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掴めない彼女

 なぜ好きなのに、触れることさえままならないのだろうか。

 触れて、体温を確かめて、この腕に閉じこめてしまいたいのに。


 夢うつつの最中、緑の黒髪を透かして通りすぎる彼女が、霧のように消えていく。

 名前を呼んでみても、思いのたけを口にしてみても駄目だ。

 くり返す失敗。何度も何度も彼女は私の手のひらを通り抜けてゆく。


「待ってくれ、ベリーニ」


 なぜこちらを見ない。


「……ベリーニ……」


 あぁ、そうか、こんなにも私は彼女のことを……。



 また夜更けに目が覚めた。


 いやな寝汗を掻いて起きあがるが、暗闇の下でむなしく掴むものはシルクのシーツと掛け布団だけだった。

 自嘲気味に笑いながら、だれでもいいからこの胸に掻き抱いてしまいたい衝動に駆られ、瀟洒な寝台の上でひとりうずくまった。





 結局ほとんど寝つけず、空が白む明け方から馬を連れて外に出た。

 何日か前に一度行ってみた、林の先の丘陵へ足を向ける。


 まだところどころ朝靄のただよう庭園を進み、すらりと一本たたずんでいるクルミの木の下で休憩した。

 このあたりから見える景色は人家のない山や田畑ばかりで、市街地は屋敷の南の方に広がっている。


 寒さから逃れるように分厚いコートを体に巻きつけ、かすかにハーブの香る煙草に火をつけた。

 朝の空気で目が乾いているのか、まぶたのふちに涙がたまる。

 白いもやが掛かったような風景を眺めて、そっとまぶたを閉じた。




「……伯爵様……」


 小さな声が聞こえる。

 私は上を向いて、は、と煙の息を吐いた。


「おはようございます」


 横を見ると、先日と同じ白毛の馬を引き連れて、マリオンが立っていた。

 まだ眠そうな雌馬の足元で、枯草がカサカサと音を鳴らしている。


 今回は後をつけてきたのではなく、本当にたまたま出くわしたようだった。

 というのも、マリオン自身もすこし驚いて身構えていたからだ。



 マリオンは私から数歩離れたところで馬の手綱を握って立ち止まった。

 昨日のことが気まずかった。

 彼女は娘としてマナーをわきまえていなかったことを認識しているようだった。


 沈黙が耐えがたく、

「いつもこのあたりで乗馬しているのか」と聞いてみる。

「はい、毎朝軽く走らせてます」


 隣に突っ立っているマリオンを横目で見る。

 こうしてあらためて外で見てみると、思っていたより小柄だ。

 彼女は今日はモスグリーンの乗馬服を着て、細身のパンタロンを房飾りのついたブーツに押しこんでいた。


「伯爵様のそのサラブレッドは、お名前なんていうんですか?」

「ヘレンだ」

「名前の由来はなに?」

「意味なんて別にない。そっちの馬は?」

「名前……そういえば聞いてないです。馬番の人に教えてもらえばよかった」

「呼んでやらないとその馬が可哀想だ。乗り手と馬の間にへだたりがあると、乗り心地にも影響するだろう?」

「人同士でもそうですよね」と、マリオンがつぶやいた。


「伯爵様、あなたにも、名前を呼んでくれる相手っていますか?」

「いや……ほとんどいないな」

「やっぱり同じ位の人が身近にあんまりいないから……?」

「たぶん、問題はそれだけじゃないな」


 しばし沈黙の上を、初冬の冷たい風が抜けていった。


「血の近い家族とか親戚の方はいないんですか?」とマリオンが聞く。

「今はひとりもいない」

「結婚なさればいいのに。伯爵様は、今おいくつ?」

「三十すぎだ」

「もうじゅうぶん結婚しててもいいころじゃないですか。私だって、もう結婚について両親から言われてるのに」


 さっきまで萎んでいて大人しいかと思ったら、またいつもの調子に戻っている。

 まったくこの少女は……と思いつつも仕方なしに相手をする。


「そんなことを考える気にはなれないんだ」

「どうして? あなたほどの力を持ってる方なら、どんなきれいな女性だって手に入れられるでしょう?」

「…………」


 返事に疲れて煙草をふかすと、マリオンはふいと無邪気な瞳を向けてきた。


「もしかして……あっち? 女性を愛せないひと?」


 ふざけているのかと思って彼女の顔を見たが、その目はいたって真剣で、思わず笑ってしまうところだった。


「どこからそんな突飛な発想が出てくるんだ……。まったく、君の言動は予想できないな」

「じゃあ、女のひとが好きなのね?」


 答えずに煙草を吸っていると、マリオンは悪戯っぽくクスリと笑った。


「じゃあ……ヴァルツザルク様も、人を好きになったことがあるのね」

「こんな話をして楽しいか?」

「ねぇ……いまもだれか好きな方がいらっしゃるの?」


 私はまた煙を吐いて、空をあおいだ。

 二頭の馬が横で大きく鼻息を立てながら退屈そうに大地を蹴っている。


「答えないなら、全部イエスと見なしますわよ」とマリオンが言う。

「ああ、わかったよ、イエスだ。手に入らなかったひとがいたんだ」


 面倒になって一息に答えた。


「えぇ、どうしてあなたみたいな方でも手に入れられなかったんですか?」

「……生きていればどうにもならないこともある」

「何歳くらいのひと? きれいなひと?」


 矢継ぎ早にたずねてくるマリオンを無視して、私は自分の馬に飛び乗った。


「くだらない……、私はもう屋敷のほうに戻るぞ」

「ええ、わかりましたわ。私も今日はもう諦めますわ」

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