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触れてみる

 次の日の昼下がり、私はふたたび書庫を訪れ、いくつもの本棚に積みあげられた書物の数々を品定めしていた。

 天井にまるく開いた窓から差しこむ陽の光があたたかい。


 昨日とは時間がずれたというのに、その日も少女は現れた。

 まるで後をつけてきたかのようだ。


「ヴァルツザルク様、ごきげんよう」

「やあ、マリオン。また会ったな」


 本棚のほうを向いたまま、気にとめていないふうを装って答えた。

 マリオンは棚の陰から花柄のスカートのすそを覗かせ、こちらを見てわずかに相好を崩していた。


「今日は剣のご本ですか?」


 彼女が近寄ってきて、書架の名札を見上げる。

 私は黒いケープの下から腕を伸ばし、目前の列から一冊の本を引き抜いた。

 マリオンが背伸びして背表紙を覗きこもうとする。


「……伯爵様は多趣味ですのね」

「そうだろうか」


 手に取った本を数ページめくって眺めてみる。


「私、剣なら乗馬と一緒にすこしだけ習いましたわ。伯爵様が好きなのはレイピア? スモールソード?」

「別に思い入れはないが、どちらかといえばレイピアかな」

「そう……、お気に入りのメーカーとかあるんですか?」


 私はページを繰る手を止めた。


「マリオン、君は本を借りるためにここに来たのかね? それとも、単に私と話すためだけに来たのか?」

「……ご迷惑でしたか?」


 マリオンは自分から絡んできておいて明らかにしゅんとした顔をする。

 まったく妙齢の少女ってものは……と、口に出しかけたところで唇を引き結んだ。


「フランス語の勉強をしているのではなかったのか」

「まあ、そうですけど……」

「だったら用事を済ませてからまた来なさい」


 穏やかな口調を努めてそう告げると、マリオンはおとなしく引き下がり、目当ての本棚のほうへ歩いていった。




 それからややして、テーブルで本を広げていると、少女の軽い足音が聞こえてきた。


「ここ、失礼」


 目を上げると、マリオンはひとつ間をあけて隣の席に座った。

 今日の本は全部で二冊だ。一冊はボードレールで、もう一冊はあまり見たことのないフランス語の絵本だ。


 私は拳で頬杖をつき、極力彼女を視界に入れないようにして静かにページをめくった。

 マリオンも本を開いて黙々と読んでいる。


 ふと、彼女のまとう気配が変化したことに気付いた。

 息が浅い。

 おそらくこちらの様子を観察している。


 私はその視線に気付きながらも、文字を追う目を止めなかった。

 すると、こちらに吸い寄せられるように彼女が手を伸ばしてくる。

 小さくあたたかい手のひらが、そっと私の手の甲を覆ってきた。


 ゆっくりと目を上げると、真剣な瞳と視線が重なった。


「……急になんだ」

「伯爵様、手を拝見してもいい? 私、楽器をやってるの」

「何の楽器だ」

「ヴァイオリンよ。……楽器を習っていると、他の人の手の形が気になってくるのよ」


 下手な言い訳だと思いながらも、私はマリオンの好きなようにさせた。

 彼女は私の手にそっと触れ、ごつごつと筋張った甲をなぞった。

 幼い指先が第一関節に乗ってくる。


 ちらりと視線をやったが、先ほどのように簡単に目は合わなかった。

 何がそんなにおもしろいのか、マリオンは真剣に私の指を撫で、頬をわずかに上気させている。


 ふたりの呼吸音もおさえたように静かになり、あたりには何の音も聞こえなかった。


 ……私とて何も思わないはずはなかった。

 相手は商売女などでなく貴族の娘なのだから、当然様子が気になる。

 触れられている温度がくすぐったくて、それにたしかに緊張させられている自分に気が付いて、思わず笑いをこぼすところだった。


「……どうも、ありがとう、ヴァルツザルク様」


 最後はそっけなくそう言って、マリオンはふっと手を離した。

 横顔を盗み見ると、目をまっすぐ前に向けたまま、頬を熟れた林檎のように赤くしていた。

 変にからかわないほうがいいだろうと思い、ただまぶたを伏せるだけにとどめた。


 きっと自分から男性の手に触れたのははじめてだったのだろう。

 そのはじめての緊張に、たまたま少女の気に入られた年嵩の自分が利用された気がして、どこか釈然としない気持ちになる。


 ともあれ、マリオンは実に自分勝手にその初々しい感覚を堪能したのだ。私の関わることではない、とため息をついた。





 また翌日の午後、われわれは書庫で出くわした。

 もはや偶然ではない。


 なぜなら今朝、書庫のほうへ歩いていく彼女の姿を自室の窓から見かけたからだ。書庫に入った彼女は何も持たずにすぐに出てきた。

 真実、書庫に用事があっただけなら、彼女は今日はもうここに来ないはずだった。



 中央の円卓で読書している私に近付いてきて、マリオンが言う。


「ここ座ってもいいかしら?」

「どうぞ、お嬢さんのご自由に」


 あえてぶっきらぼうに答えてみせても、彼女は意に介する様子もなく席につく。


「今日はちゃんと先に本を借りてから来たわよ」


 彼女がトンと本を机に置く。

 午前中も通ってきていたくせに。

 数ページめくってから、彼女はおもむろに口を開いた。


「ねえ、また明日もここで会える?」

「別に会うだけならここじゃなくてもいいだろう」


 本から目を上げずにそう答えると、マリオンが食いつくように身を乗り出してきた。


「え、じゃあ、よそで私と会ってくれるの?」


 期待に満ちたまなざしを投げかけてくる。

 私は顔を上げ、椅子の背にもたれて、彼女を見すえた。


「変に勘繰るな、マリオン。私はこんな場所でおまえとこそこそ密会する必要はないんだ。やましい真似をするつもりはないからな」


 言葉の真意がわかったのか、少女はみるみるうちに暗い表情になった。


「……どうして……」


 マリオンは一瞬、声を詰まらせた。


「そんな……やましいこととか、そんなつもり、私は……っ」


 こちらの冷えた態度に気付いて、マリオンはうつむいてしまった。


 一瞬本に目を戻してから、ちらりと視線をやると、まだ彼女は下を向いていた。唇をきゅっと引き結んで、しきりにまばたきしている。

 貴族の娘が持つべきマナーとして釘を刺したつもりだが、冷たく突き放しすぎてしまったか。

 でも、彼女の今後のためにも、異性との関わり方には注意してもらいたい。


「泣くな」


 マリオンは賢い子だ。

 私の気持ちがわかったのか、小さくうなずいて、絶対に涙はこぼさなかった。

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