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夜の街

 その日の晩、私は二頭立ての贅沢な箱馬車で大公の屋敷を出て、市街地のほうへ下っていった。

 生真面目なドイツ男の御者がむちを振るう音を聞きながら、窓のカーテンから覗くレンガの街並をじっと見ていた。

 ある建物の前で御者に呼びかけ、私はゆっくりと馬車から降りた。


「一時間後に、またここに来なさい」と彼に言い渡し、歩き出した。


 視線の先には、以前の集会の際にも来たことのあるバーがある。


「いらっしゃい」


 重厚な緋色の扉を開いて中に入ると、薄暗いカウンターの奥からバーテンが静かに挨拶した。

 客足はまばらで、十ほど並んだ円テーブルに数組の客がいるだけだ。カウンター席のほうには女がひとり座っていた。


 私はカウンターの端から二番目の席に座り、スコッチを頼んだ。

 女がこちらを見ているのが視界の端に入る。

 豊かなブロンドを背中に垂らした器量のよい女だ。

 だが、私は女に気付かぬふりをして、酒を飲んだ。


 こちらが手を出そうとすれば、簡単に応じてくれるタイプの女性だろう。バーの手洗い場でだって、すぐそこの路地裏でだって。

 しかし、とてもじゃないが今はそんな気分にはなれない。

 ……ずっとひとりでいると、だれかを慰み者にして酷くなじってやりたい気持ちになることもあるが、さすがに女性の身を大事にしないのは気がとがめる。



 女はいくら視線を送っても無視されるので、やがてこちらの意思を察したのか、気を引くのをやめた。

 そして、先に店を出て行った。


 酒を変えてチーズをつまみにブランデーを飲み、そうしてしばらく愉しんだあと、私も席を立った。


 屋外に出て、外灯の下で懐中時計を開いた。

 ……迎えの馬車が来るまであと十分ほどありそうだ。

 このあたりの庶民の家並をすこし拝見しようかと歩きだす。

 冷たい夜風がコートのえりをなびかせた。


 そこからひとつ先の角を曲がった路地裏に、あやしい人影があるのに気付く。

 見ると、先ほどのブロンドの女性が、三人の卑しい男に取り囲まれていた。


「──なんだよ、お高くとまってんなよ」

「あんたたちこそ何よ急に。さわんないでよ!」

「おい、おまえらさっさとやっちまえよ」

「ちょっと、離しなさいよ!」


 男のひとりが女をうしろから羽交い締めにする。

 暴れる彼女に対して下品なハンドサインをして、別の男がスカートをたくしあげようとした。


 自分のテリトリーでない土地で面倒ごとに首を突っ込むのは不本意だったが、見過ごすわけにもいかず、私は仕方なしに近付いていった。


 彼らの真後ろの石畳に、革靴の底をジリとこすりつけて立ち止まる。


「おい、やめてやれ。いやがってるだろう」


 たちまち振り返る男たちを、目深にかぶった帽子のふちから睨みつける。

 近くで見てみるとどいつもまだ若く、長身だがほっそりとした体格をしていた。


「なんだよあんたは」


 青年のひとりが威嚇するように低い声を出して前に歩み出てくる。

 私は自分の骨格と雰囲気が相手を威圧することを自覚しつつ、その場で動かずじっと男を見下ろした。

 あまり裕福そうには見えないやつれた青年が、こちらのまとう空気に一瞬ひるむのがわかる。


「このあたりは一応わが親族が治める地だ。この土地を荒らされると困る」


 男は私に殴りかかろうかどうしようかと逡巡しているようだったが、こちらの堂々とした態度に身の危険を感じたのか、仲間のほうを振り返る。

 彼らは視線を交わし、チッと舌打ちしながら去っていった。

 安い革靴の立てる音が、通りのほうへ消えていく。


「あはは。ありがとう、おにいさん……」


 襲われかけていた女は、塀に寄りかかりながら、ふらふらと立ち上がった。

 そして、こちらを見上げて微笑みかける。


「あいつら、前にも会ったことがあって困ってたのよ。酒場でしつこく迫られてさ……」


 ほこりで汚れたスカートをパタパタと手ではたきながら、女が言う。


「こんな時間に女がひとりで出歩くな」


 そう言い残して立ち去ろうとすると、彼女は後を追ってきた。


「あら、こんな身分の人間にもそんなこと言うの? やっぱりお金持ちは価値観がちがうわねぇ」


 女が私に追いついて、横から見上げてくる。

 コートや中に着ているジャケットから、こちらの身分を見定めようとしているみたいだった。


「おにいさん、お礼に今夜相手してあげようか? 私好みのきれいな顔してるしね」


 女が手を伸ばして私の顔に触れようとしてくるのを、とっさに払いのける。


「やめろ」

「あら、怒らせちゃった?」


 私は彼女から離れ、颯爽ともといた道へ戻った。





 迎えの馬車に乗って帰宅すると、もう屋敷は明かりひとつなく真っ暗になっていた。


 自分の客室に戻り、寝仕度をしてから、バルコニーで夜風に当たっていると、不意に部屋のどこかから物音がした。

 暖炉の明かりがあるだけの暗い部屋を振り返る。

 薄明かりの中では、物音の所在はすぐにはわからなかった。


 私はバルコニーの窓を閉めて室内に戻ると、ざっとあたりを見回した。

 この客室は角部屋だからバルコニーがもうひとつある。

 よく目をこらすと、窓の向こうに人影が見えた。


 大股で部屋を横切ってカーテンを押しのけると、なんと、そこにはネグリジェ姿のマリオンが立っていた。

 とりあえず急いで鍵をはずし、窓を開けてやる。


「こんな時間に……君はいったい何のつもりだ?」


 なんてめちゃくちゃな女なんだと思って目を見張るが、マリオンは堂々と部屋に踏み入ってきた。


「隣の部屋があいてたから、そこのバルコニーから飛び移ってきたのよ」

「いや、そんなことを聞いてるんじゃない。どうして、こんな夜中にひとの部屋に来たんだと聞いてるんだ」

「……あなたが納得するような理由が必要?」


 反抗期らしい少女の煽るような言い草に、呆れて嘆息する。

 マリオンはネグリジェのすそをはらって、そっと窓を閉めた。


「他の人から聞いたわ。あなた、明日領地に帰ってしまうんでしょ? だからね……最後にちゃんとふたりで会いたかったの」

「だからって……こんな時間に男の部屋に来るなんて、貴族の娘として分別がなさすぎるだろ」

「私だってもちろん、覚悟くらいしてきてます」


 その返答に、一瞬、彼女の真意をはかりかねて困惑した。

 薄暗がりで探るようにマリオンの瞳を見つめると、彼女は真剣な表情でじっとこちらを見上げてきた。

 色気のかけらもない目つきだが、それは明らかに男女のことを示唆していると言ってよさそうだ。


 私は少女の視線を振り切ると、部屋の入り口まで歩いていって、ドアノブに手をかけた。


「ほら、自分の部屋に帰りなさい。もうこの時間なら誰も出歩いてないから」

「どうして? 私、ずっと隣の部屋で、あなたが帰ってくるのを待ってたのよ?」


 私はドアに背をもたれて、苛々と腕を組んだ。

 マリオンがふくれ面で言う。


「生半可な気持ちで来たわけじゃないのに……ほんとに、私は……。それに、伯爵様、あなただってこんな遅くにどこに行ってたんです? “そういうこと”をする気力はあるんじゃなくって?」

「私は酒を飲みに行ってただけだ」

「ほんとうに? 私だって、夜に男性がひとりでどこへ出かけるのかくらい、わかりますわ」

「……いい加減にしなさい」


 とうとう苛立ちをおさえられなくなって、静かな声で叱りつけた。


「さっさと出ていきなさい、マリオン。君は一度痛い目に遭わないとわからないのか?」


 彼女に歩み寄り、腕を掴んで、ドアのほうへひっぱった。


「やだっ」

「相手が私だったからよかったけどな、これが普通の男だったら無理やりにでも襲われてるところだぞ」

「……だから、あなたがよかったのに」


 先ほどまでとはちがうか細い声に、思わず彼女のほうを見下ろした。

 きっと鋭く見上げてきたマリオンの目には、涙が光っていた。


「ちゃんとたしなめてくれるような、誠実な人がよかった。……私は、どうせお見合いで結婚させられる身だから……だから、まだ自由なうちに、好きなひとと色々してみたかったの」


 マリオンは続けて、ぽつりぽつりと呟く。


「今まで私は、誰かに心を動かされたことなんてなかった……。でも、あなたはちがったの」


 最後は真っ赤になってうつむいてしまった彼女から、そっと手を離す。

 しばしの間、痛いほどの沈黙がその場を包んだ。


「……帰りなさい」


 さっきよりは優しげに聞こえるよう努めて言った。


「ねぇ、抱きついてもいい……?」


 何と返事をかえしていいかわからなかった。


 しばらく黙っていると、マリオンが思い切って横からぎゅっと抱きついてきた。


 小柄な少女の頭が二の腕のあたりにぶつかる。

 髪を下ろしているマリオンを見るのははじめてだったが、髪の色や感触、匂いも、やっぱりベリーニとは全然ちがった。


 やりきれない思いに沈んで顔をそむける。

 そして、そっと彼女の肩をなでてやった。

 マリオンは名残惜しそうにゆっくりと腕を離した。


「おやすみのキスでもダメ……?」

「おまえだって、自分を想っていない相手とするのはいやだろう?」

「やっぱり……まだ好きなひとがいるのね、伯爵様には」


 マリオンは悲しげに微笑んだ。


「たくさんわがまま言ってごめんなさい、伯爵様。私、自分の部屋に戻るわ」


 音を立てないよう静かにドアを開けてやると、彼女はそっと廊下へ出た。


「おやすみなさい、ヴァルツザルク様。……またいつか」

「ああ、おやすみ、マリオン」


 暗い絨毯の上を小さな足がひたひたと去っていく。

 マリオンは最後に一度だけ私を振り返ると、さっきまでとはちがう、すこしおとなびた笑みを見せた。





 翌朝、私は下男たちに旅支度をさせ、身のまわりで必要な物だけ手元のトランクにまとめた。昼食後に出発する予定だ。

 食事の席で見かけた彼女は、もうこっちをちらちらと盗み見たりはしなかった。


 冬のはじめの寒々しい草原を二頭立ての馬車が進んでいく。

 愛馬のヘレンも連れて、我々は静かに屋敷をしりぞいた。

 空は心地よいほど晴れ渡り、マリオンの好きな駒鳥たちが木陰でさえずっていた。



◇◇◇



《あれから三度冬が過ぎました。

 十二月に入って、親族定例の集会が──わたしにとってはまだ二度目ですが──行われようとしています。


 ドイツやフランス各地からいくつかの家が集まってくる今日、大公のお屋敷のバルコニーから眺めていると、ひときわきれいな箱馬車が玄関に到着しました。

 執事たちが頭を下げる中、ヴァルツザルク家のご当主が馬車から降りてきます。

 降りてくるのは彼ひとりかと思いきや、伯爵様が馬車の中を振り返ります。

 彼が差し伸べた手に、小さな手が重ねられ、馬車の奥から黒髪の優美な女性が現れました。


「……伯爵様の想いが叶ったのね」


 わたしは気持ちを呑み込んで、そうっと彼を讃えました。》


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