作品の一部分を批判しても、作品そのものを批判した事にはならない
今から書く事は当たり前と言えば当たり前の話ですが、以前から気になっていた事なので、軽く書いておきます。
例えば「〇〇という作品の△△というキャラが嫌い」といった意見はネットでよく見ます。もちろん、これはその人の意見なので特に問題はありません。
ただ、最近、見ていて思うのは、作品の一部分を否定して、作品全体を否定したかのような顔をしている人が多い、という事です。
ある作品の某キャラクターが嫌いだというのは、そのキャラクターが嫌いだという事を意味するに過ぎず、作品全体を否定した事はなりません。そのキャラクターが重要なキャラクターで、作品の核の部分と関わっているなら、話は別ですが、もしそうなら、そういう部分に、そのキャラクターを介して言及しないといけない。
ちょうど、さっき、ネットを見ていたら、あるアニメの引きの絵の描き方が雑すぎる、という批判をしている人がいました。もちろん、この意見も別にそれ自体としてはいいのですが、それによって「作品全体を批判している」かのような見かけをしている事に問題があると思います。
ある作品を本当に批判したければ、その作品の核心部分を批判しなければならないと思います。それこそが「批評」であって、そういう批判であれば、おそらくは社会的にも有益なものにもなりますし、場合によっては対象となる作品と同等かそれ以上の価値を持つでしょう。
もっとも、今は「批評」というものがどういうものか、まるでわからなくなっているのだと思います。その代わりに出てきたのが「解釈」や「考察」です。
批評というのは、例えばミハイル・バフチンのドストエフスキーに対する批評のようなものを指します。バフチンのドストエフスキー批評は、それが批評である事によって一つの哲学であるような、そういう自立性を有しています。
バフチンはドストエフスキーの小説の本質を「ポリフォニー」であると見て、その点を特に細かく解剖しました。これに関しては正解か間違いかとは簡単に言えませんが、少なくとも、バフチンという一個人がドストエフスキー作品の本質を抽象し、その本質と彼なりに対峙した結果現れたものだとは言えると思います。
日本では小林秀雄が批評の自立性を希求しましたが、他にも福田恆存、吉本隆明、江藤淳といった優れた批評家はいました。
ある作品を批評するにあたって、その作品の本質を取り出し、そこと対峙するというのは基本的な批評スタイルだと思います。しかし、現代の作品はむしろ、「作品の本質」と呼べるものが希薄であったり、感覚的な快楽性が主となっているので、作品の本質を抽象する必要もなくなった感があります。読者は自分の好き嫌いを言っていればそれで良く、クリエイターはひたすら読者の感性に媚びるのが普通になっています。
そういう中で、作品のどうでもいい細部を褒めたり貶したりといった遊戯が、解釈や考察という形で流布しているわけですが、とはいえ、作り手は一つの作品をあくまでも全体として構成してはいます。
例えば、私は「君の名は。」という作品に否定的ですが、それは作り手の態度、作品全体にみなぎる雰囲気、方向性といったものであって、音楽や映像は非常に美麗にできていると思います。「君の名は。」を批判するには、私は作品全体を批判すべきであると思いますし、作品全体を肯定したい場合も、「君の名は。」という作品全体が目指している方向性を抽出すべきだと思います。
しかし今こうして書いていて気づいたのですが、世の風潮そのものは「中心から細部へ」向かっているのだと思います。例えば「機動戦士ガンダム」は、太平洋戦争という現実の戦争がベースとなっていて、一般市民が戦争に参加する悲惨さを描いていましたが(だから、ホワイトベースの搭乗員は一般市民)、いわゆる「ガンオタ」が議論するのはどのモビルスーツが一番強いか、一番かっこいいかといった細部の話ばかりです。そこでは中心的な話がぽっかりと抜け落ちています。
要するに中心的な政治的価値、別に政治でなくてもいいですが、全体の生きる意味であるとか、何を目的として、何を表現しようとしているのかといった中心軸、そういうものが喪失されたので細部ばかりをあれこれ議論し、あたかもそれが全てであるかのような観を呈しているのだと思います。
まあ、そんなわけでひどい状況ではありますが、作品の一部分を否定したからといって、作品の全体を批判した事にはならない、と最初言った事はやはり本当であるように思われます。また、細部しか議論できない作品しか作れないクリエイターの方にも問題がありますが、そういうクリエイターを増殖させているのも視聴者の方なので、これは相互関係としてあり、何とも言えない状況です。
とはいえ、作品の作り手は、一般的には(あくまでも一般的には、ですが)、それを見ている視聴者よりもより多く色々考えて作っているのは確かなので、ある作品を真に批判したければ、その作品を作っている作者の世界観、つまりその作品の中心的哲学にまで至って批判すべきだと思います。そうでなければそれは単なる好き嫌いの問題として処理されたとしても、仕方ないのではないかと思います。