言葉遊び
また翌日の、空が高い昼頃、私は宿泊中である屋敷の書庫へ行き、本棚の間を歩いていた。
他に人はひとりもいない。
こんなに大きな書庫を持ちながら、このマンハイムの一家で本を読むのは当主くらいだという。
もったいないことだと思いつつ、はしごを引き寄せ、建築学の棚のほうにのぼった。
はしごの上でとどまったまま、革張りの表紙をぱらぱらとめくる。
不意に気配を感じて下を見ると、はしごの足元に少女の顔が覗いていた。
「こんにちは、ヴァルツザルク伯爵。またお会いしましたね」
「ああ、君は昨日の……」
「すみません、お邪魔でしたか?」
少女の言葉は丁寧だが、やはりどこかつっけんどんで表情はない。
「いや、別に」
私が本を抱えてはしごを降りるのを、彼女はじっと待ち構えていた。
「建築の本にも興味があるんですか?」
「まあ、趣味の範囲だが。君も本を読むのか?」
「はい、そこそこ。そういうのは読みませんけど」と彼女は、私の手にある本を見て言った。
少女の相手などしていてもつまらないと思った私は、本棚から気になる本をまた数冊選び出した。
どれも女性の手では持ち切れないような重厚な装丁のものばかりだ。
相手にされなくてもなお、マリオンは隣に立ってこちらの様子を眺めていた。
ふと彼女が言った。
「あなた、あんまり人とお話しなさらないのね。相手をするのは本と馬だけ?」
横目で彼女をとらえる。思ったよりも不躾な少女だ。
「君もあまり多弁なようには見えないがね」
「私は話すより、人の話を聞くことのほうが多いんです」
その言葉に、彼女の家での様子を垣間見たような気がした。一家の中で浮く者は、他の者に合わせて自分を埋没させるしか、そこに同調する手はない。能ある者でも、他と違えばかえって弾き出される。……もっとも、この少女に才知があるかどうかはわからないが。
「あなたは話をしてくれる相手もいないように見えますわ」
「……君も本でも探したらどうだ、お嬢さん」
「名前で呼んでくださいな。忘れないように」
少女はまたぶっきらぼうに言った。
書庫は図書館のような構造になっており、中央の空間にマホガニー製の大きな円卓がある。
そこで本を広げて読んでいると、マリオンが数冊抱えて戻ってきた。
そして、一席開けて隣に座る。
彼女の持ってきた本の背表紙に目をやると、グリム童話やマノン・レスコー、椿姫など、どれも若い女性が好みそうな物語だった。……が、すべてフランス語の題字であった。
「私、今すこしフランス語の勉強をしてるんです」と、マリオンが誇らしげに言う。
「もう物語まで読めるのか?」
「いえ、ちゃんと理解できるようになるにはまだまだですけど……簡単な読み書きならできますよ。リスニングは難しいけど」
彼女はグリム童話集の一ページ目をはらりと開いた。
「そういえば、伯爵様はパリに別宅を持ってらっしゃるんですよね。じゃあ、フランス語も話せるんですか?」
「Oui. Je parle français au quotidien.」
「え? え、いまなんておっしゃったんですか?」
「'Pardon?'」
「あ……Pardon?」
そうしてしばらくフランス語でやり取りをしたのち、マリオンははーっとため息を吐いた。
「当たり前だけど、ドイツ語とは全然発音がちがうわ」
「そうだな。フランス語は語尾が全部上がる。流れるように喋るのが美しいとされてる」
「息がつけないわ」
マリオンが頬杖をついて、こちらを見つめてくる。
「伯爵様はフランス語とドイツ語だったらどっちがお好き?」
「女の話す言葉ならフランス語のほうがいいな」
「男性は?」
「男なんてどっちでもいい」
ふうん、と彼女はうなずいた。
私がまた本の続きを読み始めると、マリオンはたどたどしいフランス語で言った。
『伯爵様は、今夜の夕食でもまた、偉い方たちの間に、無愛想に座るんですか?』
「え?」
『みんな、あなたに気をつかってる』
「何が言いたい」
『みんなはあなたみたいに位が高くないから、怖がってるんですよ』
「何もおどかしてるわけじゃない」
「でも、あなたはいつも冷たい顔で無口だから」
少女の言葉遊びに飽きてきて、また紙の上に目を戻す。
マリオンは脇に置いた自分の本を引き寄せて、椅子から立ち上がった。
「私、いじわるなことを言いすぎてしまったわ。伯爵様、今日の夕食、いらしてね……」
ちょっと落ち込んだ様子で去っていく少女の背中を見て、私はひそかに頬をゆるませた。