顔を上げる勇気 【Rewrite ver】
午前5時38分。
アラームより20分早く、高岩洋平は自然に目を覚ました。
毛布の隣で眠る妻・京花が、片目だけ開けて笑う。
ベッド脇ではトイプードルの茉莉花が前足をカリカリし、ポメプーの花梨は高岩の靴下を咥えて逃げ回っている。
「ようちゃん、今日から始業式だね。名前、3日で30人、覚えられる?」
「無理かも。」
「茉莉花も花梨も覚えられたんだから、大丈夫だよ。」
冗談めいたやりとりの途中、京花がふと真顔になった。
「ねね…昨日のニュース見た? また先生が盗撮で捕まったって。児童の更衣室にカメラ仕掛けてたってやつ。」
高岩の手が止まる。
「学校って、生徒にとって安全な場所でなきゃいけないのにね。」
茉莉花が小さく鳴き、花梨が尻尾を振る。
高岩は靴紐を結びながら、胸に小さなざらつきを残す。
その「ざらつき」は、ただの心配ではなかった。
見えない相手、名前を隠した悪意ほど、教師にとって恐ろしいものはない。
顔が見えなければ、誠意も責任も持てない。
そしてその影は、必ず生徒の世界にも入り込んでくる。
(顔の見えない悪意…。俺はそれをどう防げる?)
―――
外は春の空気。
石畳の坂を、茉莉花が駆け、花梨が半歩遅れてついてくる。
冷たい風が頬を撫で、胸の奥で泡がはじけるみたいに爽快だった。
(ソーダみたいだな)
思わず笑みがこぼれ、朝の不安が少し薄れた。
神社の石段を上がると、東の空が白んでいく。鳥の声。
「よし、今年はちゃんと顔を見るぞ。」
声に出すと、胸がすっと軽くなった。
―――
朝食は卵焼きと焼き鮭。
味噌汁の湯気に犬たちの尻尾が揺れる。
京花は味噌汁をよそいながら呟く。
「匿名って一番怖いよね。顔を隠した言葉はけど顔を上げる勇気は平気で人を追い詰めるでしょ?でもいつか必ず誰かが勇気をだして顔を上げる思うの。その時はその子をひとりにしないで隣に立ってあげて欲しいな。」
高岩は頷き、コーヒーを飲み干した。
苦みのあとに、ほのかな甘さが残る。
やさしさが、京花の声から漂っていた。
―――
通学路。
咲き残った桜が光に透け、朝の空気は澄んで爽やか。
けれど横を走る自転車のブレーキ音が急に耳を刺す。
ハラハラと心臓が一拍跳ねる。
(気を抜くと、一瞬で崩れるな)
門をくぐると、無機質な校舎が朝日に照らされていた。
職員室に入ると、コピー機の音、コーヒーの香り。
「おはようございます!」と若手の吉沢が資料を抱えて走り抜ける。
高岩の机には「3年2組」の札と名簿。
「おはようございま〜す。」
副担任の駒沢幸が微笑んだ。
「顔、ちょっと硬いですよ〜。最初の印象は大事ですからね。」
「寝不足なだけだよ。」
「じゃあ私が笑顔でカバーします。」
その軽やかさに救われる。
そこへ東海林教頭の声が響く。
「始業式は9時10分開始です。3年生は整列を早めに行ってくださいね。」
次に現れた根岸校長が静かに告げる。
「ここは教える場所ではありません。共に考える場所です。さあ、顔を上げて、仲間を迎えましょう。」
3年1組の原口は無言で書類をめくる。
眼鏡の奥の冷たい視線。
生徒からコールドメガネと呼ばれる所以だ。
3年3組の藤井は体育会系の声で「うっす。高岩先生!」と手を挙げる。
3年4組の林は黙って全体を見渡し、何かを測るように目を細めていた。
(この布陣で、一年をやるのか)
―――
体育館。
ざわめき、春の光、床の冷たさ。
壇上で根岸校長が語る。
「最後の1年じゃありませんよ。社会に出る直前の1年ですからね。」
東海林教頭が続ける。
「秩序と安全を第一に。他者への敬意を行動で示してくださいね。」
安全。
その言葉が高岩の胸でひっかかる。
ニュースの教師の顔がちらつく。
(この学校だけは、裏切らせたくないな)
―――
教室に戻ると、空気の温度差が一気に露出する。
椅子の軋み、机を叩く音、スマホの光。
駒沢が声を張る。「席についてー!」
「一番、青木凛」
「…はい」
小さな声。でも目は強い。
「二番、石田武尊」
「はーいっ!」隣の平井達也が笑って肘で突く。
「三番、江口直也」
「…はい」机に視線を落としたまま。
「四番、和田一樹」
「はい」落ち着いて、ノートの端に何か書き込む。
「五番、平井達也」
「はーい」軽いが、空気を読むのが早い。
「六番、加藤れん」
「…はい」届くか届かないかの声。机の中で拳を握っている。
同じ「はい」でも全部違う。
(声で覚える。俺のやり方はそれ。)
声は、その人の呼吸と心の速さを映す。
強がって笑っている声。
震えを隠しきれない声。
名前を覚えるのではなく、その声を覚える。
それが高岩にとっての「顔を上げる第一歩」。
出席が終わると、一瞬の沈黙。
高岩は教卓の前に立ち、深く息を吐いた。
「名前を覚えるのは苦手だ。でも、一度覚えたら忘れない。今年は、ここで顔を上げる練習をしような。俺も、君達も。」
教室に、ほんの一瞬、爽やかな風が通った。
けれどその背後には、まだ見えない影が潜んでいた。
―――
チャイムが鳴り終えると、教室の空気は一気にほぐれた。
窓際の席では、石田武尊と平井達也が机をくっつけ、大声で笑っている。
「昨日コンビニでさ、知らないおっさんが女子高生のスカート盗撮してたらしくて、警察来てさ!」
「キモッ。先生かと思ったら、普通のサラリーマンだってよ!」
「だってさ、先生がやることだってあんだろ?最近ニュースでよくやってんじゃん!」
軽口に混じる現実。
一瞬、教室の笑いが止まり、ざらりとした違和感が広がる。
その隣で青木凛がノートに何かを書き込み、消しゴムで強くこすった。
江口直也は机に顔を伏せ、耳だけがピクリと動く。
和田一樹は静かに窓の外を見ながら、視線を戻した瞬間、小さくペン先で「×」を走らせた。
加藤れんは唇を噛んだまま、机の中で指先をぎゅっと握っている。
「そういうの、やめない?」
凛が顔を上げ、短く言った。
声は震えていたが、目は真っ直ぐ。
「笑えないから、さ。」
一瞬の静寂。
教室の空気がハラハラと揺れた。
武尊は肩をすくめ、達也と視線を交わし、わざと大きな声で笑い飛ばした。
「おー、怖っ。青木ちゃんマジ正義感〜!」
「痺れる〜ん!」
ふざけた調子に、数人の笑い声が混じる。
けれど、全体が乗り切れず、空気は半端に揺れたまま残った。
高岩は教卓の前で、腕を組みながら静かに観察していた。
―――
昼休み。
廊下の掲示板に、人だかりができていた。
「なにこれ?」
誰かが小声でつぶやく。
貼り紙の端に、見慣れない紙片が重ねられていた。
そこには、黒いマジックでこう書かれていた。
《この学校に裏切り者がいる》
ぞわり、と背筋が冷える。
紙片は雑にちぎられ、角は湿っている。
誰が、いつ貼ったのか分からない。
「怖っ!誰のこと?」
「裏切り者って、なに?」
ざわざわと声が飛び交う。
凛はじっと貼り紙を見つめ、呼吸を整えるように胸を押さえた。
和田は人だかりの後方から観察し、ノートの片隅に記す。
《裏切り者?→匿名の悪意》
江口は足早にその場を離れ、れんは輪の中にいられず窓際に立ち尽くした。
武尊と達也は「マジドッキリ?」と声を潜め、笑うふりで不安を隠した。
高岩は前に出て、紙片をそっと外した。
「これは掲示物じゃないぞ。全員、教室に戻りなさい。」
声は落ち着いていたが、掌の汗がにじむ。
ハラハラとした心臓の高鳴りを抑えながら、彼は紙を丸めてポケットに入れた。
(京花の言葉通りだな。顔の見えない悪意が、もうここに入り込んでる)
誰かの手が、ほんの数秒で空気を変えてしまった。
黒いインクの数文字が、笑い声を奪い、心臓の鼓動を速める。
ただの紙切れ一枚。
しかし、その紙には目に見えない棘が仕込まれているように感じた。
―――
午後の授業。
教室の空気は妙に張り詰めていた。
チョークが黒板を走る音すら大きく響く。
窓の外は春の光がきらめき、桜の花びらが舞っている。
その爽やかさと、教室の重苦しさのギャップが、逆に心臓をドキドキさせる。
高岩はチョークを止め、振り返った。
「匿名は、誰も守らない。今日の話は、ここまで。」
その言葉に、凛の視線がわずかに揺れた。
和田のペン先が止まり、れんの唇が動きかけた。
江口は机の端を爪でなぞり続け、武尊と達也は目を合わせて笑いを押し殺した。
淡く甘い春の光が差し込んでいたが、
その奥に、炭酸が弾けるような小さな不安の泡が散っていた。
まだ序章にすぎない。
昼下がりの職員室。
コピー機の唸りとコーヒーの香りが、午後の眠気を誘う。
だが、今は違った。
「裏切り者」という紙片の件が、すでに職員たちの耳に入っていた。
「悪ふざけにしては陰湿だな。」
原口が、淡々とした声で言った。
銀縁の眼鏡の奥の瞳は光を吸い込み、机に落ちる影のように冷ややか。
「こういう芽は、早めに摘むべきですよ。処罰対象にすればいいんです。」
藤井が反発するように笑い飛ばす。
「またまた〜、まだ始業式の日ですよ? 最初からビビらせてどうするんです?。先生は軽いイタズラ感覚でやるもんですし、いちいち目くじら立てても仕方ないと思いますけどね。」
「軽いで済めばいいですね。」
原口が低く返す。
林が腕を組み、静かに二人を見渡す。
「強く罰すれば、逆に匿名の影は深く潜ります。 生徒は安全な場を奪われたと感じるでしょうしね。」
「安全、ですか。」
藤井が苦笑し、イスを軋ませる。
「最近のニュース、見てませんか? 盗撮とか痴漢とか、教師の不祥事ばかりです。生徒にとっては、先生が一番危ないって思われかねない事態ではありますね。その時点で安全なんて神話に近いですよ。」
空気が一瞬、重くなる。
高岩は黙って聞いていたが、胸に京花の言葉が浮かんでいた。
顔の見えない相手が一番怖い。
匿名の紙片と、ニュースで報じられた教師の事件が、同じ線で繋がる。
「でも、だからこそ私達は顔を上げる側でいなきゃならないと思います。」
思わず口から出た。
全員の視線が高岩に集まる。
ハラハラと心臓が跳ねる。
しかし、引けなかった。
「匿名で人を裁くことは許せません。少なくとも、私のクラスでは顔を見せる勇気を守りたいと思ってます。」
藤井が「真面目だなぁ」と笑い、林は小さく頷いた。
原口は書類に視線を落としたまま、冷ややかに言った。
「勇気がどうかは結果で分かりますしね。裏切り者が誰か、そのうち顔を出すでしょう。」
その言葉に、背筋がぞわりとした。
それは予告にも聞こえた。
―――
午後3時。
東海林教頭が短く通達を入れる。
「掲示物への落書き・紙片など、不審なものはすぐ撤去するように。保護者から、最近の学校は安全なのかという問い合わせがすでに来ています。くれぐれも油断せずに!」
その横で、根岸校長は落ち着いた声で言った。
「不安は広がる前に、小さな光で照らしましょう。生徒達は敏感ですよ。先生方自身が怖がらないことが、安心につながりますからね。」
静かな声なのに、不思議と職員室に沁みた。
しかし高岩の胸には、まだ不安が残っていた。
裏切り者。
あの紙片を書いたのは誰なのか?
生徒か、外部か?
それとも、教師ですらないと断言できるのか?
コーヒーの香りの奥に、苦いものが沈んでいた。
―――
午後の光が差し込み、窓辺で桜の花びらがひらひらと舞った。
けれど、3年2組の空気はどこかざらついていた。
「裏切り者って…誰のことなんだろ?」
前列の女子がつぶやくと、教室全体にさざ波のような声が広がった。
「チクったやつがいるんじゃね?」
「まだ始まったばっかだぞ。」
「でも、先生に媚びてる奴とか、いたよな。」
その一言一言が、小さな泡のように弾け、教室に不安を散らしていく。
一見ふざけ合っているようで、その奥には妙なざわめきがあった。
青木凛が顔を上げた。
「そんなの、勝手に決めつけるのが一番くだらなくね?」
声はわずかに震えていたが、瞳はまっすぐだった。
「おー、また正義感」
石田武尊がからかい、平井達也が声を重ねる。
「でも、そういう奴が一番怪しいんじゃねーの?」
一瞬、教室に笑いが広がった。
しかしそれは表面だけの軽さで、本気の笑いではなかった。
薄い膜の下に、疑いの棘が隠れているのを、凛も分かっていた。
江口直也は机に顔を伏せたまま耳を澄まし、肩がかすかに揺れていた。
和田一樹はその様子を横目で見ながら、ノートに短い言葉を走らせる。
《疑心の芽》
加藤れんは、机の端を指でなぞり続けていた。
何も言わないことで矛先を避けているのか、言いたいけど声にできないのか。
その沈黙がかえって、重さを増していた。
その時、扉が開いた。
「はいはい、静かにねー!」
副担任の駒沢幸が入ってきた。
明るい声色に、張り詰めた空気が少し緩んだ。
「みんなで探偵ごっこしないの〜。裏切り者探しなんて、一番危ない遊びだからね!」
駒沢の声は軽やかで、緊張の膜をやわらかく裂いた。
「でも、本当に誰かがやったんじゃ?」
凛が小さくつぶやくと、駒沢は微笑んだ。
「大事なのは、誰がやったかじゃなく、これからどう守るかだよ。」
その言葉に、高岩は内心で息を吐いた。
(彼女がいれば、何とか踏ん張れるかもしれないな)
―――
放課後。
夕陽が差し込む教室に、まだざらついた空気が残っている。
「なぁ直也、お前さっきから黙りすぎじゃね?」
武尊が声をかける。
江口直也は肩を揺らし、机の上に声を落とした。
「俺じゃない。」
その言葉に、教室のざわめきが凍りつく。
みんなの視線が一斉に直也に集まった。
心臓の鼓動が、教室の中でひとつに重なったような緊張。
和田が立ち上がりかけた時、高岩の声が響いた。
「やめなさい!」
教室に鋭い音が走った。
「裏切り者なんて言葉に意味はないだろ。匿名で人を追い詰める方が、よっぽど卑怯だと先生は思う。」
その声に押されるように、窓の外で風が吹き込み、桜の花びらが舞った。
一瞬、空気が澄んでいく。
しかしその爽やかさの奥に、不安の影がまだ残っていることを、誰もが感じていた。
放課後のチャイムが鳴り、教室のざわめきは次第に分散していく。
それでも、昼間に浮かんだ「裏切り者」という言葉は、消えずに残っていた。
青木凛は鞄を抱えて廊下に出る。
窓の外はオレンジ色の光に満ち、校庭を走る運動部の声が爽やかに響いていた。
その景色だけを切り取れば青春そのものなのに、胸の奥には重いしこりがあった。
「俺じゃないって言っただけで、逆に怪しくなる。」
隣を歩いていた和田一樹が呟いた。
「言葉は刃物になるんだな。少なくとも俺は、そう見えたけど。」
凛は驚いた顔で彼を見たが、和田はすぐに視線を逸らし去っていった。
―――
昇降口の前。
加藤れんは靴を履き替えながら、石田武尊と平井達也の笑い声を背中に浴びていた。
「なぁ、あいつマジで怪しくね?」
「だよなー。裏切り者って、直也しかいなくね?」
「てか、誰かを犯人にしといた方が安心だよな?」
軽口のようでいて、笑いは薄く、どこか震えていた。
れんは耳を塞ぎたかったが、体が動かなかった。
その沈黙を、直也自身が遠くから聞いているのを、彼は知っていた。
―――
校門を出たところで、凛がスマホを見て息をのんだ。
ニュース速報が流れていた。
《男性教師が盗撮で逮捕 勤務校で生徒の画像を収集か》
背筋がひやりとする。
教室で「裏切り者」と書かれた紙片を思い出し、喉が乾く。
(大人の裏切りが、ニュースになる?)
電柱の影に立っていた江口直也が、その画面をちらりと見た。
何も言わず、顔を背ける。
彼の横顔は白い光に照らされていたが、どこか青ざめていた。
*
夕暮れの風が、街路樹の葉を揺らす。
部活帰りの掛け声、コンビニの袋を揺らす音。
青春の匂いに満ちた帰り道の風景。
けれど、そこに混ざっていたのは確かに「疑い」という影。
誰かを守りたい気持ちと、誰かを責めたい気持ちが、同じ教室に同居している。
爽やかな風の奥に、見えない針が隠れていた。
高岩は職員室で、そのニュースを見ていた。
(教師の不祥事。外からの裏切者の影が、今度は教室の中を動かしている)
コーヒーを一口飲む。苦みの後に、ほんのかすかな甘さ。
その甘さは、京花の言葉を思い出させる。
顔を上げる勇気は、必ず誰かが最初にするだろう。
しかし同時に、心臓はまだハラハラと落ち着かず、鼓動を速めていた。
この影は、まだ始まりにすぎない。
―――
夜。
玄関の鍵を回す音に、すぐ反応する気配があった。
次の瞬間、茉莉花と花梨が勢いよく飛びついてくる。
トイプードルの軽やかな跳躍と、ポメプーのやや重たい足取り。
尻尾が床を叩き、靴が脱げるより先に二匹の温もりが胸に当たった。
「ただいま。」
思わず笑みがこぼれる。
一日中張り詰めていた頬の筋肉がようやくほぐれた。
リビングの奥から京花が顔を出した。
「おかえりなさ〜い。あれ?顔が疲れてるぞ〜。」
エプロンの袖を押さえながら、少し眉を寄せてこちらを見つめる。
食卓には、湯気の立つ味噌汁と煮魚。
ほのかな出汁の香りが部屋いっぱいに広がっている。
この落ち着いた匂いは、校舎の空気とはまるで別の世界のようだ。
「今日は波乱だったなぁ。」
高岩はスーツを脱ぎ、背もたれに預けながら呟いた。
「生徒が騒いでた裏切り者の紙?」
京花が湯飲みを差し出しながら尋ねる。
「うん。紙片一枚で、あっという間に疑心暗鬼になった。
まだ顔も名前も覚えきれていないのに、互いを疑う声が飛んで…。ただのイタズラかもしれない。でも、あの子達の表情見てたら、冗談では済まなかったみたいだな。」
茉莉花が椅子の脚をカリカリと引っかく。
花梨は洋平の足元で丸くなり、安心したように息を吐いた。
「それだけじゃないんだ。」
箸を置いて、高岩は息を深く吐き出した。
「帰り道にニュース速報を見たらね。教師が盗撮で逮捕されたらしいんだよ。同じ市内の学校でね。」
京花の手が止まる。
「また〜?」
「匿名で報じられていた。名前も学校名も出てなかったけど、生徒達ももう気づいてるはずだ。『先生なんて信用できない』って、そう思わせるには十分な内容だよな。」
しばらく沈黙。
時計の秒針がカチ、カチ、と響く。
日常の音が、逆に現実の重さを浮き彫りにしていた。
京花は味噌汁をよそい直し、湯気を高岩の前に差し出す。
「匿名って、一番残酷だよね。」
静かな声。
「顔を隠せば何でも言えるし、何でもできる。裏切り者の紙も、不祥事のニュースも、根は同じだと思う。でも、誰かが顔を上げなきゃ、何も変わらないしね。」
高岩は箸を握り直した。
心の中でずっと絡まっていた糸が、その言葉で少しほどける。
「匿名は、誰も守らない。」
声に出した瞬間、自分でも驚くほど胸が軽くなった。
「少なくとも、俺のクラスではそうさせない。顔を上げて話せる教室にする。それが俺の仕事だもんな。」
京花が笑う。
「それなら大丈夫。ようちゃんがそう思う限り、生徒達はきっと変われるよ。」
その笑顔を見て、ほんの一瞬だけ穏やかな気持ちになった。
しかし、頭の隅から不安は消えなかった。
匿名の教員。
その影が、自分の学校に迫っている気がしてならなかった。
花梨が短く吠え、茉莉花が鼻を鳴らす。
窓の外からは夜風が入り、カーテンを小さく揺らす。
春の夜は穏やかだが、その揺らぎの奥には言葉にできない緊張が潜んでいた。
高岩は湯飲みを手に取り、残りの茶を口に含んだ。
苦みの後に、ほんのかすかな甘さが残る。
その味は、今日一日で感じたざらつきと、これからの不安の両方を映していた。
嵐の前の静けさ。
胸の奥がざわつく夜。
―――
翌朝。
始業のチャイムが鳴る前に、全校放送が入った。
『本日、県教育委員会の指導により校内の一斉点検を行います。 生徒は各クラスで待機してください。くれぐれも職員の指示に従うようにお願いします。』
ざわめきが瞬時に広がる。
「何?」
「点検って何の?」
誰も理由を知らない。
だが昨日のニュースを見ていた生徒達の表情は、一気に硬くなる。
―――
職員室では、すでに緊張が走っていた。
県教委の職員が数名入り、管理職に書類を手渡している。
「皆さん何もさわらないでください。市内の教員逮捕を受け、日本全校でチェックを行っています。不審な機材、隠しカメラ、無線機器等などです。ご協力をお願いします。」
原口が眉をひそめ、藤井が「マジかよ」と低く漏らす。
林は呆気にとられ、東海林教頭は冷や汗を拭っていた。
根岸校長の声だけが落ち着いていた。
「隠すものがなければ、何も恐れる必要はありません。堂々と点検に立ち会いましょう。」
その言葉で空気が少しだけ和らいだ。
しかし高岩の胸には、不安が広がるばかりだった。
―――
午前十時。
更衣室。
県教委の職員が脚立を立て、通気口のネジを回す。
「1本だけ新しいな。」
周囲と色が違うビスが外され、グリルが取り外される。
中から、親指の頭ほどの黒いレンズが覗いた。
「カメラだ。」
その瞬間、場にいた全員の息が止まった。
沈黙のあと、空気が爆発するようにざわめく。
「マジかよ…」
「ほんとにあったんだ」
別の更衣室、保健室のロッカー脇からも同型の小型カメラが次々と発見された。
薄い隙間、巾木の裏、照明の影。
どれも誰かの意図的な手がなければあり得ない場所。
―――
教室に戻った生徒達にも動揺が伝わる。
「やっぱウチの学校じゃん。」
「昨日のニュースの?」
「裏切り者って、まさか?」
誰かがつぶやいたその言葉に、空気が再びざらついた。
裏切り者。
それは生徒同士の話ではなく、教師にこそいたのではないか?
そう思わせる動機は十分。
青木凛は机を強く握り、唇を噛んだ。
「最低!」
江口直也は顔を上げられず、和田一樹はノートに走り書きする。
《匿名の紙=教室の影/匿名の犯人=学校の教師?》
加藤れんはうつむいたまま震えていた。
「裏切り者」なんて言葉を軽く書いた自分が、今一番追い詰められている気がした。
―――
昼過ぎ。
速報が再びスマホを震わせる。
《逮捕教員の氏名公表 臨時採用の教諭・佐久間俊介(28)》
教室の空気が凍った。
「うそだろ?」
「佐久間先生って、あの…?」
誰かの声が途中で消える。
笑顔で機材を直し、気軽に声をかけてくれた兄貴分のような存在。
そんな教師が最悪の裏切り者であった事実。
高岩は黒板消しを握りしめた。
粉が舞い上がり、静かに床へ落ちる。
その白さが、教室全体の沈黙を際立たせていた。
午後の教室は、まるで時間が止まったように静かだった。
誰も口を開かない。
チョークの粉が黒板の端に残り、窓の外の桜がゆっくり揺れている。
昨日までのざわつき。
「裏切り者」という言葉で沸き立っていた空気は、教師の逮捕という現実を突きつけられて、一気に凍りついていた。
そんな中で、加藤れんが立ち上がった。
足元が少し震えているのが、後ろの席からでもわかる。
「俺が書いたんだ。」
誰かが小さく息をのんだ。
その声は驚きというより、恐怖に近かった。
れんは唇を噛みしめ、机に置いた手を握りしめていた。
「裏切り者って紙…。最初の一枚は俺が書いた。」
武尊が思わず声を上げる。
「おい、マジかよ! じゃあ、お前が?」
「違う!」
れんは叫ぶように遮った。
その声には、震えと共に必死さがにじんでいた。
「クラスを壊したかったわけじゃない。でも俺、見たんだ。」
教室全体が息を止めた。
凛がわずかに眉を寄せ、直也は視線をそらす。
「佐久間先生が、更衣室の前で通気口をいじってるのを。手に工具を持って、ネジを回して、さ。 俺、その瞬間を見ちゃったんだよ。」
沈黙。
誰もが、その場面を頭に描いてしまう。
「でも、どうすりゃいいかわかんなかった。見間違いだって言われたら終わりだし、証拠もない。ただ俺一人が変なやつ扱いされるだけで…。先生のこと、信じてたやつも多かったから。俺なんかが何か言っても、誰も信じねえって思っちゃんたんだよ!」
声がかすれ、喉が震える。
机の上に涙の雫がひとつ落ちた。
教室全体が、その小さな音に吸い寄せられる。
咳払い一つも許されないほどの沈黙。
誰もが机の端を握り、視線を動かせない。
空気そのものが、れんの告白を待っている。
「それでも、黙ってるのは無理だった。だから、裏切り者って書いたんだ。本当は佐久間先生が裏切り者なんだって、誰かに気づいてほしかったんだ!」
教室がざわつく。
「え?」
「マジかよ?」
ざわめきは波紋のように広がり、やがて空気を飲み込んでいく。
青木凛が静かに立ち上がった。
「どうして最初から言わなかったの?」
れんは顔を上げられない。
「怖かった。俺が嘘つき扱いされるのが、一番怖かった!でも昨日の紙は本当だ。俺が見たことは本当なんだ!!」
和田一樹が手元のノートをめくる。
「でも、全部がれんのじゃない?」
彼は小さく呟き、ページを指差した。
《一枚目=丸みのある字/二枚目=角張った字(別人)》
「2枚目以降の紙…。裏切り者はまだいるってやつ。あれは別人の字だ。便乗して誰かが貼ったんだ。最初の紙は、れんの警告だったのに…。匿名が増幅して、悪意になったってこと?」
クラスが再びざわつく。
直也が思わず立ち上がり、声を荒らげた。
「ふざけんなよ! じゃあ俺らは、れんを疑っちまった。」
武尊と達也が顔を見合わせ、言葉を失う。
生徒の軽口が、れんをさらに追い詰めていたことに気づいた。
高岩は静かに黒板に歩み寄り、チョークを取った。
白い粉が指にまとわりつく。
一文字ずつ、力強く書き込む。
「匿名は誰も守らない」
文字が黒板に浮かび上がった瞬間、誰もが目を向けた。
チョークの白は、光を反射してまぶしい。
その輝きは、暗いざわめきを一瞬だけ照らす灯火のようだ。
誰も拍手をしなかったし、声も上がらない。
ただ、その言葉だけが、生徒達の胸に静かに沈んでいった。
「れんが声を上げたのは勇気だ。でも、匿名に便乗して人を追い詰めた行為は勇気じゃない。裏切り者なんて言葉に意味はない。先生はここを、顔を上げられる場所に絶対するからな。」
言葉は静かだった。
けれど、それ以上の力を持っていた。
生徒達は黙っていた。
だが、その沈黙は絶望のものではなかった。
心のどこかで、「次は自分も顔を上げていいのかもしれない」と感じていた。
窓の外で風が吹き、桜の花びらがふわりと舞い込む。
光を透かすその白さが、重苦しい教室に一筋の清涼をもたらした。
高岩はゆっくりと振り返り、生徒達を見渡した。
その瞳にはもう迷いはなかった。
こうして、3年2組の最初の一日は幕を下ろした。
しかし、この小さな教室に生まれた波紋は、これからさらに広がっていくことになる。