気がした。
その夜。
玄関のチャイムが、唐突に鳴り響いた。
母がインターホンをのぞく。
黒いコートの男。
痩せた顔。
片手にクリアファイル。
「あけぼの新聞の者ですが。」
一瞬で、家の空気が強張る。
母は間髪入れず、固い声を返した。
「お断りします。すべて警察を通してください。」
男は無言で会釈し、踵を返した。
モニターが暗くなった瞬間、ななみは毛布を握りしめていた。
自分の部屋の奥にいながら、知らない足音がまだ耳に残っている。
その音が、体温を一枚ずつ剥ぎ取っていった。
翌朝。署の面談室は、冬の光が白く跳ね返るだけの無機質な箱だった。
ドアが閉まる音と同時に、背広の男が椅子を引いた。
胸ポケットのIDを一瞬だけ見せる。
「刑事課の者です。きのうの件、任意でお話を伺います。任意ですから、途中でお帰りいただいても結構。」
言い回しは柔らかいが、声は出口を塞ぐように低い。
「帰宅ルート、時刻。信号はどこで渡ったの? 誰と目が合ったの? 歩幅は?」
細かな質問が、紙の上にマス目のように並べられていく。
「香取さん、あなたは横断歩道でやめてください、通報しますと言ったんですよね?」
「はい。」
刑事はペン先を止め、わずかに笑った。
「その通報しますは、実際には通報していない。ただ言っただけですね。言質としては重要です。」
(正しいことを言ったのに、重要って何?だれの都合の重要なの?)
向かいの若い警官が机を指で叩く。
「抵抗は? 叫びは? 相手を挑発するような言い方はしてない?」
「してません。」
「ふうん。じゃ、こう書いておきます。注意喚起の発言をしたが、通報等の行動はなしと。」
しばらくして、A4の束がこちらに向けられた。
「供述調書。読み上げます。……以上で相違なければ、ここに署名押印を。」
早口の読み上げは、継ぎ目が滑らかすぎて、いくつかの語尾が彼女の記憶と違って聞こえた。
「ここ、立ち止まって相手を見据えたは違います。私は振り返って…」
「細かい言葉尻は同じです。意味は変わらないです。」
「まったく違います。」
男はため息をひとつ置いて、紙を指さした。
「訂正するのは構わない。ただ、あとで言い分が食い違ったら、証言が揺れているって記録される。困るのは君のほうだよ。」
「署名はしません。ここを直してください。」
「…いいでしょう。任意ですから、訂正します。ただ、こういう訂正を繰り返すと協力的ではないと上に報告されますよ。後で『証言がぶれている』と見られるのは、あなたの不利になります。」
鉛筆で二重線、余白に小さな訂正印。
読み上げは続く。
外の廊下で、どこかの電話がしつこく鳴っていた。
ここには録音機材も見当たらない。
面談が終わる頃には、朝の光は白から灰に変わっていた。
彼女はうなずくだけで立ち上がる。
背中に「お疲れさまでした、あくまでも任意ですから」と追いかける声。
帰り道をななみはまっすぐ歩いた。
視線はアスファルトの継ぎ目だけを追う。
家に着いて上着を脱ぐと、制服のポケットから薄い紙片がひらりと落ちた。
『しんじてる』
丸い字。
誰の字にも見えて、誰の字でもない。
彼女はそれを四つに折って、机の一番奥に押し込んだ。
思い出と不安は、いつも同じ場所に積もっていく。




